と云うことで、ちょっと寄り道  長崎グラバー園

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プッチーニの歌劇「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」は世界的に有名なオペラ。
幕末、明治の長崎を舞台に、港の見える丘で帰らぬ人ピンカートンを待っていた悲しい女性の物語だ。

園内に「マダム・バタフライ」を当り役とした三浦環の像があるが、決して劇中のピンカートンとグラバーを混同してはならない。

トーマス・ブレーク・グラバーは天保9年(1838)、英、スコットランド北部のフレーザーバラで生まれた。
少年時代、沿岸警備隊に勤務する海軍大尉の父から船舶の操縦技術を学ぶ。

グラバーは安政6年(1859)9月、開港と同時に上海経由で長崎へ来航。
21歳だった。

文久元年(1861)、「グラバー商会」を旗揚げ。
当初は茶、絹、銀、そして各地方の様々な特産品を輸出した。
最初の5年間で莫大な利益をあげたという。

一方 坂本龍馬などの志士たちに銃や艦船や機械類を大量に販売。
取引き相手が倒幕を画策する西南諸藩だったため、グラバー自身も明治維新の政治情勢にも深く関わることになる。

長崎港を見下ろす南山手の丘にグラバー住宅を建設したのは、南山手が外国人居留地となった文久3年(1863)

彼は50年あまりを日本で過ごしているが、はじめの10年が貿易という経済的な面で、
明治以降はいわば純経済人としての活動期に入り、それと共に彼は日本の近代科学技術の導入に貢献した。
例えば慶応元年(1865)、大浦海岸に我が国初めての汽車(アイアンデューク号)を走らせる。
これらを含む様々な最新技術の導入に尽力したのがグラバーだった。

また「ジャパン・ブルワリ・カンパニー」(後の「キリン麦酒株式会社」)が横浜に設立される際も重要な斡旋をしている。
キリンビールのシンボルマーク、麒麟の髭はグラバーの髭がモデルなのだとか・・・・

さて、数十年ぶりに訪れて邸内回遊し、
私のコレクションが大きな影響を受けていたことを、改めて認識したことでした。

そういえば最近のニュースで、グラバー邸の屋根裏に 秘密の部屋が見つけられたとか・・・
竜馬などが泊まっていたのだろうか??

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