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10cc『愛ゆえに……』
【2024年7月20日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。7月はサマー・ブリージンと題して、夏の風を感じるレコードお送りしています。今回は、イングランドはマンチェスターからの風、10ccのアルバム『愛ゆえに……』です。 ポップでありながらどこかシニカル、かつ斬新なアイディアを持つ10cc。 1945年1月20日生まれのエリック・スチュワート、46年5月10日生まれのグレアム・グールドマン。エリックが在籍するバンド、マインド・ベンダーズにグレアムが加入したのが10ccの原点です。そのエリックはマンチェスターで初の本格スタジオ設立に関わり、やがてバンドは解散。 このストロベリー・スタジオは、別なバンドにいたケヴィン・ゴドレイとロル・クリームを雇い入れ、ホットレッグスを結成。このスタジオで録音された「ネアンデルタール・マン」という曲がレコード・メーカーの耳にとまり、1970年にシングルとして発売されると全英3位の大ヒットになりました。 ここに渡米していたグレアム・グールドマンが参加して4人となり、10ccが誕生します。10ccは、1972年シングル「ドナ」でデビュー。翌73年のシングル「ラバー・バレッツ」で早くも全英首位を獲得します。同年リリースされたデビュー・アルバム『10cc』は50年代ポップスへのオマージュなど、ウィットとユーモアに富んだ内容になりました。74年の2ndアルバム『シート・ミュージック』は、全英チャートで第9位まで上昇。 レーベルを移籍した3作目『オリジナル・サウンドトラック』は架空の映画のサントラという設定。シングル・カットされた名曲「アイム・ノット・イン・ラヴ」は、全英1位、全米でも2位の大ヒット。大成功を手にした10ccでしたが、76年の『びっくり電話』というアルバムを最後にケヴィン・ゴドレイとロル・クリームが脱退。二人は当時“ギズモ”という装置による実験音楽に夢中で、ポップソングに飽きてしまっていたのです。 残されたエリック・スチュワートとグレアム・グールドマンを中心に制作されたのが『愛ゆえに……』。シングルとなったタイトル曲は全英6位、全米5位のヒットとなりました。10ccは、その後もサポート・メンバーを加えながら活動を続けますが、スティーヴ・ガッドが参加した83年の『都市探検』をもって解散。 一方ゴドレイ&クリームの二人は、77年に実験的アルバム『ギズモ・ファンタジア』を発表。80年代は音楽と並行して、ビデオクリップの監督としてポリスやエリック・クラプトンはじめ有名アーティストの傑作を次々に発表、高い評価を受けています。 その後92年に、オリジナル・メンバーが集まって10ccとしての新作『ミーンホワイル』を発表。95年の第2弾『ミラー・ミラー』に合わせてツアーも行われますが、97年にエリックが脱退。2000年代はグレアム・グールドマンが中心となり、10ccの活動は続けているようです。 10ccのアルバム『愛ゆえに……』 SIDE A 「グッド・モーニング・ジャッジ」 「愛ゆえに」 「マリッジ・ビューロー・ランデブー」 「恋人たちのこと」 「モダン・マン・ブルース」 SIDE B 「ハネムーン・ウィズ・Bトゥループ」 「フラット・ギター・トゥイーター」 「ユーブ・ガット・ア・コールド」 メドレー「フィール・ザ・ベネフィット」 10ccのアルバム『愛ゆえに……』いかがでしょうか?ちなみに、10ccのホームとなったマンチェスターのストロベリー・スタジオ。いつかビートルズに使ってもらいたいとの願いから、「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」にちなんで名付けられました。そして1974年には、ポール・マッカートニーが弟のレコーディングのため使ってくれたそうです。 https://www.10cc.world/ 10㏄ オフィシャルサイト
アナログレコード 1977年澁谷彰一
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JDサウザー『ロマンティック・ナイト』
【2024年10月12日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 10月も“秋のAORまつり”を継続開催中です。今回は先日惜しくも星になってしまった、JDサウザーのアルバム『ロマンティック・ナイト』をご紹介します。 イーグルスや、リンダ・ロンシュタットを支えたシンガー・ソングライターJDサウザーこと、ジョン・デイヴィッド・サウザーは、1945年11月2日デトロイトに生まれました。父ジョン・サウザーはビッグ・バンドの歌手として活動し、その後一家はテキサスへと移住。多感な少年時代は、同郷出身のロイ・オービソンに大きな影響を受けました。 地元でバンドを組んでレコードも出しましたが、この時代の音楽の中心ロサンジェルスへ向かいます。そこにある老舗のライブ・ハウス、トルバドールは大変刺激的で、ニール・ヤングやエルトン・ジョンといった一流ミュージシャンから、アマチュア時代のドン・ヘンリーやジャクソン・ブラウンらが出演、コミュニティを形成していました。 そこで意気投合したグレン・フライとJDは、ロングブランチ・ペニーウィッスルを結成。しかしグループは1969年にアルバムを1枚リリースして解散。それ以降はソングライターとして活動することになりました。 音楽仲間のジャクソン・ブラウンが新興レーベル「アサイラム」からのデビューが決まると、彼の紹介で72年に『ジョン・デイヴィッド・サウザー・ファースト』でソロ・デビュー。またソロ活動と合わせて、74年に元バーズのクリス・ヒルマン、ポコのリッチー・フューレイらと、ザ・サウザー・ヒルマン・フューレイ・バンドを結成。シングル「素晴らしき恋」がヒットして、JDサウザーの名前も知られるところとなりました。 一時は恋人関係にあったリンダ・ロンシュタットをはじめ、ジャクソン・ブラウンやイーグルスなどへの楽曲提供で、JDはこの時期存在感を増していきます。特にイーグルスとの合作「我が愛の至上」「ニュー・キッド・イン・タウン」「ハートエイク・トゥナイト」では全米1位の栄光を勝ち取りました。 79年にはコロムビアへ移籍、セルフ・プロデュース作『ユア・オンリー・ロンリー』から、敬愛するロイ・オービソンへのオマージュと言われるタイトル曲が全米7位の大ヒット。しかしその後は際立った活動は見られず、リンダ・ロンシュタット、ドン・ヘンリーらが参加した84年の『ロマンティック・ナイト』以降は沈黙が続きます。 2002年にはナッシュビルへと移り住み、08年に『イフ・ザ・ワールド・ワズ・ユー』でカムバック。自らのルーツであるジャズに取りくみ、以降もマイペースで活動を続けていました。13年にはソングライターの殿堂入りを果たしますが、2024年9月17日、カーラ・ボノフとのツアー直前、ニューメキシコの自宅から旅立って行きました。 JDサウザーのアルバム『ロマンティック・ナイト』 SIDE A 「夜明けのロックン・ロール」 「優しい雨に」 「セイ・ユー・ウィル」 「ただ君のために」 「オール・フォー・ユー」 SIDE B 「ロマンティック・ナイト」 「夢に見る面影」 「バッド・ニュース」 「焦がれる夜」 JDサウザーのアルバム『ロマンティック・ナイト』いかがでしょうか? ちなみに、ローカル・バンド時代、彼の才能を買ってレコーディングさせたのは、ロイ・オービソンのプロデューサーだったのだそうです。さぞや嬉しかったでしょうね。 https://www.jdsouther.net/ JDサウザー オフィシャルサイト
アナログレコード 1984年澁谷彰一
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RCサクセション『シングル・マン』
【2024年2月3日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 2月は「日本のロックの夜明け」をテーマにお送りします。その初回は忌野清志郎率いるRCサクセションの『シングル・マン』です。 キング・オブ・ロック忌野清志郎こと栗原清志は、1951年4月2日東京生まれ。幼なじみの同級生“リンコ・ワッショ”こと小林和生(かずお)と中学でバンドを組んだのが始まりで、そこに転校生の“破廉ケンチ”こと桶田賢一を加えてザ・クローバーとなりました。3人はピーター、ポール&マリーのコピーをしていましたが、高校進学を機に自然消滅。 1968年、クローバーの継承という意味で「サクセション」をつけ、リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー・サクセションの頭文字からRCサクセションとなりました。69年、オーディションを受けTV出演すると、たちまち人気となり、コンテストでも入賞。ライヴを見た芸能プロダクションの社長にスカウトされ、1970年高校卒業と同時に、シングル「宝くじは買わない」でデビューしました。 72年、高校時代の恩師を歌った3rdシングル「ぼくの好きな先生」がヒットして、漸く陽の目を見ます。しかし時代はニューミュージックへと移ろい、RCの音楽は人々の耳へと届かなくなっていきました。挙句の果てに事務所とのトラブルから仕事を干され、3drアルバム『シングル・マン』もお蔵入りとなってしまいます。独立後の76年、ようやくリリースにこぎつけますがすぐに廃盤となり、暗黒時代へ突入。 清志郎はギターをエレキに持ち替え悪戦苦闘するもバンドは迷走、77年には破廉ケンチが脱退。しかし古井戸の仲井戸麗市、ドラマーの新井田耕造が加入するとバンドは再び動き出します。R&B色の強いロックバンド・スタイルで、80年に「雨上がりの夜空に」がリリースされ、その勢いに乗ってライヴ・アルバム『RHAPSODY』を発表すると、RCサクセションは一気にブレイク。 82年には坂本龍一と忌野清志郎のデュエット「い・け・な・いルージュマジック」が大ヒット。バンドも飛ぶ鳥を落とす勢いとなり、83年には初の海外レコーディング作『OK』をリリースしますが、次第に事務所との軋轢が生まれ、84年の『FEEL SO BAD』をもって独立。88年、洋楽ヒットに日本語詞を載せたアルバム『カバーズ』を巡っては、所属レーベルと対立。突然の発売中止を宣告され、予定より9日遅れで古巣のキティー・レコードからリリースしました。 皮肉なことに『カバーズ』はアルバム・チャートで初の1位を獲得、同時に清志郎とよく似たZERRYなる人物が、ザ・タイマーズを結成して過激なライヴを繰り広げます。RCサクセションは90年にアルバム『Baby a Go Go』をリリースした後、無期限活動休止。翌年から清志郎はソロ活動に入り、Booker.T & MG'sとのアルバム『Memphis』や様々なユニットでの活動を続けましたが、2006年に癌であることを発表。一時は回復したものの、2009年5月2日、58歳の若さで星になってしまいました。 RCサクセションのアルバム『シングル・マン』 SIDE A 「ファンからの贈りもの」 「大きな春子ちゃん」 「やさしさ」 「ぼくはぼくの為に」 「レコーディング・マン」 「夜の散歩をしないかね」 SIDE B 「ヒッピーに捧ぐ」 「うわの空」 「冷たくした訳は」 「甲州街道はもう秋なのさ」 「スローバラード」 RCサクセションのアルバム『シングル・マン』いかがでしょうか? ちなみに、このアルバムは、一時お蔵入りとなったものの76年に漸く発売にこぎつけ、廃盤になった後も有志によって再発実行委員会が結成され、再び世に出ることが出来たそうです。 https://www.kiyoshiro.co.jp/ 忌野清志郎 オフィシャル・サイト「地味変」
アナログレコード 1976年澁谷彰一
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はっぴいえんど『はっぴいえんど』
【2024年2月24日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 2月は「日本のロックの夜明け」をテーマにお送りしています。その最後は、はっぴいえんどのデビュー・アルバム『はっぴいえんど』です。 かつて日本には「ロックは英語で歌うものか?日本語で歌うのか?」という“日本語ロック論争”があり、その中心に居たのが、はっぴいえんどでした。1969年、小坂忠らと細野晴臣、松本隆が組んでいたバンド、エイプリル・フールが解散。細野・松本は親交のあった大瀧詠一を誘って新しいバンド、バレンタイン・ブルーを結成します。彼らはアメリカのバッファロー・スプリングフィールドのような音楽を目指し、ギタリストを探します。そこでまだ高校生だった鈴木茂が呼び出され、即興で「12月の雨の日」のイントロを弾くと、即メンバーに加入。 その頃バレンタイン・ブルーは様々なライヴに出演して、関係者との交流を深めていきます。その一人が、当時URCレコードのディレクターだった小倉栄司(小倉エージ)でした。彼らを気に入っていた小倉が、レコードを作りたいと思っているところへチャンスが訪れます。その頃ボブ・ディランに影響を受け、ロックへシフトしようとしていたフォークのカリスマ岡林信康。小倉はバレンタイン・ブルーをバック・バンドに、という作戦でURCレコードと契約。バンド名はすでに「はっぴいえんど」に替わっていました。 晴れてプロとしての契約が取れた、はっぴいえんど。メンバーは1947年7月9日生まれの細野晴臣、1948年7月28日生まれの大滝詠一、1949年7月16日生まれの松本隆、そして1951年12月20日生まれの鈴木茂。岩手出身の大滝以外は全員東京出身者でした。早速レコーディングが進められ、初めはまごつきますが、結果4日で完了。1970年8月5日に1stアルバム『はっぴいえんど』がリリースされると、松本隆が書いた、それまで類を見ないセンスの歌詞によって、新しい日本語ロックが誕生しました。 はっぴいえんどは71年の2ndアルバム『風街ろまん』で、さらに進化。東京オリンピックで失われた東京の原風景を描くというコンセプト・アルバムは、松本の文学的歌詞と、スタジオ・テクノロジーの発展によるサウンドの深みも加わり、日本ロック界に残る名盤となりました。 『風街ろまん』でやり切ってしまったバンドは、ほぼ解散状態で大滝はソロ・アルバムをリリース。72年秋にロサンジェルスへわたりレコーディングに入りますが、アメリカへの憧れは崩れ去り「さよならアメリカ、さよならニッポン」という曲が生まれました。結局その年末に、はっぴいえんどは解散、明けて73年2月25日ラスト・アルバム『HAPPY END』がりりースされました。 解散後、松本隆は作詞家として大活躍、細野晴臣はイエロー・マジック・オーケストラで世界制覇。大瀧詠一はナイアガラレーベルを立ち上げ、名作『A LONG VACATION』を残し2013年惜しくも他界、鈴木茂はソロとして、セッションギタリスト、作曲家として活躍中です。 はっぴいえんどのデビュー・アルバム『はっぴいえんど』 SIDE A 「春よ来い」 「かくれんぼ」 「しんしんしん」 「飛べない空」 「敵タナトスを想起せよ!」 SIDE B 「あやか市の動物園」 「12月の雨の日」 「いらいら」 「朝」 「はっぴいえんど」 「続はっぴーいいえーんど」 はっぴいえんどのデビュー・アルバム『はっぴいえんど』いかがでしょうか? ちなみ通称“ゆでめん”と言われるこのアルバム、日本語詞にもかかわらず今や全世界で愛されているのが面白いですね。 https://yamano-music-online.com/?p=5925 山野楽器 はっぴいえんど特集ページ
アナログレコード 1970年澁谷彰一
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アメリカ『ハート』
【2024年4月13日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 今月は春にふさわしい、ハーモニーをお届けしています。“Melody & Harmony”今回は、ロンドンで結成されたアメリカの『ハート』です。 前回は4声のハーモニーをお送りしましたが、今回は3人のトリオです。アメリカは、1952年9月12日生まれのジェリー・ベックリーと、1月19日生まれのデューイ・バネル、そして1950年11月1日生まれのダン・ピークがロンドンのアメリカンスクールで出会い結成されました。3人とも父親がアメリカ空軍で働く、という同じ境遇もあってか意気投合。ロンドン周辺のライブハウスをメインに活動を始め、クロスビー、スティルス&ナッシュの曲などを演奏していました。 プロデューサーに見いだされ、1971年にワーナー・ブラザーズと契約。同年アルバム『名前のない馬』でデビューしました。はじめのうちアルバムはさほどヒットしませんでしたが、シングル「名前のない馬」がオランダで火がつき、イギリスへ凱旋しました。 イギリス、ヨーロッパでの成功を追い風に、72年アメリカ本土に上陸。ロサンジェルスの名門クラブ、ウィスキー・ア・ゴー・ゴーで5日間連続公演を成功させ、アルバム、シングル共に全米1位を獲得します。この年の2ndアルバム『ホームカミング』からは「ヴェンチュラ・ハイウェイ」ほか3枚のシングル・ヒットを生み、アルバムも全米9位で、再びゴールド・ディスクを獲得。この功績が認められ第15回グラミー賞で、ベスト・ニュー・アーティスト賞に輝きます。 73年にはジョー・ウォルシュやビーチ・ボーイズのメンバーを迎え『ハット・トリック』を、続く74年のアルバム『ホリデイ』は、プロデューサーにジョージ・マーティンを迎えて制作。「魔法のロボット」他シングル・ヒットにも恵まれ、アルバムも全米3位となりました。再びジョージ・マーティンと組んだ75年のアルバム『ハート』からのシングル「金色の髪の少女」が2度目の全米No.1を獲得し、バンドはピークを迎えます。 しかし77年ハワイ録音のアルバム『ハーバー』を最後にダン・ピークが脱退。残る二人で活動を続けますが、次第にシーンから遠ざかってしまいます。それでも82年の『ヴュー・フロム・ザ・グラウンド』からシングル「風のマジック」が久々のヒットとなり、その後はライヴやアーカイヴが中心となるものの、コンスタントにアルバムをリリース。ライヴ活動も今なお続ける現役ミュージシャンです。 アメリカのアルバム『ハート』 SIDE A 「ひなぎくのジェーン」 「ハーフ・ア・マン」 「ミッドナイト」 「ベル・トゥリー」 「オールド・ヴァージニア」 「谷間の人々」 SIDE B 「仲間」 「ウーマン・トゥナイト」 「ストーリー・オブ・ア・ティーン・エージャー」 「金色の髪の少女」 「希望の明日」 「四季」 「シンプル・ライフ」 アメリカのアルバム『ハート』いかがでしょうか? ちなみに、このアルバムは日本版にのみピーター・フォンダが出演するレナウンのCMソング「シンプル・ライフ」が収録されています。 https://www.venturahighway.com/ アメリカ オフィシャルサイト
アナログレコード 1975年澁谷彰一
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アース・ウィンド&ファイアー『天空の女神』
【2024年8月3日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。8月はブラック・パワー、ブラック・コンテンポラリー、ソウル・ミュージックをお送りします。初回は、アース・ウィンド&ファイアーのアルバム『天空の女神』です。 美しいファルセット・ボイスとタイトなリズム、ショーアップされたステージで一世を風靡したスーパー・グループ、アース・ウィンド&ファイアー。その中心人物モーリス・ホワイトは、2016年に惜しくも星となってしまいました。モーリス・ホワイトは、1941年12月19日、メンフィス生まれ。高校生でドラムをはじめ、チェス・レコードの専属打楽器奏者としてキャリアをスタートしました。 1967年ラムゼイ・ルイス・トリオに参加した後、69年シカゴで自身のバンド『ソルティ・ペパーズ』を結成しました。その後ロスアンジェルスに移ってグループ名をアース・ウィンド&ファイアーに改名、アルバム2枚をリリースしますが一旦解散。 モーリス、ヴァーダインの兄弟に加え、ボーカルのフィリップ・ベイリー、ギターのアル・マッケイらによる新生アース・ウィンド&ファイアーは1972年コロンビアから『地球最後の日』で再デビューしました。 ドラマーのラルフ・ジョンソンが参加したことでモーリスはフロントに立ち、フィリップ・ベイリーとのツイン・ヴォーカル体制を確立します。74年の『太陽の化身』から「宇宙よりの使者」が初のシングル・ヒット。洗練されたサウンドと白人マーケットへのアプローチという、モーリスの戦略は見事に的中しました。 75年のアルバム『暗黒への挑戦』でとうとう全米1位を獲得、収録曲「シャイニング・スター」はグラミー賞を受賞しました。77年の『太陽神』は、「宇宙のファンタジー」など名曲ぞろいで全米3位の大ヒット、再びグラミーに輝きます。 その後「セプテンバー」「ブギー・ワンダーランド」など、ダンス・クラシックスとなったヒットを連発。ところが81年の『天空の女神』あたりからサウンドに変化があって、83年の『エレクトリック・ユニヴァース』ではEW&Fサウンドの要ホーンを使わず、シンセサイザーを使用。ファンの間でも賛否両論となり、このアルバムをもって一旦活動を休止します。 87年には活動を再開しますが、モーリスは病に冒されライブ活動をリタイア。その後もプロデューサーとして関わっていましたが、2016年2月3日宇宙へと旅立ちました。しかし現在もアース・ウィンド&ファイアーは活動を続け、フィリップ・ベイリー、バーダイン・ホワイト、ラルフ・ジョンソンが在籍しています。 アース・ウィンド&ファイアーのアルバム『天空の女神』 SIDE A 「レッツ・グルーヴ」 「レディ・サン」 「マイ・ラヴ」 「エヴォリューション・オレンジ」 SIDE B 「カリンバ・トゥリー」 「偉大なる覇者」 「果てしなき挑戦」 「アイ・ウォナ・ビー・ウィズ・ユー」 「ザ・チェンジング・タイムズ」 アース・ウィンド&ファイアーのアルバム『天空の女神』いかがでしょうか?ちなみに、このアルバムから中心人物でもあったギタリストのアル・マッケイが独立。それがサウンドの変化にも影響しているのではないかと言われています。 https://www.earthwindandfire.com/ アース・ウィンド&ファイアー オフィシャルサイト
アナログレコード 1981年澁谷彰一
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イヴ・モンタン『モンタン、パリの心を歌う』
【2024年1月27日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 1月は「新春フレンチ・カルナヴァル」と題してフランスの音楽を紹介しています。その最後は、シャンソンの代表曲「枯葉」でおなじみイヴ・モンタンのアルバム『モンタン、パリの心を歌う』です。 イヴ・モンタンことバース・ネーム、イヴォ・リヴィは、1921年10月13日イタリア、トスカーナ州の田舎町に生まれました。一家は貧しい農家で、ムッソリーニのファシスト政権から逃れ、1923年にフランスのマルセイユへ脱出。そこからアメリカ行きを予定するもかなわず、29年にはフランスに帰化してイヴ・リヴィとなりました。 フランス国籍となっても相変わらず生活は厳しく、父親のジョバンニは破産してしまい、子供たちも働くようになりました。姉のリディアは美容師に、リヴィはカフェの店員から工場作業員など、ありとあらゆる仕事をこなし、姉の美容室の手伝いもしました。そんな苦労が多いリヴィを救ってくれたのが映画でした。特にフレッド・アステアのタップダンスが好きで、彼のように踊りたいとさえ思ったそうです。 1938年17歳の年、人生に大きな変化が訪れます。この年初めてステージで歌い、イヴ・モンタンを名乗ります。第二次世界大戦が勃発すると一時中断しますが、41年には再びステージに立ち活動を続行。44年の夏、キャバレー「ムラン・ルージュ」でエディット・ピアフのオーディションを受け、彼女の後押しもあってスターの仲間入りを果たします。すぐに二人は恋に落ち、ドイツ占領下のパリで書かれた名曲「ばら色の人生」が誕生しました。 彼の大成功と裏腹にピアフとの間には溝が生まれ、やがて二人は破局。それでもイヴ・モンタン人気は衰えず45年には映画デビュー、46年『夜の門』の挿入歌「枯葉」が大ヒットして代表曲となりました。また53年のサスペンス映画『恐怖の報酬』に主演すると、カンヌ国際映画祭で最高賞パルム・ドールを受賞します。 56年にはモスクワはじめ、東側諸国をめぐるツアーを敢行。59年にはアメリカ進出を果たし、ハリウッド・デビューしてマリリン・モンローと共演。60年代以降も活動は留まることなく、アメリカ、ブラジル、日本などでの公演もこなしています。70年代80年代も、テレビに映画にステージにと大いに活躍してきましたが、1991年11月9日心臓発作を起こし、そのまま星となってしまいました。 イヴ・モンタンのアルバム『モンタン、パリの心を歌う』 SIDE A 「枯葉」 「詩人の魂」 「パリの空の下」 「パリ野郎」 「バラ色の人生」 「パリの騎士」 SIDE B 「セ・シ・ボン」 「パリ祭」 「パリで」 「青春」 「マリー・マリー」 「ぼくのメリー・ゴーランド」 イヴ・モンタンのアルバム『モンタン、パリの心を歌う』いかがでしょうか? ちなみに、アーティスト名のイヴ・モンタンは、幼い頃、外で遊んでいるイヴォに母親が「イヴォ・モンタ!」 「イヴォ上がっておいで!」と呼びかけていたことに由来するのだそうです。 http://www.yves-montand-site-officiel.com/ イヴ・モンタン オフィシャル・サイト
アナログレコード 1964年澁谷彰一
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イーグルス『呪われた夜』
【2024年4月27日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 今月は春にふさわしい、ハーモニーをお届けしてきました。“Melody & Harmony”最後はコーラスと言えばこのバンド、イーグルスの『呪われた夜』です。 カリフォルニアの代表選手イーグルス、ところが結成当初、西海岸出身のメンバーはいませんでした。1948年11月6日ミシガン出身のグレン・フライ、47年7月22日テキサス生まれのドン・ヘンリー、46年3月8日ネブラスカ出身のランディー・マイズナー、そして47年7月19日ミネソタ生まれのバーニー・レドン。この4人が、1971年リンダ・ロンシュタットのバックバンドとして集まったのが始まりでした。 4人は独立したバンドとして活動することを決め、ローリング・ストーンズなどを手掛けたグリン・ジョンズのプロデュースでレコーディング。72年のデビュー・シングル 「テイク・イット・イージー」がヒット、1stアルバム『イーグルス』は、アコースティックなカントリー・ロック・スタイルをとりながら新しいサウンドを目指したものでした。 73年の『ならず者』は、実在したアウトローをモチーフにしたコンセプト・アルバムで、 名曲「ならず者(デスペラード)」を生み出しました。74年の3作目『オン・ザ・ボーダー』は、制作途中でプロデューサーがビル・シムジクに代わりレコーディングに参加していたギタリストのドン・フェルダーが新メンバーとして加入。シングル・カットされた「我が愛の至上」はバンド初の全米1位を記録します。 ファンキーなサウンドを取り入れた75年の『呪われた夜』はシングル、アルバムとも全米1位を獲得。その後レドンに代わってジョー・ウォルシュが加入、カントリー風味は薄れ洗練されたサウンドへ変化。76年の『ホテル・カリフォルニア』はロックの商業化を自ら歌い、グラミー賞を受賞しました。この大ヒットのおかげで次作までには3年を要し、その間にベースがティモシー・シュミットに交代。79年のアルバム『ロング・ラン』、これがオリジナル活動期最後のスタジオ作品となりました。 ライヴ・アルバムをリリース後、82年5月、正式に解散が発表されますが、94年に再結成。MTVライヴと新曲によるアルバム『ヘル・フリーゼズ・オーヴァー』をリリースしました。このアルバムを携えワールド・ツアーを行い、98年にはロックの殿堂入りを果たしました。2007年に新作『ロング・ロード・アウト・オブ・エデン』を発表すると全米・全英とも初登場1位。 しかし16年1月18日、オリジナル・メンバーのグレン・フライが旅立ち一時は解散を表明、その後グレンの息子ディーコンが参加して活動を再開しました。ディーコンは一時バンドを離れますが、現在はヴィンス・ギルと共にイーグルスを支え、今年は彼ら最後のツアー「ロング・グッバイ・ツアー」で、ヨーロッパをまわる予定です。 イーグルスのアルバム『呪われた夜』 SIDE A 「呪われた夜」 「トゥー・メニイ・ハンズ」 「ハリウッド・ワルツ」 「魔術師の旅」 SIDE B 「いつわりの瞳」 「テイク・イット・トゥ・ザ・リミット」 「ヴィジョンズ」 「アフター・ザ・スリル・イズ・ゴーン」 「安らぎによせて」 イーグルスのアルバム『呪われた夜』いかがでしょうか? ちなみに、このアルバムからドン・ヘンリーとグレン・フライ、二人の独占体制が確立。音楽性も含め、それに堪りかねたバーニー・レドンはバンドを去って行きました。歌声のハーモニーは最高なのに、少し残念な話ですね… https://eagles.com/ イーグルス オフィシャルサイト
アナログレコード 1975年澁谷彰一
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エアロスミス『ロックス』
【2024年6月1日】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 6月はロックのゴールデン・エイジ、1970年代洋楽ロックをピック・アップします。1950年代に誕生したロックン・ロールは、1969年を境として70年代に入ると巨大産業として発展。そのスピリットは別として、黄金時代を迎えます。今回は、まさに1970年に誕生したロック・バンド、エアロスミスの『ロックス』です。 1970年、アメリカ・ボストンで結成されたエアロスミス。中心人物のひとり、スティーヴン・タイラーは1948年3月26日ニューヨーク生まれ。音楽家の父親の影響で、クラシックからポピュラーまで音楽に囲まれて育ち、やがてドラムに興味をもって父親のピアノとセッションすることもあったそうです。 10代後半になるとバンドを始め、ドラマー謙ヴォーカリストとして活動していました。ある日ジョー・ペリーとトム・ハミルトンのバンドを観たスティーヴンが、二人を誘って新バンドを結成したのがエアロスミスの始まりと言われています。新バンドではドラマーにジョーイ・クレイマーが参加、スティーヴンはヴォーカルに専念。71年にバークリー出身のブラッド・ウィットフォードが参加してデビューへの足掛かりをつかみます。 1973年コロムビアからアルバム『野獣生誕』でデビュー、シングル「ドリーム・オン」がヒットします。しかしまだまだブレイクには至らず、75年の3rdアルバム『闇夜のヘヴィ・ロック』から「ウォーク・ディス・ウェイ」がヒットして、全米アルバム・チャートの11位まで上昇しました。この勢いに乗って過去の作品も売れ始め、地道なライヴ活動も功を奏し、76年の『ロックス』は全米3位となり、とうとう大ブレイクを果たします。 77年には初来日公演を行い、5作目『ドロー・ザ・ライン』をリリースと神風満帆に見えましたが、過酷なスケジュールから、メンバーはドラックを多用するようになってしまいます。さらに追い討ちをかけたのが、スティーヴンとジョー・ペリーの関係が悪化。結局79年にジョーは脱退、ここからバンドは低迷期を迎えます。 セールス不振、レーベル解雇、メンバー脱退と、いつ解散してもおかしくない状態でしたが、1984年オリジナル・メンバーが集結して再スタート。レーベルを移籍、86年RUN-D.M.C.と共演した「ウォーク・ディス・ウェイ」で見事復活します。93年のアルバム『ゲット・ア・グリップ』で、ついに全米チャート1 位を獲得しました。 その後古巣のコロムビアへ移籍、97年の『ナイン・ライヴス』でも全米1位、98年の映画『アルマゲドン』主題歌「ミス・ア・シング」で、シングル初の全米1位に輝きました。2000年代に入っても、ロックの殿堂入り、FIFA日韓ワールドカップでのスタジアム・ライヴなど活躍して来ましたが、23年にはデビュー50周年にしてキャリア最後のフェアウェル・ツアーを発表。途中、中断もありましたが、2024年9月から再開して、25年2月ニューヨークで最終公演を迎えます。 エアロスミスのアルバム『ロックス』 SIDE A 「バック・イン・ザ・サドル」 「ラスト・チャイルド」 「地下室のドブねずみ」 「コンビネイション」 SIDE B 「シック・アズ・ア・ドッグ」 「ノーバディズ・フォールト」 「ゲット・ザ・リード・アウト」 「リック・アンド・ア・プロミス」 「ホーム・トゥナイト」 エアロスミスのアルバム『ロックス』いかがでしょうか?ちなみにスティーヴン・タイラーはじめ、エアロスミスのメンバーは「たい焼き」が大好きで、日本公演終了後に大量のたい焼きを買って帰り、それを巡って大喧嘩したことがあるそうです。 https://www.aerosmith.com/ エアロスミス オフィシャルサイト
アナログレコード 1976年澁谷彰一
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オーリアンズ『歌こそすべて』
【2024年4月20日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 4月20日は音楽とレコード店の文化を祝う、レコードストア・デイです。あのちゃんがアンバサダーとなり、様々な企画を展開。33rpmもアナログ・レコードを手にする喜びを分かち合いたいと思います。 さて今月は春にふさわしい、ハーモニーをお届けしています。“Melody & Harmony”今回は、ニューヨーク郊外ウッドストックのミュージシャンで結成されたオーリアンズのアルバム『歌こそすべて』です。 オーリアンズのリーダー、ジョン・ホールは1948年7月23日アメリカ・バルチモアに生まれました。5才からピアノを習い、フレンチ・ホルン、ギター、ドラムなど独学で習得、10代の頃からグリニッジ・ビレッジなどのクラブで演奏を始めています。演奏ばかりではなく作曲も心得、21歳でブロードウェーのための音楽を手掛け、優秀な舞台に与えられる「オビ―賞」を受賞しました。 幾多のセッションもこなし、タジ・マハールのツアーに帯同したりと大活躍、特にジャニス・ジョプリンのアルバム『パール』に提供した曲「ハーフ・ムーン」で広くその名を知られるようになりました。1970年には早くもソロ・デビュー作『アクション』をリリースしますが、ギタリストでシンガーのラリー・ホップン、ドラマーのウェルズ・ケリーらとバンドを結成。1972年2月にオーリアンズが誕生、その後ラリーの弟ランス・ホップンが参加して73年にABCレコードからセルフ・タイトル・アルバムでデビューしました。 ところが実力はあるものの、セールスが伴わず大きく話題になることはありませんでした。2ndアルバム『レット・ゼア・ビー・ミュージック』は、日本とヨーロッパでは発売されましたが、本国アメリカではお蔵入りという事態になってしまいます。 そんな彼らでしたが、西海岸のアサイラム・レコードへと移籍すると光がさしてきます。ジョニ・ミッチェル、ジャクソン・ブラウン、イーグルスなどのヒットで勢いのある新興レーベルから、75年に前作と同タイトルのアルバム『歌こそすべて』をリリースすると、シングル「ダンス・ウィズ・ミー」が全米6位の大ヒットとなりました。 続くアルバム『夢のさまよい』からも「スティル・ザ・ワン」がヒットしますが、デビュー当時のルーツ色が薄れていくのが不満だったのか、ジム・ホールは77年バンドを離れソロに。ソロ活動とあわせて、ジャクソン・ブラウン、ボニー・レイット、グラハム・ナッシュらと反核を訴えるイヴェント『ノー・ニュークス』を79年に開催、その後政治家としても活動しました。85年に一度オーリアンズに復活してからは、つかず離れずでソロとバンドを行き来し、現在オーリアンズはオリジナル・メンバーのランス・ホッペンが中心となって活動を続けています。 オーリアンズのアルバム『歌こそすべて』 SIDE A 「風さわやかに」 「僕と踊ろう(ダンス・ウィズ・ミー)」 「愛が過ぎて行く」 「これからの君の人生」 「歌こそすべて」 SIDE B 「人生の仕事」 「コールド・スペル」 「二人の歌が終って」 「たった一つのハートをおくれ」 「君がくれた大切なもの」 オーリアンズのアルバム『歌こそすべて』いかがでしょうか? ちなみに、このアルバムの前の2ndアルバム、現在は『オーリアンズII』としてリリーされています。 https://orleansonline.net/ オーリアンズ オフィシャルサイト
アナログレコード 1975年澁谷彰一
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カシオペア『アイズ・オブ・マインド』
【2024年3月23日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 3月は毎年インストを中心とした音楽を紹介してきましたが、今年はフュージョンを特集しています。“More than Words”今回はカシオペアの『アイズ・オブ・マインド』です。 70年代後半から80年代にかけて流行した、ジャズやソウル、ファンクなどを融合した“クロスオーヴァー・サウンド”。それはやがてフュージョンと呼ばれるようになりました。 日本が誇るフュージョン・バンド、カシオペアは、1957年1月1日生まれのギタリスト野呂一生と11月13日生まれのベーシスト櫻井哲夫を中心に結成されました。共に東京都内の高校生だった二人が出会い意気投合。56年10月20日生まれのキーボーディスト向谷 実を誘って出場したヤマハのコンテストEastWest'77がきっかけでプロデビューを目指します。 しかしなかなかレコード会社が見つからず、最終的に手をあげてくれたのが新興のアルファ・レコード。1979年にアルバム『CASIOPEA』で、めでたくデビューすることが出来ました。そのキャッチ・コピー「スリル・スピード・スーパーテクニック」は彼らの代名詞となり、2ndアルバム『スーパー・フライト』は、CMタイアップの効果で人気も全国区に拡大しました。 しかしここでドラムの佐々木隆が脱退、1959年2月27日生まれの神保 彰が加入して、いわゆる第1期メンバーが揃います。このラインナップでライブ・レコーディングされた3枚目のアルバム『サンダー・ライブ』は海外のアーティストからも好評で、彼らの人気を後押ししました。 80年のスタジオ・アルバム『メイク・アップ・シティ』は国内初の32トラック・デジタル録音で、続く『アイズ・オブ・マインド』はハーヴィー・メイソンのプロデュースで、初の海外リリース。カシオペアは一段と輝きを増しますが、87年レーベルを移籍してリリースした『プラティナム』あたりから陰りが出始め、バンドは休止状態。 89年には櫻井哲夫と神保 彰が脱退して、ベースに鳴瀬喜博、ドラムに日山正明を迎え、第2期の活動がスタート。さらに97年からは野呂・向谷・鳴瀬の3人態勢となり、サポートにかつてのメンバー神保 彰を迎えますが、2006年に一旦活動休止。 2012年、向谷 実の脱退と新メンバーの加入、6年振りの活動再開が発表され、バンドはCASIOPEA 3rdとして活動を続けます。しかしこれも10年で終止符を打ち、2022年からは野呂・鳴瀬に加え、キーボードに大高清美、ドラムに今井義頼を迎え、CASIOPEA-P4名義で活動しています。 カシオペアのアルバム『アイズ・オブ・マインド』 SIDE A 「朝焼け」 「ア・プレイス・イン・ザ・サン」 「テイク・ミー」 「ラカイ」 「アイズ・オブ・マインド」 SIDE B 「ブラック・ジョーク」 「ラ・コスタ(イントロ)」 「ラ・コスタ」 「マジック・レイ」 「スペース・ロード」 カシオペアのアルバム『アイズ・オブ・マインド』いかがでしょうか? ちなみに、このアルバムはハーヴィー・メイソンのプロデュースによりロサンジェルスでレコーディング。これまでのリメイク曲に加えハーヴィーと、レコーディングにも参加したボブ・ジェイムスの曲を収録するという実に贅沢な作品となっています。 https://www.casiopea.co.jp/ CASIOPEA-P4 オフィシャルサイト
アナログレコード 1981年澁谷彰一
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カルメン・マキ&OZ『カルメン・マキ&OZ』
【2024年2月10日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 2月は「日本のロックの夜明け」をテーマにお送りしています。今回はカルメン・マキ&OZのデビュー・アルバム『カルメン・マキ&OZ』です。 「時には母のない子のように」で鮮烈なデビューを飾ったカルメン・マキこと伊藤牧は、1951年5月18日、アメリカ人の父と日本人の母との間、鎌倉に生まれました。私立高校を2年で中退して、イラストレーターか役者になろうと考えていたころ、寺山修司の劇団「天井桟敷」の公演を見て入団を決意。早くもその年「書を捨てよ、町へ出よう」で初舞台を踏みました。 それがレコード会社関係者の目にとまり、1969年、発足したばかりのCBSソニーから寺山修司が作詞した「時には母のない子のように」でデビュー。するとたちまちヒット街道を驀進してレコード大賞を受賞、紅白歌合戦にも出演しました。エキゾチックな顔立ち、17歳とは思えない大人びた雰囲気で国民的歌手となった彼女は、ご褒美にプレゼントされたレコードで聴いたジャニス・ジョプリンに衝撃を受けます。 一気にロックへと傾倒し、1971年にはブルース・クリエイションとの共演アルバムをリリース。翌年カルメン・マキ&OZを結成して、ロック・バンドとしての活動を始めます。OZは、ビアガーデンやディスコ、キャバレーなどをまわる下積みを経て75年にポリドールから1stアルバム『カルメン・マキ&OZ』をリリース。これが当時のロック・アルバムとしては異例の大ヒットとなり、来日したジェフ・ベック・グループなどのオープニング・アクトもつとめました。 OZはライヴを含む4枚のアルバムと3枚のシングルをリリースして、77年に惜しくも解散。その後もいくつかのバンドや、ソロとして日本のロックシーンをリードし続けますが、商業ベースの音楽活動に疑問を抱き、所属していたレコード会社、プロダクションを離れフリーに。2000年代はフォークやロックといったジャンルにとらわれず、幅広い活動を展開。2018年には、カルメン・マキ&OZとして41年ぶりの単独公演を行い、再結成ツアーも開催しました。現在もこのOZのメンバーと共に、またソロ・シンガーとして活動を続けています。 カルメン・マキ&OZのデビュー・アルバム『カルメン・マキ&OZ』 SIDE A 「六月の詩」 「朝の風景」 「Image Song」 SIDE B 「午前1時のスケッチ」 「きのう酒場で見た女」 「私は風」 カルメン・マキ&OZのデビュー・アルバム『カルメン・マキ&OZ』いかがでしょうか? ちなみにカルメン・マキ&OZのメンバーは、後にRCサクセションに加入する春日博文がリーダーで後にカシオペアへ参加する成瀬喜博など、腕利きミュージシャンが出入りしていました。 https://carmenmaki.jp/ カルメン・マキ オフィシャル・サイト
アナログレコード 1975年澁谷彰一
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クリエイション『クリエイション・ウィズ・フェリックス・パパラルディ』
【2024年2月17日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 2月は「日本のロックの夜明け」をテーマにお送りしています。今回はクリエイションのアルバム『クリエイション・ウイズ・フェリックス・パパラルディ』です。 「スピニング・トー・ホールド」でプロレス・ファンにもおなじみのクリエイション。日本のブルース・ロック・バンドの草分けは、ギタリスト竹田和夫によって結成されました。1952年3月11日東京生まれの竹田和夫は、ベンチャーズによるエレキブームのさなか、13才からギターを始めました。16歳になると腕を見込まれ、高校生ながら「ザ・ビッキーズ」というバンドでプロ・デビュー。ゴーゴーホールや米軍キャンプなどのステージをこなしました。 ビッキーズ解散後の1969年1月1日、新バンド「ブルース・クリエイション」を結成、初のライヴは青森だったそうです。ブルースが主体だけに“踊れないバンド”と言われながらも頭角を現し、その年の秋にはポリドール・レコードからアルバム『ブルース・クリエイション』をリリースしました。 メンバー・チェンジを経て、71年の2ndアルバム『悪魔と11人の子供達』ではハードロック寄りになっていきます。そして、カルメン・マキとの共演アルバム『カルメン・マキ/ブルース・クリエイション』を発表。竹田は72年にバンドを解散すると3ピース・バンド「ブラッディ・サーカス」を結成しますが、その後イギリスに渡って、武者修行に励みます。 帰国後に新バンド、クリエイションを結成。73年にマウンテンの来日公演でオープニングを務め、フェリックス・パパラルディに出会います。結成から3年後の75年、内田裕也のプロデュースで1stアルバム『クリエイション』をリリース。その翌年にはフェリックス・パパラルディのプロデュースでアメリカ・レコーディングを実施、そのアルバム『クリエイション・ウイズ・フェリックス・パパラルディ』を携え、一緒に全米ツアーを行います。 海外でも評価を受けた彼らは、この年、単独日本人アーティストとして初の日本武道館公演を実施。その後行われた全米ツアーでは、キッスやイエスといった大物たちとも共演しました。77年には3rdアルバム『ピュア・エレクトリック・ソウル』をリリース、プロレス好きの竹田は、ドリー・ファンク・ジュニアの得意技をテーマに「スピニング・トー・ホールド」を作曲、これが後にザ・ファンクスの入場曲になりました。 81年にはアイ高野をヴォーカルに迎えたシングル、「ロンリー・ハート」が大ヒット。しかし84年にクリエイションは一旦解散、ボーイズ・オン・ロックスなど新バンドで活動しますが97年からは拠点をアメリカに移し、地元ロサンジェルスのライブハウスなどに出演していました。その後2001年にはジャパン・ツアーも再開、2005年からはクリエイションも再始動しています。 クリエイションのアルバム『クリエイション・ウイズ・フェリックス・パパラルディ』 SIDE A 「SHE'S GOT ME」(シーズ・ゴット・ミー) 「DREAMS I DREAM OF YOU」(ドリームス・アイ・ドリーム・オブ・ユー) 「GREEN ROCKY ROAD」(グリーン・ロッキー・ロード) 「PREACHERS' DAUGHTER」(プリ―チャーズ・ドーター) 「LISTEN TO THE MUSIC」(リッスン・トゥー・ザ・ミュージック) SIDE B 「SECRET POWER」(シークレット・パワー) 「SUMMER DAYS」(サマー・デイズ) 「DARK EYED LADY OF THE NIGHT」(ダーク・アイド・レディー・オブ・ザ・ナイト) 「BALLAD OF A SAD CAFE」(バラッド・オブ・ア・サッド・カフェ) クリエイションのアルバム『クリエイション・ウイズ・フェリックス・パパラルディ』いかがでしょうか? ちなみにクリエイションは、70年代日本語ロックの波には乗らず、英語で歌い、海外公演を成功させた数少ないバンドと言えるでしょう。 https://eliotnescafe.wixsite.com/creation-web 竹田和夫(クリエイション) オフィシャル・サイト
アナログレコード 1976年澁谷彰一
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クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング『デジャ・ヴ』
【2024年4月6日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 新しいシーズンが始まりました。今月は春にふさわしい、ハーモニーをお届けします。4月のテーマ“Melody & Harmony”その初回は、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングの『デジャ・ヴ』です。 楽器を演奏する方なら分かると思いますが、一人よりアンサンブルの方が楽しいし、ソロで歌い上げるのもいいですが、コーラスでハーモニーを奏でるのは、とても心地いいものです。ハーモニーといえば、4人の有名ミュージシャンが集結したスーパー・グループ“CSN&Y”こと、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングではないでしょうか。 ザ・バーズを脱退した1941年8月14日ロサンジェルス生まれのデヴィッド・クロスビー、そしてバッファロー・スプリングフィールドを解散した、45年1月3日ダラス生まれのスティーブン・スティルス。この2人に、42年2月2日イギリス生まれ、ホリーズのグラハム・ナッシュが出会い、奇跡のハーモニーが生まれました。1968年、クロスビー・スティルス&ナッシュが結成され、69年にデビュー。 3人の名を冠したデビュー・アルバムは、完璧な3声コーラスと、変化に富んだアコースティック・サウンドで人気を博し、全米6位にチャート・イン。さっそくツアーに出るためのメンバーを探す中でレコード会社が推してきたのが、1945年11月12日カナダ生まれのニール・ヤング。しかしバッファロー時代に度々ぶつかっていたスティルスとヤング、すでにソロ活動を始めていたヤングも、サポート・メンバーとして参加するとは考えられませんでした。ところが、何度か話し合ううちにお互いの音楽性に興味を持ち始め、ヤングも同列扱いを条件に参加に同意、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングが誕生しました。 CSN&Yは、1969年伝説のロック・フェスティバル「ウッドストック」で、30万人の観客を前にパフォーマンスを披露、スーパー・グループとして踏み出してゆきます。アクシデントやツアー・スケジュールなどからレコーディングは難航しますが、1970年3月にようやく『デジャ・ヴ』がリリースされるとたちまち全米No.1に輝きます。ところがスティルスとヤングの確執が再燃、バック・ステージのみならずステージ上でもバトル!結局ツアーの様子を収めた『4ウェイ・ストリート』をリリースした後、自然解散してしまいます。 まさに4ウェイとなってしまったCSN&Yでしたが、1974年にツアーのため一度再結成。以後何度か再結成の動きがありましたが、ヤング抜きのCSNとして活動。ところが1986年、二ール・ヤングが主催するベネフィット・コンサートに3人が参加して、CSN&Yが再結成されました。88年には『アメリカン・ドリーム』を、99年に『ルッキング・フォワード』とアルバムも発表。その後もCSNとしての活動は続けられますが、2023年1月18日デヴィッド・クロスビーが旅立ち、CSN&Y4人での再集結は儚い夢となってしまいました。 クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングのアルバム『デジャ・ヴ』 SIDE A 「キャリー・オン」 「ティーチ・ユア・チルドレン」 「カット・マイ・ヘア」 「ヘルプレス」 「ウッドストック」 SIDE B 「デジャ・ヴ」 「僕達の家」 「4+20」(フォー・アンド・トェンティ) 「カントリー・ガール」 「エブリバディ・アイ・ラヴ・ユー」 クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングのアルバム『デジャ・ヴ』いかがでしょうか? ちなみに、このアルバムは1970年3月11日にリリースされ、50周年を記念したデラックス・エディションが2021年に発売されました。 https://www.csny.com/ CSNY オフィシャルサイト
アナログレコード 1970年澁谷彰一
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コモドアーズ『ミッドナイト・マジック』
【2024年8月17日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 8月はブラック・パワー、ブラック・コンテンポラリー、ソウル・ミュージックをお送りしています。今回は、コモドアーズのアルバム『ミッドナイト・マジック』です。 R&B、ファンク・バンドとして知られるコモドアーズは、1968年アラバマ州タスキギー大学の二つのバンドが合体して結成されました。デビュー当時のオリジナル・メンバーは、1946年生まれのドラマー、ウォルター・オレンジ、48年生まれのキーボード奏者マイラン・ウィリアムズ、49年生まれのサックス担当ライオネル・リッチーとトランペットのウィリアム・キング、そして50年生まれのギタリスト、トーマス・マクラリーとベースのロナルド・ラプリードの6人。 地元のクラブなどで演奏していましたが、モータウンの副社長に見いだされ、ジャクソン5のオープニング・アクトに抜擢されると俄然注目を集めます。71年にモータウンと契約しますが、自作自演のバンドに不慣れなモータウンの元で苦節3年。 それでも彼らは挑戦を続け、マイランのクラヴィネットをフィーチャ―したデモ音源を社長のベリー・ゴーディーに聴かせると、いたく気に入りデビュー作のリード曲に決定。1974年そのモータウン・レコードからアルバム『マシーン・ガン』でデビューすると、タイトル曲はインスト・ナンバーにも関わらず全米22位のヒットとなりました。 2ndアルバムからは、ファンク・ナンバー「スリッパリー」がR&Bチャートで1位を獲得。最初はファンク指向のアルバムをリリースしていましたが、76年の「よりそう二人」で再びR&Bチャートの頂点に立つと、ライオネル・リッチーのバラードに注目が集まり、ポップとファンクが共存するバンドとして展開。78年、ライオネルの曲「永遠の人に捧げる歌」でポップ・チャートでも頂点を極めました。 79年のアルバム『ミッドナイト・マジック』からも「セイル・オン」「スティル」がヒット。さらにライオネルはダイアナ・ロスとのデュエット「エンドレス・ラヴ」が大ヒットして、82年にソロ・アルバムをリリースするとバンドを離れました。 また翌年トーマス・マクラリーもグループを去り、コモドアーズは、元ヒートウエーブのJ.D.ニコラスを二人目のヴォーカルとして迎え入れます。85年の『ナイトシフト』から、亡くなったマーヴィン・ゲイに捧げたタイトル曲が全米3位となり、キャリア初のグラミー賞を受賞しました。しかしこれが最後のTOP40ヒットとなり、モータウンを離れてポリドールへ移籍。 その後もコモドアーズは活動を続け、現在はウィリアム・キング、ウォルター・オレンジそしてJ.D.ニコラスの3人でツアーを続けています。 コモドアーズのアルバム『ミッドナイト・マジック』 SIDE A 「ゲッティン・イット」 「ミッドナイト・マジック」 「ユーア・スペシャル」 「スティル」 SIDE B 「ワンダーランド」 「セクシー・レディ」 「ラビン・ユー」 「セイル・オン」 そして「12:01 A.M.(リプライズ)」 コモドアーズのアルバム『ミッドナイト・マジック』いかがでしょうか? ちなみに、演奏はもちろん作詞・作曲までほぼメンバーで賄うコモドアーズ。ライオネルが作ったバラード「スティル」は、離婚しようとしていた友人に捧げた曲なのだそうです。 https://www.commodoreslive.com/ コモドアーズ オフィシャルサイト
アナログレコード 1979年澁谷彰一