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山本達彦『マティーニ・アワー』
【2024年9月14日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 9月は、シティ・ポップの文脈にあっても、少し歌謡曲の香りがするレコードを紹介します。ジャパニーズAORとでも呼んでみましょう。今回は、 “シティ・ポップの貴公子”と呼ばれた、山本達彦のアルバム『マティーニ・アワー』です。 1954年3月4日東京生まれの山本達彦は、小学校2年生で東京少年少女合唱隊に参加。高校時代には、同級生で後にジャズ・ギタリストとなる渡辺香津美とバンドを組んで、学園祭やパーティーに出演していたそうです。成蹊大学へと進学すると1974年にオレンジというバンドを結成、TVのコンテストで優勝して、ロンドンでレコーディングした「翼のない天使」でデビューします。 しかしオレンジは成功に到らずコンテストの審査員であった、かまやつひろしのバック・バンドに参加。作家として郷ひろみなどに楽曲提供する傍ら、1978年に日本フォノグラムからソロ・デビューします。デビュー・アルバム『突風』は、近藤真彦の「ギンギラギンにさりげなく」などで売れっ子の作詞家、伊達歩こと作家の伊集院静が全10曲の歌詞を手掛け、山本が曲を担当するという贅沢な作品でした。 80年の2ndアルバム『メモリアル・レイン』では、松任谷正隆、井上鑑といったアレンジャーが参加してシティ・ポップ寄りになっていきます。さらに81年の『ポーカー・フェイス』は井上鑑アレンジの元、林立夫、今剛、松原正樹らが参加して、見事なジャパニーズAORサウンドを聴かせてくれました。 この後東芝EMIへと移籍、82年の『I LOVE YOU SO』ではNOBODYをアレンジャーに迎え、少しロック・テイストな作品となりました。そして5作目の『太陽がいっぱい』からシングル「LAST GOOD-BYE」が映画の主題歌に起用され、初のオリコン・チャート・イン。 いよいよ知名度をあげて、83年の『マティーニ・アワー』では再び井上鑑と組んで、スティーリー・ダンのエンジニアにミックスダウンを依頼するなど、サウンド志向を強めます。シングル「MY MARINE MARILYN」は、JAL沖縄のキャンペーン・ソングとしてオンエアされ、アルバムはオリコンチャート初登場2位と自己最高の記録を達成しました。 80年代はコンスタントに作品を発表、そして90年にアルファ・レコードに移籍。99年には自主レーベル「サイレンス」を発足して、作品をリリースし続けます。2018年にはレーベルの壁を越えたベスト・アルバム2枚、新作1枚、そしてDVD1枚という豪華4枚セットの40周年記念盤をリリース。2023年秋にはデビュー45周年のアニヴァーサリーLIVEを開催しました。 山本達彦のアルバム『マティーニ・アワー』 SIDE A 「MAY STORM」 「IN SUMMER DAY」 「TOO FAR AWAY」 「SUMMER HOLIDAY」 「FAREWELL,MIDNIGHT BLUE」 SIDE B 「JAZZY AGE」 「MY MARINE MARILYN」 「HIS WOMAN」 「BIRD」 「L’ECUME DES JOURS」 山本達彦のアルバム『マティーニ・アワー』いかがでしょうか?ちなみに、山本達彦は1964年、東京少年少女合唱隊のアメリカ親善公演に参加。10歳にしてあの『エド・サリバン・ショー』に出演したのだそうです。 https://www.tatsuhiko-yamamoto.jp/ 山本達彦 オフィシャルサイト
アナログレコード 1983年澁谷彰一
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門あさ美『ファッシネイション』
【2024年9月7日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 洋楽が続いたので9月は邦楽からご紹介します。 いつまで続くのか分かりませんが、日本のシティ・ポップ・ブームで再発されるレコードが話題です。今回ご紹介するアーティスト、門あさ美もその一人。今年の春、高橋幸宏プロデュースのアルバム2枚がアナログ盤で復刻リリースされました。 今月は、シティ・ポップの文脈にあっても、少し歌謡曲の香りがするレコードを選んでみました。ジャパニーズAORとでも呼んでみましょう。その初回は、門あさ美のアルバム『ファッシネイション』です。 1955年10月17日、名古屋市生まれのシンガー・ソングライター門あさ美。そのプライベートは、あまり知られていないミステリアスなシンガーと言われています。 1975年の第9回ヤマハポピュラーソングコンテスト中部大会に「門あさ美・安藤こうじ」として出場、77年の第13回中部大会に出場後、内気な彼女をスタッフが口説いてオーディションに参加しました。数社のレコード会社から手が上がり、1979 年9月テイチクから「Fascinatoin」でデビューしました。 2ndシングル「モーニング・キッス」をリリースして1stアルバム『ファッシネイション』を発表、収録10曲のほとんどを作詞・作曲し、アレンジは鈴木茂や松任谷正隆らが手掛けました。アルバムは、当時メイン・ストリームとなっていたニューミュージックの中でも、特に洗練された「ファッション・ミュージック」のコピーをつけて売り出されました。 メディアへの露出も少なく、デビュー後はライブも行わない徹底したイメージ戦略がとられ、甘く危険な歌詞とクオリティの高い楽曲、そしてそのミステリアスな美貌から人気となります。以後順調にセールスを伸ばし、82年のアルバム『Hot Lips』では、松岡直哉プロデュースのもと、村上秀一、和田アキラなどフュージョン系のミュージシャンを迎えて洗練度を増していきます。 また83年の5枚目『PRIVATE MALE』は井上鑑プロデュースで、今剛、土方隆行などが参加、まさにジャパニーズAORなサウンドとなり、ベスト10ヒットとなりました。その後もムーンライダースとのアルバムなどリリースしますがヒットまでは至らず、効果音を使った85年の疑似ライブ・アルバム『SIMULATION』をもって東芝EMIへ移籍。 移籍後は、87年の『Anti Fleur』、88年に『La Fleur Bleue-青い花-』と高橋幸宏がプロデュース。ミュージシャンも小林武史、大村健司、小原礼、さらにストリングス・アレンジは坂本龍一という豪華サポートを得ますが10枚目のアルバムを発表後、表舞台から遠ざかってしまいました。 しかし2019年、元キャンディーズ伊藤蘭のソロ・デビュー・アルバム『My Bouquet』に楽曲を提供したことで、久々に門あさ美の名前がメディアに登場。さらに2024年にはデビュー45周年を記念して、高橋幸宏プロデュース作の2枚がリマスター&アナログ・リイシューされ、話題となりました。 門あさ美のアルバム『ファッシネイション』 SIDE A 「Morning Kiss」 「Keep on Loving」 「Stop Passing Night」 「South Shore」 「Good Luck」 SIDE B 「Fascination」 「Darling」 「Smile for Me」 「Fancy Evening」 「Blue」 門あさ美のアルバム『ファッシネイション』いかがでしょうか? ちなみに、その美貌と歌声、歌詞やサウンドで未だに人気の衰えない門あさ美。実の兄、門晃弘も八事裏山フォーク・オーケストラという伝説のバンドのメンバーとしてデビューしたことがあるのだそうです。 https://moo-095.ssl-lolipop.jp/kadoasami/index.html 門あさ美 ファンサイト
アナログレコード 1979年澁谷彰一
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スティーヴィー・ワンダー『ファースト・フィナーレ』
【2024年8月31日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。8月はブラック・パワー、ブラック・コンテンポラリー、ソウル・ミュージックをお送りしています。シリーズ最後は、スティーヴィー・ワンダーのアルバム『ファースト・フィナーレ』です。 スティーヴィー・ワンダーことスティーヴランド・モリス・ジャドキンズは、1950年5月13日にミシガン州サギノウで生まれました。ところが生まれてすぐに保育器のトラブルで、視力を失ってしまいます。そんなハンディを跳ねのけ、幼少期にピアノやハーモニカ、ドラムなどの楽器をマスター。11歳にして、モータウンとの契約をとりつけるほどの実力を持ちました。 1963年“リトル・スティーヴィー・ワンダー”としてアルバム『フィンガーティップス』でデビューすると、たちまち全米No.1のヒット。その後も66年の『アップタイト』、『太陽のあたる場所』、68年の『マイ・シェリ-・アモ-ル』とヒット作を生み出してゆきます。 “リトル・スティーヴィー”も20歳を迎えるとさらに成長、この年最初の結婚をしました。71年の誕生日には、未成年時代の印税100万ドルを受け取り、アーティストとしての権利を獲得。当時まだ珍しかったシンセサイザーやコンピュータを使って新作を発表し、72年の『トーキング・ブック』からは「迷信」「サンシャイン」が全米1位の大ヒットとなりました。 ところがここで交通事故に遭い、生死の間をさまよいながら新作『インナーヴィジョンズ』をリリースすると、グラミー賞アルバム賞ほか5部門を受賞。続いて74年には、『ファースト・フィナーレ』が全米アルバムチャート1位に輝き、グラミー賞主要5部門を独占、プライベートでは愛娘アイシャを授かりました。 76年には、LP2枚とシングル1枚という大作『キー・オブ・ライフ』をリリースして、14週連続全米1位という記録を打ち立てました。80年に入ると、よりPOPなアルバム『ホッター・ザン・ジュライ』を発表、82年にはポール・マッカートニーとの「エボニー・アンド・アイヴォリー」が7週連続全米1位。 84年のサウンドトラック『ウーマン・イン・レッド』から、シングル「心の愛」が全米No.1ヒットとなり、アカデミー主題歌賞に輝きます。翌年も「パートタイム・ラバー」を全米トップに送り出し、89年には「ロックの殿堂」入りしました。 90年代以降はオリジナル作品のリリースは少なくなっていますが、ブラック・ムーヴィーの奇才スパイク・リー監督のサウンドトラックを手掛けたり、96年のアトランタ・オリンピックではパフォーマンスを披露。さらに前作から10年ぶり、2005年の新作『タイム・トゥ・ラヴ』では、娘のアイシャとデュエットもしました。2009年には国連平和大使に任命され、近年でもコロナ禍や人道問題など、事あるごとに、愛のメッセージを伝える作品を発表し続けるレジェンドとして存在しています。 スティーヴィー・ワンダーのアルバム『ファースト・フィナーレ』 SIDE A 「やさしく笑って」 「1000億光年の彼方」 「トゥー・シャイ」 「レゲ・ウーマン」 「クリーピン」 SIDE B 「悪夢」 「愛のあるうちにさよならを」 「聖なる男」 「美の鳥」 「プリーズ・ドント・ゴー」 スティーヴィー・ワンダーのアルバム『ファースト・フィナーレ』いかがでしょうか? ちなみに、今回のアルバムは、1970年代に独り立ちしたスティーヴィーが発表してきた5枚のアルバムを締めくくり、次なるステップへと向かうためのフィナーレなのだそうです。 http://www.steviewonder.net/ スティーヴィー・ワンダー オフィシャルサイト
アナログレコード 1974年澁谷彰一
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ダイアナ・ロス『愛の流れに』
【2024年8月24日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 8月はブラック・パワー、ブラック・コンテンポラリー、ソウル・ミュージックをお送りしています。今回は、ダイアナ・ロスのアルバム『愛の流れに』です。 あのマイケル・ジャクソンも慕っていたシンガー、ダイアナ・ロス。本名ダイアナ・アールは1944年3月26日、ミシガン州デトロイトに生まれました。ハイスクール時代に、友人のマリー・ウィルソン、フロレンス・バラード、バーバラ・マーティンとプリメッツというグループを結成してキャリアをスタート。 61年にモータウン・レコードと契約、シュープリームスとしてデビューしました。はじめはヒットに恵まれませんでしたが、モータウンの専属ソングライター・チーム、ホーランド=ドジャー=ホーランドと組むようになって売れ始めます。64年の「愛はどこへ行ったの」が初の全米No.1になると「ストップ・イン・ザ・ネイム・オブ・ラヴ」「恋はあせらず」など12曲ものNo.1ヒットを生み、世界のトップ・アイドルとなりました。 ところが69年にダイアナは、グループを脱退してソロ活動を始めます。1970年のソロ・アルバム『エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ』からタイトル曲が全米1位となったのをきっかけに、73年の「タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング」、マーヴィン・ゲイとのデュエット「ユー・アー・エヴリシング」などヒットを連発。 また1972年に伝説のジャズ・シンガー、ビリー・ホリデイの伝記映画『ビリー・ホリデイ物語/奇妙な果実』で、アカデミー賞主演女優賞にノミネート。76年のアルバム『愛の流れに』からは、主演映画のテーマ曲「マホガニーのテーマ」そして「ラブ・ハングオーバー」が全米1位を獲得しました。 80年にはディスコの波に乗り、シックのナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズのプロデュースによるアルバム『ダイアナ』から、「アップサイド・ダウン」が全米1位に。81年にはライオネル・リッチーとのデュエット「エンドレス・ラヴ」もNo.1に輝きました。 その後モータウンからRCAへ移籍、84年に亡くなったマーヴィン・ゲイに捧げた「ミッシング・ユー」、85年のUSAフォー・アフリカでの「ウィー・アー・ザ・ワールド」以外は 目立ったヒットに恵まれず、89年にモータウンに戻ってきます。 90年代以降はTV映画出演などありますが、個人的なトラブルや、シュープリームスの再結成ツアーの失敗などから表舞台から遠ざかります。しかし2021年には22年ぶりとなるオリジナル・アルバム『サンキュー』をリリースしました。 ダイアナ・ロスのアルバム『愛の流れに』 SIDE A 「マホガニーのテーマ」 「愛の流れに」 「ラブ・ハングオーバー」 「キス・ミー・ナウ」 SIDE B 「マイ・チャイルド」 「エデンの園」 「愛のとまどい」 「アフター・ユー」 「スマイル」 ダイアナ・ロスのアルバム『愛の流れに』いかがでしょうか? ちなみに、シンガー、映画スターと多才なダイアナ・ロスは、主演した映画「マホガニー」では、自身で衣装のデザインまでも手掛けたそうです。 https://www.dianaross.com/ ダイアナ・ロス オフィシャルサイト
アナログレコード 1976年澁谷彰一
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コモドアーズ『ミッドナイト・マジック』
【2024年8月17日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 8月はブラック・パワー、ブラック・コンテンポラリー、ソウル・ミュージックをお送りしています。今回は、コモドアーズのアルバム『ミッドナイト・マジック』です。 R&B、ファンク・バンドとして知られるコモドアーズは、1968年アラバマ州タスキギー大学の二つのバンドが合体して結成されました。デビュー当時のオリジナル・メンバーは、1946年生まれのドラマー、ウォルター・オレンジ、48年生まれのキーボード奏者マイラン・ウィリアムズ、49年生まれのサックス担当ライオネル・リッチーとトランペットのウィリアム・キング、そして50年生まれのギタリスト、トーマス・マクラリーとベースのロナルド・ラプリードの6人。 地元のクラブなどで演奏していましたが、モータウンの副社長に見いだされ、ジャクソン5のオープニング・アクトに抜擢されると俄然注目を集めます。71年にモータウンと契約しますが、自作自演のバンドに不慣れなモータウンの元で苦節3年。 それでも彼らは挑戦を続け、マイランのクラヴィネットをフィーチャ―したデモ音源を社長のベリー・ゴーディーに聴かせると、いたく気に入りデビュー作のリード曲に決定。1974年そのモータウン・レコードからアルバム『マシーン・ガン』でデビューすると、タイトル曲はインスト・ナンバーにも関わらず全米22位のヒットとなりました。 2ndアルバムからは、ファンク・ナンバー「スリッパリー」がR&Bチャートで1位を獲得。最初はファンク指向のアルバムをリリースしていましたが、76年の「よりそう二人」で再びR&Bチャートの頂点に立つと、ライオネル・リッチーのバラードに注目が集まり、ポップとファンクが共存するバンドとして展開。78年、ライオネルの曲「永遠の人に捧げる歌」でポップ・チャートでも頂点を極めました。 79年のアルバム『ミッドナイト・マジック』からも「セイル・オン」「スティル」がヒット。さらにライオネルはダイアナ・ロスとのデュエット「エンドレス・ラヴ」が大ヒットして、82年にソロ・アルバムをリリースするとバンドを離れました。 また翌年トーマス・マクラリーもグループを去り、コモドアーズは、元ヒートウエーブのJ.D.ニコラスを二人目のヴォーカルとして迎え入れます。85年の『ナイトシフト』から、亡くなったマーヴィン・ゲイに捧げたタイトル曲が全米3位となり、キャリア初のグラミー賞を受賞しました。しかしこれが最後のTOP40ヒットとなり、モータウンを離れてポリドールへ移籍。 その後もコモドアーズは活動を続け、現在はウィリアム・キング、ウォルター・オレンジそしてJ.D.ニコラスの3人でツアーを続けています。 コモドアーズのアルバム『ミッドナイト・マジック』 SIDE A 「ゲッティン・イット」 「ミッドナイト・マジック」 「ユーア・スペシャル」 「スティル」 SIDE B 「ワンダーランド」 「セクシー・レディ」 「ラビン・ユー」 「セイル・オン」 そして「12:01 A.M.(リプライズ)」 コモドアーズのアルバム『ミッドナイト・マジック』いかがでしょうか? ちなみに、演奏はもちろん作詞・作曲までほぼメンバーで賄うコモドアーズ。ライオネルが作ったバラード「スティル」は、離婚しようとしていた友人に捧げた曲なのだそうです。 https://www.commodoreslive.com/ コモドアーズ オフィシャルサイト
アナログレコード 1979年澁谷彰一
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シスター・スレッジ『アメリカン・ガールズ』
【2024年8月10日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。8月はブラック・パワー、ブラック・コンテンポラリー、ソウル・ミュージックをお送りしています。今回は、シスター・スレッジのアルバム『アメリカン・ガールズ』です。 1954年生まれのデビ―、56年生まれのジョニ、57年生まれのキム、59年生まれのキャシー。フィラデルフィア出身のスレッジ4姉妹によるグループ、シスター・スレッジ。父親はタップ・ダンサー、母親は女優という恵まれた環境の家庭で育ち、元オペラ歌手だった祖母に歌を教わって、教会や地元のチャリティ・イヴェントで歌っていました。 シスター・スレッジとして活動を始めたのが1971年、長女デビ―は16歳、末っ子キャシーはまだ12歳でした。女性版ジャクソン5のようなファミリー・グループを目指して、地元のインディ・レーベルから「タイム・ウィル・テル」をリリースしました。 その後アトランティック傘下のアトコ・レーベルと契約、最初のヒットは73年の「ママ・ネバー・トールド・ミー」で、全英チャート20位にランクイン。アメリカでのヒットは74年の「失恋大作戦」、ようやくトップ100に滑り込みました。このシングルを収録したデビュー・アルバム『サークル・オブ・ラヴ』は日本でも人気となり、第4回東京音楽祭に出演して、銀賞に輝きました。 しかしなかなかブレイクとまでは至らず、バック・コーラスの仕事などをこなしながら苦節6年、ついにその時がやって来ます。シックのナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズが楽曲提供・全面プロデュースした79年のサード・アルバム『華麗な妖精たち』から、「ウィ・アー・ファミリー」が世界中で大ヒット。「ヒーズ・ザ・グレイテスト・ダンサー」と合わせて、ダンス・クラシックスとなりました。 次のアルバム『ときめき』でもこのコンビネーションは続きますが、81年の『アメリカン・ガールズ』で手を組んだのは、フュージョン界きっての花形ドラマーでアレンジャーとしても実力のあるナーラダ・マイケル・ウォルデンでした。前作までのポップで、ダンサブルなサウンドも残しつつ、シンセサイザーを使ったり、全体的に抑揚の効いた、アダルト・コンテンポラリーな音作りが時代を先取りしていました。 その後はセルフ・プロデュースやジョージ・デュークと組んだりしていましたが、久々にナイル・ロジャースとコラボした85年の『ボーイズ・ミート・ガールズ』から「フランキー」が全英1位のヒットとなりました。しかし89年にケイシーが脱退、残る3人で活動を続けていましたが、2017年3月10日にジョニが60歳の若さで星となり、2019年にキムも脱退。現在はデビ―と娘のカミーユに加え、タニヤ・ティートのトリオで活動中です。 シスター・スレッジのアルバム『アメリカン・ガールズ』 SIDE A 「アメリカン・ガールズ」 「ランナウェイ」 「貴方が望むなら」 「愛はこれから」 「ハッピー・フィーリング」 SIDE B 「愛されて」 「メイク・ア・ムーヴ」 「ひとりぼっちにしないで」 「気分はミュージック」 「別れの言葉なんて」 シスター・スレッジのアルバム『アメリカン・ガールズ』いかがでしょうか? ちなみに、二女のジョニは健康志向が強く、息子のタデウスにもファスト・フードよりもケール・チップスなどの健康食品をすすめていたそうです。なのになぜ一番先に旅立ってしまったのか…、皮肉なものです。 https://sistersledge.com/ シスター・スレッジ オフィシャルサイト
アナログレコード 1981年澁谷彰一
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アース・ウィンド&ファイアー『天空の女神』
【2024年8月3日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。8月はブラック・パワー、ブラック・コンテンポラリー、ソウル・ミュージックをお送りします。初回は、アース・ウィンド&ファイアーのアルバム『天空の女神』です。 美しいファルセット・ボイスとタイトなリズム、ショーアップされたステージで一世を風靡したスーパー・グループ、アース・ウィンド&ファイアー。その中心人物モーリス・ホワイトは、2016年に惜しくも星となってしまいました。モーリス・ホワイトは、1941年12月19日、メンフィス生まれ。高校生でドラムをはじめ、チェス・レコードの専属打楽器奏者としてキャリアをスタートしました。 1967年ラムゼイ・ルイス・トリオに参加した後、69年シカゴで自身のバンド『ソルティ・ペパーズ』を結成しました。その後ロスアンジェルスに移ってグループ名をアース・ウィンド&ファイアーに改名、アルバム2枚をリリースしますが一旦解散。 モーリス、ヴァーダインの兄弟に加え、ボーカルのフィリップ・ベイリー、ギターのアル・マッケイらによる新生アース・ウィンド&ファイアーは1972年コロンビアから『地球最後の日』で再デビューしました。 ドラマーのラルフ・ジョンソンが参加したことでモーリスはフロントに立ち、フィリップ・ベイリーとのツイン・ヴォーカル体制を確立します。74年の『太陽の化身』から「宇宙よりの使者」が初のシングル・ヒット。洗練されたサウンドと白人マーケットへのアプローチという、モーリスの戦略は見事に的中しました。 75年のアルバム『暗黒への挑戦』でとうとう全米1位を獲得、収録曲「シャイニング・スター」はグラミー賞を受賞しました。77年の『太陽神』は、「宇宙のファンタジー」など名曲ぞろいで全米3位の大ヒット、再びグラミーに輝きます。 その後「セプテンバー」「ブギー・ワンダーランド」など、ダンス・クラシックスとなったヒットを連発。ところが81年の『天空の女神』あたりからサウンドに変化があって、83年の『エレクトリック・ユニヴァース』ではEW&Fサウンドの要ホーンを使わず、シンセサイザーを使用。ファンの間でも賛否両論となり、このアルバムをもって一旦活動を休止します。 87年には活動を再開しますが、モーリスは病に冒されライブ活動をリタイア。その後もプロデューサーとして関わっていましたが、2016年2月3日宇宙へと旅立ちました。しかし現在もアース・ウィンド&ファイアーは活動を続け、フィリップ・ベイリー、バーダイン・ホワイト、ラルフ・ジョンソンが在籍しています。 アース・ウィンド&ファイアーのアルバム『天空の女神』 SIDE A 「レッツ・グルーヴ」 「レディ・サン」 「マイ・ラヴ」 「エヴォリューション・オレンジ」 SIDE B 「カリンバ・トゥリー」 「偉大なる覇者」 「果てしなき挑戦」 「アイ・ウォナ・ビー・ウィズ・ユー」 「ザ・チェンジング・タイムズ」 アース・ウィンド&ファイアーのアルバム『天空の女神』いかがでしょうか?ちなみに、このアルバムから中心人物でもあったギタリストのアル・マッケイが独立。それがサウンドの変化にも影響しているのではないかと言われています。 https://www.earthwindandfire.com/ アース・ウィンド&ファイアー オフィシャルサイト
アナログレコード 1981年澁谷彰一
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ザ・ビーチ・ボーイズ『L.A.(ライト・アルバム)』
【2024年7月27日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。7月はサマー・ブリージンと題して、夏の風を感じるレコードお送りしています。シリーズ最終回は、問答無用のサマー・サウンド、ザ・ビーチ・ボーイズの『L.A.(ライト・アルバム)』。 ポップ・ミュージックの革命児で、あのビートルズのライバルともいえるビーチ・ボーイズ。初期のヒット曲によって“夏だ!海だ!”といったイメージが強いのですが、彼らの音楽には深く複雑な面もあるのです。 1942年6月20日生まれのブライアン・ウィルソンと、44年12月4日生まれのデニス、46年12月21日生まれのカールの3兄弟。そこに41年3月15日生れの従兄弟マイク・ラヴと、友人のアル・ジャーディンでベンドルトンズを結成。61年にリリースされたレコード「サーフィン」には、本人たちも知らぬ間にザ・ビーチ・ボーイズとクレジットされていました。 改名は別としてこの曲はロスアンジェルスのチャートで2位、全米でもトップ100に入るヒットとなり、翌年キャピトルと契約、メジャー・デビュー曲「サーフィン・サファリ」を発売しました。デビューまではスムーズに運んだものの63年の「サーフィン・U.S.A.」は3位、初のセルフ・プロデュース作「サーファー・ガール」も7位と、なかなかトップを獲れません。この頃イギリスからビートルズが登場、64年の「抱きしめたい」で全米首位の座を射止めました。それでもデビューから11か月、「アイ・ゲット・アラウンド」でようやく全米1位を獲得。 しかしプロデューサーとしてまとめていたブライアンが、体調不良に陥りツアーから引退、制作側にまわったブライアンに替わってブルース・ジョンソンがバンドに加入しました。ビートルズが65年に意欲作『ラバー・ソウル』を発表すると、これに刺激を受けたブライアンは後に最高傑作と評価を受ける『ペット・サウンズ』の制作にとりかかります。腕利きミュージシャンの採用、多重録音による音響効果など、当時としては斬新な作品となりました。 ザ・ビーチ・ボーイズは66年に自主レーベル、ブラザー・レコードを立ち上げ、「グッド・ヴァイブレーション」をリリースすると全英でも1位を獲得。60年代後半はアメリカよりもイギリスで人気となり、ビートルズと肩を並べる存在となりました。しかし、そのプレッシャーからかブライアンの精神は病んでいき、次作の予定だった『スマイル』が頓挫してブライアンは活動休止。 しかしその後もバンドは活動を続け、76年にブライアンが復帰。久々のプロデュースで『偉大なる15年』、翌年には『ラヴ・ユー』をリリースしますが不作に終わり、79年にCBS傘下のカリブ・レコードに再び移籍して『L.A.(ライト・アルバム)』をリリース。88年には映画『カクテル』の主題歌「ココモ」が22年ぶりの全米No.1を獲得しました。ビーチ・ボーイズは、83年に次男のデニス、98年に三男カールを失いますが、現在もマイク・ラヴを中心に活動は継続。2024年春には初の公式自伝本が発売されました。 ザ・ビーチ・ボーイズのアルバム『L.A.(ライト・アルバム)』 SIDE A 「グッド・タイミン」 「レディ・リンダ」 「フル・セイル」 「エンジェル・カム・ホーム」 「ラヴ・サラウンズ・ミー」 「想い出のスマ浜」 SIDE B 「ヒア・カムズ・ザ・ナイト」 「ベイビー・ブルー」 「ゴーイン・サウス」 「ショートニン・ブレッド」 ザ・ビーチ・ボーイズのアルバム『L.A.(ライト・アルバム)』いかがでしょうか?ちなみに、66年発表されたンセプト・アルバム『ペット・サウンズ』は、ビートルズに刺激を与え『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が出来上がった話は有名です。 https://thebeachboys.com/ ビーチ・ボーイズ オフィシャルサイト
アナログレコード 1979年澁谷彰一
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10cc『愛ゆえに……』
【2024年7月20日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。7月はサマー・ブリージンと題して、夏の風を感じるレコードお送りしています。今回は、イングランドはマンチェスターからの風、10ccのアルバム『愛ゆえに……』です。 ポップでありながらどこかシニカル、かつ斬新なアイディアを持つ10cc。 1945年1月20日生まれのエリック・スチュワート、46年5月10日生まれのグレアム・グールドマン。エリックが在籍するバンド、マインド・ベンダーズにグレアムが加入したのが10ccの原点です。そのエリックはマンチェスターで初の本格スタジオ設立に関わり、やがてバンドは解散。 このストロベリー・スタジオは、別なバンドにいたケヴィン・ゴドレイとロル・クリームを雇い入れ、ホットレッグスを結成。このスタジオで録音された「ネアンデルタール・マン」という曲がレコード・メーカーの耳にとまり、1970年にシングルとして発売されると全英3位の大ヒットになりました。 ここに渡米していたグレアム・グールドマンが参加して4人となり、10ccが誕生します。10ccは、1972年シングル「ドナ」でデビュー。翌73年のシングル「ラバー・バレッツ」で早くも全英首位を獲得します。同年リリースされたデビュー・アルバム『10cc』は50年代ポップスへのオマージュなど、ウィットとユーモアに富んだ内容になりました。74年の2ndアルバム『シート・ミュージック』は、全英チャートで第9位まで上昇。 レーベルを移籍した3作目『オリジナル・サウンドトラック』は架空の映画のサントラという設定。シングル・カットされた名曲「アイム・ノット・イン・ラヴ」は、全英1位、全米でも2位の大ヒット。大成功を手にした10ccでしたが、76年の『びっくり電話』というアルバムを最後にケヴィン・ゴドレイとロル・クリームが脱退。二人は当時“ギズモ”という装置による実験音楽に夢中で、ポップソングに飽きてしまっていたのです。 残されたエリック・スチュワートとグレアム・グールドマンを中心に制作されたのが『愛ゆえに……』。シングルとなったタイトル曲は全英6位、全米5位のヒットとなりました。10ccは、その後もサポート・メンバーを加えながら活動を続けますが、スティーヴ・ガッドが参加した83年の『都市探検』をもって解散。 一方ゴドレイ&クリームの二人は、77年に実験的アルバム『ギズモ・ファンタジア』を発表。80年代は音楽と並行して、ビデオクリップの監督としてポリスやエリック・クラプトンはじめ有名アーティストの傑作を次々に発表、高い評価を受けています。 その後92年に、オリジナル・メンバーが集まって10ccとしての新作『ミーンホワイル』を発表。95年の第2弾『ミラー・ミラー』に合わせてツアーも行われますが、97年にエリックが脱退。2000年代はグレアム・グールドマンが中心となり、10ccの活動は続けているようです。 10ccのアルバム『愛ゆえに……』 SIDE A 「グッド・モーニング・ジャッジ」 「愛ゆえに」 「マリッジ・ビューロー・ランデブー」 「恋人たちのこと」 「モダン・マン・ブルース」 SIDE B 「ハネムーン・ウィズ・Bトゥループ」 「フラット・ギター・トゥイーター」 「ユーブ・ガット・ア・コールド」 メドレー「フィール・ザ・ベネフィット」 10ccのアルバム『愛ゆえに……』いかがでしょうか?ちなみに、10ccのホームとなったマンチェスターのストロベリー・スタジオ。いつかビートルズに使ってもらいたいとの願いから、「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」にちなんで名付けられました。そして1974年には、ポール・マッカートニーが弟のレコーディングのため使ってくれたそうです。 https://www.10cc.world/ 10㏄ オフィシャルサイト
アナログレコード 1977年澁谷彰一
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セルジオ・メンデス『愛をもう一度』
【2024年2024年7月13日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。7月はサマー・ブリージンと題して、夏の風を感じるレコードお送りしています。今回は、ブラジルからの風、セルジオ・メンデスのアルバム『愛をもう一度』です。 ブラジル生まれのボサノヴァを、広く世界に伝えたセルジオ・メンデスは、1941年2月11日、リオ・デ・ジャネイロ近郊のニテロイに生まれました。子供のころからクラシック・ピアノを学びますが、ボサノヴァの誕生を目の当たりにしてジャズやボサノヴァに興味は移ります。 60年代には、地元の飲食店でピアノを演奏するようになり、トリオで活動。62年にはカーネギー・ホールで行われたボサノヴァを紹介するイヴェントにも出演、アメリカでも、その名を知られるようになります。その後キャノンボール・アダレイ、ハービー・マンなど大物ジャズメンとの共演で、アメリカのボサノヴァ・ブームを支える存在となりました。 64年ロスアンジェルスに居を構え、アメリカ進出を果たしたセルジオに大きな出会いが訪れます。ティファナ・ブラスというバンドを率いていたトランぺッターのハーブ・アルパート。アメリカで新しいブラジリアン・ポップを目指したセルジオ・メンデスは、女性ボーカルをフィーチャーした新バンドを結成。それがハーブ・アルパートの耳にとまり、彼が設立したA&Mレコードと契約しました。 『セルジオ・メンデス&ブラジル‘66』をリリースすると、シングル「マシュ・ケ・ナダ」が大ヒット。アルバムは全米チャートに126週ランクインという快挙を成し遂げました。ロックやポップスもボサノヴァ風にアレンジした斬新なスタイルで、ブラジル‘66は世界中で大ヒット。その後も、ビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル」や「デイ・トリッパー」のカヴァーなど、ヒットを生み出していきます。1970年には大阪万国博覧会のステージで公演を行い、ブラジル‘66としては初のライヴ・アルバムをリリースしました。 71年に、ブラジル‘66からブラジル‘77とグループ名が変わり、その後‘88まで続きます。80年代に入るとソロ・アルバムをリリースするようになり、83年の『愛をもう一度』からのタイトル・チューンが全米4位と久々のヒットとなりました。その後もコンスタントに新作をリリースしていきますが、96年の『オセアーノ』以降はコンサート活動が中心となり、新作の発表はありませんでした。 2006年、久しぶりにリリースされたアルバム『タイムレス』は、ブラック・アイド・ピーズのウィル・アイ・アムをプロデューサーに迎えた意欲作でした。スティーヴィー・ワンダーはじめ豪華アーティストと共演して、特にウィルと共演した「マシュ・ケ・ナダ」のセルフ・カヴァーが話題となりました。 セルジオ・メンデスのアルバム『愛をもう一度』 SIDE A 「ブードゥー」 「愛をもう一度」 「マイ・サマー・ラヴ」 「恋のカーニバル」 SIDE B 「虹を求めて」 「ラヴ・イズ・ウェイティング」 「ドリーム・ハンター」 「ライフ・イン・ザ・ムーヴィーズ」 「シー・セニョール」 セルジオ・メンデスのアルバム『愛をもう一度』いかがでしょうか?ちなみに、1972年にリリースしたアルバム『プライマル・ルーツ』を録音した自宅スタジオは、当時大工をしていたあのハリソン・フォードが建てたのだそうです。 https://www.sergiomendesmusic.com/ セルジオ・メンデス オフィシャルサイト
アナログレコード 1983年澁谷彰一
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パブロ・クルーズ『フリー・ライド・サーファー』
【2024年7月6日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 7月に入ったのでサマー・ブリージンと題して、夏の風を感じるレコードお送りします。 初回は、サーフ・ロックの大先輩、パブロ・クルーズの『フリー・ライド・サーファー』です。 カリフォルニア州サンフランシスコ生まれのパブロ・クルーズ。ローカル・バンドで活動していたヴォーカルのデイヴ・ジェンキンスと、同じバンド・メンバーでハイスクールからの友人、キーボードのコリー・レリオス。ドラムのスティーヴ・プライスに加え、別のバンドからベースのバド・コックレルが加わって1973年にパブロ・クルーズは誕生しました。 地元サンフランシスコのクラブを中心に活動中、74年にA&Mレコードと契約。シングル「デニイ」でデビューしますがヒットには恵まれず、76年のアルバム『フリー・ライド・サーファー』からタイトル曲がサーフィン映画『フリー・ライド』のテーマに採用され、サーファーを中心に話題となります。 そして彼らの名を広めたのが77年のサード・アルバム『太陽の放浪者』。シングル「ホワッチャ・ゴナ・ドゥ」が全米チャート6位となり、アルバムもプラチナを獲得。続く4作目『世界は彼方に』から、「愛の水平線」が再び全米6位となり、アルバムも6位に。79年の5枚目『パート・オブ・ザ・ゲーム』では、当時流行していたディスコ・サウンドを取り入れ、サーファー・ディスコでパワー・プレイされました。 ここでベースがジョン・ピアースに交代し、若手ギタリストのアンジェロ・ロッシーが参加、81年に『リフレクター』をリリース、そして次作『アウト・オブ・アワ・ハンズ』制作中にオリジナル・ドラマーのスティーヴ・プライスがバンドを去り、再びメンバー・チェンジ。そして82年の、この作品が事実上ラスト・アルバムとなりました。 レーベルとの契約終了後もライヴは続けていましたが、85年にバンドは活動休止、メンバーはそれぞれ別の道へ進んで行きました。ところが2004年にスティーヴ・プライスの結婚式にオリジナル・メンバーが参加、デイヴ・ジェンキンスとコリー・レリオスが久々に一緒にプレイすることになりました。 これがきっかけとなり、20年ぶりとなる全米およびカナダ・ツアーを開催。2010年にベスト・ヒッツ・ライヴ・アルバム『グッド・トゥ・ビー・ライヴ』をリリースしました。現在パブロ・クルーズは、デイヴ・ジェンキンスとコリー・レリオスのオリジナル・メンバーに新メンバーを加えて航海を続けています。 パブロ・クルーズのアルバム『フリー・ライド・サーファー』 SIDE A 「クリスタル」 「ドント・ビリーヴ・イット」 「ダウン・マイ・マインド」 「イッツ・ファイナリー・オーヴァー」 「ライフライン」 SIDE B 「フリー・ライド・サーファー」 「ルック・トゥ・ザ・スカイ」 「ネヴァー・シー・ザット・ガール・イナフ」 「フー・ノウズ」 「グッド・シップ・パブロ・クルーズ」 パブロ・クルーズのアルバム『フリー・ライド・サーファー』いかがでしょうか? ちなみに70年代サーフ・ロックの雄、パブロ・クルーズ。公式サイトによると、彼らはカジノのショールームで演奏した最初のロック・バンドなのだそうです。 https://www.pablocruise.com/ パブロ・クルーズ オフィシャルサイト
アナログレコード 1976年澁谷彰一
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ディープ・パープル『マシン・ヘッド』(2024リミックス)
【2024年6月29日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 6月はロックのゴールデン・エイジ、1970年代洋楽ロックをピック・アップしています。1950年代に誕生したロックは70年代に入ると巨大産業として発展、その黄金時代を迎えます。最終回は、70年代ロックのバイブル、ディープ・パープルのアルバム『マシン・ヘッド』です。 バンド経験者なら一度は弾いた事がある「スモーク・オン・ザ・ウォーター」のイントロ。ディープ・パープルは参加メンバーによって第1期から第10期までありますが、今回はその黄金期、第2期の代表作をご紹介しています。 1945年4月14日生まれの天才ギタリスト、リッチー・ブラックモアと、1941年6月9日生まれのキーボーディスト、ジョン・ロード。二人が参加するバンド、ラウンドアバウトを前身に、1968年に結成されたディープ・パープル。デビュー・アルバム『ハッシュ』からのタイトル・チューンが全米4位のヒットとなりました。 キーボードをフィーチャーした第1期はアメリカでは受けたものの、本国イギリスでは今一つ。同じ68年デビューのレッド・ツェッペリンがブレイクしていたのを意識して、シャウトが売りのヴォーカル、イアン・ギランとベースのロジャー・グローヴァーが加入して第2期パープルはハードなサウンドに舵を切りました。 このラインナップでリリースした70年のアルバム『イン・ロック』は全英チャート4位となり、71年『ファイアボール』、72年『マシン・ヘッド』と立て続けに全英1位に送り込みます。レッド・ツェッペリン、ブラック・サバスらとハード・ロック黄金時代を築いた彼らは、この時期「ハイウェイ・スター」「スモーク・オン・ザ・ウォーター」などのクラシックスを残しました。 72年の初来日公演は『ライヴ・イン・ジャパン』としてリリースされ人気絶頂となりますが、73年の『紫の肖像』をもってイアン・ギランとロジャー・グローヴァーが脱退。代って“歌えるベーシスト”グレン・ヒューズが加入するもののギランの穴は埋められず、オーディションでデイヴィッド・カヴァーデイルを発掘して第3期がスタート。 74年にリリースしたアルバム『紫の炎』では、ファンキーなサウンドで新機軸を打ち出し、伝説的なイヴェント「カリフォルニア・ジャム」で過激なパフォーマンスを披露しました。しかし新メンバーとの反りが合わないリッチーは74年脱退、新バンド、レインボウを立ち上げました。 看板を失い瀕死の状態にあったパープルには、新ギタリストとしてトミー・ボーリンが加入。75年に新作『カム・テイスト・ザ・バンド』を携え、ワールド・ツアーに出ますが結果は散々。トミーはリッチー原理主義者からのバッシングに遭ってドラッグに溺れ、76年に解散を宣言。デイヴィッド・カヴァーデイルはホワイトスネイクを結成して、バンドの歴史は閉ざされました。 しかしその後84年に第2期メンバーが集結しますが、リッチーが再び脱退。現在はリッチーと、亡くなってしまったジョン・ロード以外のメンバーで第10期として活動中です。 ディープ・パープルのアルバム『マシン・ヘッド』(2024リミックス) SIDE A 「ハイウェイ・スター」 「メイビー・アイム・ア・レオ」 「ピクチャー・オブ・ホーム」 「ネヴァー・ビフォア」 SIDE B 「スモーク・オン・ザ・ウォーター」 「レイジー」 「ブラインド・マン」 「スペース・トラッキン」 ディープ・パープルのアルバム『マシン・ヘッド』(2024リミックス)いかがでしょうか?ちなみに今回、オリジナル版には未収録の「ブラインド・マン」を含んだスーパー・デラックス・エディションからお送りしましたが、さらに今年7月には新作をリリースするとのニュースが伝わっています。 https://deeppurple.com/ ディープ・パープル オフィシャルサイト
アナログレコード 1972年澁谷彰一
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シカゴ『シカゴX(カリブの旋風)』
【2024年6月22日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 6月はロックのゴールデン・エイジ、1970年代洋楽ロックをピック・アップしています。1950年代に誕生したロックンロール。69年をさかいに、70年代に入ると巨大産業として発展、黄金時代を迎えます。今回は、8年ぶりに来日するご長寿グループ、シカゴのアルバム『シカゴX(カリブの旋風)』です。 1960年代から70年代にかけて流行した「ブラス・ロック」の代表シカゴ。その原点は、1944年10月13日生まれのロバート・ラム、45年3月14日生まれのウォルター・パラゼイダー、46年1月31日生まれのテリー・キャスらが1967年にシカゴで結成したザ・ビッグ・シングというバンドでした。ここに44年9月13日生まれのピーター・セテラが加わって、シカゴ・トランジット・オーソリティに発展。 1969年コロンビア・レコードと契約、異例の2枚組『シカゴの軌跡』でデビュー。時代を象徴するメッセージ性、ブラスを前面に押し出したサウンドでシーンにインパクトを与えました。ところがバンド名が “シカゴ交通局”と同じと、シカゴ市長から訴えられ「シカゴ」に改名。70年、『シカゴと23の誓い』から「長い夜」がシングルヒットして彼らの代表曲となりました。71年の『シカゴIII』は、予約だけでゴールド・ディスクを獲得、この年初来日を果たします。 1972年のアルバム『シカゴV』あたりから、洗練されたポップ色の強い作風に移行。「サタデイ・イン・ザ・パーク」がシングル・ヒットして、アルバムは初の全米1位となりました。76年の『シカゴX(カリブの旋風)』から「愛ある別れ」で、シングルでも首位に輝きました。 順風満帆に見えた彼らでしたが、突然の悲劇が訪れます。78年、初期からの中心メンバーであるテリー・キャスが、拳銃事故で亡くなってしまいます。新メンバーを迎えて活動を続けますが、かつての輝きは取り戻せず、低迷期を迎えました。 1982年には、ワーナー傘下のフルムーン・レーベルに移籍。新メンバーとしてビル・チャンプリンを迎え入れ、AORブームで超売れっ子のデヴィッド・フォスターがプロデュースした『ラヴ・ミー・トゥモロウ(シカゴ16) 』で見事復活。シングル「素直になれなくて」が7年ぶり全米1位に昇りつめます。 ところが85年にフロント・マン、ピーター・セテラが突如脱退。かわりに若手のジェイソン・シェフを迎えて活動を続けますが、再びスランプに陥ります。その後はビッグ・バンド・サウンドや、企画アルバムをリリースしていましたが、2006年、15年ぶりのオリジナル作『シカゴXXX』でまたまた復活。 2016年にはロックの殿堂入りを果たし、17年には半世紀に及ぶキャリアを追ったドキュメンタリー映画が公開されました。現在も3人のオリジナル・メンバーが在籍しツアーを続け、2024年9月に来日が決定しています。 シカゴのアルバム『シカゴX(カリブの旋風)』 SIDE A 「ロックンロール・シカゴ」 「君の居ない今」 「スキン・タイト」 「愛ある別れ」 「再び君と」 「雨の日のニューヨーク」 SIDE B 「いとしい人」 「想い出のスクラップ・ブック」 「僕だけの君に」 「君はセクシー」 「愛の終りに‥‥‥」 シカゴのアルバム『シカゴX(カリブの旋風)』いかがでしょうか? ちなみに、デビューから3作連続2枚組というシカゴ。ブラス・ロック、ポップ、ディスコ、AOR、ジャズと変化する音楽性は、今でいう“多様性”のバンドといっていいのではないでしょうか? https://chicagotheband.com/ シカゴ オフィシャルサイト
アナログレコード 1976年澁谷彰一
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サンタナ『天の守護神』
【2024年6月15日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 6月はロックのゴールデン・エイジ、1970年代洋楽ロックをピック・アップしています。1950年代に誕生したロックは70年代に入ると巨大産業として発展、黄金時代を迎えます。今回は、顔でギターを弾く魂のギタリスト、サンタナのアルバム『天の守護神』です。 60年代末に登場し、ラテン・ロックという新ジャンルを確立したサンタナ。その中心人物、カルロス・サンタナは1947年7月20日メキシコで生まれました。マリアッチのヴァイオリニストだった父の影響で幼い頃からヴァイオリンやギターを始め、ロックンロール・レジェンドのリッチー・ヴァレンスに影響を受けました。 その後一家はサンフランシスコに移り住み、カルロスはストリート・ミュージシャンとして活動を始めます。高校卒業後はアルバイトをしながら本格的にギターテクニックを学び、やがてプロの道へ。1966年、それまで観客として通っていた名門ライヴハウス「フィルモア・ウェスト」で演奏する機会に恵まれると俄然注目を集めます。 早速ミュージシャン仲間とサンタナ・ブルース・バンドを結成して活動を始めると、デビュー前にしてメイン・アクトを張るまでの人気バンドとなりました。69年にはコロムビア・レコードと契約、バンド名はサンタナに改めました。ウッドストック・フェスティバルで衝撃のデビューをはたし、1stアルバム『サンタナ』が全米4位、70年のアルバム『天の守護神』は全米1位となり、71年の『サンタナIII』でも全米1位を獲得。パーカッションをフィーチャーした音楽性が、ラテン・ロックと呼ばれるようになりました。 4作目『キャラバンサライ』以降は精神世界に傾倒するようになり、音もフュージョン系に変化。73年の初来日公演は、3枚組のライヴ・アルバム『ロータスの伝説』としてリリースされました。また76年のアルバム『アミーゴ!』からは「哀愁のヨーロッパ」が日本で大ヒット。87年のソロ・アルバム『サルバドールにブルースを』から、タイトル曲で初のグラミー賞を受賞。しかし、その後はヒットからは遠ざかり過去の人となってしまいました。 そんなカルロスを救ったのが、かつての盟友クライヴ・デイヴィスでした。1999年クライヴのレーベル、アリスタからリリースしたアルバム『スーパーナチュラル』では、エリック・クラプトンからローリン・ヒルまで、様々なアーティストとコラボ。特にマッチボックス・トゥウェンティのロブ・トーマスをフィーチャーしたシングル「スムーズ」が12週連続全米1位に居座り、続く「マリア・マリア」も10週連続1位を記録。アルバムはグラミー賞9部門に輝き、キャリア史上最高のセールスを記録しました。 50年を超えるキャリアを持つレジェンドとして、23年にはドキュメンタリー映画が公開され、サンタナは、今なおツアーを続けるギターの鉄人です。 サンタナのアルバム『天の守護神』 SIDE A 「風は歌い、野獣は叫ぶ」 「ブラック・マジック・ウーマン~ジプシー・クイーン」 「ぼくのリズムを聞いとくれ」 「ネシャブールのできごと」 SIDE B 「すべては終りぬ」 「マザーズ・ドーター」 「君に捧げるサンバ」 「ホープ・ユー・アー・フィーリング・ベター」 「エル・ニコヤ」 サンタナのアルバム『天の守護神』いかがでしょうか? ちなみに、サンタナには、後にジャーニーを結成するギタリストのニール・ショーンと、キーボーディストのグレッグ・ローリーが一緒に在籍した期間がありました。 https://www.santana.com/ サンタナ オフィシャルサイト
アナログレコード 1970年澁谷彰一
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ポール・マッカートニーとウィングス『バンド・オン・ザ・ラン』
【2024年6月8日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 6月はロックのゴールデン・エイジ、1970年代洋楽ロックをピック・アップします。1950年代に誕生したロックン・ロールは、1969年を境として70年代に入ると巨大産業として発展。そのスピリットは別として、黄金時代を迎えます。今回は、音楽界の世界遺産、ポール・マッカートニーとウィングスの『バンド・オン・ザ・ラン』です。 音楽ファンならずとも知らない人はいないであろう超大物、ポール・マッカートニーは、1942年6月18日ジェイムズ・ポール・マッカートニーとして、リヴァプールに生まれました。父親はバンド経験もあり、家でピアノを弾くこともありましたが、小さい頃に興味は示しませんでした。もめ事が好きではなくて少し内気な少年は、14才で母親を失った後ギターに興味を示し、その寂しさから逃れるように朝から晩まで練習に励みます。 エルヴィス・プレスリーの登場で音楽への情熱は高まり、1956年夏、運命の出会いを迎えます。教会のパーティーでギターをバンジョーのコードで弾き歌う、ジョン・レノン。二人は意気投合して、一緒に活動するようになり、クオリー・メン、ムーン・ドッグスからシルヴァ―・ビートルズへ発展。1962年ザ・ビートルズとしてメジャー・デビューすると世界制覇を果たします。 ところが67年、彼らを育て上げたマネージャーのブライアン・エプスタインが亡くなると4人の結束は揺らぎだし、それぞれが別行動をとるようになっていきます。そんなメンバーをひとつに束ねようとしたのが、もめ事嫌いのポール・マッカートニー。「もう一度原点に戻って(ゲット・バック)」との願いから、セッションしながら曲を作ってゆこうと4人を集めたのが、1969年1月に行なわれた「ゲット・バック・セッション」でした。 しかし結局ビートルズは解散、ポールは70年にソロ・アルバム『マッカートニー』を発表しますが、「ビートルズを捨てた男」としてバッシングに合ってしまいます。 71年にはポール&リンダ・マッカートニー名義で『ラム』をリリースすると、シングル曲「アンクル・アルバート~ハルセイ提督」が全米チャートで1位を獲得しました。そしてビートルズ時代から遠ざかっていたライブ活動を模索して、新バンド、ウィングスを結成。イギリス国内の大学でサプライズ・ライヴなどを始めますが、音楽経験皆無の妻を加入させたことで、関係者からは失笑を買ってしまいます。 数々の困難を乗り越え1973年にリリースしたアルバム『レッド・ローズ・スピードウェイ』から「マイ・ラヴ」が全米No.1に輝く大ヒット、ここから快進撃が始まります。続いて『バンド・オン・ザ・ラン』から、タイトル曲や「ジェット」などが次々ヒット、アルバムも全米・全英とも頂点を極め、グラミー賞を受賞しました。75年に『ヴィーナス・アンド・マース』、76年『スピード・オブ・サウンド』を全米をNo.1に送り込み、絶頂期を迎えますが、79年の『バック・トゥ・ジ・エッグ』をもってウィングスは解散。 再びソロ・アーティストとして活動しながら、現在も第一線で活躍し、ギネス世界記録で”ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家”として認定されています。 ポール・マッカートニーとウィングスのアルバム『バンド・オン・ザ・ラン』 SIDE A 「バンド・オン・ザ・ラン」 「ジェット」 「ブルーバード」 「ミセス・ヴァンデビルト」 「レット・ミー・ロール・イット」 SIDE B 「マムーニア」 「ノー・ワーズ」 「ピカソの遺言」 「西暦1985年」 ポール・マッカートニーとウィングスのアルバム『バンド・オン・ザ・ラン』いかがでしょうか?ちなみに、ミュージシャンとしてイギリス史上初のビリオネアとなったポールですが、『バンド・オン・ザ・ラン』がヒット中の1974年8月に収録されたスタジオ・ライヴ『ワン・ハンド・クラッピング』が6月14日に正式アルバムとしてリリースされるそうです。 https://www.universal-music.co.jp/the-beatles/ ビートルズ 日本オフィシャルサイト
アナログレコード 1974年澁谷彰一