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門あさ美『ファッシネイション』
【2024年9月7日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 洋楽が続いたので9月は邦楽からご紹介します。 いつまで続くのか分かりませんが、日本のシティ・ポップ・ブームで再発されるレコードが話題です。今回ご紹介するアーティスト、門あさ美もその一人。今年の春、高橋幸宏プロデュースのアルバム2枚がアナログ盤で復刻リリースされました。 今月は、シティ・ポップの文脈にあっても、少し歌謡曲の香りがするレコードを選んでみました。ジャパニーズAORとでも呼んでみましょう。その初回は、門あさ美のアルバム『ファッシネイション』です。 1955年10月17日、名古屋市生まれのシンガー・ソングライター門あさ美。そのプライベートは、あまり知られていないミステリアスなシンガーと言われています。 1975年の第9回ヤマハポピュラーソングコンテスト中部大会に「門あさ美・安藤こうじ」として出場、77年の第13回中部大会に出場後、内気な彼女をスタッフが口説いてオーディションに参加しました。数社のレコード会社から手が上がり、1979 年9月テイチクから「Fascinatoin」でデビューしました。 2ndシングル「モーニング・キッス」をリリースして1stアルバム『ファッシネイション』を発表、収録10曲のほとんどを作詞・作曲し、アレンジは鈴木茂や松任谷正隆らが手掛けました。アルバムは、当時メイン・ストリームとなっていたニューミュージックの中でも、特に洗練された「ファッション・ミュージック」のコピーをつけて売り出されました。 メディアへの露出も少なく、デビュー後はライブも行わない徹底したイメージ戦略がとられ、甘く危険な歌詞とクオリティの高い楽曲、そしてそのミステリアスな美貌から人気となります。以後順調にセールスを伸ばし、82年のアルバム『Hot Lips』では、松岡直哉プロデュースのもと、村上秀一、和田アキラなどフュージョン系のミュージシャンを迎えて洗練度を増していきます。 また83年の5枚目『PRIVATE MALE』は井上鑑プロデュースで、今剛、土方隆行などが参加、まさにジャパニーズAORなサウンドとなり、ベスト10ヒットとなりました。その後もムーンライダースとのアルバムなどリリースしますがヒットまでは至らず、効果音を使った85年の疑似ライブ・アルバム『SIMULATION』をもって東芝EMIへ移籍。 移籍後は、87年の『Anti Fleur』、88年に『La Fleur Bleue-青い花-』と高橋幸宏がプロデュース。ミュージシャンも小林武史、大村健司、小原礼、さらにストリングス・アレンジは坂本龍一という豪華サポートを得ますが10枚目のアルバムを発表後、表舞台から遠ざかってしまいました。 しかし2019年、元キャンディーズ伊藤蘭のソロ・デビュー・アルバム『My Bouquet』に楽曲を提供したことで、久々に門あさ美の名前がメディアに登場。さらに2024年にはデビュー45周年を記念して、高橋幸宏プロデュース作の2枚がリマスター&アナログ・リイシューされ、話題となりました。 門あさ美のアルバム『ファッシネイション』 SIDE A 「Morning Kiss」 「Keep on Loving」 「Stop Passing Night」 「South Shore」 「Good Luck」 SIDE B 「Fascination」 「Darling」 「Smile for Me」 「Fancy Evening」 「Blue」 門あさ美のアルバム『ファッシネイション』いかがでしょうか? ちなみに、その美貌と歌声、歌詞やサウンドで未だに人気の衰えない門あさ美。実の兄、門晃弘も八事裏山フォーク・オーケストラという伝説のバンドのメンバーとしてデビューしたことがあるのだそうです。 https://moo-095.ssl-lolipop.jp/kadoasami/index.html 門あさ美 ファンサイト
アナログレコード 1979年澁谷彰一
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稲垣潤一『246:3AM』
【2024年9月28日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 9月は、シティ・ポップの文脈にあっても、少し歌謡曲の香りがするレコードを紹介しています。ジャパニーズAORシリーズ、最後は仙台出身・稲垣潤一のデビュー・アルバム『246:3AM』です。 “歌うドラマー”ジャパニーズAORの代表的存在、稲垣潤一は、1953年7月9日、仙台市宮城野区榴ヶ岡にある洋品店の息子として生まれました。洋楽好きな両親の影響で小さい頃から音楽に親しみ、小学5年生でビートルズに出会います。はじめて買ってもらったレコードはビートルズの「ロックン・ロール・ミュージック」。 中学でバンドを結成、リンゴ・スターへの憧れから楽器はドラムを選択。初のステージは卒業式の謝恩会で、会場は学校の図書館だったそうです。高校時代はバンドに明け暮れ、卒業後いったん就職しますが、入社前日にかかってきた同級生からの電話で1日で会社を辞め、バンド・マンへの道を歩みます。 バンド・マンといってもダンスホールやキャバレー専属の、いわゆる「ハコバン」でした。そんな潤一に、仙台で有名なバンド「ロングイヤーズアフター」から声がかかります。バンドは東京に進出してキャバレーやビアガーデン、米軍キャンプなど、あらゆる場所で演奏を続けますが1年ほどで解散、19才の潤一は単身仙台へと帰ります。 仙台へ戻ってからもバンドは続け、掛け持ちをして多忙な日々を送ります。ディスコ「ビッグ・ソシュウ」で演奏するころには、女性ファンが詰めかけるまでになりました。しかし、無理がたたって体調を崩し、一時バンドを離れますが仲間のサポートで復帰。 1978年、後輩からの紹介でパブ「スコッチバンク」のハコバンに参加。一年ほどたったある日、演奏テープを聞いたというTV局のプロデューサーによってスカウトされ、再び上京して、1982年「雨のリグレット」でレコード・デビューを果たします。1stアルバム『246:3AM』は井上鑑らがアレンジを担当、今剛、林立夫といったミュージシャンが参加してジャパニーズAORとなりました。 TV出演でも、ドラムを叩きながらのヴォーカルというスタイルで注目を浴び、その年にリリースされた3rdシングル「ドラマティック・レイン」がトップ10ヒットとなります。83年には2ndアルバム『SHYLIGHTS』で日本レコード大賞 ベストアルバム賞を受賞。そしてこの年、シングル「夏のクラクション」を携え初の全国ツアーを開催しました。 84年にはファンハウスへ移籍、86年のアルバム『REALISTIC』で初のオリコン・チャート首位を獲得。以後4作連続でトップを独走し、92年のシングル「クリスマスキャロルの頃には」が、170万枚というキャリア最大のヒットとなりました。2000年代にはカヴァーやデュエット・アルバムなどをリリース、現在はユニヴァーサル・ミュージック・ジャパンに所属、様々なスタイルでライヴを続け、11月3日には全国ツアーの仙台公演が行われます。 稲垣潤一のアルバム『246:3AM』 SIDE A 「ジンで朝まで」 「バハマ・エアポート」 「海鳴りに誘われて」 「蒼い追憶」 「月曜日にはバラを」 SIDE B 「246:3AM」 「雨のリグレット」 「ハート悲しく」 「日暮山」 稲垣潤一のアルバム『246:3AM』いかがでしょうか? ちなみに、仙台出身の稲垣潤一は1983年から87年にかけて、当時FM仙台のオリジナル番組を持っていました。ご存じの方いらっしゃいますか? https://j-inagaki.net/ 稲垣潤一 オフィシャルサイト
アナログレコード 1982年澁谷彰一
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沢田研二『A WONDERFUL TIME』
【2024年12月28日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 12月は1982年にDate fmが開局したメモリアルな月という事で“Fantastic 80's”と題して、80年代初期のJ-POPをお送りしています。シリーズ最終回は、沢田研二が1982年にリリースしたアルバム『A WONDERFUL TIME』をお届けします。 1970年代の終わりから80年代にかけて、ロックと歌謡曲の融合が見られた日本の音楽シーン。その象徴的存在が沢田研二ではないでしょうか。 グループ・サウンズ「ザ・タイガース」としてデビュー、その後ソロ・シンガーとなった沢田研二は、1948年6月25日鳥取県で生まれました。京都に移り住んだ少年時代はプロ野球選手に憧れ、中学では野球部のキャプテンを務めたそうです。高校を中退してアルバイトしていたダンス喫茶で声をかけられ、音楽の世界へ。 ヴォーカリストとして、岸部一徳のバンド「ファニーズ」から声がかかり、大阪のジャズ喫茶へ進出すると次第に人気を獲得、関西を代表するグループになりました。寺内タケシとブルージーンズのヴォーカル、内田裕也の目にとまり東京へ進出。音楽番組のプロデューサーをしていた、すぎやまこういちによってザ・タイガースへと改名、渡辺プロダクション所属となり、1967年にシングル「僕のマリー」でデビューします。 2ndシングル「シーサイド・バウンド」が大ヒット、GSブームの中心となったザ・タイガースは、「モナリザの微笑」「君だけに愛を」などヒットを連発。しかし、アイドル路線をひた走る事務所とメンバー間に不協和音が生まれます。 69年にはメンバーの入れ替えによって第2期タイガースの始動となりますが、大学紛争などの社会情勢や、音楽の多様化などからグループ・サウンズ・ブームも収束。結局ザ・タイガースは71年の武道館公演をもって解散しました。 その後、沢田と岸部は、元テンプターズの萩原健一らとスーパー・グループPYGを結成。本格的なニュー・ロックを目指しますが、ロック・ファンからもGSファンからもそっぽを向かれ、71年11月、沢田研二は「君をのせて」でソロ・デビューに至ります。 73年の「危険なふたり」で初のオリコン1位を獲得、以後「時の過ぎゆくままに」「勝手にしやがれ」とヒットを放って行きます。80年代に入ると、佐野元春や大沢誉志幸などを迎えたアルバム『A WONDERFUL TIME』や、自身も作詞・作曲に取り組むなど、新たな展開をみせてきました。 またソロと並行して81年にはタイガースを一時復活、2013年に再結成ツアーも行いました。現在も歌手のみならず、俳優として映画、舞台と幅広く活躍。2023年75歳の誕生日には、さいたまスーパーアリーナでコンサートを行うなど、まだまだ現役として活動中です。 沢田研二のアルバム『A WONDERFUL TIME』 SIDE A 「おまえにチェックイン」 「PAPER DREAM」 「STOP WEDDING BELL」 「WHY OH WHY」 「A WONDERFUL TIME」 SIDE B 「WE BEGAN TO START」 「氷づめのHONEY」 「ZOKKON(ゾッコン)」 「パフューム」 「素肌に星を散りばめて」 沢田研二のアルバム『A WONDERFUL TIME』いかがでしょうか? ちなみに、このアルバムには伊藤銀次、後藤次利、そして4人目のYMOと言われた松武秀樹など多くのロック・ミュージシャンが参加、さすがはジュリーです。 http://www.co-colo.com/ ★沢田研二 オフィシャル
アナログレコード 1982年澁谷彰一
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山本達彦『マティーニ・アワー』
【2024年9月14日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 9月は、シティ・ポップの文脈にあっても、少し歌謡曲の香りがするレコードを紹介します。ジャパニーズAORとでも呼んでみましょう。今回は、 “シティ・ポップの貴公子”と呼ばれた、山本達彦のアルバム『マティーニ・アワー』です。 1954年3月4日東京生まれの山本達彦は、小学校2年生で東京少年少女合唱隊に参加。高校時代には、同級生で後にジャズ・ギタリストとなる渡辺香津美とバンドを組んで、学園祭やパーティーに出演していたそうです。成蹊大学へと進学すると1974年にオレンジというバンドを結成、TVのコンテストで優勝して、ロンドンでレコーディングした「翼のない天使」でデビューします。 しかしオレンジは成功に到らずコンテストの審査員であった、かまやつひろしのバック・バンドに参加。作家として郷ひろみなどに楽曲提供する傍ら、1978年に日本フォノグラムからソロ・デビューします。デビュー・アルバム『突風』は、近藤真彦の「ギンギラギンにさりげなく」などで売れっ子の作詞家、伊達歩こと作家の伊集院静が全10曲の歌詞を手掛け、山本が曲を担当するという贅沢な作品でした。 80年の2ndアルバム『メモリアル・レイン』では、松任谷正隆、井上鑑といったアレンジャーが参加してシティ・ポップ寄りになっていきます。さらに81年の『ポーカー・フェイス』は井上鑑アレンジの元、林立夫、今剛、松原正樹らが参加して、見事なジャパニーズAORサウンドを聴かせてくれました。 この後東芝EMIへと移籍、82年の『I LOVE YOU SO』ではNOBODYをアレンジャーに迎え、少しロック・テイストな作品となりました。そして5作目の『太陽がいっぱい』からシングル「LAST GOOD-BYE」が映画の主題歌に起用され、初のオリコン・チャート・イン。 いよいよ知名度をあげて、83年の『マティーニ・アワー』では再び井上鑑と組んで、スティーリー・ダンのエンジニアにミックスダウンを依頼するなど、サウンド志向を強めます。シングル「MY MARINE MARILYN」は、JAL沖縄のキャンペーン・ソングとしてオンエアされ、アルバムはオリコンチャート初登場2位と自己最高の記録を達成しました。 80年代はコンスタントに作品を発表、そして90年にアルファ・レコードに移籍。99年には自主レーベル「サイレンス」を発足して、作品をリリースし続けます。2018年にはレーベルの壁を越えたベスト・アルバム2枚、新作1枚、そしてDVD1枚という豪華4枚セットの40周年記念盤をリリース。2023年秋にはデビュー45周年のアニヴァーサリーLIVEを開催しました。 山本達彦のアルバム『マティーニ・アワー』 SIDE A 「MAY STORM」 「IN SUMMER DAY」 「TOO FAR AWAY」 「SUMMER HOLIDAY」 「FAREWELL,MIDNIGHT BLUE」 SIDE B 「JAZZY AGE」 「MY MARINE MARILYN」 「HIS WOMAN」 「BIRD」 「L’ECUME DES JOURS」 山本達彦のアルバム『マティーニ・アワー』いかがでしょうか?ちなみに、山本達彦は1964年、東京少年少女合唱隊のアメリカ親善公演に参加。10歳にしてあの『エド・サリバン・ショー』に出演したのだそうです。 https://www.tatsuhiko-yamamoto.jp/ 山本達彦 オフィシャルサイト
アナログレコード 1983年澁谷彰一
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山下久美子『Sophia』
【2024年5月18日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 今月は5月の空に響き渡る80年代J-ROCKをお届けしています。今回は、かつて“学園祭の女王”と呼ばれた山下久美子の『Sophia』です。 女性ロック・ヴォーカリストのパイオニア山下久美子は、1959年1月26日大分県別府生まれ。バンドマンだった父親の影響からか、歌うことが大好きで、小さい頃から人前で歌っていたそうです。中学・高校ともなると洋楽を聴くようになり、文化祭バンドをしたりしていました。 やがて博多のソウル・バンドを追いかけるようになり、高校を中退して福岡で一人暮らしをはじめます。ウェイトレスのアルバイトをしながら、ディスコで歌っているところをスカウトされ、19歳で上京。1980年「バスルームから愛をこめて」でデビューしました。 初のライヴでは30人ほどしかいなかったオーディエンスでしたが、激しいパフォーマンスが噂となり、チケットは次々とソールド・アウト。81年1月に日本青年館で初のホール・ワンマンを開催、このコンサートのアンコールで観客が一斉に立ち上がったことから“総立ちの久美子”と呼ばれるようになりました。 82年のシングル「赤道小町ドキッ」が、化粧品のキャンペーン・ソングとなり大ヒット。この時TV番組『ザ・ベストテン』で、本物のゾウに跨り登場して世間をあっと言わせました。83年のアルバム『Sophia』は初の海外レコーディングで、ヒュー・マクラッケンがプロデュース。コーラスにあのカーリー・サイモンも参加するという豪華版になりました。その後も「こっちをお向きよソフィア」や「瞳いっぱいの涙」などヒットを繰り出していきます。 85年のアルバム『BLONDE』には布袋寅泰がギターで参加、これをきっかけに二人は結婚しました。88年のBOØWY解散後、ソロ活動を始めた夫のプロデュース作『Baby alone』をもって音楽活動を休止。しかし91年には活動を再開して、女優としてもデビューしました。97年に布袋と離婚した後、2000年に双子の姉妹を授かり、シングル・マザーとなりました。 また20周年となるこの年には、佐野元春や桑田佳祐をゲストに迎えたセルフ・カヴァー・アルバム『THE HEARTS』をリリースしました。2011年から1年ほど子育て中心の生活となりますが、13年に旧知の仲である大澤誉志幸とのコラボ・アルバム『& Friends』をリリースして復活。 2015年からソロ活動も再開、19年には還暦を祝い、スイート・シックスティーンならぬ「The sweet Sixty」と題したライヴでファンを喜ばせました。また23年には初のジャズ・アルバム『Jazz"n"Kumiko』をリリース、スタンダード・ナンバーやジャズ・アレンジされたセルフ・カヴァーを聴かせてくれました。現在も、ライヴにイヴェントにと活動の幅を広げています。 山下久美子のアルバム『Sophia』 SIDE A 「ちょいまちBabyなごりのキスが」 「LOVERステッカー」 「恋する乙女」 「今夜もBad Trip」 「気持ちいいじゃないTonight」 SIDE B 「こっちをお向きよソフィア」 「I Know, You Know」 「Please Don't Go」 「Darlin' Darlin'」 「秋ラメきれないNight Movie」 山下久美子のアルバム『Sophia』いかがでしょうか? ちなみに「胸キュン」という言葉を最初に使ったのが山下久美子で、あのYMOが「君に、胸キュン。」をリリースする際には、使用許可をとりに来たそうです。 https://kumikoyamashita.com/ 山下久美子 オフィシャルサイト
アナログレコード 1983年澁谷彰一
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八神純子『思い出は美しすぎて』
【2024年9月21日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 9月は、シティ・ポップの文脈にあっても、少し歌謡曲の香りがするレコードを紹介しています。番組ではジャパニーズAORと呼んでいます。今回は、圧倒的歌唱力で人気となった八神純子のデビュー作『思い出は美しすぎて』です。 1958年1月5日名古屋で生まれ裕福な家庭で育った八神純子は、小さい頃から歌が大好きで、ピアノや日本舞踊も習っていました。高校に入るとフォークギターのサークルを作って、ヤマハのボーカルスクールへも通いました。本格的なレッスンを受けるうち、オリジナル曲も作り始めます。 生バンドで歌いたい一心で応募した、1974年の第8回ヤマハポピュラーソングコンテストで「雨の日のひとりごと」が優秀曲賞を受賞。同年、第5回世界歌謡祭にも出場し、デビュー前ながら「雨の日のひとりごと」をリリースしました。翌年もポプコン、そして世界歌謡祭へと出場して賞を獲得すると、1976年、高校3年生にして第17回チリ音楽祭に参加、初の海外経験ながら入賞という栄光を得ました。 高校卒業後は音楽の世界へ進み、デビュー前にしてラジオのレギュラーを務め、1978年20歳の誕生日にシングル「思い出は美しすぎて」でプロ・デビューを果たします。半年後にリリースされた同タイトルの1stアルバムは、オリコンチャート5位のヒットとなりました。次のシングルでは少し低迷しますが、続く「みずいろの雨」がオリコン2位、60万枚の大ヒット。 勢いづいた彼女は79年の2ndアルバム『素顔の私』でとうとうチャートの頂点に昇りつめ、「想い出のスクリーン」「ポーラスター」といったシングル・ヒットも生まれました。80年に一時ロサンゼルスに渡り、帰国後に発表した「パープルタウン」で再びオリコン2位を獲得。この年の『第31回NHK紅白歌合戦』に初出場し、パフォーマンスを披露しました。 その後もCMタイアップなどで立て続けにヒットを飛ばし、83年には全曲英語のアルバムをリリース。海外へのあこがれを強めて古巣ヤマハからアルファ・ムーンへと移籍。1987年、イギリス人の音楽プロデューサーとの結婚を機に、アメリカ・ロサンゼルスへ移住。90年からは毎年帰国コンサートを開催し、地元ロサンゼルスでもライヴを行いました。 しかし子どもが学校へ通うようになると、子育てのため一時音楽活動から離れていました。それもひと段落した2010年、NHKの「SONGS」に出演すると、反響が大きく日本での音楽活動を再開。ところが、そんな折東日本大震災が発生、ボランティアやライヴ活動を通して被災地支援を行い、13年には東北被災地支援チャリティー・シングル「翼」を発表しました。 2015年からは全国各地を巡って歌を届けるツアー「あなたの街へ」をスタート、今でも「キミの街へ」として続いています。2022年には日本人として初めて、アメリカ「女性ソングライターの殿堂」入りを果たし、現在もアメリカと日本を行き来しながら、ライヴを中心に音楽活動を続けています。 八神純子のアルバム『思い出は美しすぎて』 SIDE A 「雨の日のひとりごと」 「時の流れに」 「思い出の部屋より」 「思い出は美しすぎて」 「追慕」 SIDE B 「気まぐれでいいのに」 「せいたかあわだち草」 「窓辺」 「もう忘れましょう」 「さよならの言葉」 八神純子のアルバム『思い出は美しすぎて』いかがでしょうか? ちなみに、彼女の初期のトレードマーク、首から下げたサンバ・ホイッスル。「思い出は美しすぎて」のレコーディングで吹いたのは、実は体育の先生が使う普通のホイッスルなのだそうです。 https://junkoyagami.com/s/yj/ 八神純子 オフィシャルサイト
アナログレコード 1978年澁谷彰一
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佐野元春『BACK TO THE STREET』
【2024年5月25日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 今月は5月の空に響き渡る80年代J-ROCKをお届けして来ました。その最終回は、80年代の扉を開けた佐野元春のデビュー・アルバム『BACK TO THE STREET』です。 70年代の終わりにメインストリームとなっていたニュー・ミュージック。そんな時代に新しいロックを提示したのが佐野元春ではないでしょうか?それまでのロックと比べてスタイリッシュで、ポップな感覚を持ち合わせたロック。 1980年にデビューした佐野元春は、1956年3月13日東京・神田生まれ。家にはステレオがあって、常に音楽が流れているような家庭で育ちます。特に母親は音楽が好きで、レコード喫茶を営んでいたほどでした。 中学生になると音楽に熱中、ギターばかりかピアノまでも独学で覚えてしまいました。早くもソングライティングに興味を持ち、ヘルマン・ヘッセの詩に曲を付けたのが最初だそうです。高校に入るとバンドを組んで、オリジナル曲を作っては披露する日々を送ります。 その頃ラジオでボブ・ディランに出会い、詩に興味をもってビートニク作家たちに影響を受けます。そしてこの時点ですでに「情けない週末」という、後にレコード化される曲も書いていました。その頃「バックレイン元春セクション」というバンドを率いてコンテストにも出場しますが、デビューまでには至りませんでした。 大学卒業後は広告制作会社に就職、ラジオ番組の制作をしていましたが、曲は作りためていました。仕事でアメリカのFM局を取材中に現在の自分に疑問を抱き、帰国して番組を仕上げると退社。その頃デモ・テープを聴いた何社かのレコード会社からオファーがあり、設立されたばかりのEPICソニーから、1980年シングル「アンジェリーナ」でデビューします。 『元春レイディオショー』のラジオDJとしてコアなファンはついていたものの、2ndアルバム『Heart Beat』も不発で、ブレイクには至りませんでした。82年、不退転の覚悟でリリースした3枚目のアルバム『SOMEDAY』がようやくヒット。 商業的成功を手にしながら、単身ニューヨークに渡り制作したアルバム『VISITORS』では、いち早くHIPHOPを取り入れ、日本の音楽シーンに衝撃を与えました。また86年には、UKシーンを意識したアルバム『Café Bohemia』をリリース。92 年の『Sweet16』では日本レコード大賞最優秀アルバム賞を受賞しました。 95年に新しくホーボー・キング・バンドを伴って『FRUITS』を発表、10年間活動を共にします。また2004年にはアーティスト主体のレーベル「Daisy Music」を設立。続いて若手ミュージシャンによるコヨーテ・バンドとレコーディングに入り、2007年にアルバム『COYOTE』をリリースしました。現在もこのコヨーテ・バンドと共に、足を止めることなく第一線を走り続けています。 佐野元春のデビュー・アルバム『BACK TO THE STREET』 SIDE A 「夜のスウィンガー」 「ビートでジャンプ」 「情けない週末」 「Please Don't Tell Me A Lie」 「グッドタイムス&バッドタイムス」 SIDE B 「アンジェリーナ」 「さよならベイブ」 「バッド・ガール」 「Back To The Street」 「Do What You Like(勝手にしなよ)」 佐野元春のデビュー・アルバム『BACK TO THE STREET』いかがでしょうか? ちなみに佐野元春の誕生日、1956年3月13日。その日はエルビス・プレスリーがRCAレコードから最初のアルバムをリリースした日で、プレスリー・ファンだった彼の母は、この偶然をとても喜んでいたそうです。 https://www.moto.co.jp/ 佐野元春 オフィシャルサイト
アナログレコード 1980年澁谷彰一
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中村あゆみ『Be True』
【2024年5月4日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 今月は5月の空に響き渡る80年代J-ROCKをお届けします。まず最初にお送りするのは、パワフルな女性シンガー中村あゆみの『Be True』です。 「翼の折れたエンジェル」で一気にブレイクした中村あゆみですが、そこに至るまでは並々ならぬストーリーが隠されていました。 1966年6月28日大阪で生まれた中村あゆみ。3歳の時に両親が離婚して父親と暮らしていました。ところが父親が再婚すると居場所を失い、高校進学を機に大阪から福岡の母のもとへ移ります。高級クラブのママだった実母は、娘に店を継がせるか歌手にしたいと考えていたそうです。そんな母は、たまたま知り合いだった作曲家の平尾昌晃に相談して、娘を預けることにしました。 16歳で高校を中退して上京、六本木の平尾邸で住み込み生活を始めたものの、しっくりいかずに一人暮らしを始めます。お金も愛情もあった母のパートナーでしたが、このタイミングで会社が倒産、彼女への仕送りも途絶えてしまいました。そこで定時制高校に通いながらアルバイトを始め、赤坂の貴金属店で働きだすと事態は好転。 母のお客様を頼って奥様方へ宝石類を販売、すると、あっという間にトップセールスに。貯金も増え、高校には毛皮とハイヒール姿で登校、放課後は六本木に繰り出すというような日々。時代はバブル期真っ最中で、不自由のない暮しぶりでしたが、ここで再び悲劇が訪れます。 ある日アパートに帰ると枕の上に足跡があり、生活費として置いていた現金がなくなっていたのです。怖くなって、少し前に知り合った音楽関係者に連絡、指定されたスナックで落ち合いました。するとそこに、THE ALFEEの「メリーアン」をきっかけに、売れっ子作家となっていた高橋研が来店。中村あゆみの歌を聴いて『ぜひプロデュースを』と名乗り出てくれました。 コンプレックスだったハスキー・ヴォイスにも自信を持てるようになり、生まれたばかりのハミングバード・レコードから1984年「Midnight Kids」でデビュー。しかし1年目はなかなか売れず、立ち止まりそうになった時、『あなたは売れるから大丈夫。一生歌いなさい』と母に背中を押され、ライヴ活動に励みます。 85年、3枚目のシングル「翼の折れたエンジェル」がカップヌードルのCMに採用されると大ヒット。以後快進撃が続きますが、87年の「Rolling Age」をもって高橋とのコンビは解消。その後、結婚、離婚、再婚を経験して99年の出産を機に活動休止。 しかしシングルマザーとなって再び歌い始め、コロナ禍で『ママたちを元気に』との想いからママ・アーティストたちの音楽祭「ママホリ」を立ち上げるなど、プロデューサーとしても活動。2024年9月にはデビュー40周年を迎えます。 中村あゆみのアルバム『Be True』 SIDE A 「Drive All Night」 「翼の折れたエンジェル」 「街は毎日バースデイ」 「ガール・フレンド」 「Be True」 SIDE B 「夜明けのタップダンス」 「Dear」 「やせっぽちのジョニーE.」 「ミス・ユーモア抱きしめて」 「孤独のスパークナイト」 中村あゆみのアルバム『Be True』いかがでしょうか? ちなみに1985年8月31日に、日比谷野外音楽堂でREBECCAとジョイントライブをしたことをきっかけに毎年8月31日は「AYUMIDAY」として、以後10年間スペシャル・ライヴを開催していました。 https://ayumi-nakamura.com/ 中村あゆみ オフィシャルサイト
アナログレコード 1985年澁谷彰一
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ラッツ&スター『ソウル・バケイション』
【2024年12月14日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 12月は1982年にDate fmが開局したメモリアルな月という事で“Fantastic 80's”と題して、80年代初期のJ-POPをお送りしています。今回は、鈴木雅之率いるラッツ&スターのアルバム『ソウル・バケイション』をお届けします。 “ラブソングの王様”マーチンこと鈴木雅之は、1956年9月22日東京都大田区に生まれました。実家は町工場で、姉が聴いていたラジオから流れるポップスやR&Bに影響を受けました。幼少の頃は、海苔漁師だった祖父の船で、のり巻きをマイク代わりに歌っていたそうです。 中学に入るとフォーク・ギターで歌い始め、岡林信康やガロのコピーをしていました。中学2年で音楽室を借りて開催したコンサートが、パフォーマーとしての原点。その頃ラジオで聴いた、つのだ☆ひろ の「メリー・ジェーン」に衝撃を受け、そのルーツを求めて洋楽を聴き漁り、レコード店巡りをしていました。 高校時代はローリング・ストーンズやグランド・ファンク・レイルロードなど、ブルージーなロックをカヴァー。つのだ☆ひろの影響でドラム&ヴォーカルを担当しました。一方でディスコに出入りするようになると、チーク・タイムで「メリー・ジェーン」に再会、バラードの魅力に取りつかれつつ、ソウルやファンク、R&Bを吸収していきます。 1975年に同級生の田代まさし、中学時代の同級生佐藤善雄、久保木博之らとシャネルズを結成。当時キャロルのコピー・バンドが横行する中で、他と違ったことがしたいと、映画「ウッドストック」で見たバンドSha Na Naの影響で、ドゥーワップやR&Bを演奏していました。その頃TV出演も経験し、自信満々で出場したバンド・コンテスト『EastWest'77』では、決勝まで進出しますが惜しくも優勝を逃してしまいます。 しかし父親に励まされて一念発起、ステージでのインパクトを求めて“黒塗り”スタイルを確立。再び挑んだ『EastWest』のステージを見ていたEPICソニー創設スタッフから声がかかり、定期ライヴで腕を磨いた後、シャネルズは1980年「ランナウェイ」でメジャー・デビューを果たします。これがいきなりオリコンチャート1位となると、日本でドゥ・ワップ・ブームを巻き起こしました。 飛ぶ鳥をも落とす勢いのシャネルズでしたが、メンバーが問題を起こし一旦活動休止。83年にグループ名をラッツ&スターに改め、デビュー曲「め組のひと」は80万枚を売り上げました。そしてこの年、アマチュア時代から親交があり敬愛する大瀧詠一をプロデューサーに迎え、アンディー・ウォーホルがジャケット・デザインを手掛けた『ソウル・バケイション』をリリースしました。 85年以降はグループとしての活動は少なくなり、86年に鈴木雅之はソロ・デビュー。87年に姉の鈴木聖美とリリースしたデュエット曲「ロンリーチャップリン」が大ヒット。再集結した96年以降は、ラッツ&スターとしてのリリースはありませんが、ソロ・アーティスト鈴木雅之は、今でも“ラブソングの王様”として君臨し続けています。 ラッツ&スターのアルバム『ソウル・バケイション』 SIDE A 「We are RATS & STAR」 「楽しき街角」 「今夜はフィジカル」 「裏切りの都会(まち)」 「One Dream Night」 「星空のサーカス」 SIDE B 「Tシャツに口紅」 「真夜中のダイヤモンド」 「女って・・・」 「月へはせる想い」 「Miss You」 ラッツ&スターのアルバム『ソウル・バケイション』いかがでしょうか? ちなみに、シャネルズが惜しくも優勝を逃した77年のコンテスト『EastWest'77』には、サザンオールスターズやカシオペアも出演、残念ながら両者とも優勝は逃しています。 https://www.martin.jp/ ★鈴木雅之 オフィシャルサイト
アナログレコード 1983年澁谷彰一
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ミッシェル・ポルナレフ『愛と青春のトルバドゥール』
【2024年1月6日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 1月は「新春フレンチ・カルナヴァル」華やかなフランスの音楽を紹介します。初回は、フランスのスーパースター、ミッシェル・ポルナレフの『愛と青春のトルバドゥール』です。 中世の吟遊詩人をルーツに持つシャンソンは、広く「歌」の意味だそうです。 それでは、“新春シャンソン・ショー”さっそくスタートしましょう。 エディット・ピアフやイヴ・モンタンにも曲を書いていた音楽家を父に持つミッシェル・ポルナレフは、1944年7月3日、両親が疎開していた南フランスの田舎町に生まれました。幼少期からピアノなどの英才教育を受け、パリの中学では合唱隊にも参加。初めてシャンソンを作ったのは13才、パリの国立音楽院でも優秀な成績を収めていました。コンサート・ピアニストとしての将来が期待されながらジャズやロックン・ロールに興味は移り、20才で兵役に就くと人生は大きく変化します。 退役後、職業を転々とするミッシェルは、親との亀裂が深まりギターを手に家出してしまいます。モンマルトルの丘にあるサクレール寺院の階段で歌いはじめると、自由と引き換えに空腹が彼を襲い、物乞いをして警察の世話になることもあったそうです。やがてはフランス中をさまよい歩き、カフェなどで歌って食事にありつけるような生活を続けます。フランスだけでは飽き足らず、ヨーロッパ中でボヘミアンをしながら曲を作りためていきました。 プレスリーやポール・アンカがアイドルだったミッシェルは、英語でデビューすることを考え渡英。しかし想像とのギャップに失望して再びパリへ戻りますが、その船で出会いがありました。ミッシェルの歌を気に入ってくれた人物の紹介で、パリでレコーディングが出来ることになり、1966年「ノンノン人形」でレコード・デビュー。これが大ヒットして、ヨーロッパはじめ日本でもリリースが決定。この年の秋には1stアルバム『愛と青春のトルバドゥール』を発表して、スターダムに上り詰めました。 68年にはあのレイモン・ルフェーブル・オーケストラが「バラ色の心」をカバーして全米で大ヒット。最初は若者が飛びついて爆発的な人気となったポルナレフも、次第に音楽の幅を広め、70年にはオランピア劇場でのリサイタルを行うほどのスーパースターとなりました。71年、日本で「シェリーに口づけ」が40万枚を超える大ヒットとなり、翌年初来日。73年に再びオランピア劇場で3週間に渡る公演を行った後、アメリカ・デビューを目指して渡米。 ロスエンジェルスに移ってからは映画音楽を手掛けるなど活動は続けますが、大きな成功を手にすることはありませんでした。80年代はシーンから遠ざかりますが、97年にライヴ・アルバムとニュー・シングルを発表。さらに2018年には28年ぶりとなるスタジオ・アルバムを、2023年には新ライヴ・アルバムをリリースしました。 ミッシェル・ポルナレフのアルバム『愛と青春のトルバドゥール』 SIDE A 「愛の願い」 「人生は星の流れ」 「愛の証しを」 「恋人に捧ぐバラッド」 「夜の鳥と一緒に」 SIDE B 「シェリーに口づけ」 「初めての愛」 「青春に捧ぐバラッド」 「僕の心にいつまでも」 「君との愛がすべて」 「ノン・ノン人形」 ミッシェル・ポルナレフのアルバム『愛と青春のトルバドゥール』いかがでしょうか? ちなみに、ミッシェル・ポルナレフはフランスのレコードで初めて、卑猥とされるフォー・レター・ワーズを使ったため、それがセンセーショナルな話題となり、かえって彼の人気を爆発させたそうです。 https://www.polnaweb.com/ ミッシェル・ポルナレフオフィシャル・サイト
アナログレコード 1966年澁谷彰一
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マイケル・シェンカー・グループ『神(帰ってきたフライング・アロウ)』
【2025年1月4日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 今年も様々なジャンルのレコードを紹介していこうと思います。今年は巳年ということで、復活と再生の象徴、蛇にちなんで1月は「ヘヴィなロック」をお届けします。 初回は、お正月に相応しく“神”と呼ばれるギタリスト、マイケル・シェンカーが1980年に発表した、マイケル・シェンカー・グループのアルバム『神(帰ってきたフライング・アロウ)』をご紹介します。 マイケル・シェンカーことミヒャエル・シェンカーは、1955年1月10日西ドイツ生まれ。父はヴァイオリン、母はピアノをたしなむ音楽好きな一家に育ち、自然と音楽と触れ合って来ました。特に7才年上の兄ルドルフの影響は強く、エルヴィス・プレスリーはじめ、シャドウズのようなインスト・バンド、ビートルズやストーンズも聴くようになります。 サッカー選手を夢見ていたミヒャエルでしたが、兄が誕生日にもらったギターに興味を奪われます。その兄が、小学生のミヒャエルにシャドウズが入ったテープをプレゼントすると、その日のうちにギターでメロディをなぞることが出来てしまったそうです。 兄ルドルフがスコーピオンズというバンドを結成すると、ミヒャエルもバンドに興味を持ち始め、11歳でステージ・デビュー。その後いくつかのバンドで活動中、スコーピオンズのヴォーカルとギターが脱退。兄の招きで、ヴォーカルのクラウス・マイネと共に加入、ミヒャエルは17歳でした。 スコーピオンズは1972年にデビュー、ミヒャエルのギターをウリにしていましたが、交流のあったイギリスのバンドUFOのギタリストに抜擢され、イギリスに渡ります。新体制となったUFOは、レーベルを移籍して74年にアルバム『現象』をリリース。マイケルは「ドクター・ドクター」などの名曲を生み出していきますが、78年にUFOを脱退、一時スコーピオンズに復帰したものの結局こちらも辞めてしまいます。 79年にはマイケル・シェンカー・グループを立ち上げ、80年にアルバム『神』をリリース。大きな期待を背負っての復活でしたが、メンバーが激しく入れ替わり自然消滅してしまいます。86年にヴォーカリストのロビン・マッコリ―とマッコリ―・シェンカー・グループを結成、拠点をアメリカに移して活動を続けますが、メンバーの出入りが続き、92年に解散しました。 その後マイケルは黄金期メンバーによるUFO再結成に参加、しかし意見の対立で再び空中分解。96年にマイケル・シェンカー・グループが再編されますが、その後もマイケルはUFOと行ったり来たり。2000年代もそれは変わらず、マイケル・シェンカー・グループもメンバー・チェンジが続きます。 2006年には25周年記念のアルバム『テイルズ・オブ・ロックン・ロール』をリリース、16年には歴代メンバーを集めて「マイケル・シェンカー・フェスト」を立ち上げました。このスタイルは様々な場所で開催され、スタジオ・アルバムもリリース。現在もロビン・マッコリ―と共にマイケル・シェンカー・グループを続けています。 マイケル・シェンカー・グループのアルバム『神(帰ってきたフライング・アロウ)』 SIDE A 「アームド・アンド・レディー」 「クライ・フォー・ザ・ネーションズ」 「ヴィクティム・オブ・イリュージョン」 「ビジョ―・プレジュレット」 「フィールズ・ライク・ア・グッド・シング」 SIDE B 「イントゥ・ジ・アリーナ」 「ルッキン・アウト・フロム・ノーホェア」 「テイルズ・オブ・ミステリー」 「ロスト・ホライズンズ」 マイケル・シェンカー・グループのアルバム『神』いかがでしょうか? ちなみに、マイケル・シェンカーのトレードマーク、ギブソンのフライングVというギター。ライヴ直前、自分のギターを別れた彼女の家に置いてきたため、兄ルドルフのギターを借りたところ非常に気に入ったので、そのまま譲り受けたのだそうです。 https://michaelschenkerhimself.com/ ★マイケル・シェンカー オフィシャル
アナログレコード 1980年澁谷彰一
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ポール・マッカートニーとウィングス『バンド・オン・ザ・ラン』
【2024年6月8日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 6月はロックのゴールデン・エイジ、1970年代洋楽ロックをピック・アップします。1950年代に誕生したロックン・ロールは、1969年を境として70年代に入ると巨大産業として発展。そのスピリットは別として、黄金時代を迎えます。今回は、音楽界の世界遺産、ポール・マッカートニーとウィングスの『バンド・オン・ザ・ラン』です。 音楽ファンならずとも知らない人はいないであろう超大物、ポール・マッカートニーは、1942年6月18日ジェイムズ・ポール・マッカートニーとして、リヴァプールに生まれました。父親はバンド経験もあり、家でピアノを弾くこともありましたが、小さい頃に興味は示しませんでした。もめ事が好きではなくて少し内気な少年は、14才で母親を失った後ギターに興味を示し、その寂しさから逃れるように朝から晩まで練習に励みます。 エルヴィス・プレスリーの登場で音楽への情熱は高まり、1956年夏、運命の出会いを迎えます。教会のパーティーでギターをバンジョーのコードで弾き歌う、ジョン・レノン。二人は意気投合して、一緒に活動するようになり、クオリー・メン、ムーン・ドッグスからシルヴァ―・ビートルズへ発展。1962年ザ・ビートルズとしてメジャー・デビューすると世界制覇を果たします。 ところが67年、彼らを育て上げたマネージャーのブライアン・エプスタインが亡くなると4人の結束は揺らぎだし、それぞれが別行動をとるようになっていきます。そんなメンバーをひとつに束ねようとしたのが、もめ事嫌いのポール・マッカートニー。「もう一度原点に戻って(ゲット・バック)」との願いから、セッションしながら曲を作ってゆこうと4人を集めたのが、1969年1月に行なわれた「ゲット・バック・セッション」でした。 しかし結局ビートルズは解散、ポールは70年にソロ・アルバム『マッカートニー』を発表しますが、「ビートルズを捨てた男」としてバッシングに合ってしまいます。 71年にはポール&リンダ・マッカートニー名義で『ラム』をリリースすると、シングル曲「アンクル・アルバート~ハルセイ提督」が全米チャートで1位を獲得しました。そしてビートルズ時代から遠ざかっていたライブ活動を模索して、新バンド、ウィングスを結成。イギリス国内の大学でサプライズ・ライヴなどを始めますが、音楽経験皆無の妻を加入させたことで、関係者からは失笑を買ってしまいます。 数々の困難を乗り越え1973年にリリースしたアルバム『レッド・ローズ・スピードウェイ』から「マイ・ラヴ」が全米No.1に輝く大ヒット、ここから快進撃が始まります。続いて『バンド・オン・ザ・ラン』から、タイトル曲や「ジェット」などが次々ヒット、アルバムも全米・全英とも頂点を極め、グラミー賞を受賞しました。75年に『ヴィーナス・アンド・マース』、76年『スピード・オブ・サウンド』を全米をNo.1に送り込み、絶頂期を迎えますが、79年の『バック・トゥ・ジ・エッグ』をもってウィングスは解散。 再びソロ・アーティストとして活動しながら、現在も第一線で活躍し、ギネス世界記録で”ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家”として認定されています。 ポール・マッカートニーとウィングスのアルバム『バンド・オン・ザ・ラン』 SIDE A 「バンド・オン・ザ・ラン」 「ジェット」 「ブルーバード」 「ミセス・ヴァンデビルト」 「レット・ミー・ロール・イット」 SIDE B 「マムーニア」 「ノー・ワーズ」 「ピカソの遺言」 「西暦1985年」 ポール・マッカートニーとウィングスのアルバム『バンド・オン・ザ・ラン』いかがでしょうか?ちなみに、ミュージシャンとしてイギリス史上初のビリオネアとなったポールですが、『バンド・オン・ザ・ラン』がヒット中の1974年8月に収録されたスタジオ・ライヴ『ワン・ハンド・クラッピング』が6月14日に正式アルバムとしてリリースされるそうです。 https://www.universal-music.co.jp/the-beatles/ ビートルズ 日本オフィシャルサイト
アナログレコード 1974年澁谷彰一
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ポール・デイヴィス『クール・ナイト』
アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 10月に入りました。今月も“秋のAORまつり”を継続します。 皆さんは『なんとなく、クリスタル』という小説をご存じでしょうか?1980年、田中康夫のデビュー作で映画化もされ、当時は大変なブームとなりました。そのテーマ曲として使われたのが、ポール・デイヴィスの「アイ・ゴー・クレイジー」でした。今回はそんなクリスタル族も喜ぶポール・デイヴィスの『クール・ナイト』をご紹介します。 ポール・デイヴィスは、1948年4月21日ミシシッピ州東部の都市メリディアンに生まれました。父が牧師だったため、5歳から聖歌隊で歌い始め、小学生になるとピアノも習いました。一時期一家は音楽の都ナッシュビルへと移って、ポールは大いに刺激を受けました。 その後メリディアンへ戻り、ハイスクールではバンド活動を経験。卒業後は地元のバンドで腕を磨き、ジャクソンにできた新しいスタジオの門をたたきます。そこでセッション・ミュージシャンとして働く傍ら、自身のレコーディングも始めると、これが、アトランタのバング・レコードの社長の耳に入ります。 ポールは1969年バング・レコードと契約、ニューヨークでの修行を経て1970年に「悲しきソープ」でレコード・デビューを果たします。前社長を亡くし、ニール・ダイアモンドらが去ってしまったレーベルを立て直そうと、新社長のイレーネ・バーンズはポールをその後釜にと考えました。シングルは全米52位と、まずまずの滑り出しとなりました。 しかしこの後はあまり成果を上げることが出来ず、1974年、カントリー色を強めた3rdアルバム『ライド・エム・カウボーイ』から、タイトル曲が全米23位と初のTOP40ヒットとなりました。続いて76年の「スーパースター」が35位、77年の「アイ・ゴー・クレイジー」が全米7位の大ヒット。この作品は78年にかけて40週チャートに居座るという自身最大のヒットとなりました。 80年の6枚目『パステル・メッセージ』から、タイトル曲がようやく日本でもヒット。そこに『なんとなく、クリスタル』主題歌で「アイ・ゴー・クレイジー」が話題となり、前作『アイ・ゴー・クレイジー』も国内盤がリリースされることになりました。 その後、アリスタに移籍して発表したアルバム『クール・ナイト』から、タイトル曲が82年に全米チャート11位、アダルト・コンテンポラリー・チャート2位のヒット。アルバムからは他にも自己最高位6位となった「‘65・ラヴ・アフェイア―」などヒットを出しますが、これ以降リリースはなく、半ば引退状態が続きました。 そして2008年4月22日、60歳のバースデイの翌日に倒れ、星となってしまいました。しかも20年ぶりとなる新曲のリリースに向けて準備していたそうです。 ポール・デイヴィスのアルバム『クール・ナイト』 SIDE A 「クール・ナイト」 「愛にマジック・タッチ」 「想い出という名のふたり」 「ナサン・ジョーンズ」 「忘れ得ぬ魅惑のオリエンタル・アイズ」 SIDE B 「‘65・ラヴ・アフェイア―」 「誰かがあなたを…」 「ラブ・オア・レット・ミー・ビー・ロンリー」 「ゴット・トゥ・セイ・アバウト・ラブ」 「スティル・トゥギャザー」 ポール・デイヴィスのアルバム『クール・ナイト』いかがでしょうか? ちなみに、ポールの父親は一か所に留まることが不得意で何度も引っ越したため、ナッシュビル時代に音楽的刺激を受けたのが、彼にとっての大きなチャンスとなりました。 https://www.sonymusic.co.jp/artist/PAULDAVIS/ ソニーミュージック オフィシャルサイト
アナログレコード 1981年澁谷彰一
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ボブ・ジェイムス『ヘッズ』
【2024年3月16日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 3月は毎年インストを中心とした音楽を紹介してきましたが、今年はフュージョンを特集しています。“More than Words”今回はジャズピアニストでプロデューサー、ボブ・ジェイムスの『ヘッズ』です。 70年代後半から80年代にかけて流行した、ジャズやソウル、ファンクなどを融合した“クロスオーヴァー・サウンド”。それはやがてフュージョンと呼ばれるようになりました。 数々のグラミー賞に輝くジャズ~フュージョン界のピアニスト、ボブ・ジェームスは、1939年12月25日ミズーリ州カンザスシティとコロンビアの間にあるマーシャルに生まれました。4歳からピアノを始め、英才教育を受けながら地元のイヴェントなどで伴奏の仕事をしていたようです。進学先のミシガン大学からバークリー音楽大学へと移り、1962年に出たジャズ・コンテストで優勝。クインシー・ジョーンズの推薦で、63年にアルバム『ボールド・コンセプション』をリリースしました。 大学卒業後は、メイナード・ファーガソンのバンド・メンバーとしてプロ・デビュー。サラ・ヴォーンはじめ、クインシー・ジョーンズ、ロバータ・フラックらの編曲を手掛け、その実力が認められて、73年にCTIレコードと契約。そこで編曲と演奏を手掛けた、グローヴァー・ワシントンJr.の曲でグラミー賞にノミネート、74年にリリースしたソロ・アルバム『ワン~はげ山の一夜』でもノミネートされました。 さらには、CTIに籍を置いたままCBSとプロデューサー契約を結び、タッパン・ジー・オフィスを設立。そこで、メイナード・ファーガソン、エリック・ゲイル、そしてケニー・ロギンスらの作品を手掛け、77年にはCBS内に自身のレーベル、タッパン・ジー・レコードを設立して『ヘッズ』を発表しました。アルバムでは、ボズ・スキャッグスやピーター・フランプトンのヒット曲も取り上げ、まさにクロスオーヴァーなサウンドを聴かせています。 79年にリリースした、アール・クルーとのコラボ・アルバム『ワン・オン・ワン』でグラミーに輝き、フュージョンやアダルト・コンテンポラリー界をリードしていきますが、81年にオフィスを閉鎖。85年にはワーナー・ブラザーズに移籍、翌年デイヴィッド・サンボーンとの作品『ダブル・ヴィジョン』をリリースすると、再びグラミー賞を受賞しました。 90年の『グランド・ピアノ・キャニオン』のレコーディングでセッションしたメンバー、リー・リトナー、ネイザン・イースト、ハーヴィー・メイソンと意気投合し、フォープレイを結成。フォープレイはメンバーを入れ替えながら現在も活動を続け、ソロ名義でも、前作から10年ぶりとなる2023年に、新作『ジャズ・ハンズ』をリリースしました。 ボブ・ジェイムスのアルバム『ヘッズ』 SIDE A 「ヘッズ」 「二人だけ」 「アイム・イン・ユー」 SIDE B 「ナイト・クローラー」 「ユー・アー・ソー・ビューティフル」 「ワン・ラヴィング・ナイト」 ボブ・ジェイムスのアルバム『ヘッズ』いかがでしょうか? ちなみに、フュージョン界の二大アレンジャーとして、ボブ・ジェイムスと共にあげられるのはデイヴ・グルーシン。こちらは1976年GRPレコードを立ち上げ、今でも現役で活動中です。 https://bobjames.com/ ボブ・ジェイムス オフィシャルサイト
アナログレコード 1977年澁谷彰一
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ボブ・シーガー『奔馬の如く』
【2024年11月2日ON AIR】 アナログ音源専門プログラム「33rpm」。 11月は、普段あまり放送されないような渋めのラインナップでお送りします。題して“渋ロック”、1回目はボブ・シーガーの作品から、1980年ボブ・シーガー&ザ・シルバー・ブレット・バンドがリリースした『奔馬の如く』です。 本名ロバート・クラーク・シーガーは、1945年5月6日、デトロイト近くに生まれました。フォード・モーターに努める父親は、休日にバンドを率いて活動するアマチュア・ミュージシャン。当然ロバートは音楽に触れる機会が多く、小中学時代はラジオで聞くR&Bに夢中でした。 ハイスクール時代は3ピースのバンドで活動しますが、卒業と同時に解散。その後地元のバンドに加入して、ひたすらライヴを行い一晩に5か所で演奏することもあったそうです。65年には自身のバンド、ザ・ビーチバムズを結成、翌年レコードもリリースしました。しかし程なく解散して、新しいバンド、ザ・ラスト・ハードを結成、地元で5万枚を売るヒットを出しますが、レーベルが倒産して全米進出の夢は絶たれてしまいます。 新バンド、ボブ・シーガー・システムは、67年にキャピトルと契約して翌年メジャー・デビュー。68年の2ndシングル「ランブリン・ギャンブリン・マン」がビルボード17位のヒットとなります。翌年リリースした同タイトルのデビュー・アルバムも62位にランクされました。順調なデビューでしたが、その後は100位前後を行ったり来たりで、ヒットには恵まれませんでした。 1971年キャピトルを離れ、自身のレーベルを立ち上げ活動を開始。様々な音楽性を試しては見たものの、なかなか陽の目を見ることは出来ませんでした。結局シルバー・ブレット・バンドを引き連れ、75年にキャピトルへ復帰しました。復帰第1弾のアルバム『美しき旅立ち』はデトロイトでは1位となりますが、全米では131位。 年間200本以上のライヴをこなす彼らを救ったのは、ライヴ・アルバムでした。2日で2万4千人を動員した、デトロイトでのコンサートを収録したアルバム『ライブ・ブレット』がヒットして、プラチナ・ディスクを獲得。続いて76年の『炎の叫び』からシングル「ナイト・ムームーヴス」が全米4位の大ヒット。苦節10年、78年の『見知らぬ街』からは4枚のシングル・ヒットを繰り出し、80年の12枚目のアルバム『奔馬の如く』でとうとう全米1位に輝き、6週間首位をキープしました。 その後も質の高い作品をリリースし続けますが、一時家族のため音楽活動を休止。しかし2006年には11年ぶりとなるアルバムをリリースして活動再開、2004年にロックの殿堂入り、12年ソングライターの殿堂入りを果たしました。2018年から19年にかけてフェアウェル・ツアーを行った後、20年に長年のバンド・メイト、アルト・リードを病気で失い、ライヴからの引退をほのめかしています。 ボブ・シーガー&ザ・シルバー・ブレット・バンドのアルバム『奔馬の如く』 SIDE A 「地平線のバップ」 「わかりあえる時」 「気取った女」 「誰もいない国」 「長い二本の平行線」 SIDE B 「アゲンスト・ザ・ウィンド」 「大切なものへ」 「ベティ・ルーは今晩お出まし」 「ファイアー・レイク」 「輝ける夜明け」 ボブ・シーガー&ザ・シルバー・ブレット・バンドのアルバム『奔馬の如く』いかがでしょうか?ちなみに、このアルバムには同郷のグレン・フライはじめ、ドン・ヘンリー、ティモシー・B・シュミットが参加、ピンク・フロイドのヒット作『ザ・ウォール』を蹴落として全米1位を勝ち取りました。 https://www.bobseger.com/ ボブ・シーガー オフィシャルサイト
アナログレコード 1980年澁谷彰一