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2005 24TH IXO RED BULL RB1 V.LIUZZI
RED BULL初年度2005年モナコGP STAR WARS 特別仕様車 V.リウッツィ ヴィタントニオ・リウッツィ イタリア出身 2005年デビュー レッドブルより4戦のみ出走 初戦のR4サンマリノで予選15位 決勝は8位入賞 デビュー戦での入賞 R6モナコGPは スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐の プロモーションを兼ねたSTAR WARS特別仕様 予選12位→決勝はリタイア デアゴスティーニの F1マシンコレクションの146号/全150号 チームメイトのD・クルーザードではなく リウッツィでのリリースはナイスチョイス #STARWARS
V.LIUZZI F1マシンコレクション 15 146FW12C
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1982 26TH CP FITTIPALDI F9 C.SERRA
チコ・セラ F1唯一のポイント フィティバルディ最後のマシンF9 チコ・セラ ブラジル出身 1979年イギリスF3でA・チェザリスと 争い5勝をあげてチャンピオンを獲得 1981年よりフィティバルディ所属 1982年は資金難でC・セラ1台体制 前年度改良型のF8Dで前半戦を出場 R5ベルギーGP 予選25位グリッドは23番手 トップから3周遅れの7位でフィニッシュも 3位のN・ラウダ(マクラーレン)が 最低重量違反で失格となり 繰り上がりで6位入賞を果たした C・セラのF1での唯一のポイント R11フランスGPからニューマシン モデル仕様のFITTIPALDI F9を投入も 6戦中3度の予選落ち 年間6度予選落ち 年間順位はこの年のポイント獲得の ドライバ―では最下位の26位 1975年エマーソン・フィッテパルディの兄 ウイルソンが設立したコパーシュカー 1980年からは・フィッテパルディとして 参戦したが1982年をもって撤退 以降現在までブラジル国籍のF1 コンストラクターチームは現れていない #F1-1982年
C.SERRA 20 1/43 FITTIPALDIFW12C
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1983 20TH CP THEODORE N183 J.CECOTTO
ジョニー・チェコット 唯一の入賞 セオドール最後のマシン N183 J・チェコットはベネズエラ出身 現在までにベネズエラ出身ドライバーは パストゥール・マルドナードと2人のみ チェコットは元々は2輪のチャンピオン 1975年当時最年少シリーズチャンピオン 1980年までに世界GPで14度の優勝 1980年以降は4輪に転向 1982年ヨーロッパF2で2位 1983年セオドールよりF1デビュー TMはロベルト・グェレロ(コロンビア) R2アメリカWEST ロングビーチGP 予選17位→混戦生き残り決勝6位 チェコットのF1での唯一の入賞 このGPの優勝はチェコットの5番下 予選22位のJ・ワトソン(マクラーレン) シャドウ エンサインを買収して 参戦を続けたセオドールも 1983年をもってF1から撤退 チェコットは翌1984年は トールマンに移籍 A・セナのチームメイトになります マニアックなモデルを発売の CP MODEL 出来栄えは…ですが 当時の雰囲気は感じることができます
J.CECOTTO 34 1/43 THEODOREFW12C
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1996 16TH ONYX ARROWS FOOTWORK HART FA17 J.VERSTAPPEN
大型スポンサーと共にアロウズへ移籍 1996年 ヨス・フェルスタッペン フェルスタッペンはベネトンとの契約を 終えて地元オランダに本社がある ヨーロッパ最大の電気メーカーであった フィリップス・カーシステムとともに ハートエンジンのアロウズに移籍する R3アルゼンチンGP予選7位→決勝6位は どちらもシーズンベスト 自身2年ぶりの入賞 シーズン序盤にトム・ウォーキンショーが率いる TWRに買収されると翌年に標準を合わせる為 1996年度の開発を止め 信頼性は悪化 フェルスタッペンはチームからの3年契約の オファーを断り翌1997年はティレルに移籍 フットワークのコンストラクター名称が入った 最後のマシンであるとともに翌年から参戦の ブリヂストンタイヤのテストも実施 フェルスタッペンは何かと日本と関わりが多い ONYXから発売の2種類のモデルは 画像1 R4ヨーロッパGP仕様(後半戦カラー) 画像2 R2ブラジルGP仕様(前半3戦カラー) 契約の関係でフェルスタッペンの名称ではなく DUTCH DRIVERの表記になっており ドライバ―ヘルメットのデカールが無い #F1-1996年 #フェルスタッペン
J.VERSTAPPEN 17 1/43 ARROWSFW12C
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1976 19TH TSM MARCH 761 V.BRAMBILLA
ヴィットリオ・ブランビラ マーチ最終3年目 MARCH 761 1976年マーチはV・ブランビラ H・J・シュトゥック のレギュラーに加えて R・ピーターソン A・メルツァリオなど 常時3~4名のドライバ―が出場していた ブランビラは前年度のPP 優勝 FL記録から 一転して1976年は不振に陥る 予選ではR14カナダGPの3位など 16戦中11戦でシングルグリッドを獲得も 決勝はR12オランダGPの6位のみに終わる ◆R16日本(富士SW)予選8位→決勝R◆ この年のマーチはドライバ―別に異なる カラーリングで出走したのが特徴 ブランビラ車は前年同様1923年設立の イタリアの工具メーカーBetaがスポンサー ブランビラは3年間在籍のマーチを離れ 翌1977年はサーティスに移籍します モデルはTRUE SCALE MINIATURES MODELで R10ドイツGP仕様(予選13位→決勝R) Betaと言えばオレンジのイメージですが このGPは白を基調としたカラーリングで出場 #1976 #F1-1976年
V.BRAMBILLA 9 1/43 MARCHFW12C
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1976 6TH+α SPARK PERNELLI VP J4B M.ANDRETTI
アメリカンチーム パーネリ F1最後のマシン PERNELLI VP J4B パーネリは1963年のインディ500勝者 パ-ネリ・ジョーンズらによって設立 F1は1974年の終盤2戦より参戦 ドライバーはM・アンドレッティ 開幕戦のブラジルGPをチームは欠場 M・アンドレッティはロータスで出場 2戦目の南アフリカGP(モデル仕様) 昨年の改良型のVP J4Bで参戦 予選13位から決勝6位入賞を果たす しかしパーネリは前年度でスポンサーの タバコブランドViceroyが撤退 R3アメリカWESTを最後にF1から撤退 F1参戦はわずか16戦のみであったが M・アンドレッティのドライビングもあり 予選最高3位 ファステストラップ1回 決勝入賞3回(4位 5位 6位)を記録している アンドレッティはR4スペインGPより 再びLOTUSに加入して1976年を戦い この後1980年まで5年間所属します #1976 #アンドレッティ #F1 #PERNELLI
M.ANDRETTI 27 1/43 PERNELLIFW12C
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1976 20TH SPARK HESKETH 308D R.STOMMELEN
ロルフ・シュトルメン ドイツ出身 オランダGP ヘスケスより参戦 1976年チームヘスケスは オーナーのヘスケス卿の資金が尽き ドライバ―のJ・ハントとデザイナーの ポスルスウェイトが移籍 マシンは前年度後半戦の308Cから 308Dとマイナーチェンジしたのみ スポンサー無しのマシンが一転して 男性向けの月刊誌ペントハウスと フランスのタバコ巻紙のリズラが付き マシンにアダルトモデルが大きく描かれた シュトルメンはヘスケスのマシンで R12オランダGPのみスポット参戦 予選25位→決勝12位完走 ブラバムでも2戦のみ参戦 R10ドイツGPでは決勝6位入賞 1ポイント獲得して年間順位20位 ◆R16日本(富士SW)は未出走◆ マイナーマシン得意のRACELAND GOLD EDITION別注シリーズの1台 #1976 #F1
R.STOMMELEN 300 25 1/43FW12C
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1995 18TH ONYX MINARDI FORD M195 P.LAMY
ペドロ・ラミー ポルトガル 自身唯一の入賞 MINARDI FORD M195 1995年シーズン前 ラミーは当初 パシフィックからの参戦予定であったが ティレルのシートを画策し交渉 結局ティレルのシートを獲得出来ない だけでなくパシフィックのオーナーの キース・ウィギンスの逆鱗に触れて パシフィックのシートも失った ラミーはR10ハンガリーより 資金難のミナルディに持参金を持ち込み P・マルティニのシートを獲得 結果的にマルティニはこれでF1引退 最終戦のR17オーストラリアGPで 予選17位から完走8台のサバイバルを 生き残り自身初の6位入賞 (7位 P・デニス フォルティ) (8位 B・ガショー パシフィック) これはラミーの生涯唯一の入賞 ポルトガル人の初の入賞でもあり ミナルディの25戦ぶりの 1995年の初ポイントでもあった #1995 #F1 #MINARDI #ONYX #初入賞
P.LAMY 23 1/43 MINARDIFW12C
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1975 20TH SPARK ENSIGN N175 G.VAN LENNEP
ジィズ・ヴァン・レネップ オランダ出身 最後のF1マシン 1971・1973・1974年とスポットでF1参戦 1975年もエンサインから3戦のみの出走 モデルのR9フランス予選22位→決勝15位 R11ドイツでは予選24位→決勝6位入賞 1973年より参戦のエンサインの初の入賞 レネップは2度目の入賞で最後のGPでもあった このレネップの入賞以降次の オランダン人ドライバ―のポイント獲得は 1994年のJ・フェルスタッペンまで20年かかった レネップは2度のル・マン24時間を優勝 1971年 マルティーニ・ポルシェ・917K TM=ヘルムート・マルコ(現レッドブル顧問) 1976年 ポルシェ・936ターボ TM=ジャッキー・イクス ジィズ・ヴァン・レネップ(オランダ) 決勝出走回数9回 入賞回数2回 予選最高位 20位 1973年 ウイリアムズ R10オランダ 決勝最高位 6位(2回) 1973年 ウイリアムズ R10オランダ 1975年 エンサイン R11ドイツ #F1最後のマシン #1975 #F1 #ヘルムート・マルコ
G.VAN LENNEP 31 1/43 MarlboroFW12C
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1995 17TH PMA LIGIER MUGEN HONDA JS41 A.SUZUKI
日本人2人目のフルタイムF1ドライバ― 鈴木亜久里の最後のマシン 1994年ジョーダンのスポット参戦のみ 1年間浪人生活の亜久里であったが 1995年は無限エンジンと共に フランスチームのリジェで参戦 しかしながら開幕前突如 M・ブランドルとのシェアという形になり 開幕3戦は出場したもののその後は 予定のR7フランスがブランドルになるなど 亜久里本人もいつ出場するのか 分からない不安定な状況 しかし5戦ぶりに出場した R9ドイツで予選18位→6位入賞を果たす これは1991年の開幕戦以来 52戦ぶりの入賞(予選落ち含む) その後R15・16の日本連戦に出場も R16鈴鹿の予選でクラッシュ 肋骨の骨折で決勝は走ることなく 結果的にF1キャリアを終える事となった 日本人初の表彰台ドライバーは 2005年スーパーアグリとして チーム監督としてF1に復帰する 鈴木亜久里(日本) 決勝出走回数 64回 予選最高位 6位 1993年 フットワーク R12ベルギー 決勝最高位 3位 1990年 ラルース R15鈴鹿 #F1最後のマシン #1995
A.SUZUKI 25 1/43 LIGIERFW12C
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1979 21TH SPARK COPERSUCAR F6A E.FITTIPALDI
1970年台ブラジルのプライベーター チーム・コスパシュカー 1972・1974年ワールドチャンピオン エマーソン・フィッティパルティの兄 ウイルソンが立ち上げたチーム ブラジルの砂糖・アルコールなどの スポンサー コパシュカーが コンストラクターの名称 1979年は前年度の成功した車体F5Aで 開幕戦を予選11位→6位入賞 R3南アフリカよりニューマシン F6を導入も失敗に終わり モデル仕様 予選18位→決勝13位 F6はこの1戦のみのモデル 後半R10ドイツより改良型のF6Aを 投入したが成績は上昇せず 開幕戦の1Pのみで年間21位 コパシュカーのスポンサーはこの年で終了 次年度からはフィッティパルティの コンストラクター名でエントリー #1979
E.FITTIPALDI 14 1/43 FITTIPALDIFW12C
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1994 24TH PMA BENETTON FORD B 194 J.J.LEHTO
J.J.レートはM.アルボレートとの シート争いに勝ちベネトンに移籍 シーズン前のテストで大クラッシュ R1・R2を欠場して流れが悪くなります 復帰のR3サンマリノで予選5位 R5スペインで生涯自己最高の予選4位も 両レースとともリタイヤ R6カナダの予選20位 決勝は繰り上がりの6位が唯一のポイント この後J.フェルスタッペンと交代 M.シューマッハ欠場の2戦と 終盤2戦はザウバーに復帰も低調に終わり この年をもってF1からは退きます 画像3・4はTEST仕様のBENETTON B193B この頃はPMAとONYXのF1ミニカーの 争いでTEST仕様も多数発売されました #F1
J.J. LEHTO 6 1/43 BENETTONFW12C
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1987 21TH SPARK AGS JH22 R.MORENO
AGS= Automobiles Gonfaronaises Sportives 当時 何の略なのか気になり調べて 念仏のように唱えて覚えました AGSは1986年~1991年の6年間の参戦で ポイント獲得は6位が2回のみ 1989年R4メキシコ G.タルキーニと 1987年R16オーストラリアのR.モレノ R.モレノはP.ファブルに代わり 終盤2戦をAGSで参戦し R16オーストラリアでは 予選25位から完走9台のサバイバル を生き残り自身も初の6位入賞 しかしこの時のサラリーやホテル代等が チームより支払いがされなかった為 後に裁判沙汰となりました EL CHARRO(イタリア ファッション)の スポンサーの影響でどちらかと言うと インディーカーのようなカラーリング R.モレノは1987年 AGS 1989年コローニ 1990年ユーロブルンに所属 この3チームは歴代の予備予選落ちワースト3 1位 コローニ46回 2位 AGS45回 3位 ユーロブルン38回 R.モレノはこのような下位チームで 奮闘している姿がとても好感が持てます #1987
R.MORENO 14 1/43 AGSFW12C
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1993 22TH PMA JORDAN HART 193 E.IRVINE
E.アーバインのデビューマシン I.カペリ→T.ブーツェン→ M.アピチェラ→E.ナスペッティ→ と5人目のジョーダンのシート 1993年は全日本F3000で2位が評価され R15 日本GP 鈴鹿でデビュー 走り慣れたコースという事もあり 予選はTM R.バリチェロ(12位)上回る8位 決勝も6位入賞(バリチェロは5位) このレースでセナに周回遅れで譲らず ファイナルラップでクルージング中に抜き返し 同一周回に戻ったことがセナの逆鱗に触れ レース後セナに頭部を左手で払われたが アーバインが「セナに殴られた」と語った為 【セナがアーバインにパンチ】という形で報道 ここからヒール感のイメージが付いた アーバインの個人スポンサーは ♪ココロも満タンに♪のコスモ石油 ジョーダンはSASOLがメインスポンサー 同業他社だがSASOLが日本で展開していない為 バイザーとフロントウイングには コスモ石油のロゴが貼られました Muuseo 500個目の登録アイテムは 2台目に買ったF1モデルカー BARCLAY仕様で個人的に好きな1台です #1993
E.IRVINE 2.808 15 1/43FW12C
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1992 18TH TAMEO MINARDI M191B LAMBORGHINI C.FITTIPALDI
C.FITTIPALDI 23 1/43 MINARDIFW12C
