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1996 (24TH) ONYX MINARDI FORD M195B T.MARQUES
タルソ・マルケス ブラジル出身 ミナルディよりF1デビュー 1996年資金難のミナルディは南米ラウンドに ブラジル出身のT・マルケスを起用 マルケスのデビューは20歳40日で 当時としては歴代5番目の若さ R2ブラジルGP ピットレーンの信号無視で予選結果は抹消 決勝は1周目にスピンしてリタイア R3アルゼンチンGP 予選はこの年のミナルディのベストの14位 決勝はM・ブランドル(ジョーダン)に 2度も追突して34周目にリタイア 若さが出た結果となりこの2戦のみの出場 マルケスは翌1997年後半と2001年前半戦に 再びミナルディで参戦します 1996年はドライバ―が3人以上のチームは ミナルディのみで T・マルケスの他は P・ラミー G・フィジケラ G・ラバッジの4人 G・ラバッジのみが量販モデルの発売が無いが この年のミナルディの成績(ノーポイント)を 考えると残念ながら今後も発売の期待は薄い #F1-1996年
T.MARQUES 21 1/43 MINARDIFW12C
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1994 (30TH) SPARK LOTUS 109 A.ZANARDI
名門チームロータス最後のマシン LOTUS 109 アレッサンドロ・ザナルディ 1994年A・ザナルディはロータスの テストドライバーでスタート 前年の1993年はケガの為P・ラミーに シートを奪われたが1994年は逆に ラミーのケガによりR5スペインGPより参戦 旧型の107Cで2戦を走り R7フランスGPよりLOTUS 109で走行も 旧マシン107CのR5スペインの決勝9位が最高 シーズン途中2戦はP・アダムスにシートを譲り J・ハーバートが移籍した為が同一チームながら R14ヨーロッパGPからはカーナンバーが 11→12に変更になる珍しいパターン R15日本GPではスポンサーの塩野義製薬の 商品名『新ポポンS』が貼られたマシンで走行 TMのM・サロは『セデス・ハイ』 そのサロとともにR16オーストラリアGPが 結果的に名門ロータスの最後のGP 通算決勝1223回目出走となった ザナルディはF1を離れCART(インディ)に挑戦 1997年・1998年にチャンピオンとなり 1999年ウイリアムズでF1に復帰します #F1-1994年 #1994 LOTUS 109 M・サロ『セデス・ハイ』仕様↓ https://muuseo.com/FW12C/items/260?theme_id=33228
A.ZANARDI 11 1/43 LOTUSFW12C
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1976 15TH SPARK SURTEES TS19 A.JONES
アラン・ジョーンズF1 2年目 サーティス F1世界選手権イン・ジャパン4位入賞 1976年A・ジョーンズはサーティスの レギュラーシートを獲得 ニューマシンのSURTEES TS19の投入が遅れ ジョーンズの参戦はR3南アフリカGPより 予選は中段下位の15位~20位前後も 決勝はジョーンズの粘りの走りで完走率71% R5ベルギーGP 予選16位→決勝5位 R9イギリスGP 予選19位→決勝5位 最終戦のR16富士SWでも予選20位ながら 雨の中順位を上げてこの時TMの高原敬武が 摩耗したタイヤ交換の為順位を下げると チームがタイヤをいたわるよう指示を出し 結果シーズンベストの4位入賞を果たす ◆R16日本(富士SW)予選20位→決勝4位◆ ジョーンズのマシンのスポンサーは コンドームの世界シェアの約25%を占める イギリスのdurex(デュレックス)社 R16富士SWでは後にF1にも参戦する THEODORE(セオドール) RACINGが スポットスポンサーで付き フロントウイングには香港名の 〖徳利賽車隊〗と大きく貼られている モデルもR16富士SW仕様で 背面台紙がTHEODORE RACINGの 特別ロゴ仕様バージョンとなっている #F1-1976年 #徳利賽車隊
A.JONES 19 1/43 SURTEESFW12C
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1995 18TH ONYX MINARDI FORD M195 P.LAMY
ペドロ・ラミー ポルトガル 自身唯一の入賞 MINARDI FORD M195 1995年シーズン前 ラミーは当初 パシフィックからの参戦予定であったが ティレルのシートを画策し交渉 結局ティレルのシートを獲得出来ない だけでなくパシフィックのオーナーの キース・ウィギンスの逆鱗に触れて パシフィックのシートも失った ラミーはR10ハンガリーより 資金難のミナルディに持参金を持ち込み P・マルティニのシートを獲得 結果的にマルティニはこれでF1引退 最終戦のR17オーストラリアGPで 予選17位から完走8台のサバイバルを 生き残り自身初の6位入賞 (7位 P・デニス フォルティ) (8位 B・ガショー パシフィック) これはラミーの生涯唯一の入賞 ポルトガル人の初の入賞でもあり ミナルディの25戦ぶりの 1995年の初ポイントでもあった #1995 #F1 #MINARDI #ONYX #初入賞
P.LAMY 23 1/43 MINARDIFW12C
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1995 (31TH) PMA SIMTEK FORD S951 J.VERSTAPPEN
ヨス・フェルスタッペン2年目 シムテックは5戦のみで撤退 フェルスタッペンは前年度の ベネトンの契約が残っており オートマチック用のギアBOX関連と 共に貸し出される形でシムテックの エースのシートを獲得 シムテックは資金難で新車S951は 開幕戦のブラジルGPでシェイクダウン それでもフェルスタッペンは予選で 中盤(ベストはR2アルゼンチン14位) など奮闘し決勝では一時6位を走行 開発資金はおろか運営資金もままならぬ チームはR5モナコで撤退 負債額は約600万ドル チームのあらゆるものが競売にかけられたが 僅か25万ドルにしかならなかった フェルスタッペンは個人スポンサー フィリップ・カー・ステレオの援助を得て 翌1996年はアロウズより参戦 フロントウイングとノーズのスポンサー BARBARAはモナコに拠点を置く スポーツなどのマネージメント会社 元々はローランド・ラッツェンバーガーの スポンサーであったがローランド亡き後も チームのサポートを継続 その一環として当時ヨーロッパで人気上昇の ロックバンドSELF CONTOROLをBARBARA社が 世界プロモ―ション活動として フロントウイングに 彼らのバンドのロゴが貼られています #1995 #F1
J.VERSTAPPEN 12 1/43 SIMTEKFW12C
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1979 (32TH) IXO ALFA ROMEO 177 B.GIACOMELLI
アルファロメオ28年ぶりのF1参戦 アルファロメオはF1創設期の 1950年ジュゼッペ・ファリーナ 1951年ファン・マニュエル・ファンジオ 2年連続のワールドチャンピオン以来 28年ぶりにコンストラクターとして復帰 1979年はブラバムにエンジン供給が されているため区別する為に アルファ・アルファと呼ばれていた ブルーノ・ジャコメリ イタリア出身 1978年ヨーロッパF2チャンピオン 1977年と1978年にマクラーレンより スポット参戦もしている アルファロメオ177の車体は R6ベルギーがグランプリ初戦 予選14位→決勝は接触でリタイヤ R8フランス予選17位→決勝17位 177の名が示すように本来 1977年に設計された車体だが参戦が遅れ 結局1979年にジャコメリがこの2戦と TMのV・ブランビラが1戦の計3戦のみ出走 エンジンが水平対向→60度V12に変更された アルファロメオ179がR13イタリアより登場 それまでの暫定的な車体として役割を終えた #1979
B.GIACOMELLI F1マシンコレクション 35 59FW12C
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1979 (28TH) SPARK SHADOW DN9 J.LAMMERS
ヤン・ラマース オランダ出身 1978年ヨーロッパF3チャンピオン 1979年シャドウよりデビュー TMはE・DE・アンジェリス スポンサーのサムソン・シャグ・タバコは ラマースの持ち込みスポンサー スポンサーへのオマージュとして たてがみを炎に模した 巨大なライオンの頭が描かれた このカラーリングは手作業で ラマース車のみに施され ライオンの口がフロントの オイルクーラー用開口部になっていた カラーリングに於いては 時代を超えても美しいといわれる マシンの1台と評価されているが 成績は振るわず決勝最高位は9位 モデル仕様のR7モナコGPでは 残念ながら2台とも予選落ちしている #1979
J.LAMMERS 17 1/43 SHADOWFW12C
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1985 (30TH) SPARK RAM 03 S4T M.WINKELHOCK
2022年現在までに親子揃って F1ドライバ―になったのは15組31名 親子でワールドチャンピオンは ヒルそしてロズベルグ 複数人はブラバム 日本人は中嶋 近年はフェルスタッペンが有名 2021年はミック・シューマッハが参戦 マンフレッド・ヴィンケルホック ドイツ出身 主にF1ではATSに所属 1985年はATSが撤退もありRAMで参戦 R7フランスGPの決勝12位が最高位 並行して参戦の世界耐久選手権(WEC) にてレース中に事故死 享年33歳 マンフレッドの弟のヨアヒムも 1989年AGSで参戦 こちらは 7戦全戦予備予選落ちで決勝進出ならず 1985年5歳であったマンフレッドの息子 マルクス・ヴィンケルホックは 2007年のスパイカーチームで1戦限り R10ヨーロッパGPでF1に参戦している #1985 https://muuseo.com/FW12C/items/679
M.WINKELHOCK 9 1/43 RAMFW12C
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1994 20TH ONYX JORDAN 194 HART A.DE.CESARIS
1994年 チェザリスは本格参戦後 初めてレギュラーシートを失います しかしE.アーバインの出場停止を受けて ジョーダンよりサンマリノ・モナコに出場 ジョーダンは1991年以来の復帰 R4モナコGPでは予選14位→決勝4位と 慣れないマシンながら 得意の公道コースで結果出した そのモナコGPではレース前 グリット フロントロウで セナとラッツェンバーガーの冥福を ドライバ―全員で冥福を祈った(画像3) 1994年の年間順位はチェザリスを 19位と20位と表記する場合があります 決勝成績が 4位1回 6位1回 他Rが ベンドリンガーと一緒な為19位タイ 予選の最高位はベンドリンガーが上回り こちらも加味するとチェザリスは20位 分かりやすくするため チェザリスは20THと表記しています #1994 #F1
A.DE.CESARIS 15 1/43 JORDANFW12C
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1990 (35TH) SPARK LOTUS 102 J.HERBERT
ジョニー・ハーバート 終盤2戦ロータスにて参戦 1990年J.ハーバートは 全日本F3000に参戦 M.ドネリーのケガにより R15日本GP R16オーストラリアGPの 2戦にスポット参戦 日本GP予選14位 オーストラリアGP予選18位 いずれもTMのD.ワーウィックに負け 決勝もリタイアに両GPともリタイアに終わる ハーバートは全日本F3000に参戦しながら 翌1991年も後半戦をロータスで出場 1994年途中までロータスに所属 終焉を迎えるロータスの最後を支えます LOTUS102のCAMELイエローでの ハーバートの参戦の印象は薄いです モデルは日本GP仕様 PHENIXがスポットスポンサー この年でLOTUSのCAMELのスポンサーが終了
J.HERBERT 12 1/43 LOTUSFW12C
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1990 (28TH) ONYX MINARDI M190 P.BARILLA
#1990
P.BARILLA 24 1/43 MINARDIFW12C
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1997 17TH ONYX TYRRELL FORD 025 M.SALO
M.SALO 19 1/43 TYRRELLFW12C
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1980 (27TH) SPARK OSELLA FA1 E.CHEEVER
1980年よりE.チーバーはフル参戦 チームは新規のオッゼラ 1台のみのエントリー 序盤戦は4度の予選落ちと苦戦 完走もチームの地元 R12イタリアGP 12位のわずか1回 モデルはR7フランスGP仕様 予選21位→決勝リタイア スイスの香水関連DENIMと イタリアのタバコ【MS】がスポンサー この年限りでチーバーはチームを離脱 チームオッゼラは1991年途中まで参戦 #1980
31 1/43 MS OSELLAFW12C
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1986 (24TH) PMA BRABHAM BMW BT55 E.DE ANGELIS
E.DE.ANGELIS 8 1/43 MINICHAMPSFW12C
