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1983 14TH PMA TOLEMAN TG 183B D.WARWICK (DUTCH GP TOLEMAN 1ST POINT)
トールマン/ワーウィック F1初ポイント獲得 TOLEMAN TG 183B 1983年チーム トールマンと ディレク・ワーウィックは参戦3年目 チームメイトはブルーノ・ジャコメリ この年全車フラットボトム規定に変わり ロリー・バーン作の前年マシンを レギュレーションに合わせたTG 183B投入 予選最高5位含むシングルグリット6回も 決勝にはつながらず11戦終了時 完走2回 リタイア9回 課題であった信頼性不足に悩まされた しかし終盤は一気に改善 12戦オランダGPは予選7位 決勝は同一周回での4位入賞 チームトールマンとD・ワーウィックの F1初入賞でポイント獲得 トールマンの通算入賞は11回 ワーウィックの通算入賞は30回 このGPから4位→6位→5位→4位の 4戦連続入賞で年間14位 モデルはそのオランダGP仕様 通序盤と比べるとフロントウイングに カー№が右側しかないのと ドライバ―フィギュアのクオリティがUP ワーウィックはA・セナのトールマン加入が 決まり自身はルノーへ移籍した https://muuseo.com/FW12C/items/239?theme_id=30446
230603 D.WARWICK 1983 504FW12C
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1965 14TH QUARTZO HONDA RA272 R.BUCKNUM
HONDA F1初のドライバー R・バックナム 唯一のポイントRA272 ロニー・バックナム アメリカ出身 1964年HONDA F1初のドライバ― 1965年もHONDAに残留で2台体制となり チームメイトはリッチ・ギンザー ギンザーはNo.1待遇を主張して バックナムを開幕前テストでの 練習走行をほとんどさせなかった シーズン開幕後も状況は悪く R5・R6ではバックナムにマシンが与えられず 2戦連続で欠場する冷待遇 最終戦R10カナダGP 予選で4位相当の順位を出すも マシンの交換をギンザーに要求され 予選順位はレースに出走する車で 出したタイムで決定されるため 4位相当は取り消され予選10位に 決勝は中盤から追い上げを見せて 周回遅れながら5位フィニッシュ バックナム初にして唯一の入賞 しかしこのGPはR・ギンザーがHONDAに 初優勝をもたらした為 バックナムの初入賞は残念ながら 話題に上がることが少くなってしまった 翌1966年は終盤2戦のみHONDAで出場 生涯11戦をすべてHONDAに捧げたドライバ―
230414 R.BUCKNUM 2.500 28FW12C
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1998 14TH PMA ARROWS A19 P.DINIZ
ペドロ・デニス アロウズ2年目 自己最高決勝5位&年間14位 P・デニスはアロウズ2年目 豊富なスポンサー持参で残留 チームメイトはミカ・サロ ヤマハエンジンと決別し 自社のTWRが自製するエンジンで参戦 このエンジンの影響もあり 開幕から5戦連続のリタイア エンジンパワーの影響の少ない R6モナコでは6位入賞 ミカ・サロ(4位)とのダブル入賞 R13ベルギーGPも荒れたレースを 生き残り自己最高タイの決勝5位 チームメイトと同ポイントの3P 順位差で負けてサロ13位・デニス14位 年間14位もデニスのベストタイ記録 当初はペイドライバ―の印象が強かったが チームメイトにも見劣りしない 成績となり中堅チームからの オファーが多く届き 翌1999年はザウバーに移籍する #F1-1998年
230412 P.DINIZ 16 1/43FW12C
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1965 14TH IXO (NORTH AMERICAN RACING TEAM) FERRARI 512 P.RODRIGUEZ
メキシコ兄弟ドライバ― ロドリゲス 兄 ペドロ FERRARI 512 ペドロ・ロドリゲス メキシコ出身 弟のリカルド・ロドリゲスもF1ドライバ― 当時史上最年少で1961年にデビューも 1962年の非選手権で残念ながら事故死 1963年ペドロはロータスでデビュー 北米 アメリカ・メキシコにスポット参戦 1965年はNORTH AMERICAN RACING TEAM 通称チームNART フェラーリ512のマシン R9アメリカ予選15位→決勝5位入賞 R10メキシコ予選14位→決勝7位 この後1967年にクーパーで本格参戦 クーパー初戦の開幕戦の南アフリカで優勝 メキシコ人ドライバ―初優勝であり 現在でもメキシコ人のウィナーは セルジオ・ペレス(レッドブル)と2人のみ 1968年ル・マン24時間の覇者でもある #F1-1965年
230403 P.RODRIGUEZ フェラーリF1コレクション 14FW12C
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1971 14TH SPARK BRABHAM BT33 T.SCHENKEN
オーストラリア人 2人目の表彰台 ティム・シェンケン BRABHAM BT33 ティム・シェンケン オーストラリア出身 1968年 イギリスF3 チャンピオン 1970年 デトマソでF1デビュー 1971年 ブラバムで本格参戦 チームメイトはグラハム・ヒル ブラバムはジャック・ブラバムが 前年の1970年で引退&チーム売却 新体制での運営もあり不振 車体BT33も開発が進まなかった シェンケンはR7ドイツで初入賞6位 R8オーストリアでは自身唯一の3位表彰台 オーストラリア人ではJ・ブラバムに 続く2人目の入賞&表彰台獲得者 オーストラリア人入賞ドライバ―は A・ジョーンズ M・ウエバー D・リカルドの 現在までに歴代合計5人 後半戦は予選でもグラハム・ヒルに勝ち 年間順位も14位 ヒルは21位 翌1972年はサーティスに移籍
230329 T.SCHENKEN 8 1/43FW12C
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1975 14TH SPARK PARNELLI VPJ4 M.ANDRETTI
アメリカチーム パーネリ本格参戦 チーム唯一のFL 最高4位 PARNELLI VPJ4 1974年終盤参戦のパーネリは 1975年本格参戦 ドライバ―はM・アンドレティ しかし大きな支援があったタイヤメーカー ファイヤーストンが撤退 タイヤをグッドイヤーに変更した それでもR4スペインGPでは 予選4位から途中10週ラップリーダーと ファステストラップも記録(結果はリタイア) R7スウェーデンGPは4位入賞 これはチームパーネリの最高成績 モデルはそのスウェーデンGP仕様 R9フランスGPも5位入賞 アメリカのレース優先の為2戦欠場したが 予選最高4位と2度の入賞 本格参戦1年目としては上々の成績だが 資金難でマシンの開発は進まず 翌1976年序盤でチームは撤退する #F1-1975年 #F1
221211 M.ANDRETTI 1回 27FW12C
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1997 14TH PMA BENETTON RENAULT B197 A.WURZ
アレクサンダー・ヴルツ オーストリア出身 デビューイヤー 表彰台 BENETTON B197 1996年ル・マン24時間レースの覇者 ル・マン史上最年少総合優勝記録 22歳4カ月 1997年はベネトンのテスト・ドライバー 同郷のG・ベルガーの欠場でチャンスが巡る 3戦出場で内2戦はTMのJ・アレジに予選で勝ち R9イギリスGPでは予選8位から自身初入賞を 3位表彰台で飾る 通算表彰台3回 入賞14回 モデルはそのイギリスGP仕様 この活躍もあり翌1998年から3年間 ベネトンのレギュラーシートを獲得 途中ブランクもあったが2007年までF1で活躍 2014年~GPDA(F1選手会組織)会長に就任 #F1-1997年
221108 A.WURZ 2.222 8FW12C
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1987 14TH SPARK BRABHAM BT56 A.DE.CESARIS
アンドレア・デ・チェザリス 自身5チーム目 ブラバム BT56 1987年チェザリスはミナルディから 自身5チーム目のブラバムへ移籍 チームメイトはリカルド・パトレーゼ 最終戦のみステファノ・モデナ BRABHAM BT56は前年度のBT55の欠点が 改善されておらず特にBMWターボエンジンは 信頼性が低く両ドライバーとも 完走もままならない厳しいシーズン チェザリスはR3ベルギーGPで3位表彰台 1983年アルファロメオ時代以来の4年ぶり表彰台 モデルはのそのベルギーGP レインタイヤ仕様 このGP チェザリスはラスト1周でガス欠 最後はマシンを押し掛けしてチエッカー 目指したが4位以下が周回遅れの為3位確定 翌R4モナコGPからは12戦連続リタイア この年の完走は16戦中わずか2回のみ チェザリスは翌1988年は新規参戦リアルに移籍 1962年より参戦のチームブラバムは 資金難もあり翌1988年は1年活動休止した #F1-1987年
221016 A.DE.CESARIS 8 1/43FW12C
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1981 14TH PMA LOTUS FORD 88 N.MANSELL
ロータス フル参戦1年目 N・マンセル 失意の地元イギリスGP 予選落ち 1981年マンセルはロータスで初のフル参戦 TMはエリオ・デ・アンジェリス ロータスは可動式カウルを被せた ツインシャーシ LOTUS FORD 88を導入するも レギュレーション違反で決勝では走行できず R8イギリスGPでは冷却系などを プライマリーシャーシに移設した 改良版である88Bを導入するも結果は同じで プラクティスは走行できたものの 予選では使用できず マンセルはこの影響もあって 地元イギリスGPでまさかの予選落ち ロータスはシーズン途中でメインスポンサー エセックス石油のデビット・ティーメが 訴訟問題に巻き込まれてスポンサーを撤退 再びJPSカラーの漆黒に変更します マンセルは旧型のロータス81Bで R5ベルギーで初入賞&表彰台を獲得 年間順位は16位と振るわずもロータス残留 #F1-1981年
220918 N.MANSELL 1584 12FW12C
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1989 14TH+α SPARK TYRRELL 018 J.HERBERT
ベネトン解雇のジョニー・ハーバート 2戦限りのティレル018での参戦 1989年ケガの影響もありベネトンを 途中解雇されたJ・ハーバートは ティレル途中加入のジャン・アレジの 国際F3000の参戦による欠場の2戦を 代役としてエントリーした モデル仕様のR11ベルギーGP 予選16位は TMのジョナサン・パーマー(21位)を上回るが 決勝は3周目にスピンしてリタイア この代役は急遽の決定であった為 ハーバートのレーシングスーツは ベネトン時代のグリーンのままであった もう1戦のR13ポルトガルGPは予選落ち この年復帰のポスルズウェイトが手掛けた ティレル018は隠れた名車とも言われており 翌1990年のR2ブラジルまで使用され このマシンに乗った5人のドライバ―の内 ハーバート以外は全てポイントを獲得している ティレル018ドライバ―別成績 M・アルボレート 6戦 6ポイント J・パーマー 15戦 2ポイント J・アレジ 10戦 14ポイント J・ハーバート 2戦 0ポイント 中嶋悟 2戦 1ポイント #F1-1989年 #Tyrrell
J.HERBERT 4 1/43 CAMELFW12C
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1996 14TH PMA SAUBER FORD C15 J.HERBERT
ジョニー・ハーバート キャリア8年目 通算6チーム目 チーム ザウバー 1996年ハーバートは前年度シーズン終了時 チームが未決定であったが マーク・ブランデルとのシート争いに勝ち ザウバーのシートを獲得 TMはH・H・フレンチェンの全日本経験コンビ 予選ではフレンチェンに3勝13敗と負け越す 決勝ではほぼ互角の成績だったが 両ドライバ―ともリタイアが多かった R6モナコGPで混戦を生き残り3位表彰台獲得 この年ザウバー唯一の表彰台で ハーバートの入賞もこのGPのみ 1974年に設立のマレーシアの国営石油会社 ペトロナスとザウバーの関係が強化されて 鮮やかなミントグリーのカラーで 同社のロゴが大きく訴求された ハーバートは前年シューマッハ中心の チームに嫌気が差しベネトンを離脱 ザウバーでは公平に扱われた事を高く評価 翌1997年以降の2年契約をザウバー結んだ #F1-1996年 #SAUBER
J.HERBERT 14 1/43 SAUBERFW12C
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2010 14TH PMA WILLIAMS COSWORTH FW32 N.HULKENBERG
2022年 FORMULA 1 スポット参戦 ニコ・ヒュルケンベルグ ヒュルケンベルグ ドイツ出身 2011年ウイリアムズよりデビュー チームメイトはR・バリチェロ R3マレーシアGPで予選5位 →決勝10位初入賞 F1での初ポイント R12ハンガリーGPで予選10位 →決勝6位がシーズンベスト ハイライトはR18ブラジルGP 雨の予報で降り出す前に好タイムを出し ルーキーながら初のPPを獲得 このPPは現時点で自身唯一の記録 モデルはドイツのCK-MODELCARS別注 ポールポジション獲得仕様 限定500台 現在までに181戦出走 最高位は4位(3回)で表彰台なしは A・スーティル(ドイツ)の128戦を 大きく上回る表彰台無しの記録 レギュラーシートを失った 2020年シーズン S・ペレスと L・ストロールの 代役としてレーシングポイントより参戦 2022年シーズン S・ベッテルの欠場の代役 としてアストンマーチよりR1 R2を参戦 これら3度の代役はいずれも コロナ関連による代役 #F1-2010年 #F1デビューマシン
N.HULKENBERG 500 10 1/43FW12C
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1995 14TH ONYX FOOTWORK ARROWS HART FA16 G.MORIBIDELLI
イタリアの伊達男ジャンニ・モルビデリ F1唯一の表彰台獲得ARROWS HART FA16 イタリアのオートバイメーカーの モルビデリ社の御曹司でもある ジャンニ・モルビデリ 1995年はアロウズ2年目でエース R6カナダGPで予選13位→6位入賞 (モデルGP仕様)果たすも チームの資金難により R8イギリスGPからシートを M・パピスに譲る形となった 終盤R15パシフィックGPより 再びシートを獲得して 最終戦R17オーストラリアGP 生涯唯一の予選13位→3位表彰台獲得 モルビデリ通算最後の5回目の入賞 翌1996年はシートを失い ジョーダンのテストドライバー 1997年にザウバーで7戦のみ復帰します #1995
G.MORRBIDELLI 9 1/43 ARROWSFW12C
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1979 14TH SPARK BRABHAM BT48 N.LAUDA
ニキ・ラウダ1度目の引退 前年度は2度の優勝7度の表彰台獲得 ブラバムのラウダであったが 1979年は一転して不振に陥る 予選最高はR7モナコの4位(モデル仕様) 決勝最高はR13イタリアの4位 シーズン中盤は自身ワーストの9連続リタイア 予選でもTMのN・ピケに負ける事も多かった チームはアルファロメオエンジンから フォードに変更しBT49をR14カナダから導入 しかしこの車体に失望したラウダは フリー走行後に突如引退を表明 レースに対するモチベーションの低下と V12→V8エンジン変更に対する 迫力の不足も理由の1つであった 入賞2回で1973年以来の表彰台なし 年間順位は14位に終わる 引退後ラウダ航空の経営に従事するも 3年後の1982年マクラーレンにてF1に復帰する #F1-1979年
N.LAUDA 5 1/43 BRABHAMFW12C
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1973 14TH SPARK SHADOW DN1 J.OLIVER
ジャッキー・オリバーはイギリス出身 1970年(BRM)以来のレギュラー参戦の 1973年は新規チームSHADOW エースドライバーであったが TMのG・フォルマ―にポイント先行される R14カナダGPはセーフティカー導入 などで混乱の中一時は優勝?と 思われたが結果は生涯2度目の3位表彰台 年間14位はオリバーのベストシーズン モデルはR4スペインGP予選14位→決勝R 画像8枚目はそのスペインGPの首脳陣 左からアラン・リース トニー・サウスゲート ドン・ニコルズ オリバーは引退後 A アンブロジオ R リース O オリバー W ウォス S サウスゲート 5人でチームARROWSを設立しF1参戦 #1973
J.OLIVER 1/43 SHADOW SPARKFW12C
