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1975 (23TH) SPARK SURTEES TS16 J.WATSON
参戦初年度以来の1台体制 サーティス ジョン・ワトソン SURTEES TS16 1975年チームサーティスは資金難で 参戦初年度1970年以来の1台体制 ドライバーは前年プライベーターで 初のフル参戦 3度の入賞を果たした ジョン・ワトソン(イギリス) マシンは前年度からのSURTEES TS16 R4スペインGP 予選6位の好位置も 決勝レースはR・シュトルメ(ヒル)が 観客を巻き込むアクシデントで 途中でレース終了 決勝8位がリザルト これ以降は大きな見せ場は無かった チームは翌年のマシン開発の為 終盤の3戦を欠場 ワトソンはチーム欠場のGPで ロータスとペンスキーで参戦 翌1976年はそのペンスキーに移籍 マシンはこの年限りの イエローとライトブルーのツートンカラー ライトブルーは矢印⇒のデザイン インダクションポッドのカーナンバー18 スポンサーのMACHBOXのロゴが目立つ1台 #F1-1975年
230324 J.WATSON 18 1/43FW12C
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1991 (30TH) SPARK AGS JH25B G.TARQUINI
AGS 3年目ガブリエル・タルキーニ 開幕戦サバイバル 8位完走 資金難で参戦も危ぶまれたAGSであったが チームオーナーも変わり何とかエントリー G・タルキーニはAGS 3年目 AGS初年度の1989年に6位入賞の経験持つ チームメイトはステファン・ヨハンソン 3戦目よりファブリツィオ・バルバッツァ 開幕戦アメリカGP フェニックス市街地 前年の成績(Y・ダルマスの9位)により 予選からのエントリーで22位で通過 決勝は4週遅れながら8位完走 モデル仕様のR4モナコGPで シーズンベストの予選20位で通過 決勝はギアボックストラブルでリタイア このGPが1986年から参戦AGS 最後の49回目の決勝進出となった 数少ないAGS(フランス)スポンサーの中 フロントウイングにイタリアのBBURAGO この時代のモデル発売を狙っていた? このモデルはタルキーニ ヨハンソン車が 販売されたがバルバッツァの リリースのアナウンスが無い SPARKは以前よりマイナードライバ―も しっかりリリースしてきたので 何か版権の問題なのか…不明 #F1-1991年
230308 G.TARQINI 17 1/43FW12C
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1998 (19TH) PMA MINARDI M198 E.TUERO
シルバー/ブルー ミナルディM198 エスティバン・トゥエロ アルゼンチン 1998年ミナルディはチーム立て直し3年計画 ジャンカルロ・ミナルディと大株主で フォンドメタルのガブリエーレ・ルミが 中心となり 元フェラーリ・リアル・レイトンハウスなどの デザイナー グフタス・ブルナーを招集 何とスタッフも75名→120名に増員 スポンサーの意向もあってか カラーリングも今までにない シルバーとブルーのコントラスト エスティバン・トゥエロは アルゼンチンドライバ― 19歳 参戦当時で史上3番目の若さでエントリー (2023年現在でも9番目の若さ) チームメイトは中野信治 前年の1997年はフォーミュラニッポンで 入賞1回 わずか1Pでスーパーライセンスの 発給も危ぶまれたがアルゼンチンの スポンサーの後押しもあり何とか参戦 開幕戦オーストラリアで予選17位 R4サンマリノで決勝8位が最高位 16戦中完走は僅かの4回でシーズン終了 チームも3年連続でノーポイント トゥエロは翌年1999年はミナルディで L・バドエル M・ジェネとのシート争いに 敗れてF1のシートを失ない 以降F1にエントリーすることは無かった
230209 23 1/43 MINARDIFW12C
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1998 (20TH) PMA TYRRELL FORD 026 R.ROSSET
ティレル最後のマシン TYRRELL 026 4度の予選落ち リカルド・ロセット 1998年シーズン前 ティレルオーナー ケン・ティレルはチームを クレイグ・ポロックに売却 ドライバ―は高木虎之介と ヨス・フェルスタッペンの予定であったが ポロッグの意向により R・ロセットに変更 Safra・LYCRAのスポンサーを持ち込んだ この件もありケン・ティレルは シーズン途中にチームを離脱した ロセットはR7カナダGPの決勝8位が最高 これは生涯ベストリザルトタイ 1996年導入の予選107%ルールに 度々引っ掛かり予選落ち R16日本GPでもシーズン4度目の予選落ちで ティレルの最終戦に決勝進出できなかった ティレルは1968年からの約30年の 歴史に幕を閉じ翌年はBARとして参戦
230207 R.ROSSET 20 1/43FW12C
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1998 (20TH) PMA TYRRELL FORD 026 "TOWER WING″ R.ROSSET
マイク・ガスコインがデザインした TYRRELL026はダウンフォース不足を補う為 前年度にも導入したサイドウイングを採用 数チームが追随して空力トレンドになった ミニチャンプスでは "TOWER WING″として このウイングを装着した ティレル・フェラーリ・ジョーダン ザウバー・プロストの5チーム合計10名を "TOWER WING″仕様として限定数で発売 "TOWER WING″はR5スペインGPから J・アレジ(ザウバー)のピットでの事故や 見た目の悪さもあり使用が禁止され サイドウイングありきでデザインした TYRRELL 026は翼を取られ更に成績悪化 長き歴史のティレルの最後を コンストラクター最下位で終えた リカルド・ロセットも1998年でF1最後 生涯入賞はなく決勝最高8位の成績であった 🏁リカルド・ロセット (ブラジル) 【決勝出走数】26回 (入賞0回) 【予選最高位】17位(2回) 1996年 アロウズ R2 ブラジル 1996年 アロウズ R15 ポルトガル 【決勝最高位】 8位(2回) 1996年 アロウズ R12 ハンガリー 1996年 ティレル R7 カナダ #F1-1998年 #F1-LAST
230207 R.ROSSET "TOWER WING″ 2.222FW12C
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1978 (25TH) PMA LOTUS FORD 79 J.P.JARIER
ジャン・ピエール・ジャリエ LOTUS FORD 79 最後のPP 1978年ジャリエはATSで参戦 R3南アフリカの決勝8位が最高 ATSでは6戦のみの出場も2度の予選落ち R15アメリカEAST GP 事故死したR・ピータソンの代役で ロータスより出場 予選8位→決勝15位もFL獲得 最終R16カナダGPでは3年ぶり 自身最後となるポールポジション獲得 レースも49周目までトップを快走したが あと20週の所で残念ながらリタイア モデルはカナダGP仕様 生涯勝てそうで勝てなかったドライバ― (ベストは3位が3回)ジャリエの もっとも勝利に近かったのがこのGP ジャリエのロータスはこの2戦のみ 翌1979年はティレルに移籍 #F1-1978年 #F1
221225 J.P.JARIER 1回 1.752FW12C
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1997 (22ND) PMA TYRRELL FORD 025 J.VERSTAPPEN
Xウイング装備 TYRRELL FORD 025 ヨス・フェルスタッペン 1997年R3アルゼンチンGP ティレルは マイク ガスコインが発案した小型ウイングを サイドポンツーン上の垂直支持板に取付け SF映画〖スター・ウォーズ〗に登場する 戦闘機になぞらえてXウイングと呼ばれた 低速でダウンフォース必要なGPのみ装備 まさかの翌1998年のトレンドとなった ヨス・フェルスタッペンはアロウズより移籍 ティレルはワークスエンジンを失い フォードV8使用でTMミカ・サロと共に苦しみ 予選はカナダの14位 決勝もモナコの8位が 最高でシングルフィニッシュはこの1回限り フェルスタッペンは1年でティレルを離脱 翌年シートを失うも途中スチュワートに加入 画像①PMA SAN MARINO GP仕様(X WING) 画像②PMA 通常版 画像③ONYX SAN MARINO GP仕様(X WING) 画像④ONYX CANADA GP 仕様 #F1-1997年 #F1 #Xウイング
221115 J.VERSTAPPEN 18 1/43FW12C
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2005 24TH IXO RED BULL RB1 V.LIUZZI
RED BULL初年度2005年モナコGP STAR WARS 特別仕様車 V.リウッツィ ヴィタントニオ・リウッツィ イタリア出身 2005年デビュー レッドブルより4戦のみ出走 初戦のR4サンマリノで予選15位 決勝は8位入賞 デビュー戦での入賞 R6モナコGPは スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐の プロモーションを兼ねたSTAR WARS特別仕様 予選12位→決勝はリタイア デアゴスティーニの F1マシンコレクションの146号/全150号 チームメイトのD・クルーザードではなく リウッツィでのリリースはナイスチョイス #STARWARS
V.LIUZZI F1マシンコレクション 15 146FW12C
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1975 (24TH) SPARK HESKATH 308 H.ERTL
ハラルド・アートル F1デビュー 1975年R11ドイツGP HESKATH 308 ハラルド・アートルはオーストリア出身 イエローのヘルメットが特徴 ヴァルシュタイナー・ブルワリーのチームが HESKATH 308のマシンを購入して 1975年R11ドイツGPより3戦限りの出場 デビューとなったモデル仕様の ドイツGPは予選23位→決勝8位完走 決勝はシーズンベストリザルト ヴァルシュタイナーは1753年以来 ドイツのアルンスベルクの森で醸造される 淡い黄金色の伝統的なドイツビール 1978年からのアロウズのスポンサーでも 有名ですが 1975年は自チームで出場 ゴールドカラーが何とも目を引く1台 #F1-1975年 #ヴァルシュタイナー #F1デビュー #1975年
H.ERTL 25 1/43 WARTSTEINER BREWERYFW12C
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1996 (18TH) ONYX ARROWS FOOTWORK HART FA17 R.ROSSET
リカルド・ロセット ブラジル出身 1996年 F1デビュー アロウズ 1996年F1デビュードライバ―は3人 G・フィジケラ T・マルケス R・ロセット ロセットのみがフル参戦 1995年国際F3000 2位の実績と スポンサーマネーを持ち込みシート獲得 TMはヨス・フェルスタッペン 開幕戦は接触しながら9位完走 シーズン予選ではフェルスタッペンに全敗 R12ハンガリーの予選18位→決勝8位が最高位 ONYXからは2台のGP仕様車が発売 画像1 R2ブラジルGP仕様 前年度のカラーリング継承 赤・青・銀・白のパッチワーク模様 画像2 R4ヨーロッパGP仕様 赤と青の2カラーに変更され オーストリアのスポーツドリンクの 専門メーカーPOWER HORSEのロゴが 大きく見やすく改善された ロセットはこの年限りでアロウズ離脱 翌1997年はマスターカード・ローラに移籍も 開幕戦のみでチームは撤退した #F1-1996年 #F1
R.ROSSET 16 1/43 ARROWSFW12C
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1996 (19TH) ONYX MINARDI FORD M195B G.FISICHELLA
ジャンカルロ・フィジケラ イタリア出身 愛称フィジコ F1デビューはミナルディ 1996年ミナルディは当初 P・ラミー 井上隆智穂のラインナップであったが 井上のスポンサーが撤退しシート喪失 急遽フィジケラのデビューが決まる 開幕戦オーストラリアで予選16位 TMのP・ラミー(予選17位)を上回る R8カナダGPで再び予選16位→決勝8位 これはフィジケラ ミナルディとも 1996年のシーズンベスト チームは資金難の為シートを R2・3 タルソ・マルケス(ブラジル) R11~ ジョバンニ・ラバッジ(イタリア) に売り渡した為 フィジケラは8戦のみ ONYXのモデルカーからもたくさんの 小スポンサーのデカールと リアウイングのチーム名だけのロゴで ミナルディの苦しい台所事情が覗える ミナルディでの走りが認められた フィジケラは翌1997年 ドライバ―オーディションの 実走テストを経てジョーダンに移籍 #F1-1996年 #F1-デビュー
G.FISICHELLA 21 1/43 MINARDIFW12C
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1995 (24TH) ONYX FOOTWORK ARROWS HART FA16 T.INOUE
4人目のフルタイム日本人ドライバ― F1駅前留学 井上隆智穂 1994年日本GP鈴鹿でシムテックより スポット参戦 井上のスポンサーに 語学学校のNOVAが付いていた為 古舘伊知郎氏からF1駅前留学と評された 1995年はユニマットグループの支援で アロウズ(フットワーク)から参戦 TV・雑誌等では井上を取り上げる事が 少なく当時は謎の日本人ドライバ― 予選最高18位 決勝最高8位 完走5回 2つの出来事がファンの記憶に残った ①R5モナコGP フリー走行 レッカー車牽引されている途中 オフィシャルカーに追突され マシンが横転 マシンは大破 オフィシャルカーのドライバ―は ラリー界の雄 ジャン・ラニョッティ ②R10ハンガリーGP 決勝 エンジントラブルで停止後 出火 消火器を持って自ら消火を試みるも 後方からやってきたレスキューカーに 振り返りざまはねられる ①②とも軽症で済み 後日談でも良く語られている ONYXは2種類を所持 画像2のポルトガルGP仕様は プリントサイン入りで 海外での名称 Taki INOUEの表記 #1995 #F1駅前留学
T.INOUE 10 1/43 ARROWSFW12C
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1995 (25TH) ONYX PACIFIC FORD PR02 A.MONTERMINI
アンドレア・モンテルミニ イタリア出身 GPデビューマシン 1994年R・ラッツェンバーガー亡き後 シムテックから参戦するも R5スペインGPのフリー走行で 大クラッシュして骨折 予選を走行することなく欠場 1995年はパシフィックより レギュラーシートを獲得 開幕戦を予選22位→9位完走 R9ドイツは予選23位→8位完走 決勝8位はモンテルミニと チーム・パシフィックにとっても 生涯のベストリザルト パシフィックは1994年で撤退した ロータスの名称権を買収 ロータスのグリーンのラインと ロゴがマシンに小さく貼られていて 日本の企業の仲介もあり おーいお茶のITOENが スポンサーについていたが この年限りでF1から撤退した #1995
A.MONTERMINI 17 1/43 PACIFICFW12C
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1995 (26TH) ONYX PACIFIC FORD PR02 B.GACHOT
1991年ルマン24時間レース覇者 ベルトラン・ガショー 最後のマシン 1995年ガショーはパシフィックの 共同オーナー側で携わる予定も他者の 契約問題もありR1~8・R15~17の11戦出走 R17オーストラリアGPの8位がベスト モデルはR6カナダGP仕様で 予選20位→決勝リタイヤ 当初はベルギー国籍であったが 1992年よりフランスの国籍に 父親はEC(現EU)の高官 予備予選参加41回 通過25回は どちらも歴代1位の数字 1990年スバル・コローニで参戦 1991年マツダでのルマン24H優勝 1992年ベンチュリーで片山右京のTM など日本とも関わり多い F1引退後はエナジードリンク飲料会社 Hype Energyを買収しCEOを務めている 🏁ベルトラン・ガショー (フランス) ◆決勝出走回数 46回 ◆予選最高位 10位(2回) 1991年 ジョーダン R2ブラジル 1992年 ベンチュリー R13イタリア ◆決勝最高位 5位 1991年 ジョーダン R5カナダ ◆ファステストラップ 1回 1991年 ジョーダン R10ハンガリー #1995 #F1-ラスト
B.GACHOT 16 1/43 PACIFICFW12C
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1973 (25TH) SPARK MARCH 731 H.PESCAROLO
アンリ・ペスカローロ フランス出身 ル・マンでは3連覇を含む4度の優勝 33回出場という最多記録所持者 F1では1973年 R4スペインGPに マーチのワークスSTPマーチで参戦 MARCH 731のデビューマシン 予選18位→決勝8位でこれが この年のチーム最高位 この後R10オランダGPでは R・ウイリアムソンが このマシンで残念ながら事故死している マーチをサポートしてきた スポンサーSTPもこの年で終了 ペスカローロは1973年 ル・マン マトラシムカMS670Bで 後にラルースチームを設立する ジェラール・ラルースと組んで優勝している #F1-1973年 #F1
H.PESCAROLO 11 1/43 MARCHFW12C
