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1980【WORLD CHAMPION】PMA WILLIAMS FW07B A.JONES〖🏆5〗
🔲🔲🔲1980🔲🔲🔲 👑WORLD CHAMPION👑 WILLIAMS FW07B 🟦🟦A.JONES🟦🟦 🔲🔲🔲全14戦🔲🔲🔲 【出走】14回【PP】3回 【優勝】 5回【FL】5回
230829 A.JONES 1980 5回FW12C
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1978 11TH PMA WILLIAMS FW06 A.JONES
新生 ウィリアムズ・グランプリ A・ジョーンズ1台体制 WILLIAMS FW06 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズを ウルフに手放したF・ウィリアムズは パトリック・ヘッドとともに新チームを設立 ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング として再出発 1978年は自製シャーシFW06 ドライバ―は前年度シャドウで初勝利の アラン・ジョーンズ1台体制 サウジアラビア航空のスポンサー獲得 FW06は保守的な設計であったが R4南アフリカで4位入賞 R15アメリカWでは初の2位表彰台 さらに2度のファステストラップも記録 初年度として上出来の3度の入賞 翌1979年はA・ジョーンズは残留 C・レガッツォーニとともに2台体制となった #F1-1978年
230123 A.JONES 1978 2回FW12C
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1977 7TH IXO SHADOW DN8 A.JONES〖🏆1〗
アラン・ジョーンズ 初優勝 チームSHADOWの唯一の勝利 DN8 1977年A・ジョーンズは事故死した T・プライスに代わりR4アメリカWより出場 R6モナコ 決勝6位 R7スペイン 決勝5位 連続入賞を果たし勢いに乗る R12オーストリアGPでは 予選14位ながら不安定な路面状況を読み 12周目に4位 16周目に2位に浮上 残り11周でJ・ハント(マクラーレン)が エンジントラブルよりトップに浮上 そのままチェッカーで優勝 これはアラン・ジョーンズの初優勝 ジョーンズの生涯勝利数は12回 また1973年から1980年途中まで参戦する チームSHADOWにとっては唯一の勝利 ジョーンズは最終日本GP 富士SWで4位入賞 前年に続き日本GPでの連続4位入賞 ◆R17日本GP 富士SW 予選12位→決勝4位◆ このモデルは葉巻 フィルターのスポンサー Villigr AMBROSIO(Kiel)のロゴが無し SPARKのモデルは貼られているので謎ですが 現時点ではデカールは海外から取り寄せに なるので・・・どうしよかと悩み中 #F1-1977年 #F1-初勝利
A.JONES F1マシンコレクション 17 147FW12C
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1975 17TH SPARK HILL GH1 A.JONES
アラン・ジョーンズ F1初ポイントは チーム ヒル最後のポイントHILL GH1 A・ジョーンズのデビューは1975年 ヘスケスで4戦出場も完走は1回のみ R8オランダGPよりワールドチャンピオン G・ヒルが立ち上げたチーム・ヒルより参戦 TMはトム・ブライズ 予選ではトム・ブライズに全敗も R11ドイツGPでは予選21位→決勝5位入賞 A・ジョーンズのF1初入賞であるが チーム ヒル最後のポイントでもあった ジョーンズの生涯入賞回数は39 ヒルでは4戦出走全て完走も R・シュトルメの復帰に伴いチームを離脱 翌1976年はサーティスより参戦 #F1-1975年 #F1ファーストポイント #F1
A.JONES 1975 22 1/43FW12C
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1983 (33RD) SPARK ARROWS A6 A.JONES
ワールドチャンピオン A.ジョーンズ 1戦限りのF1復帰 ARROWS A6 1981年限りで引退を表明 最終戦ラスベガスでの勝利をもって F1を離れていたアラン・ジョーンズ 1983年R2アメリカWEST ロングビーチで 突如C.セラに代わりF1に復帰します 予選12位はTMのM.スレール(16位)で勝るも 決勝は58周目に体調不良でリタイア スレールはシーズンベストの5位入賞 ジョーンズの1983年はこの1戦のみ 1984年は再びF1を離れて 1985年にハース・ローラで2度目の復帰 1983年アロウズのA6序盤戦は スポンサーが少なく 白ベースのマシンに F1ではあまり見ないアメリカのオイル VALVOLINE(バルボリン)のロゴが ロングビーチGP限定で大きく貼られている #F1-1983年 #F1
A.JONES 30 1/43 ARROWSFW12C
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1976 15TH SPARK SURTEES TS19 A.JONES
アラン・ジョーンズF1 2年目 サーティス F1世界選手権イン・ジャパン4位入賞 1976年A・ジョーンズはサーティスの レギュラーシートを獲得 ニューマシンのSURTEES TS19の投入が遅れ ジョーンズの参戦はR3南アフリカGPより 予選は中段下位の15位~20位前後も 決勝はジョーンズの粘りの走りで完走率71% R5ベルギーGP 予選16位→決勝5位 R9イギリスGP 予選19位→決勝5位 最終戦のR16富士SWでも予選20位ながら 雨の中順位を上げてこの時TMの高原敬武が 摩耗したタイヤ交換の為順位を下げると チームがタイヤをいたわるよう指示を出し 結果シーズンベストの4位入賞を果たす ◆R16日本(富士SW)予選20位→決勝4位◆ ジョーンズのマシンのスポンサーは コンドームの世界シェアの約25%を占める イギリスのdurex(デュレックス)社 R16富士SWでは後にF1にも参戦する THEODORE(セオドール) RACINGが スポットスポンサーで付き フロントウイングには香港名の 〖徳利賽車隊〗と大きく貼られている モデルもR16富士SW仕様で 背面台紙がTHEODORE RACINGの 特別ロゴ仕様バージョンとなっている #F1-1976年 #徳利賽車隊 #F1
A.JONES 1976 19 1/43FW12C
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1986 12TH SPARK LOLA THL2 A.JONES
1980年ワールドチャンピオン A・ジョーンズ 最後のマシン 1986年ジョーンズは前年度スポット参戦の チームハース ローラから本格復帰 ハースはアメリカのチームであったが ローラ名義でコンストラクターを登録 P・タンベイとのベテランコンビ R3サンマリノよりニューマシンの THL2を導入 デザイナーはマクラーレンの 現開発責任者のニール・オートレイ エンジンもハート→フォードに変更 後半戦にマシンの熟成が進み 予選最高はR12ハンガリーの10位→決勝R R13オーストリアで予選16→決勝4位 TMのタンベイ5位で初入賞をダブルで飾った ジョーンズは続くR14イタリアでも 予選18位→決勝6位入賞 結果これが ジョーンズ生涯最後の39回目の入賞 最終戦地元オーストラリア終了後 F1から(2度目の)引退を表明した チームハース ローラもメインスポンサーの ベアトリス・フーズ(アメリカ総合食品)が 撤退したため 1年半の短命で姿を消した アラン・ジョーンズ(オーストラリア) 決勝出走回数 116回 予選最高位 PP ( 6回) 決勝最高位 優勝 (12回) 表彰台獲得回数 (24回) ファステストラップ(13回) WORLD CHAMPION 1980年 #1986 #F1最後のマシン
A.JONES 15 1/43 LOLAFW12C
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1979 3RD PMA WILLIAMS FW07 A.JONES〖🏆4〗
1979年 後半戦の主役の1台 FW07 1979年ウイリアムズは 中東のスポンサーサウジアラビア航空や 後にHeuer社を買収するTAGなどの支援を受け 2台体制でのエントリーとなる エースドライバーはアラン・ジョーンズ R5スペインGPから新車FW07を導入 パトリック・ヘッドが主導した ウイリアムズ初のグランドエフェクトカー 序盤は苦戦するも R9イギリスでポールポジション (ウイリアムズチームにとって初のPP) R10ドイツで勝利するとそこから3連勝 R14カナダではPP→FL→優勝 後半だけでPP3回 4勝して ドライバ―年間順位も3位 コンストラクタ―も2位に躍進 優勝のシャンパンファイトは 禁酒の中東系のスポンサーを配慮して オレンジジュースで行われた(画像7) 弱小のプライベートチームから 1980年~1990年の常勝チーム 黄金時代へと変貌するきっかけとなる1台 #F1-1979年 #WILLIAMS #F1
A.JONES 1回 27 1/43FW12C
