名人時代を選ばず-バッハを聴く
初版 2025/02/03 15:05
改訂 2025/02/04 15:02

半音階的幻想曲とフーガニ短調BWV.903
J.S.バッハ35歳ケーティン時代の傑作。
ある意味予言的な内容を持っている。
元々はチェンバロのための作品であり、ダイナミックスが広い作品ではない。
しかし、この曲をピアので聴くとき、その半音階的及びエン・ハーモニック進行、激しい情熱と奔放なファンタジーが楽曲の持つスケールを広げる。
この作品は少なくともロマン派と古典派の二つの典型を示している。
ロマン主義音楽の先取りとしての幻想・情熱・開放・大胆・変化に富んだ自由奔放が特徴の「幻想曲」の部分。
知性・緻密・一貫性・形式美などに貫かれた「フーガ」の部分の急進生と構造性は住処である古典主義的音楽の典型であるといえる。
バッハのこの曲はこの二つの典型の見事な統合を聴かせる。
平均律にあったストイシズムはここには希薄で、『こう弾きたい、こう聴かせたい』という作品に対する創造性の熱気が支配している。
『幻想曲』の部分は3つに分かれている。
第1部はトッカータ風で、速いパッセージが続く、チェンバロ的な特徴のある部分でパルティータ第6番を思い出させる。
第2部はバロック風で自由であり典雅。
第3部はその両者の要素が結合され、ロマンティックで主情的な旋律が非常に魅力的である。
『フーガ』の部分は厳格な対位法的様式で始まり、次第に自由で即興的なものへと進んで行く。
バッハというよりも彼を通過したベートーヴェンを思い出させる。
フーガのテーマの最初の4つの音は、ドイツ語音表記ではA-B-H-Cであり、いうまでもなくバッハ=B・A・C・Hのアナグラムです。
訊かれればいつもいうことなんだけど、バッハ時代の楽曲を古典音楽であるからとチェンバロで弾くことにボクは興味がない。
そういう音楽史的な意味合いと実証主義的な捉え方に価値がないというのではない。
それはその時代の音を聴く上で素晴らしいことだと素人的に考えるのだけれど、取りあえず個人的にピアの演奏の方に魅力を感じているのと、古楽演奏家よりも現代のピアニストの方がなじみがあるというだけの話です。
でも、最近この曲を弾く人があまりいなくなったように思いますが、ボクが知らないだけなんでしょうね。
この曲はフーガの元々のたたずまいが構築的で美しい清廉性を持っているので、思いっきりロマンティックなレガートがあってもボクはいいと思っています。
素敵なバッハを聴きたいね。
例外としてとか何とか関係なく、この曲も紛れもないバッハが生み出したものなのだから。
グレングールドのまるでチェンバロのような指が立った演奏で。 この録音では彼はスタンを弾いてるね。

Mineosaurus
古生物を中心に動物(想像上のもの)を含め、現代動物までを描くイラストレーターです。
露出度が少ない世界なので、自作の展示と趣味として行っている地元中心の石ころの展示を中心に始めようかと思っています。
海と川が身近にある生活なので気分転換の散歩コースには自然が豊富です。その分地震があれば根こそぎ持っていかれそうなので自分の作品だけは残そうかとAdobe stockを利用し、実益も図りつつ、引退後の生活を送っております。
追加ですが、
古いものつながりで、音楽についてもLabを交えてCD音源の部屋をつくっています。娘の聴いてるような音楽にも惹かれるものがありますが、ここではクラッシックから近代。現代音楽に散漫なコレクションを雑多に並べていきながら整理していこうかと思っております。走り出してから考える方なので、整理するのに一苦労です。
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woodstein
2025/02/04 - 編集済みバッハの鍵盤曲をピアノの演奏で聴くのは、最近はどうか知りませんが,一頃まではグレングールド以外の選択肢があまりなかったので、私も全集を入手して聴きました。ただ、グールドの芸風はかなりクセがあるので、果たしてバッハの作曲の意図をそれなりに反映していたのか、よくわかりませんでしたね。
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Mineosaurus
2025/02/04いつもありがとうございます。
再現者としてのグールドは作曲者の意図を汲んで演奏したとは私もわかりません。ただ、現在のピアノフォルテに近づき表現の幅が広がったのはモーツァルトの晩年の頃ですよね。こういうことは言えるかもしれません。ピアノフォルテで弾くことによってリヒテルのように目いっぱいペダルを使って幻想的な響きを持たせることも、グールドみたいに響の簡潔さの中に左右の手にゆだねられたパートをどちらも印象的に聞かせるように作品の持つ広がりを提示して見せるという衝撃的なやり方を貫いた奏法もどちらも同じ曲で、それを作った音楽家がバッハであったということ。
この作品ではなく、彼の最初のゴールドベルク変奏曲のスタジオ録音から間がない頃のライヴ録音を聴いたときの衝撃はそれまで聴いていたバッハと作品は同じなのに右手と左手から聴こえてくる音が同じ質量を持って耳に飛び込んできたということでした。
ボクはユーディナとか園田さんとかリヒテルとかそれから聴き直した時、音はどのピアニストでもちゃんと聞こえてくる(当たり前)のを確認しました。
でも、それはグールドを聴いてここにはこの音も同時に鳴ってるんだということを経験してから改めて聴いたからでした。この辺が素人の聴き方なんでしょうけどね。
そしてもう一つ、何かの集まりで、ゴールドベルクの最後の変奏曲を聴いた幼稚園の子供が立ち上がって彼のピアノで踊ったんです。頭を揺らしながら。そして最初のアリアに戻ったとき彼はまたおとなしく膝を抱えて座り込みました。この姿をボクは忘れません。その園児の頭の中にはバッハもグールドもなくて、ただそのピアノの音が楽しかったし、次のアリアが何となく静かにしてなければいけないような気持になったんだといまだに思っています。
死の少し前のグールドのゴールドベルクはそういう音楽ではなかったんですが、彼の鼻歌の中に音が楽しいんだという幸せな感情が流れていたのは変わりはなかったように思えます。
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