- Sekisentei Japanese Mineral Museum
- 3F 秋田県 Akita Pref.
- 白鉄鉱・黄鉄鉱・黄銅鉱 (marcasite/pyrite/chalcopyrite) 尾去沢鉱山 #0720
白鉄鉱・黄鉄鉱・黄銅鉱 (marcasite/pyrite/chalcopyrite) 尾去沢鉱山 #0720
母岩の上に硫化金属鉱物(白鉄鉱、黄鉄鉱、黄銅鉱)と水晶が晶出しています。
白鉄鉱と黄鉄鉱は同じ化学組成(FeS2 )を持ちますが、黄鉄鉱が等軸晶系であるのに対し白鉄鉱は斜方晶系であり、結晶構造が異なります。このような関係を「同質異像」と呼び、共に炭素(C)の同素体であるダイヤモンドと黒鉛(石墨)の例が良く知られています。
新鮮な白鉄鉱は黄鉄鉱よりも白く、強い輝きを放ちますが、空気中の酸素と水分に反応して硫酸を生じ赤褐色から褐色、更には黒変して崩壊することが多いとされ、私も所有を躊躇してきました。しかし本標本は白鉄鉱標本の産地として知られる尾去沢鉱山産で、母岩が硬質の頁岩で、50年以上を経ても白鉄鉱のかなりの部分が美しい輝きを保ち続けていると伺い、思い切って入手したものです。劣化予防措置として、専用容器に乾燥剤と共に保管するようにしています。(背景は6枚目と8枚目を除きソフトウエア処理しています。)
尾去沢鉱山の発見は伝承によれば708年(和銅元年)に遡り、ここで採られた金が奈良の大仏や平泉中尊寺で用いられたとも言われています。本格的に開発されたのは1598年(慶長3年)に南部藩の北十左衛門が白根金山を発見してからで、金が枯渇してきた1695年(元禄8年)には銅鉱が発見され、1765年(明和2年)に南部藩の直営となり、別子銅山、阿仁銅山と並ぶ日本の主力銅山の一つとなりました。典型的な中温熱水鉱床で、1889年(明治22年)以降三菱財閥が開発を行うようになってからは近代化が推し進められ、深さ30メートルごとに水平坑道が展開され、坑道の総延長は800キロメートルに達し、銅のほか、金、銀、鉛、亜鉛が採掘され、特に産銅量は足尾、別子、小坂、日立に次ぐ日本第5位を誇りました。1978年(昭和53年)に閉山するまでの産出量は、銅30万トン、金4.4トン、銀155トンと推定されています。
