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小坂鉱山 露天掘全景/秋田県鹿角郡小坂町 PC015-01
小坂鉱山の元山鉱床では江戸時代末期に露頭が発見されて以来、1920年(大正9年)の規模縮小を経て1939年(昭和14年)に全廃されるまで露天掘が行われていました。(なお、元山鉱床の全てが露天掘であったわけではなく、複数の坑道が開削され、坑内堀も実施されていました。)この絵葉書には擂鉢型の露天採掘場に螺旋状に軌道が設けられ、人力で鉱石がトロッコ運搬される様子が写っています。 小坂鉱山の発見は1680年代に遡るとされていますが、1861年(文久元年)頃、元山鉱床の露頭が発見され金・銀鉱山として南部藩による開発が始まりました。1869年(明治2年)から明治政府による官営となり、その後1884年(明治17年)には藤田組(当時、現DOWAホールディングス)に払い下げられました。小坂鉱山で当初採掘対象となったのは黒鉱が長い時間をかけて風化した土鉱と呼ばれる鉱石で、1トンあたり数百グラムの銀を含み、1901年(明治34年)には銀の生産高日本一になりましたが、土鉱の枯渇と金本位制の拡大による銀価格の暴落により小坂鉱山は閉山の危機に直面しました。土鉱の下に大量の黒鉱が埋蔵されていることは当時から判っていたものの、黒鉱は精錬が極めて難しく、事業化は不可能とされていました。しかし久原房之助が明治35年(1902年)に「生鉱吹き法」と呼ばれる鉱石中に含まれる硫黄分を熱源として利用する独自の製錬技術を開発、これにより、黒鉱から金・銀・銅・鉛・亜鉛など15種類の有用金属元素を取り出して製品化することに成功し、以後大型の溶鉱炉を建設するなど順次生産規模を拡大し、国内有数の銅製錬所としての地位を確立しました。更に金銀などへ製錬事業を展開しながら1907年(明治40年)には生産額日本一を記録、1905年(明治38年)には旧小坂鉱山事務所、1910年(明治43年)には芝居小屋の康楽館(いずれも国の重要文化財)が竣工しています。第二次世界大戦直後に資源の枯渇等を理由に採掘が中断されましたが、1959年(昭和34年)に内の岱鉱床と呼ばれる新鉱脈が発見され、1962年(昭和37年)に採掘を再開、1990年(平成2年)まで存続しました。なお、小坂鉱山は閉山しましたが、製錬所は今も存続しており、その技術を活かして多様な金属元素のリサイクル事業を展開しています。
秋田県鹿角郡小坂町 小坂鉱山石泉亭
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小坂鉱山 元山全景/秋田県鹿角郡小坂町 PC005-01
「山神社より元山全景を望む」と題された絵葉書です。小坂鉱山の山神社は江戸時代の慶応年間(1865年~1868年)に初めて建立されたと言われ、現存する山神社は1906年(明治39年)に鉱山のほぼ中央の丘の頂に建てられました。この絵葉書は山神社の狛犬の台座に腰かけたカンカン帽をかぶった白い和服の人物が元山地区にある坑業所の全景を眺めている構図になっており、画面中央下部にはかすかに鳥居の上部が見えます。元山地区は大字小坂鉱山の中部北寄りにあり、坑業所のほか住宅、学校等の様々な施設が集まって市街地を形成していました。 小坂鉱山の発見は1680年代に遡るとされていますが、1861年(文久元年)頃、元山鉱床の露頭が発見され金・銀鉱山として南部藩による開発が始まりました。1869年(明治2年)から明治政府による官営となり、その後1884年(明治17年)には藤田組(当時、現DOWAホールディングス)に払い下げられました。小坂鉱山で当初採掘対象となったのは黒鉱が長い時間をかけて風化した土鉱と呼ばれる鉱石で、1トンあたり数百グラムの銀を含み、1901年(明治34年)には銀の生産高日本一になりましたが、土鉱の枯渇と金本位制の拡大による銀価格の暴落により小坂鉱山は閉山の危機に直面しました。土鉱の下に大量の黒鉱が埋蔵されていることは当時から判っていたものの、黒鉱は精錬が極めて難しく、事業化は不可能とされていました。しかし久原房之助が明治35年(1902年)に「生鉱吹き法」と呼ばれる鉱石中に含まれる硫黄分を熱源として利用する独自の製錬技術を開発、これにより、黒鉱から金・銀・銅・鉛・亜鉛など15種類の有用金属元素を取り出して製品化することに成功し、以後大型の溶鉱炉を建設するなど順次生産規模を拡大し、国内有数の銅製錬所としての地位を確立しました。更に金銀などへ製錬事業を展開しながら1907年(明治40年)には生産額日本一を記録、1905年(明治38年)には旧小坂鉱山事務所、1910年(明治43年)には芝居小屋の康楽館(いずれも国の重要文化財)が竣工しています。第二次世界大戦直後に資源の枯渇等を理由に採掘が中断されましたが、1959年(昭和34年)に内の岱鉱床と呼ばれる新鉱脈が発見され、1962年(昭和37年)に採掘を再開、1990年(平成2年)まで存続しました。なお、小坂鉱山は閉山しましたが、製錬所は今も存続しており、その技術を活かして多様な金属元素のリサイクル事業を展開しています。
秋田県鹿角郡小坂町 小坂鉱山石泉亭
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尾去沢鉱山 全景/秋田県鹿角市 PC018-01
「秋田県尾去沢鉱山全景」とありますが、製錬所に繋がっている煙道は中央左端部にかろうじて見えるものの、その先にある高さ60メートルの大煙突(現存)までは写っていません。中央右側の複層式の屋根が白っぽく見える大きな建物は、現在も土台部分が遺構として残っている選鉱場の建屋です。中央左側の煙を出している建物は恐らく焼鉱鉱舎、その左側の煙道に繋がる建物が溶鉱炉建屋と思われます。 尾去沢鉱山の発見は伝承によれば708年(和銅元年)に遡り、ここで採られた金が奈良の大仏や平泉中尊寺で用いられたとも云われています。本格的に開発されたのは1598年(慶長3年)に南部藩の北十左衛門が白根金山を発見してからで、金が枯渇してきた1695年(元禄8年)には銅鉱が発見され、1765年(明和2年)に南部藩の直営となり、別子銅山、阿仁銅山と並ぶ日本の主力銅山の一つとなりました。典型的な中温熱水鉱床で、1889年(明治22年)以降三菱財閥により近代化が推し進められ、深さ30メートルごとに水平坑道が展開され、坑道の総延長は800キロメートルに達しました。銅のほか、金、銀、鉛、亜鉛が採掘され、特に産銅量は足尾、別子、小坂、日立に次ぐ日本第5位を誇りました。1978年(昭和53年)に閉山するまでの産出量は、銅30万トン、金4.4トン、銀155トンと推定されています。
秋田県鹿角市尾去沢 尾去沢鉱山石泉亭
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日立鉱山 製錬所/茨城県日立市 PC002-01
「日立鉱山製錬所」と、その裏山に建設された神峯煙道、第3煙突、中央煙突の全容を写した絵葉書です。日立鉱山製錬所は、大雄院製錬所とも云い、1908年(明治41年)に第一号炉が操業を開始し、以降も溶鉱炉の増設・規模拡大を続けました。日立鉱山のオーナーであった久原房之助は、将来的な資源の枯渇に備え、日立鉱山のみならず他の鉱山からも鉱石を購入(買鉱)することを前提として、大規模な製錬所の建設を行いました。このため、製錬所の排煙から生じる煙害対策に非常に大きな投資を行ったのです。写真の左側にも神峯煙道が伸び、ところどころに排煙孔が開いているのが判りますが、この部分は1915年(大正4年)の中央煙突稼働後は使用されておらず、1917年(大正6年)から翌1918年(大正7年)にかけて大部分が取り壊され、鉄筋が回収されました。 日立鉱山は、元は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山でしたが、1905年(明治38年)に久原房之助が日立鉱山と改名し本格的な開発を開始して以降大きく発展しました。1905年(明治38年)から1981年(昭和56年)に閉山されるまでの76年間に約3,000万トンの粗鉱を採掘、約44万トンの銅を産出し、足尾銅山(栃木県)、別子銅山(愛媛県)と並び日本三大銅山の一つに数えられています。
茨城県日立市宮田町 日立鉱山石泉亭
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別子銅山 鉱石運搬曳船/愛媛県新居浜市 PC003-04
「別子銅山 鉱石運搬曳船」と記されています。 江戸時代には別子銅山の鉱石は別子山中で製錬され、産銅は基本的に人力で搬出されていましたが、1888年(明治21年)からは惣開精錬所が本格的に操業するようになり、1893年(明治26年)には住友別子鉱山鉄道の下部鉄道、上部鉄道が相次いで開通し鉱石輸送量は飛躍的に増大しました。この年以降亜硫酸ガスによる煙害が悪化し水稲が大きな被害を受けるようになり、当時別子銅山の支配人であった伊庭貞剛は新居浜市北方沖合20kmの四つの無人島からなる四阪島(しさかじま)に精錬所を移転することを決意、1895年(明治28年)には四阪島を買収し、1905年(明治38年)に新精錬所の操業を開始しました。この絵葉書は鉱石運搬のため新居浜と四阪島の間を往復していた曳船を写したもので、タグボートが何艘もの帆船を連ねて曳航しています。なお、精錬所の移転によっても煙害問題は解消せず、むしろ煙害が東予地方ほぼ全域に拡がる結果となってしまい、住友はその後も損害賠償、精錬所の操業制限、脱硫のための技術改良、排煙拡散のための6本の煙突の建築等、苦闘を重ねることになりました。最終的に煙害が解消されたのはペテルゼン式と呼ばれる硝酸を使用して亜硫酸ガスを硫酸にする方式による硫酸工場の設置を経て、残存する希薄な亜硫酸ガスをアンモニア水で中和する中和工場が完成した1939年(昭和14年)のことでした。 別子銅山は1691年(元禄4年)に住友家により開坑されてから、1973年(昭和48年)に住友金属鉱山(株)が閉山を決定するまで283年間にわたり住友家/住友系企業により操業されました。総出鉱量は推定約30百万トン、総産銅量は足尾銅山に次ぐ日本第二位の65万トンで、足尾銅山、日立鉱山と並び日本の三大銅山の一つに数えられました。
愛媛県新居浜市 別子銅山石泉亭
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別子銅山 東平黒石間索道/愛媛県新居浜市 PC003-03
この絵葉書は「別子銅山 東平黒石間索道」と題されています。 索道は空中に張りわたしたワイヤロープにバケットと呼ばれる搬器を吊るして建設工事資材などを運搬する設備のことで、東平(とうなる)と黒石を結ぶ全長3,575メートルの複式索道はドイツ人の索道技師ブライヘルトの指導により1905年(明治38年)に完成しました。東平は標高750m前後に位置し、大正5年(1916)から昭和5(1930)まで別子銅山の採鉱本部が置かれた地域です。貯鉱庫等の鉱山関連施設や生活に必要な施設が整備され、最盛期には5,000人余りの銅山関係者とその家族が住んでいました。黒石は索道の完成に合わせて住友別子鉱山鉄道の下部鉄道(惣開(そうびらき)~端出場(はでば)間10.3km)に新設された駅で、端出場から約1km下った場所にありました。搬器(バケット)1基は約600kgの鉱石を積むことができ、573メートルの高低差により、自重を利用して秒速およそ2.5メートルで自動運転され、途中3か所の中継所で押し出し作業による中継ぎがされていました。この索道と下部鉄道により、鉱山内の中心地東平から惣開に至る輸送ルートが確保され、鉱石のみならず、木材や生活用品も輸送されました。 別子銅山は1691年(元禄4年)に住友家により開坑されてから、1973年(昭和48年)に住友金属鉱山(株)が閉山を決定するまで283年間にわたり住友家/住友系企業により操業されました。総出鉱量は推定約30百万トン、総産銅量は足尾銅山に次ぐ日本第二位の65万トンで、足尾銅山、日立鉱山と並び日本の三大銅山の一つに数えられました。
愛媛県新居浜市 別子銅山石泉亭
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別子銅山 電気製銅所内部/愛媛県新居浜市 PC003-02
この絵葉書には「別子銅山 電気製銅所内部」とあります。 1919年(大正8年)まで別子では反射炉による銅精錬が行われていました。1889年(明治21年)から電気精錬の技術導入を行い、1906年(明治39年)には日光電気精銅所を操業させていた足尾銅山に比べて別子銅山の精銅生産技術は遅れており、別子産のK.S.銅(住友家家長住友吉左衞門の頭文字を採って製品名としていた)は電導率が低かったため電線や電機部品に使用できず、銅管、真鍮など構造材に用途が限定されていました。しかし1919年(大正8年)に新居浜電錬工場が完成、以降純度の高い電気銅の生産が可能となり、住友電線製造所への安定した原料供給が可能になりました。1925年(大正14年)には旧来の反射炉製錬が全廃されています。この絵葉書には多数の電解槽と、「アノード」と呼ばれる粗銅で鋳造された大きな陽極版を、クレーンを使って電解槽に装入する作業の様子が写っています。(この項は「愛媛県生涯学習センター」のWebサイト記事を参考にさせていただきました。) 別子銅山は1691年(元禄4年)に住友家により開坑されてから、1973年(昭和48年)に住友金属鉱山(株)が閉山を決定するまで283年間にわたり住友家/住友系企業により操業されました。総出鉱量は推定約30百万トン、総産銅量は足尾銅山に次ぐ日本第二位の65万トンで、足尾銅山、日立鉱山と並び日本三大銅山の一つに数えられました。
愛媛県新居浜市 別子銅山石泉亭
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別子銅山 惣開全景/愛媛県新居浜市 PC003-01
この絵葉書には「別子銅山 惣開全景」とあります。江戸時代の嘉永年間(1848~1854)に別子銅山支配人であった清水総右衛門が約4.7haの新田を開発、総右衛門新開と命名された土地が、後に略されて「総開(そうびらき)」と呼ばれました。「惣開」はその後郵便表記として用いられるようになった地名です。1888年(明治21年)に精錬所が本格操業を始めてから惣開には別子銅山に関連した様々な施設が作られるようになりました。1893年(明治26年)には惣開を起点とする住友別子鉱山鉄道が開通、別子銅山の鉱石輸送の窓口になり、その後1899年(明治32年)の豪雨による別子大水害をきっかけに別子鉱業所本部および、採鉱課を除く鉱山の全施設が移転、これに伴い銀行や病院等の施設も建設され、現在の新居浜市の発展の基礎を形成しました。 別子銅山は1691年(元禄4年)に住友家により開坑されてから、1973年(昭和48年)に住友金属鉱山(株)が閉山を決定するまで283年間にわたり住友家/住友系企業により操業されました。総出鉱量は推定約30百万トン、総産銅量は足尾銅山に次ぐ日本第二位の65万トンで、足尾銅山、日立鉱山と並び日本の三大銅山の一つに数えられました。
愛媛県新居浜市 別子銅山石泉亭
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日立鉱山 中央煙突/茨城県日立市 PC013-01
日立鉱山は、元は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山でしたが、1905年(明治38年)に久原房之助が日立鉱山と改名し本格的な開発を開始して以降大きく発展しました。1905年(明治38年)から1981年(昭和56年)に閉山されるまでの76年間に約3,000万トンの粗鉱を採掘、約44万トンの銅を産出し、足尾銅山(栃木県)、別子銅山(愛媛県)と並び日本三大銅山の一つに数えられています。 この絵葉書には「日立鉱山製錬所及中央煙突」、「口径二十五尺六寸(≒7.6メートル)、基礎内径三十五尺六寸(≒10.8メートル)、直立五百十一尺(≒154.8メートル」と記載されていますが、「日立鉱山史」では高さ511フィート(≒155.7メートル)とされています。この中央煙突は当時世界で最も高い煙突で、1915年(大正4年)3月1日に使用が開始され、標高328メートルの地点に建設されたことも相まって、日立鉱山が10年来抱えていた製錬所から発生する亜硫酸ガスの煙害問題の軽減に大きく貢献しました。中央煙突の根元に繋がっている逆Y字型の構造物は中央煙突に先立ち1911年(明治44年)5月に築かれた神峰(かみね)煙道(別名ムカデ煙道)という排煙施設の一部が密閉煙路として利用されたもの、また、画面中央少し右側にある太く低い煙突はやはり中央煙突に先立って1913年(大正2年)6月に設けられた第3煙突(別名ダルマ煙突)と呼ばれる排煙希釈用の煙突です。神峰煙道、第3煙突のいずれも大きな効果は挙げなかったため、改めて中央煙突が建設されたものですが、巨額の費用を要する排煙施設を続けて建設した久原房之助が如何に日立鉱山の煙害対策に注力していたかが解ります。なお、画面下部に見えるのが大雄院製錬所です。中央煙突は通称大煙突(だいえんとつ)と呼ばれ、鉱工業都市日立の象徴となり、その建設経緯は新田次郎の小説『ある町の高い煙突』に描かれ、映画化もされました。残念ながら中央煙突は1993年(平成5年)に約3分の1を残して倒壊、高さは54メートルになってしまいましたが現在でもJX金属日立事業所の煙突としての利用が続けられています。
茨城県日立市宮田町 日立鉱山石泉亭
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荒川鉱山 倶楽部・配電所/秋田県大仙市 PC004-01
荒川鉱山は熱水性鉱床の鉱山で、主に黄銅鉱を採掘していました。1700年(元禄13年)に発見され、1738年(元文3年)からは秋田藩(久保田藩)の直山(直轄鉱山)として開発されましたが、明治維新後の1876年(明治9年)に盛岡の瀬川安五郎が政府から払い下げを受けて間もなく「嗽沢(うがいさわ)坑」で大鉱脈が発見され、国内でも屈指の銅山になりました。1896年(明治29年)に三菱合資会社が鉱業権を所有した後に製錬所や中央選鉱所、発電所などの設備の近代化が図られ、荒川村役場や郵便局、駐在所、浴場、病院、劇場「共楽館」、大盛小学校などが建設されました。共楽館では、演劇や映画の他、宝塚歌劇団や歌舞伎の公演なども行われたということです。最盛期には人口約4000人、周辺を含めると8000人に達し、県内有数の都市となりましたが、1935年(昭和10年)に資源枯渇により三菱鉱業尾去沢鉱業所荒川支所に縮小され、1940年(昭和15年)に閉山しました。 本絵葉書には「荒川鉱山倶楽部配電所の景」とあります。荒川鉱山中央部には荒川が流れていて南岸に嗽沢坑、北岸に百目石(ひゃくめいし)坑の2つの主要坑道があり、この付近を中心に鉱山町が形成されました。鉱山町には大門通・大金通・大寺通・大直利橋通・大江通・大山通・日蔭通・初石の小地区があり、大門通に荒川村役場や村長宅、大金通に郵便局があり、大江通の荒川北岸に鉱山病院、配電所、荒川鉱山倶楽部、鉱山長宅、荒川南岸に共楽館、大山通には荒川北岸に中央選鉱場、荒川南岸にシックナー(沈殿池)、鉱山事務所、山神社等が設けられていました。 荒川鉱山倶楽部は鉱山の来客を接待する場所で、玉撞きのできる遊戯場も備えていました。鉱山長宅の前を通り配電所側に立っていたということですので、電線の配線等から見て絵葉書左側の2棟が配電所(荒川鉱山付近に設けられた複数の発電所から送られてくる電力を変電し、鉱山内の各部に配電する施設)、右側の大きな屋根の建物が鉱山倶楽部で、右端の建物は鉱山長宅である可能性が高いと思われます。
秋田県大仙市協和 荒川鉱山石泉亭
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鴻之舞鉱山 青化場/北海道紋別市 PC009-01
鴻之舞鉱山は1915年(大正4年)に発見され、1917年(大正6年)に住友総本店(後の住友金属鉱山)が買収、以後資源枯渇等により1973年(昭和48年)に閉山になるまで、累計で金72.6トン、銀1,234トンを産出したとされ、金生産量は菱刈鉱山(鹿児島県、現在も稼行中)、佐渡鉱山(新潟県、1989年(平成元年)閉山)に次ぐ日本第3位の大規模金山でした。 この絵葉書には「住友鴻之舞鉱業所 青化場「メリル」金銀沈殿装置」とあります。青化法(せいかほう)は、シアン(青酸)化合物の水溶液に金が溶けることを利用して低品位の金鉱石から金を浸出させる湿式製錬技術です。金鉱石を粉砕・加水してスラリーと呼ばれる懸濁液を作成し、このスラリーにシアン化ナトリウムやシアン化カリウムの水溶液を加え、更に酸素を供給して金を水溶性の錯体(金属と非金属の原子が結合した構造を持つ化合物)である[Au(CN)2]−に変化させます。これを濾過して得られた溶液(貴液)から真空装置により酸素を脱気したうえで、シアン酸イオンとの化学親和性の強い亜鉛粉末を加えて金を沈殿させます(このとき金鉱石に含まれる銀や銅も同時に沈殿します)。沈殿物を硫酸と混合することにより沈殿物中の亜鉛粉末を溶解除去し、更に濾過して残った物質を溶融製錬しドーレと呼ばれる延べ棒に加工し、更にこの延べ棒を分離精製して金(および銀、銅)を得ます。 絵葉書にある「メリル」とは、貴液を脱気の上、亜鉛粉末を加えて金を沈殿させ、次いで沈殿物から亜鉛を除去し金を精製する基本的なプロセスを確立し、1910年(明治43年)に特許を取得した米国の製錬技術者Charles Washington Merrill (1869年〜1956年)のことで、アコーディオン状に見えるのは貴液を得るための縦型リーフフィルターと呼ばれる濾過装置です。
北海道紋別市鴻之舞 鴻之舞鉱山石泉亭
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鴻之舞鉱山 全景/北海道紋別市 PC014-01
鴻之舞鉱山は1915年(大正4年)に発見され、1917年(大正6年)に住友総本店(後の住友金属鉱山)が買収、以後資源枯渇等により1973年(昭和48年)に閉山になるまで、累計で金72.6トン、銀1,234トンを産出したとされ、金生産量は菱刈鉱山(鹿児島県、現在も稼行中)、佐渡鉱山(新潟県、1989年(平成元年)閉山)に次ぐ日本第3位の大規模金山でした。 この絵葉書は鴻之舞鉱山の全景を写したもので、「鴻ノ舞鉱山 住友の経営にかかる金鉱山にして産金全国一近年躍進的発展を為しつつあり管内金鉱山七、年産五百万円に及ぶ」(林業会北見支社) とあります。 鴻之舞鉱山の年間産金量は1936年(昭和11年)に2トンを超え全国一になっており、1940年(昭和15年)には金約2.5トン、銀約46トンを生産しています。しかしその後太平洋戦争の開戦に伴い金による軍需物資の輸入が困難となったことに伴い1943年(昭和18年)に金山整備令が発令され、鴻之舞鉱山は休山し、保坑鉱山となりましたので、本絵葉書は恐らく1940年(昭和15年)前後に制作されたものではないかと思われます。 絵葉書にスタンプが押されている「大江本家」は、北見市留辺蘂(るべしべ)町の温根湯(おんねゆ)温泉の開祖の一つで、1899年(明治32年)に温泉出願許可を受けており、1911年(明治44年)以降「大江本家」を名乗り、現在も営業中です。
北海道紋別市鴻之舞 鴻之舞鉱山石泉亭
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モリブデン鉛鉱 (wulfenite) 中竜鉱山 #0721
モリブデン鉛鉱は鉛とモリブデンの酸化物からなる鉱物で、鉛亜鉛鉱床の酸化帯に生成するレアメタル鉱石の一種です。肉眼では判り難いですが、拡大すると母岩上に黄色の板状の結晶が多数観察できます。この黄色い色合いはモリブデンの一部がクロムに置き換わることによって生じているとされます。(1枚目と5枚目のみ背景をソフトウェア処理しています。) 中竜(なかたつ)鉱山は中温熱水スカルン鉱床で、銀、銅、鉛、亜鉛等を産し、古くは鎌倉時代の寛元年間(1243年~1247年)に、京都大原より移住してきた武士が銀鉱脈を発見したという伝承があり、銀・鉛の採掘を行ったと見られる旧坑が各所に存在します。明治初期には地元民により銀鉱石が採掘され、以降採掘と休山が何度か繰り返されましたが、1926年(大正15年)に藤田組技師長・井上誠一郎氏による調査を踏まえ、横浜の中村房次郎氏と鉱区所有者竜田哲太郎氏が協議し8年間に亘って採鉱を続けました。その結果有望との判断を得て1934年(昭和9年)に中村氏、竜田氏、三井鉱山の出資の元で日本亜鉛鉱業(株)が設立され、中村の中と竜田の竜を採って命名された中竜鉱山が発足しました。1941年(昭和16年)戦時体制下で三井鉱山に経営を委任、亜鉛鉱山として発展しましたが、1949年(昭和24年)に経営難により一時休山、その後1951年(昭和26年)に操業を再開、設備の近代化を進め1972年(昭和47年)には日産鉱量2,000トンの本邦有数の亜鉛鉱山に発展しましたが、円高による金属価格暴落の影響により10年分ともされる可採鉱量を残しながら1987年(昭和62年)に閉山しました。鉱山跡地は専用バスで坑道や採掘現場を巡ることのできるアドベンチャーランド中竜として再利用されましたが、同施設も2006年(平成18年)に休業しました。
モリブデン酸塩鉱物 福井県大野市上若王子 ミニチュアサイズ石泉亭
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院内銀山 御覧壁画/秋田県湯沢市 PC001-01
明治天皇は1881年(明治14年)に山形・秋田・北海道を巡幸、9月21日に当時明治政府直営であった院内銀山に立ち寄られ、坑夫の入口として利用されていた五番坑及び諸工場を巡覧されました。この絵葉書は、この時に明治天皇が五番坑に入られた様子を、1926年(昭和元年)に古河財閥の三代目当主であった古河虎之助の委嘱で盛岡市出身の五味清吉画伯が描いた壁画を写したもので、本物の壁画は明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に所蔵されています。五番坑は後に「御幸坑」と名付けられ、9月21日は鉱山記念日とされました。 入坑は坑夫が荷物を担いで出入りするのをご覧になって明治天皇が突然坑内に歩み入られたもので、予定外のハプニングだったとも云われていますが、この絵からはそのような雰囲気は感じられません。 院内銀山は1606年(慶長11年)に発見され、江戸時代を通して秋田藩の直営銀山として繁栄した浅熱水性鉱脈型金銀鉱床です。1833年(天保4年)からの約10年間に年間産銀量が千貫(=3.75トン)を超える「天保の盛り山」と呼ばれる最盛期を迎え、人口15,000人あまりと、当時は藩都久保田城下をしのぐ賑わいだったとのことです。維新後は明治新政府の直轄経営となり、1884年(明治17年)に、工部省から古河市兵衛に払い下げられました。以降古河鉱業の経営となって近代化が進められ、1894年(明治27年)には年間3,906貫(≒14.6トン)の銀を産出しましたが、明治末頃の銀価格の下落や鉱脈の枯渇などで次第に衰退、1954年(昭和29年)に閉山しました。
秋田県湯沢市院内銀山町 院内銀山石泉亭
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蓮台寺鉱山(河津鉱山) 全景/静岡県下田市 PC017-01
河津鉱山には蓮台寺、須崎の2つの主要鉱区があり、蓮台寺鉱山は蓮台寺鉱区に当たります。河津鉱山は浅熱水金銀鉱床の鉱山で、金、銀、銅、亜鉛、鉛、マンガン、テルル等、多様な鉱物を産出しました。1915年(大正4年)に現在のJX金属の源流企業の一つである久原鉱業が買収し稼行、1929年(昭和4年)以降は改称した日本鉱業により操業されましたが、1959年(昭和34年)に閉山しました。1915年(大正4年)から閉山までに、金5.5トン、銀276トン、銅1,000トン、マンガン15,840トンを産出したとされています。 この絵葉書には「伊豆蓮台寺温泉名所 幾百丈の坑内より搬出さるる蓮台寺鉱山」という説明文が付いており、貯鉱場と、山神社と思われる鳥居と建物が見えます。山の中腹の坑口と思しき辺りから複線のトロッコレールらしきものが伸びていますが、非常な急坂のはずなのに直線状に敷設されており、やや不自然な感は否めず、もしかすると写真上に人工的に書き込まれたものかもしれません。伊豆蓮台寺温泉は奈良時代に行基が開湯したと云われる古湯で、付近には今でも多くの旅館やホテルがあります。
静岡県下田市蓮台寺 蓮台寺鉱山(河津鉱山)石泉亭
