六本木五丁目の謎の擁壁…の巻
初版 2025/02/22 00:07
改訂 2025/02/24 17:52
早朝街歩き、第ナン弾か分かりませんが、早朝ヒストリカル編です。
わたくし、通勤にときどき都内でシェア・サイクルを使うのですが(コースはいろいろ)、そのなかで前から気になって仕方なかった擁壁があります。
ヨーヘキ、石積みのカベの遺構?です。

青山一丁目から麻布十番に抜ける環状三号を挟んでテレ朝のお向かいの六本木五丁目地区。

六本木方面から芋洗坂を南に抜けて出たところ。六本木ヒルズからはけやき坂をおりたところの交差点のところです。
ここは第二の六本木ヒルズを含めた大規模な再開発の予定地だそうですが、ここにドーンと大きな石垣があるんです。
よく、これを見上げて「ナンの跡地だろう…?」といつも思いつつ、、、地図を見ても特に手掛かり無く…。

今日は実地に調べてみましょう。
この石垣側は何もないので、裏に回ってみないと。
ということで、、、裏と言ってもすぐには辿り着けず、鳥居坂の急坂を登り、、、

電動チャリでもけっこう大変ですね。
お、なにやらあります。

立派な石垣の上に土塀が…

「国際文化会館」だそうです。
史跡の看板があります…、

…「岩崎邸跡」。なるほど。三菱の岩崎小弥太の屋敷のあとだとか☝️
この会館は前田國男設計、文化交流のための文化施設のようですが、ここは位置的にはあの「擁壁」の裏ではないですね。
よって、さらに前進。
道路を挟んだお向かいには東洋英和女学院。
で、肝心の鳥居坂の西側。閉鎖された駐車場?のような…。

ここが例の擁壁の裏側です。
あとで調べてみたら、ここは「川崎ハウス」という住宅の跡地で、川崎財閥(川崎重工とは関係ない川崎さんだそうです)のお屋敷の跡地、戦後、そこに外人向けの高級住宅地が作られたとのこと。
その跡地だそうで。。。
つまり、あの擁壁は、川崎財閥のお屋敷の裏側だったということですね。きっと、もとは大名屋敷か旗本屋敷で、明治以降は誰か華族の屋敷のあとでしょうかね?
ついでに、川崎ハウス跡地のその先、お隣は「六本木ミュージアム」というのがあります。


レンガの良い感じの外壁が残っています。これは明治期のお屋敷の跡でしょうね。
では、これらが何だったのか、調べてみましょう。
まず地図アプリでみますと、これは現代の地図で、、、

江戸時代にすると、、、

川崎ハウスのところは、讃岐の多度津藩、京極壱岐守1万石のお屋敷だそうです。
それが明治になって丸々岩崎家のお屋敷になったのかな?(で、ある時期以降、北半分が川﨑財閥に、南半分が国際文化交流会館の敷地に?)
六本木ミュージアムのところは、江戸時代、5千石の旗本、戸川万之助のお屋敷跡地のようですが、、、
では、手持ちの地図を見てみましょう。
これは我が家に伝わる明治42年の地図。「東京市全図」

この大判地図は以前に複写しておいたのでみやすいです。

鳥居坂のあたりを見てみますと、

地形は分かりますが、どなたの屋敷かは分かりません。
ちなみに、この↑地図で鳥居坂の右側、「英和女学」の下に赤い菊のマークで「久邇宮」とありますが、いまはこんな感じで…

風情のあるレンガの壁に囲まれた高級そうなマンションです。この壁は再建されたもののように見えますが(オリジナルなのかな?)、ここが久邇宮邸の跡のようですね。
江戸期は五千石の旗本、戸田孫十郎の屋敷です。
では、川崎ハウス跡を調べるのに、我が家の地図関係の本に出ている歴代の地図を見てみましょう。
まずは、明治4年の「東京大絵図」から、、、

さっき見た地図アプリと同じですね。と言っても、まだ明治4年は国際文化会館のところの京極家も、お隣の六本木ミュージアムのところ、旗本・戸川家も未だあるんですね。
つぎ。
明治11年の東京実測図から、

わからん。鳥居坂丁としか書いてありません。
つぎ。

つぎ。これは我が家のと同じ明治40年代の地図だそうですが、、、

…明治期の地図、どれ見ても誰の屋敷だったのか細部は分かりません。
うーん、、、江戸期は解明はできましたが、最も知りたかった明治以降が分かりません。
なお、この地区は最初の方にも書きましたが、第2六本木ヒルズを含めて地区一帯が「六本木五丁目西地区再開発プロジェクト」として、2030年までに再開発されます。


川崎ハウス跡地も岩崎邸跡の国際ナントカ会館も、その先のレンガの壁のところも全てこの再開発に飲み込まれます。
今回調べたあの石垣は、、、

B街区エリアとして高層ビルが建てられるようなので、近いうちに無くなるでしょう…。
見られるのは今のうちです☝️
…しかし、調査結果としては中途半端に分かったような、分からなかったような、すっきりしないヒストリカル活動でした。。。
調査はつづく(…かな?笑)
BACKDRAFT
2025/02/22 - 編集済みとても面白いですね
「ブラタモリ」みたいw
こーゆーの大好きです👍️
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T. S
2025/02/22 - 編集済みありがとうございます。
たしかに。ブラタモリみたいなことしてますね。だからあの番組は好きでした。
なお、今朝つづきで調べていたら、この地区は再開発されることがわかったので最後の方にそのことを加筆修正しまして↑、なんとなくこの日記のオチが完成しましたw
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とーちゃん
2025/02/22 - 編集済み都内も、
まだまだ 愉しめる場所が
あるのですね!
しばし ´トリップ´ を
楽しませていただきました。
ヽ(^o^)
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T. S
2025/02/22 - 編集済みそうなんですよ。
気になる遺構や建築物があちこちにあって、まっすぐ歩けません(笑)
またどこか調査(ってほどじゃありませんが)します。
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T. S
2025/02/22 - 編集済みなんだ、Wikipediaで「鳥居坂」って調べたら、誰の屋敷の跡地だったのかだいたい分かっちゃいました👀
「江戸時代・幕末まで、鳥居坂には多度津藩・京極家の江戸屋敷があり…中略…明治時代になるとここは公爵・井上馨の所有となり…中略…(※そうか、井上馨の屋敷の跡か!)…中略…屋敷はその後久邇宮邸となり…(※ん?久邇宮邸は坂の反対側のお向かいのはずだぞ???)…次いで大正銀行頭取も務めた実業家・赤星鉄馬の邸宅となった。(※へー)しかしながら屋敷は1923年(大正12年)の関東大震災により倒壊、三菱財閥総帥・岩崎小弥太の邸宅として再建された。太平洋戦争での日本の敗戦と財閥解体を経て国有地となっていた多度津藩江戸屋敷跡は民間に払い下げられ、1955年(昭和30年)に国際文化会館が開館した。…以下略…」…だそうです。
少し疑問はあるものの、だいたい解明できました。
また、ネット上で「川崎ハウス」の写真を発見しました。たしかに石垣の大壁の上に、なにやら洋風?の建物があってようですね。
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fanta
2025/02/24鳥居坂と319号線を挟む一角といい、
江戸時代からの地形と変わってないことに感動です😆
ところでなんで“鳥居”なのかと思い…
神社由来なのかな?と思ってみたり。
“鳥居元忠”説も出てきたりと、
なかなか面白い鳥居坂の由来ですねぇ~😁
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