「ザボン」と「ブンタン」第五回
初版 2018/11/01 00:20
改訂 2018/11/24 01:49
☝東亞教育畫館『博物界一覽』(明治42年(初版) 東亞教育畫館)
前回の続き。
……というか、資料を読み解釈分析しつつ文章を組み立て、引用したりわかりやすいように書き直したり画像を貼ったりリンクを張ったり、と何時間かかけて仕上げたうちの三分の一くらいが、保存しようとしたら一記事の容量上限を超えてしまっていたらしくシステムに蹴られて、一瞬にしてあっさり消えてしまった。今回はその書き直し分の続きから始めるとしよう。まぁたしかに、あんなムチャクチャ長いのを送信してくるヤツがいようとはフツーどなたも想定なさらないだろうな、とは思うww
失策に懲りてテクストエディタでバックアップを取りながら書いているので、蹴飛ばされても(多分)安心☆ なお、前回の書き直しの際には間違えていた箇所をお蔭で二つも気づけたのだから、却ってよかったともいえる。
さて、内田郁太『柑橘の栽培』(1907年)を繙いてみると、「種類」章の「[艹+欒]類 Citrus decumana (shaddock)」のところに「内紫」「文且」、そして「文且類中最も上等なるもの」として「絹皮文且」(名前からして、果皮が滑らかなのだろう)が挙げられている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/840088/25
「福羽説」は採らず、旧来の品種名によっている。かなは振られておらず、何とよませたいのかはわからない。そして注目すべきは、これの二つ前の「來歴」章。
まず柑橘類については、「皆な其の始〈はじめ〉を支那に致せるものなるも、其の年代に至りては、種類を異〈こと〉にすると共に異なるものにして、中には雲を摑み風を捕ふるが如きものありて確知する事能〈あた〉はずと雖〈いへど=いえど〉も、今ま史乘に表れたるもののみを摘記すれば大約〈おほよそ=おおよそ〉次の如きものたり。」として、結構詳しく説いてある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/840088/13
その中の「文政五年清國浙江省寧波の商船暴風に出會して、偶然駿河灣に漂入し、恰も今〈い〉まの清水港に漂着せし時、折戸村の住人、いまの柴田幸太郎氏の祖先權左エ門とて當時〈たうじ=とうじ〉此の地の名主たりし人、之等〈これら〉の船員を救助せしが、其の時彼等の殘し置きたるもの、即ち今日稱〈とな〉ふる所の寧波金柑なるもの之れなり」という話は、「謝文旦」の伝説を彷彿とさせる。
そしてその次の「夫れより降〈くだり〉て天明の頃に至り、亦〈また〉もや支那より文旦の類〈たぐひ〉を傳來〈でんらい〉したり」という一文に一層興味を惹かれる…
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/840088/14
…のだが、「寧波金柑」が伝わった1822年よりも時代が下って、というくだりが正しいのならば、1781年の四月から1789年の一月に当たる天明年間というのでは話がおかしくなってしまう。察するに、これは恐らく「天保の頃」、つまり1830年(改元は十二月)〜1844年のあたり、の誤りだろう。だとすれば、「コトバンク」に載っている「謝文旦」伝説の安永元年(1772年)より半世紀以上も後のことになる。
いずれにせよ、やっとのことで「文旦」渡来に関する逸話がひとつ見つかったものの、残念ながらこれも典拠が示されていない。
佐藤益助+佐藤寛次『果樹栽培法』(1907年)の「仁果類」章「柑橘類」節中「種類」のところに「變類 夏橙。日向夏蜜柑。香欒等」とある。「變類〈へんるい〉」って……。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/840056/72
その後には種類別に品種の説明が載っているのだが、こちらには「變類」として「夏橙〈なつだいだい〉」「日向夏蜜柑」「朱欒〈うちむらさき〉」「香欒〈じやぼん〉」「檸檬〈れもん〉」「佛手柑〈ぶしゆかん〉」が載っている…
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/840056/77
…が、「朱欒」「香欒」以外は「欒類」とは違うのでは……??? 校閲者の農学士氏のチェックもれかしらん……。ともかく、この本はまたもや「福羽説」派だ。沿革はない。
気を取り直して、今度は柘植六郎『實驗果樹園藝新書』(1908年)をみてみると、「栽培」章「柑橘(THE CITROUS FRUIT)(<綴りが惜しいw)」中の「種類」節に「文旦〈ぼんたん〉類 (Citrus Decumana.)(Pomelo. Shaddock.)」があり、…
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/840132/69
…その「文旦類」として「文旦〈うちむらさき〉」「朱欒〈じやぼん〉」の二つが挙げられている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/840132/72
ということで、無論これは旧来の品種名なのだが、「文旦」を「〈ぼんたん〉」とよんだり「〈うちむらさき〉」とよんだりしている、ということになってしまう。これでは生産現場を混乱させてしまいそうで心配になる。
なお「位置及由來」節には、「柑橘類は種類頗〈すこぶ〉る多くして其元種も一ならず從つて之が元産地の如きも同一ならず又天然に其間に生じたる雜種ある等複雜なる關係あるを以て明〈あきら〉かならざるも甜橙(Orange)の類は支那より歐洲に傳〈つた〉はりたるものの如く其他の種類も亞細亞〈あじあ〉南部の暖地より出〈いで〉て漸次東西に擴〈ひろ〉がりたるものの如し」「本邦に於て之れを栽植したる起元も亦遠くして明かならざれども」とあるばかりで、「文旦類」については何も書いていない。
恩田鐵彌『實驗園藝講義』(1909年)の「果樹」章「柑橘」節「品種」の中に、「文旦ハ内地産トシテハ高知、鹿兒島ノ二縣最モ稱スヘク臺灣産ニテハ蔴荳文旦ハ果形小ナルモ果皮薄ク甘味ニ富ミ文旦中ノ最優品タリ」と書かれてある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/840131/74
この「内地産」の中身が何色かはわからない。果樹教科書に「文旦」として「麻豆文旦」も「麻豆紅柚」も出てきたことを思えば、両方を含むのかもしれない。
佐々木祐太郎『果樹教科書』(1909年)「仁果類」の「柑橘類」章に「[艹+欒]類(Pomelo and scahddock)(<「Shaddock」と書きたかったのだろうw)」があり、学名は「Citrus decumana, L.」として、「ウチムラサキ」「ザボン」の二種を本邦栽培種として紹介している。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/840039/77
品種の漢字表記はない。無論、伝来のことも何も書かれていない。
柄沢照覺『萬代應用日本農家暦』(1910年)をみると、「果樹栽培法」の「柑橘類」のところに「柑橘類〈かんきつるゐ〉中〈ちう〉主〈しゆ〉なる種類〈しゆるゐ〉は密柑〈みかん〉佛手柑〈ぶしゆかん〉朱欒〈しゆらん〉橙〈とう〉金橘〈きんきつ〉等にして就中〈なかんづく〉密柑〈みかん〉には品種〈ひんしゆ〉頗〈すこぶ〉る多〈おほ〉し」とある(まさか「朱欒橙」とくっつけるのではないだろう)。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/839065/40
沿革記事など望むべくもない解説文の短さ。
宮下正男『實用果樹栽培新書』(1911年)は合本版かと思うが、「下編 各論」の「かんきつ 柑橘」節に「朱欒類〈じやぼんるい〉」があって、「朱欒」「文旦」の二つが出てくる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/840153/104
「文旦」のよみは書いていないが、解説からして「うちむらさき」だからこれは旧来の品種名だ。沿革は節のはじめのところに、「本邦〈ほんはう〉之〈こ〉れを栽植〈さいしよく〉した紀元〈きげん〉も亦〈また〉甚〈はなは〉だ遠〈とを〉くて明〈あきら〉かでない」、と柘植六郎『實驗果樹園藝新書』にそっくりな書き方がしてある。
その二つ後の「變種類」というのが目に入った瞬間、あ、さっきの佐藤益助『果樹栽培法』にあった「變類」というのは、実はこの意味だったのかも、と気づいた。それにしても「變類」って……やっぱりちょっと「變」じゃない?ww
富益良一+鈴木敬策+田中萬逸『實用園藝前書』(1911年)「前編 實用的園藝」中「下 果樹園藝」の「各論」編「仁果類」「柑橘類」節に「[艹+欒]類」があって、「文旦(朱欒〈うちむらさき〉)」「香欒〈じやぼん〉」の二つが載っている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/840150/221
というわけで、この本は「福羽説」を採っている。「[艹+欒]類」の伝来説は書かれていない。
もうひとつ、まだ補修作業をやっていない明治末の博物掛図に「朱欒〈ザボン〉 CITRUSDECUMANA」の図があるのを思い出した。やはりずーっと引用ばかりで絵がないとサミシいので、ここに掲げておこう。
これは旧来の品種名。今回記事トップの、この掛図全体図でご覧のとおり、ほかの柑橘と違って葉っぱも枝もついていない果実がごろんと転がっているあたりに、やはり帝都からの産地の遠さを感じさせる。
☝☟東亞教育畫館『博物界一覽』(明治42年(初版) 東亞教育畫館)
ということで、「ザボン」「ブンタン」の伝来が載っていないかめくってみた明治年間の資料はこれでおしまい(同じ著者の改訂版もチェックはしたが、どれも「ザボン」「ブンタン」類の記述は変わりなかったので省いた)。
なお余談だが、1906年の夏に出た『地學雜誌』第二百十二號に田倉紋藏「奄美大島誌料」という論文が載っているのだけれども、これの「氣候」のところ(p. 567=PDF三枚目)に「土地最南に位するだけ、熱地の植物よく繁茂し、椶櫚〈しゆろ=しゅろ〉、蘇鐵〈そてつ〉、芭蕉、橄欖〈かんらん〉科の類頗る多く柑類は最もよく育つ、蜜柑、金柑、柚、文旦、橙等到る處〈ところ〉に産せざるはなし、殊に人頭大の黄色なる文旦が疊々〈じやうじやう=じょうじょう〉として(<つまり「重なり合うように」)枝に滿ちたるは勇ましき有樣なり。(鬼界島の文旦及九年母は味殊に賞せらる)文旦は皮の裏面は内紫にして淺紫色を帶び、美〈うる〉はしきこと言はん方なく、其肉は白く水氣多くして酸味を含み、酒を侑〈たす〉くるに最も妙なり。」という記述がみられる。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/18/8/18_8_565/_article/-char/ja
酒が進む美味しさ、というのが面白い。肉瓤が薄紫を帯びた、いわゆる「うちむらさき」なのに白肉系、というのは前回紹介した『台南區農業專訊』誌の「台灣柚類品種果實特性介紹」にも見当たらず、もしかすると珍しい品種なのかもしれない。
さてお次は大正期のを……、と思ったのだが、奄美大島特産の(酒がすすむw)「文旦」の話を読んで、その前にどうしても気になって仕方がなかった「朱欒」と「香欒」について(そして恐らく「白欒」と思われる、「謝文旦」伝説にいう「白らん」なるものも)、早いところ調べておきたくなった。
これまでみてきた資料の内容を踏まえ改めて考えてみれば、園芸家に限らず明治期の日本人にとって「文旦」といえば、新たに版図に組み込まれた南の島・台湾から間もなく船で山のように運ばれ始め、後には皇室の「御用文旦」に指定されるほどの好評を博するようになった「麻豆文旦」のことだったに違いない。そして、それは確かに肉瓤も瓤嚢も薄紫ではない白肉種だし、甘味強く香り高いのがウリだ。
もしも福羽の手に取った文献資料に、なぜ「朱欒」が「文旦」で「香欒」が「ザボン」なのか、という理由を示す記述がひとつも見いだせなかったとしたら、彼が「さては誰かがどこかで間違えて、実は本来とは逆の名前になっているんじゃないのか!?」という考えを抑えきれなくなり、彼の新説を読んだ当時の柑橘栽培家や農学家が雪崩を打って追随したくなるのも無理ないよね、という気さえしてくる。
もはや憶えておられる方も少ないだろうけれども(それ以前に、こんな長ったらしい「モノ日記」を読んでやろう、と思われる方の数そのものがまず少ないよね、ってのはおいといてww)、前々回の記事で大槻文彦が『大言海』で二つの「ザボン」、つまり「朱欒」「香欒」を立項しているのをみたところから始まった話の脱線、それが前回の記事で台湾に伝わる「文旦」にまつわる伝説を辿る横道へ逸れ、そのうちの一つ鹿児島の「謝文旦」伝説の出どころを求めて国会図書館デジタルコレクションの森をさまよっている途中で、今回そこからさらに脇道裏道獣道へと迷い込んでいくことになってしまう……のだが、そのあたりが「研究論文」ならぬ、無軌道無計画極まる「研Q論文」たる所以〈ゆえん〉、とお諦めいただくしかないwwww
とにかく、肉瓤も瓤嚢もちっとも紅紫色をしていない白肉種に、なぜ紅肉系を思わせる「朱欒」などと名づけたのか? そもそも、「朱欒」「香欒」とはどんな柑橘を指すことばだったのか???
もしそれが明らかになるとすれば、「福羽説」派が続出した一方で、十九世紀と変わらず「朱欒=ザボン」「香欒=うちむらさき」説を枉〈ま〉げなかった人々もまた少なからずあったがために、おそらくはその結果として辞書の語釈が大混乱〈カオス〉に陥るに到った原因も、もしかしたら見えてくるかもしれない。
さて、第一回の始めの方で取り上げた『有用植物圖説』の「うちむらさき」解説のところ、植物名の下の方に割注で「質問本草」とあったのにお気づきになった方はおられるだろうか。
ほら、これこれ。まぁフツー目に留まらないよね(実は図版研でも、昭和初期の辞書がカオスになっていることに気づくまでは、ぜーんぜん意に介していなかったのだったww)。
☝☟田中芳男+小野職愨+服部雪齋『有用植物圖説』圖畫卷一+解説卷一(明治40年四版 大日本農會)
『質問本草』とは、十八世紀に第八代薩摩藩主を務めた島津重豪が、自身が設立した薬草園に命じて編ませた、当時藩内で手に入る植物の薬効について図解した薬用植物学書なのだ。
念のため説明しておくと、本草学とは植物をはじめとして動物・鉱物も含めた自然の産物のいずれが、人間を苦しめるどのような病を治し、また養生を扶〈たす〉け健康を保たせるのかを究める学問で、かの『三國志演義』の舞台となっている後漢〜三国(魏・呉・蜀)のころに、『神農本草經』という本草書
https://www.pharm.or.jp/dictionary/wiki.cgi?%E7%A5%9E%E8%BE%B2%E6%9C%AC%E8%8D%89%E7%B5%8C
が成立したあたりがそのはじまりとされる。それから百何十年か後の南北朝時代、南朝側の梁の国に現れた薬物学に通じた道士・陶弘景によりその本格的な校注書である『本草經集注』
https://ctext.org/searchbooks.pl?if=gb&searchu=ctp:work:wb987826#ctp:wb987826
が編まれ、時代がくだるにつれてそれに増補が重ねられて発展してきた、東洋の博物学とでもいうべき学問だ。
さてこの『質問本草』、薩摩藩の薬草園で各植物の写生と標本とを揃えさせ、それらが漢方でいうところの何に当たり、どういう薬効があるのかについて、清の老舗薬店へわざわざ人を遣わしてひとつひとつ尋ねさせ、得られた答の報告書をもとにまとめられたからこの名があるという。
同書について詳しく取り上げている、「ブックレット〈書物をひらく〉シリーズのひとつとして去年刊行された『江戸の博物学』という本によると、清朝康煕年間の1669年北京に開業した同仁堂藥室
https://www.tongrentang.com/index.php?menu=14
を訪れたのは、当時薩摩藩の支配下にあった琉球からの留学生たちだったそうだ。
ここにも説かれているように、元々が植生の異なる異国で興った本草学を、どのように日本の実情に合うようカスタマイズするか、という課題に挑戦する企画だったわけだ。
☝☟高津孝『江戸の博物学—島津重豪と南西諸島の本草学—』(2017年初版第1刷 平凡社)
著者は琉球の「呉継志」という人とされるのだが、彼についての記録が全くなく、謎に包まれていた。琉球大学附属図書館サイト「仲原善忠文庫」の「質問本草」解説にあるように、尚王朝御典医の島袋憲紀のことではないか、という説と、架空の人物では、という説とに長年意見が割れていたのだそうだ。
http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/d-archive/s/viewer?&cd=00020410
ところが近年になって、鹿児島大学附属図書館に島津家分家のひとつから1951年に収蔵された書物文書類からなる「玉里文庫」に含まれていた写本に、「呉継志」なる人物は実在しないことを、その名の意味するところも含め明言した序文があることがわかったのだという。それは、薩摩藩のとある深謀遠慮による画策だったのだが、ご興味がおありの方は同書をお読みいただくとしてw こちらはこちらの話を進めよう。
彩色写本として島津重豪に献上された『質問本草』は1837年、その曾孫に当たる、後の第十一代藩主・島津斉彬により「内篇」上下卷+「外篇」上下巻+「附録」の計五冊からなる、「天保本」と通称される刊本が出された。その「附録」には内地では採れない、南西諸島産の植物二十二種が載っているのだが、その中に「文旦」があるのだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2556215/11
丁の裏側に解説が添えてある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2556215/12
「文旦」は枝も幹もよく成長する樹である。花や葉の形は香欒と変わらない。果実は大きく、直径は十五〜十八センチメートルくらい、果皮は表面が黄色く内側は薄紅色だ。表面は滑らかでその味は甘酸っぱく、香欒よりも美味しい。浙江から渡ってきた船から譲られた種が元になり、現在ではあちらこちらで栽培するようになった。朱佩章が『偶記』の中で、福建の福州が文旦の産地、としている。その後に美味い「柚」だ、と書いてあるのは、つまり「文旦」のことをいっているのだ、と、こんなふうに説明している。
なるほど、「文旦」は、確かに「うちむらさき」っぽい(薬効については何も触れられていないけれどもww)し、「香欒」とは明らかに別の品種のようだ。そして福建浙江からの(おそらくは交易)船に積まれていた種が最初で、そこから広まったこともわかる。
ついでに、引用されている朱佩章
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%B1%E4%BD%A9%E7%AB%A0-1081815
の『偶記』写本も眺めておこう。「食用出産」、要するに食料の産地についての章のところを読んでみると、あら? 「福建移州出〔文旦〕而美柚也」と書いてある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536388/24
どうして地名が違うのか……??? まぁ何はともあれ、福建で「文旦」を栽培していたらしいことだけは確かなようだ。
なお参考までにメモっておくと、『欽定四庫全書』に含まれる『欽定續通典』卷百二十八「州群八』に「宋三」章として宋代の地名がずらずらっと載っているのだが、そこを検索してみると一つ目の「福建路」の六つの州の第一として「福州」が出てくる(十四行目)。
https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=352812
一方の「移州」も検索してみると、三つ目の「潼川路」にある九州の第四「敘州」の中の二十の「縻州」(多分これは地名ではなくて、 歴代王朝の支配種族によるそれ以外の種族を統制する手段だった「羈縻政策」
https://kotobank.jp/word/%E7%BE%88%E7%B8%BB%E6%94%BF%E7%AD%96-51431
により設置されていた「羈縻州」—要するに少数民族自治区みたいなモノ—のことではないかと思う)の九番目にあることはある(百十五行目)……のだが、しかしこの一節の冒頭にある「南溪郡」というのは現在の四川省宜賓市南溪區のあたりになる
http://www.cidianwang.com/lishi/diming/5/61585ur.htm
らしいので、これは違うんじゃないかなー、という気がする……あーもーわからん。やめやめっっっ。
さて、それに続いて「漳泉潮州出〔紅柚〕肉色紅如[月+因]脂」とある(「[月+因]脂」は「臙脂」のこと)。これも紅肉系の「ザボン」「ブンタン」の類いだろう。漳州、泉州、潮州はいずれも福建の地名で、特に前の二州は今日でも「漳泉」とひと括りにされる地域で、台湾に移住した漢人の多くがその出身らしく、言葉も似通っているそうだ。
https://www.taiwanus.net/history/1/58.htm
ただし台湾の河洛語については、移入の後に受けたオランダや日本による殖民地化による影響が強く、その分だけ大陸の方言とは違いがあるという。
そうそう、「漳州」で思い出したが、『大言海』の「ブンタン」項の終いに載っていた引用箇所も、この際ついでにみておこう。『漳州府志』卷六「物産」章「果之屬」節の四つ目、「柚」のところだ。
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=107593&page=338
漳州小溪縣産の「柚」はたいそう甘いのだが、そのうちでも最も優秀なものを「文旦」と呼んでいる。長泰縣産の「柚」は爽やかな風味の白肉種でオススメだ。とはいえ、溪東で採れる品種はそれよりさらに味がよい。ただし、優秀品種をほかの土地へ移植しても、たいがいは質がおちてしまうものなのだ。前に挙げたほかにも、桂花・後門・猴相という品種もあって、これらもまた美味しいのだが、その樹を移植しようとして伐り倒して持ち去ってしまう者が毎年あとを断たない。
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=107593&page=339
……と書いてあるのではないかと思うのだが、終いの方はあんまり自信がない。何しろ華語に堪能な者が図版研にいるでなし、持てる限りの貧弱な知識を結集し怪しげな漢文読み下しの要領を駆使してだいたいの意味するところを摑み、よくわからない箇所はぐーぐるセンセに英訳していただいた上で「漢語網」
http://www.chinesewords.org/
などのオンライン辞書サイトその他で一応確認し、それをテキトーにそれらしく日本語にしているのだから、その一言一句を間違いないものと信じ込んでしまわれたりするのは、塀の上で眠っているどら猫の尻尾を手がかりによじ登ろうとするようなもので、危険きわまりない。
それはさておき、「朱欒」「香欒」は本草書に由来する語らしい、ということがもんやりみえてきた。そこでこの分野を扱った、他の著名な文献にもいくつか当たってみようと思う。
とはいえ、それらは江戸期以前に刊行されたものばかりで、図版研のコレクション対象である「明治〜昭和初期」のものにはその覆刻版があるだけだ。しかも、何十冊もの大部に及ぶ貴重書を元にしているがゆえに、戦前図版資料を蒐集する乏しい元手を補うために所員の生活費すらぎりぎりのところまで削って充てているような現況にあっては、そうしたものすら収蔵するのは非常に難しい。
そんなわけで、またもやヨソサマのコレクションを渉猟せざるを得なくなるのだけれども、その前に僅かながら当研Q所が架蔵している関連資料を、まずは掲げておくことにしよう。
十世紀に編まれた辞書を、十九世紀初期に有名な考証学者が山盛り註釈を加えてまとめなおした本を、明治初期に活版で覆刻したもの。そのうちの果物について扱っている「果蓏〈から〉部」のところに「柚」項がある(以下、割注になっている部分は〔〕で括ってある)。
『爾雅』の注に「柚」という果物が出てくる〔音よみは「いう(=ゆう)」、反切は「以」+「臭」。「臭」とあるから解釈と合っている(<……かな? 間違っているかもしれない)〕。別名を「樤」という〔音読みは「じやう(=じょう)、訓よみは「いう」。『説文解字』には「柚は條を指す。橙に似た柑橘だが酸っぱい」とあり、『爾雅』には「柚または條を「樤」と書くのは俗字である」とも書いてある。『和名抄』の「下總本」には訓よみとして二文字の和名が載っているが、これは多分間違いだろう。「廣本」にも和名があるが、『本草和名』には出てこない。同書編者の深根輔仁が載せておらず、本書を編んだ源順も訓が「いう」とはしていないことから考えて、つまり「いう」というのは和名ではなく音よみ、ということだろうと思われる〕。
橙に似ているが酸っぱい柑橘で、江南に産する〔釋木郭が「橙に似た酸っぱい柑橘を江南で栽培している。(『書經』に含まれる地理書)『禹貢』には「楊州で採れる「包」は「橘柚」のことで、皇帝御用達となっている」」とある。『古文孝經傳』には「小さいのが「橘」、大きいのが「柚」とある。『太平御覽』には「「柚」は「橘」の大きいもののこと、橙色をしていて酸っぱい」という風土記からの引用がある。『本草蘇注』には「「柚」は皮が厚くて甘味があり、「橘」の皮のようにぴりっとして苦かったりはしない。その果肉は「橘」に似ていて甘酸っぱい。なお、これの果肉が酸っぱい種類は「胡柑」という」とある。『本草圖經』には「閩中、嶺南、江南の各地方にはどこも皆「柚」がある。果実は「橘」に比べるともっと薄い黄色で大きい。唐代の襄州で栽培していた「柚」は緑色を帯びた黄色で、もっと小さいものだった。いずれも酸っぱく、皮が厚い」とある。『本草綱目』には「「柚」はその樹も葉っぱも「橙」に似ていて、その実が大きいのと小さいのと二種類ある。」とあって、それから「「橙」は「橘」の仲間で、だから果皮には皺があって分厚くよい香りがし、その味は苦くてぴりっとする。一方「柚」は「橙」の仲間で、ゆえにその果皮はでこぼこしていてよくない臭いがし、その味は甘味があってぴりっとする。このようにその特徴をとらえれば「柚」が見分けやすい。」とも書いてある。」と註釈している〕。字音及び意味 「柚」は「櫾」とも書く〔『經典釋文』にもそう書いてある〕。『山海經』にこの字が出てくる(<かな?)〔同書の「中山經」の中に「「荊山」には「橘」や「櫾」がたくさんある」とある。その注として「「櫾」は「橘」に似ているが大きく、果皮は分厚くて酸味がある」と書いてある。また「「綸山」には……(<以下、「銅山」「葛山」「賈超之山」「洞庭之山」と「櫾」が生えている山名+その樹名がいちいち列挙してあるが省略ww)。『説文解字』をみると「柚」は「條のこと、「橙」に似た酸っぱい柑橘」、「櫾」の方は「崑崙の河の岸辺に生えている背の高い木」とあって、この二つの字は別物ということになっているが、『山海經』では「櫾」は「柚」の仮借字扱いになっているから源順はこう書いているのだ。」
……という具合に「「櫾」は「柚」と同じなのか違うのか」という、まるで「ザボン」と「ブンタン」研Qのような考察を棭齋センセがえんえんやっておられるのだが、お読みになっている方もいー加減うんざりなさったことと思うけれども、書いている方もさすがに飽きてきたので、「柚」の解説翻訳はこの辺で打ち切りwwww あ゛ーく゛た゛ひ゛れ゛た゛ーーー
なお、次の「櫠椵〈はいか〉」についてすっ飛ばして書いておくと、「柚屬也」とあるようにこれも「ザボン」「ブンタン」の類いらしく、俗に「ゆかう」と呼ぶ、とも書いてある。ただし、引用されている「最古の辞書」ともいわれる『爾雅』
https://kotobank.jp/word/%E7%88%BE%E9%9B%85-72330
の註釈本らしい『爾雅郭注』をみると、実は「櫠」「椵」という二つの字を、源順が誤って一つにつなげた単語として書いてしまっているようだ、と棭齋センセが解説しておられる。
続いて『本草綱目』にある「朱欒」「香欒」の説明も載っている(これについては改めて取り上げる)。しかし、ここで一番肝腎なポイントは最後の部分「今人呼爲朱欒、形色圓正、都類柑橙、但皮厚而粗、其味甘、其氣臭、其瓣堅而酸悪、不可食、其花甚香、小野氏曰、可以充今俗呼爲坐盆者」、つまり「現在「朱欒」と呼ばれる柑橘はまんまるな柑橙の類いだが、その皮は厚くてでこぼこしており、甘味があって臭いはよくなく、堅い上に酸っぱくてまずく食べるのには向かない。今日一般に「ザボン」と呼んでいる柑橘はこれと同じものだ、と小野蘭山がいっている。」ということなのだ。
☝☟源順+狩谷望之(棭齋)『纂註和名類聚抄』卷第九(明治16年出版版權御屆 印刷局)
いささか消耗したので、続きはまた次回。
追記:今回の記事を改めて眺めてみて、どうも図版が妙に少な過ぎ……と思ったら、博物図教授書について取り上げるのをサワヤカに忘れていた。ということで、ちょこっとだけ追加。
「蓏果〈らか〉類」、つまり果物(果菜の類いも含む)について扱っている『第二博物圖』
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/detail/detailArchives/0201010000/0000000009/00
は明治六年に文部省が刊行して各地の小学校へ配布したのだが、これのタイトルの真下という、かなり目立つところに「ザボン 朱欒」が載っている。
そろそろ桁溢れらしいので、続きは次回。
#コレクションログ
#比較
図版研レトロ図版博物館
「科学と技術×デザイン×日本語」をメインテーマとして蒐集された明治・大正・昭和初期の図版資料や、「当時の日本におけるモノの名前」に関する文献資料などをシェアリングするための物好きな物好きによる物好きのための私設図書館。
東京・阿佐ヶ谷「ねこの隠れ処〈かくれが〉」 のCOVID-19パンデミックによる長期休業を期に開設を企画、その二階一面に山と平積みしてあった架蔵書を一旦全部貸し倉庫に預け、建物補強+書架設置工事に踏み切ったものの、いざ途中まで配架してみたら既に大幅キャパオーバーであることが判明、段ボール箱が積み上がる「日本一片付いていない図書館」として2021年4月見切り発車開館。
https://note.com/pict_inst_jp/
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