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鳩あれこれ@昭和初期の原色動物図鑑
前に空撮用の「鳩カメラ」を取り上げた https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/items/138 が、そういえば当時我が国ではどんなハトが紹介されていたのだろう? とふとおもって動物図鑑の鳥類編を引っ張り出して、「鳩鴿目」つまりハト目のところを開いてみたら思いの外、図版だけみてその名前が言い当てられないものでいっぱいだった。だいぶ前にモノ日記の(中断したままになっている)「ザボンと文旦」稿 https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/diaries/19 のなかで引用した一冊もの図鑑の別ヴァージョン6巻組の端本。彩色図版は特に、あのメタリックな羽の色つやがうまい塩梅に表現されているとおもう。 1枚目の上半分にあたる2枚目アオバトのうち上段のふたつは日本産、下段のふたつは南洋諸島の産。1枚目下半分を拡大した3枚目は左側のボタンバト・カルカヤバトがマレー半島からスンダ列島にかけて分布。右上のカラスバトは国産種で、この図鑑には「本州・四國・九州の南部沿岸の諸地方並〈ならび〉に琉球の北部に分布してゐる。」とあるが、現在では離島にしかいないらしい。 https://db3.bird-research.jp/news/wp-content/uploads/2016/04/13_4_janthina.pdf 右下のカワラバトは街中でもっとも普通にみられるドバトや伝書鳩などの原種。この本の解説では「我國にては、往時は本州より沖繩までの各地に、棲息せし種類なれど、現時は四國・沖繩などの海岸に少數を見るに過ぎぬ。」と書いてあるが、山階鳥類研究所『ドバト害防除に関する基礎的研究』 http://www.yamashina.or.jp/hp/kenkyu_chosa/dobato には、日本鳥類學會会長を務められた黑田長禮の図鑑『鳥類原色大圖說』の中で見間違いとされている、とある。 http://www.yamashina.or.jp/hp/kenkyu_chosa/dobato/hato11.html で、同書第三卷(昭和9年(1934年)刊)を引っ張り出してみたらたしかに、「743 かはらばと」のところに「嘗て本州・琉球・臺灣等より報吿あるものは總べて家禽となれる「どばと」中にて「かはらばと」に類似の羽色のものを誤稱せるによる。」と書かれていた。当時の博物ギョーカイと鳥類ギョーカイとで意見が割れていた、ということだろうか。 4枚目はどれもカワラバトを品種改良したもので、原形とは似ても似つかない愛玩種もある。上半分を拡大した5枚目の左上が伝書鳩で、解説には「我國へは、白耳義〈ベルギー〉の品種が輸入され、其〈その〉雜種又は原品も輸入せられてゐる。」とある。右上のドバトの方には、「現今數百の品種があり、愛玩用・食用・傳書用として、利用される有用の鳩である。何れも原種カハラバトより淘汰改良をうけて生ぜしもので、羽色にも種々あり、黑色・白色・黃色・黑白斑・蒼色二引・鞍掛などがある。我國では、多く神社・佛閣に飼養せられてゐる。」と解説されているが、昭和中期以降有害駆除がはじまったそうで、人間が手前勝手にこの島に持ち込んでおきながら今やすっかり害鳥扱いだ。 http://www.yamashina.or.jp/hp/kenkyu_chosa/dobato/hato221.html 5枚目のやや地味なひとたちは左上から、俗にヤマバトとも呼ばれる、当時「鳩類中最も普通に見る種類」のキジバト、その隣が屋久島から琉球諸島にかけて分布しているリュウキュウキジバト、2段目左が台湾や支那に多いカノコバト、次のジュズカケバトは現在では中央アフリカ産のバライロシラコバトから派生したとされているようだ http://www.ax.sakura.ne.jp/~hy4477/link/zukan/tori/juzukakebato.htm が、当時は「原産地は、北亞弗利加〈アフリカ〉か、印度・小亞細亞〈アジア〉であるとの說がある。」という認識だったようだ。次の「べにじゅずかけばと」というのは解説に書かれている学名と「「スマトラ」・爪哇〈ジャワ〉に産し、飼鳥として舶來する。」という一節からして、スンダ列島にいるオオベニバトのことのようだ。昭和31年(1956年)に埼玉県の鳥に指定されたシラコバトについては、「小亞細亞・土耳古〈トルコ〉・印度・「ビルマ」・支那等に、棲息してゐる。往時は我國にも、廣く各地に分布せしも、現時は、埼玉縣・千葉縣に亙る、江戸川筋の御獵場と其附近に限り、棲息するを見るのみである。」と書いてある。なおこれもまた、当時は「じゅずかけばと」と呼ばれていたらしい。コブバトは南洋、ベニバトは「「ビルマ」・交趾支那〈こーちしな〉・「ヒリツピン」・支那・西比利亞〈シベリア〉東南部地方、滿洲等に分布し、我國にては、臺灣にのみ多く棲む。」とあるが、現在は南西諸島にもいるようだ。 https://www.birdfan.net/pg/kind/ord10/fam1001/spe100106/ 7・8枚目はモノクロ図版だが、よくみると実は墨単色刷りではなく二色版でことがわかる。「すずめばと」は「南米「コロンビヤ」・墨國〈メキシコ〉の東南部に棲息してゐる。」とあるが、学名からして今いうフナシスズメバトで、「南「アリゾナ」・南「テキサス」・「カリフオーニア」・墨國等に分布してゐる。」とある「しゅばしすずめばと」の方が今日のスズメバトのことらしい。ケアシスズメバトは中南米の暖かい地方の産で、当時飼い鳥として輸入されることもあったようだ。チョウショウバトはマレー・フィリピン・スンダ列島・タイなどにいて、古くから日本へも飼い鳥として持ち込まれていたそうだ。ベニカノコバト・ウスユキバトはオーストラリア方面から輸入されていた当時の人気品種。ヒムネバトはフィリピン産で、こちらは稀に輸入されることもあったという。キンバトは印度からニューギニアにかけて分布していて、琉球南部や台湾にもいる、と書いてある。ショウキバトとレンジャクバトはオーストラリア産、シッポウバトはアフリカ産、当時は「さざなみすずめばと」と呼んだサザナミインカバトは南アメリカ産で、いずれも輸入飼い鳥として人気があった。カンムリバトはニューギニア西部とその周辺にいると書いてあるが、19世紀初頭に描かれた絵巻物『外國珍禽異鳥圖』にも出てくる。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286746/3 キンミノバト、ソデグロバトはいずれも東南アジアの産だが、当時愛玩用として 稀に輸入されていたという前者は島部にしかいないそうだ。http://www.ax.sakura.ne.jp/~hy4477/link/zukan/tori/kinminobato.htm 1920年代、大正後期から昭和のはじめにかけて飼い鳥ブームが起こり、さまざまな珍しい鳥がさかんに輸入されたから、図鑑にもそうした興味を惹きつける図版が必要とされたにちがいない。
内外動物原色大圖鑑 第二卷 昭和13年(1938年) 昭和11年(1936年) 原色版図版研レトロ図版博物館
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ガラス製レトルトの肖像@明治初期の薬学系無機化学入門書
今日「レトルト」というと、銀色のプラ袋に密封されたカレーとかが条件反射的に思い浮かんじゃう人の方が多いのでは、とおもうのだが、本当はそれは「レトルト食品」の略であって、そうしたプラスティック容器に密封された食品を加圧加熱殺菌するための釜の方が「レトルト」そのものなのだ。 複層のプラ袋に入った常温保存可能な食品製品は、我が国では昭和43年(1968年)に発売された大塚食品の看板商品「ボンカレー」が最初とされるが、同製品特設サイトの記事によれば、これはアメリカの包装資材専門誌に載っていた軍携行食ソーセージ用パッケージの記事にヒントを得て、釜や袋の設計から独自開発された世界初の市販レトルトパウチ入り食品だったという。 https://boncurry.jp/column/brand/667/ なお、現在のレトルト食品がどのようにして作られているかについては、北海道大学水産科学研究院で公開しておられる動画がすっごく懇切丁寧な解説でわかりやすいので、ご興味がおありの方は是非ドウゾ。 https://repun-app.fish.hokudai.ac.jp/course/view.php?id=976 最後に1本だけ載っている「裏側」に出てくる缶入りーヒーの「デザイン缶」のお話など、「へぇ〜、そうだったのか〜」とおもわず感心してしまう。 ところで「レトルトパウチ」という名は英語の 'retort pouch' からきているのだろうが、フツーに考えれば「リトートパウチ」と音写されそうなものだ。それが「レトルト」となっているのは、実は幕制時代の蘭学ですでにこの語が、同じ綴りのオランダ語として入ってきていたのを引き摺っているかららしい。 https://www.kandagaigo.ac.jp/kuis/essay/7719/ ただしここ☝にも書かれているとおり、この「レトルト」は加圧殺菌釜ではなく、蒸留器を指していることばだった。 https://books.google.co.jp/books?id=gbBZAAAAcAAJ&pg=PP10&lpg=PP10 宇田川榕庵の『舎密開宗』をみてみると、たしかに「列篤爾多〈レトルト〉」というのがぞろぞろ出てくる。なお、ここに出てくる「蒸餾」というのは、「蒸留」の古い書き方。 「長い曲がった首のついた『蒸留器』」といえば、ウィスキーなどの製造工場にならぶ巨大な銅製のポットスティルを思い浮かべられる向きもあるかもしれない。 https://tanoshiiosake.jp/6163 お酒の単式蒸留は、原理としては全く同じだから、それは当を得た連想、ということになる。 https://www.suntory.co.jp/whisky/museum/know/jouryu/houhou1.html ただ、「レトルト」は元々ガラスでできた、もっと小さな容器だった。 ……と、まぁここまではググれば誰でもわかることだけれども、じゃあそのガラスの「レトルト」をどうやって使っていたのか、というのは何に載っているのかわからないと、なかなか見つけられないのではないかしらん。 西洋の古いものは、錬金術や化学史などの図版などにはときどき出てくるから、まだ目にする機会もあろう。 https://etherealmatters.org/media/7 だが、もっと時代が下って日本に持ち込まれた後のものとなると、却ってむずかしいかもしれない。 ということで前振りが長くなったが、今回は明治10年代に描かれた化学実験装置として登場する、細密な木口木版画による「レトルト」たちの姿をいくつかご紹介しよう。 1枚目は「尋常燐酸」(H3PO4)をつくる装置。硝酸(HNO3)を入れた「有喙レトルト」に赤燐(P)を加えて、沸騰させないように注意しながら加熱し、水で冷している右手の「受器」に蒸発したものを液体に戻しつつあつめているところ。 炉の熱源は炭火で、本文には特に解説されてはいないがレトルトのおしりに均等に熱が加わるよう、熱伝導率の高い耐火材のお皿が組み込まれているマッフル炉(間接炎式炉)とおもわれる。空中からいきなり生えているような蛇口が、なんともシュルレアリスティクな感じ。 2枚目は少量の臭素(Br2)をつくる装置。「臭化那篤𠌃謨」(臭化ナトリウム NaBr)と褐石(軟マンガン鉱のこと、つまり二酸化マンガン MnO2 https://www.flickr.com/photos/lab_for_retro_illust_japan/34197978436/in/album-72157681160012770/ )とを入れたレトルトに硫酸(H2SO4)を注ぎ込んで「重湯煎」で熱し、水冷している「受器」にあつめている。少し後ろに出てくる、「沃度化加𠌃謨」(ヨウ化カリウム KI)と「過酸化滿俺」(過酸化マンガン MnO2)との「混和物」へ硫酸を加えて同じく湯煎することで少量の「沃度」(ヨウ素 I)をつくる装置としても、全く同じ図版が添えてある。 ☟の終いのところに「参考」として載せてある「臭素・ヨウ素の作り方」で図解されている、下方置換捕集の古いやり方とおもって間違いないだろう。 https://www.hyogo-c.ed.jp/~rikagaku/jjmanual/jikken/kaga/kaga40.htm 3枚目は「純粹ノ臭素化水素」(臭化水素 HBr)をつくる装置。有栓レトルトの蓋をはずして先に「臭化加𠌃謨液」(臭化カリウム KBr 水溶液のことだとおもう)で溶いた臭素を入れた球のついたガラス管をぴったりと挿し込み、レトルトの中には赤燐と水を入れてブンゼンバーナーで熱し、それからガラス管を廻して球の中身をレトルト内に落とすと「臭化燐」(三臭化リン PBr3)ができ、それが水で分解して臭化水素ガスが発生する。それを右手の「水銀槽」で水銀上置換捕集する、というやり方のようだ。 ちなみにこういう瓢箪形の水銀槽は、古い化学書ではときどき目にする。本書のもっと前の方の説明では、大理石・鋳鉄・陶器・木などで作るが、そのうち陶製のものは、かならずこのような形をしている、とある。 それから、真ん中のレトルト保持台の右手、ガラス管に熔接されている「安全管」、つまり安全漏斗管は、ガスの出が落ちてきたときに水銀が逆流してきても、うっかりレトルトに流れ込んでしまわないように取りつけてあるのだそうだ。 4枚目の図版のうち右側は「硫黄華」(硫黄泉の噴出口のところにくっついているような、硫黄蒸気の固化した黄色い粉末)を少量つくる装置。「腹部ニ副口ヲ有スル廣大ノ玻璃球」、つまり胴にもうひとつ口のついている大きな長頚丸底フラスコにごく小さなレトルトを挿し込み、レトルトの半分くらいまで硫黄(S)を入れてアルコールランプかブンゼンバーナーで焙って沸騰させてやると、レトルトのくちばしから噴き出た硫黄蒸気がガラス壁の内側に降れて急冷され、コナコナになって薄くくっつく、というもの。これは当時の硫黄製造プラントの仕組みを模したものだそうだ。 そして左側のは、いわゆるゴム状硫黄をつくっているところ。 これを試験管の手焙りでやると、結構手間がかかる☟ww https://www.youtube.com/watch?v=EepfrZACNAw レトルトだったら、振り回さなくても自動的にできるのかしらん……それだと楽ちんだけれど☆ 5枚目は「次硝酸」(次亜硝酸 H2N2O2)をどっさり作る装置。硬質ガラス製レトルトの3分の1量のよく乾いた「硝酸鉛」(硝酸鉛(II) Pb(NO3)2)の粉を入れ、くちばしの先に「U字管」(U字状に曲げた試験管)を取りつけたガラス管をぴったり挿し込み、そのU字管は「起寒混和物」(要するに寒剤)を盛ったビーカーに突っ込む。その寒剤とは、食塩または「鹽化加爾叟謨」(塩化カルシウム CaCl₂)と雪を混ぜるか、または「硫酸那篤𠌃謨」(硫酸ナトリウム Na₂SO₄)に稀硫酸(H₂SO₄)を注いでつくる、と説明されている。 そうしてレトルトの中の塩を熱灼していくと、「其將ニ紅熾セントスルニ至レハ鹽ハ分解シテ酸化鉛、酸素及ビ次硝酸トナリ……」。 ちょっとまて。「次硝酸」って、いったい何? 硝酸鉛(II)があかく熾る摂氏470度超まで熱したら、分解して酸化鉛(Ⅱ)や酸素(O2)といっしょに出てくるのは二酸化窒素(4NO2)じゃないのか!? https://www.you-iggy.com/chemical-substances/lead-ii-nitrate/#chemical-reactions ……とおもったら、この本の別のところにちゃんと立項されていた。「次硝酸 一名重酸化窒素 化學式NO2……」 https://www.flickr.com/photos/lab_for_retro_illust_japan/51670484034/in/datetaken-public/ ということで、なんと当時はこう呼ばれていたらしい、ということが判明。 https://www.flickr.com/photos/lab_for_retro_illust_japan/51669796546/in/datetaken-public/ 次のページには、「次硝酸」が硫酸製造所で多量に使われる、とある。これは今日ではおこなわれなくなった「鉛室法」という造り方を指しているようだ。 https://www.ipros.jp/technote/basic-chemical-industy2/ 6枚目の、四本脚の台が存在感を示しているヤツは、赤燐をちょこっとつくる装置。三脚架に載っているのは「油浴」、つまり植物油を温めて間接的に加熱する器械だが、本文にも割注で説明されているとおり、鍋そのものだそうだ。 レトルトの位置を高くしてあることについては、くちばしの方に挿したL字に曲げたガラス管の垂直部が「撿壓器ノ長サヲ有セサルヘカラス」、つまり圧力計の長さ以上にしておかねばならない、と説明してあるのだが、「即チ七百六十ミリメートル」と添えてあることからして、要するにこれは水銀柱ミリメートルのことをいっているようだ。なおその先が挿し込んであるのは、水銀を盛ったガラスの筒。反応が進んでレトルト内が減圧しても、逆流した水銀を吸い込んでしまわないようにしている、ということなのだろう。 有栓レトルトの口には「撿溫器」、つまり温度計を挿した栓が嵌めてある。レトルトの中には乾燥した燐(白リンか黄リンだろう)を入れ、炭酸ガスを吹き込んで大気を追い出しておいてから徐々に温め、226℃に至るとその一部が「無形燐ニ化シ洋紅色ヲ呈ス」とある。 ここ☟に書いてある製法と同じことなのだろうとおもう。 https://www.you-iggy.com/chemical-substances/phosphorus/red-phosphorus/#preparation 7枚目は「無水亞硫酸瓦斯」、つまり二酸化硫黄(SO2)を液化する装置。「イ」は洗気瓶、「ロ」は「硫化加𠌃謨」(硫化カリウム K2S)を入れた脱硫管、「ニ」は「鹽化加爾叟謨」(塩化カルシウム CaCl2)を詰めた除湿管、そして「ハ」は「食鹽」(塩化ナトリウム NaCl)の寒剤を入れてその中にY字形に分岐させたU字ガラス管「ヘ」を挿し込んである、「玻璃鐘」と呼ばれる漏斗に似たガラス容器。 レトルトの中には硫酸(H2SO4)が入っていて、これを熱してから挿してあるガラス球から水銀(Hg)を落とすと、☟にあるように硫酸水銀(II)(HgSO4)と水とともに二酸化硫黄の気体、つまり亜硫酸ガスが発生する。 https://www.you-iggy.com/chemical-substances/mercury-ii-sulfate/#preparation これが装置を通って「玻璃鐘」で冷されると液化し、「チ」の試験管内に溜まる、という仕組み。液体に凝結せず「ホ」の誘導管へ抜けたガスは「石灰乳」、つまり消石灰の懸濁液に送り込んで無害化しているそうだ。 なお、ガスバーナーで焙られるレトルトの載っているスタンドが「レトルト台」で、この名前は今でも使われるが、ここに描かれているのが本来の姿といえそうだ。 さてようやく8枚目、これは「三鹽化燐」つまり三塩化リン(PCl3)をつくる装置。 「イ」のバーナーにかけた「玻璃球」、円底フラスコから塩素が発生する、とあるので、おそらく塩酸が入っているものとおもわれる。洗気瓶として使われている「ロ」は、本書のほかのところで「三頸瓶」と呼ばれているが、これはウォルフびんという、かつては化学実験でよく使われた厚手のガラス容器。二口のと三口のとがある。 https://www.chemistryworld.com/opinion/woulfes-bottle/2500114.article 「ハ」はガス除湿のための塩化カルシウム管、「ニ」は中に砂を少々敷いた上にリンのかたまり二、三片を置いて加熱しているレトルト、「ヘ」は「ホ」の「受器」を冷すための水槽。なお、三塩化リンができたところでさっさと火をとめないと「五鹽化燐」(五塩化リン Cl₅P)になってしまう、と注意書きが添えてある。逆にいえば、この装置で五塩化リンをつくることもできるわけ、だそうだ。 いや〜、「何のためにどうやって使う道具をあらわしている図版なのか」をちゃんと説明しようとすると、けっこう骨が折れるものだww なおこの図版は、序文「第一版凡例」冒頭に「此書ハアドロフピン子ル氏グローブベゾ子ツ氏著ス所ノ新式化學書」を纂訳した、とあるうちの一冊、すなわちオーストリア生まれの化学者オイゲン・フランツ・フライヘア・フォン・ゴルプ=ベザネツ(Eugen Franz Freiherr von Gorup-Besanez) https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/7035607/ の化学教科書(Lehrbuch der Chemie)第一巻 https://www.google.co.jp/books/edition/Lehrbuch_der_anorganischen_Chemie/HD14avBvFbcC?hl=ja&gbpv=1&pg=PA151&printsec=frontcover のものを、細密な木口木版を得意とした彫工、蒼虬堂松崎留吉に写させたもののようだ。
無機化學前篇 非金屬部 明治17年(1884年) 明治11年(1878年) 活版+木口木版図版研レトロ図版博物館
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100年ばかり前のカボチャ品種@大正前期の種子絵袋見本帖
ハロウィンに冬至、と、この季節はカボチャがしばしば話題にのぼるころ合い。 ということで、だいぶ傷んでいるのでここ何日か分解修繕に取り組んでいる種子袋見本帖のうち春蒔き野菜のものの中から、カボチャのところをいくつか拾ってご覧に入れるとしよう。 刊記は何もないので断言はできないが、 ----- ☆マルに「S」の印がついていること ☆明治末に滅んだ「淸國」を冠した品種名のものが複数含まれていること ☆発芽率データが載っていないこと ----- からして、大正前期から種子の国内販売を始められている老舗種苗会社「サカタのタネ」の前身企業「坂田農園」のものではないかと推定している。 (2023年8月23日追記:中田カボチャ氏にコメント欄にてご教示いただいたところでは、マル「S」は「昇文堂絵袋」を指す由。) 2013年の創立100周年を記念して開設されたという同社特設サイトの「サカタのタネ歴史物語」 ----- サカタのタネ歴史物語|サカタのタネ 100周年記念特設サイト PASSION in Seed 100 years https://www.sakata100th.jp/story/01/ ----- によれば、「坂田農園」として創業して4年目の大正5年(1916年)に種子の販売を開始、大正10年(1921年)ごろに国内民間企業としては初の発芽試験室を設けてからは種子袋に「発芽率○○%」と書かれるようになった、ということだから、この見本帖に綴じ込まれている絵袋はその間のもの、ということになる。 袋に仕立てた際に裏側になる右手の解説文が文語体、という古風さからしても、大正期の初めごろのもの、という推測は腑に落ちるとおもう。 今日、お店などでは見かけないようなものもあるが、品種改良は絶え間なく続けられているから、とうの昔に消えてしまったものも数多くあるにちがいない。ここに掲げたうちには、家畜飼料用のものも含まれている。「ポンキン」というのはもちろん、英語の 'PUMPKIN' が訛った呼び名だろう。 栽培品種の多くは、普通の植物図鑑にはほとんど載っていない。しかし、戦前の園芸商品カタログは表紙以外モノクロ印刷なのが常で、大半はどのような色味だったのかはわからない。そういう点で、美麗な石版多色刷り図版の古い種子絵袋見本帖は、その当時の「園芸品種図鑑」の趣きがある。
最新版石版刷繪袋春季用見本帳 (多分)大正前期 石版刷り 洋紙図版研レトロ図版博物館
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間違い探し!? の名古屋港@大正後期〜昭和初期ごろの名古屋名所風景絵葉書
最近ヨーロッパの某紙モノ屋さんから調達した、多分1920年代ごろの風景絵葉書2枚。当時の名古屋港の景色だが、ぱっと見まるっきり同じように見えるけれども、よぉく視てみると細かいところが色々と違うのに気づく。それをつぶさに眺めてみたくて、ついつい両方とも手を出してしまった次第。 どちらも絵葉書セットの標題は「名古屋名所」。 右下に「A」と打ってあるセピア色の方は「中京海運の大玄関、名古屋港 THE PORT OF NAGOYA THE CENTRE OF THE SEA TRADE, NAGOYA」、モノクロームの方は「巨船織るが如き名古屋港 THE PORT OF NAGOYA, WHERE ALL THE LARGE SHIPS ARE GOING TO AND FRO, NAGOYA」と説明書きがある。 表書き側をみると、版元は別々のようだが、どちらも日本製であることがわかる。通信欄がおよそ半分になっているので大正7年(1918年)よりも後、「郵便はがき」ではなく「郵便はかき」となっていることから昭和8年(1933年)よりも前だろう、と推定できる。 https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000290979 (とはいえ、この通説の典拠をちゃんと調べたことはないので、イマイチ心許ない……。)旧蔵者か紙モノ屋の方か、「1924」と鉛筆で書き込んでおられるが、その根拠は不明。 それはさておき、あまりにも似た構図なので一瞬「……Photoshopか?」と思ってしまったほどだが(そんなワケはない)、実際わざわざネガ修正を施したりしたのではなくて、両方とも同じ日の、さほど違いのない時刻にほぼ同じ位置から撮られた二枚とおもわれる。つまり、撮影者は同一人物に違いない。 大きな船はどれも碇泊中らしく位置が同じだが、片方は煙を吐いたりしている。艀らしき小舟数艘は走り回っているようだ。「A」の方は下船客らしき一団がぞろぞろとこちらへ向かって歩いていて、柵のこちら側にも二人連れが二組いるのがみえる(手前の一組は三人連れかも)。桟橋の奥側に三人の人影があるが、もう一枚の方の桟橋にいる三人と同じ人物かどうかはわからない。人が少ない方は、手前に荷台つきの三輪車のような車が二台停まっている。たなびく煙や旗の様子からして海風が吹いているようだが、煙のない写真の方がやや波だっているか。セピア色の方が陽射しがあるらしく、倉庫の壁に映っている影がはっきりしている。 ……などと、細かくみていくとキリがないのだが、いったいいくつ「間違い」があるのか、ご用とお急ぎのない方は探求してみていただきたいww
名古屋名所 大正後期〜昭和初期ごろ 網版+活版刷り 洋紙(塗工紙)図版研レトロ図版博物館
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三省堂の理科教材ショウルーム@明治末期の理化学器械カタログ
今年の4月に創業140周年を迎えられた老舗の三省堂書店は、最初に古本屋として出発した後に新刊書店に転換して事業を拡大、次いで乗り出した出版印刷業部門が大正期に三省堂として独立したことがよく知られているが、明治40年代に理化学器械や標本などの教材を拵えて売り出しておられたというのは、それに較べたらかなりマイナー、というか寧ろマニアックな部類の話だろう。 このお店、「三省堂器械標本部」については、その後継企業を自負される教育理科機器製造販売会社「ナリカ」が創立百周年を迎えられた、平成30年(2018年)に就任なさった現社長氏が、そのご著書『ナリカ製品とともに読み解く理科室の100年』 https://www.scibox.jp/index.php?dispatch=products.view&product_id=7770 などで熱く語っておられるほかは、東日本大地震の際に津波による難を受けながらも救い出されたことが話題になった1台を含め、公式には僅か3台しか現存が確認されていない所謂「海保オルガン」 http://www2.pref.iwate.jp/~hp0910/tsunami/data/Sect02_13.pdf の表向きの製造元として取り沙汰されるくらいではないだろうか。 同店は明治38年(1905年)11月に三省堂書店本店の並び、神田區裏神保町七、八番地(今日では冨山房buildが神田すずらん通りに面する、ツルハドラッグ神田神保町店や地下のサロンド冨山房FOLIOが店開きしているところ)にできたとされる。1枚目に掲げた外観写真をみると、七番地の方は三面のショウウィンドウを持つ重厚な土蔵造りの、典型的な明治期商店建築で、手前の八番地の方はそれよりもっと簡素な造りの木造二階屋だ。 ここには実験室や、製品ショウルームとしての器械陳列室・標本陳列室が置かれていたことが2〜4枚目の画像から知れるが、どの部屋が建物のどこにあったのかは平面図などがないためわからない。とはいえ、「實驗室2」写真に写っている実験台の上の背の高い器械が、「器械陳列室1」写真の奥の部屋にあるものと同じように見えるし、窓の木枠のデザインも同じようだ。これはどちらかの建物の二階部分で、窓のあるのが通りに面している側だろう。そして「標本陳列室1」写真のライオンの剥製の後ろに写っている硝子戸は、手前側建物の入口のそれに似ている。 5枚目の巻頭序には、如何にも明治人らしい大言壮語が綴られているが、それが伊逹じゃないことを証明するためか、明治43年(1910年)にロンドンで開催された「日英博覽會」に製品を出品して「金賞牌(GOLD MEDAL)」を受けた、と誇らしげに掲げている。6枚目はそのメダルと賞状、そして7枚目は国内の博覧会や共進会で得たメダルとあわせて、「日英博覽會」の際に大英博物館長から授与された感謝状まで載せてある。ただ、どのような製品で賞を得たのか、という肝腎なところがすっぽ抜けている。ありゃま。 6枚目の賞状を拡大してよぉくみてみると一部読み取れないものの、 'Chuichi Kamei' という堂主の名、そして 'for Specimen of Stuffed Animals' と書いてあるらしいのが何とかわかる。少なくともこの金賞は、(4枚目画像のライオンのよーな)動物剥製標本に対して与えられたもののようだ。ほかにどのようなものが出品され、彼の地でどう評価されたのかはわからないが、部門発足から僅か5年で先進国の博覧会に出品し好評を得た、というのは「弊堂創業以來歳月長カラズト雖モ長足ノ進歩ヲナシ」と序文にいうのがまんざら誇張でもなかったことを示しているとおもう。 このように順調な発展をみせ勢いづいておられた「三省堂器械標本部」は、しかし短命に終わってしまわれたらしい。ナリカの中村社長が書いておられるところによると、大正2年(1913年)に起こった神田大火により焼けてしまい、その後三省堂は百科辞典刊行に傾注する方針になったこともあって、結局再建されなかったという。ナリカ社長氏のご祖父は明治41年(1908年)からここで勤めておられたが、器械標本部解散のとき「器械部」を譲り受け、それを基に大正7年(1918年)現在社屋のある場所、当時の神田區龜住町四番地にナリカの前身「中村理化器械店」を興されたそうだ。 https://www.sci-museum.jp/files/pdf/study/universe/2019/06/201906_04-09.pdf ところで三省堂のその百科辞典というのは、明治41年(1908年)から刊行が始まっていた我が国最初の本格的なエンサイクロペディアである『日本百科大辭典』を指す。当初は6巻+索引巻の計7巻組で企画されたが、二百数十名の各分野専門家を動員した執筆陣、豪華な装幀造本、あくまで妥協しない編集方針、そしてあまりにも編集作業に時間を喰って途中で改訂作業にも手を着けざるを得なくなり、10巻組に膨らむことになったはいいが、結局版元の三省堂の方がもたず、大正元年(1912年)10月に経営破綻してしまわれたという。 https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/ayumi17 しかし第6巻で打ち切りとは如何にも惜しい、という声が引きも切らず、善意が寄せられ出資が集まって、大正2年(1913年)5月には「日本百科大辭典完成會」なる組織が立ち上がり、そして同8年(1919年)4月にめでたく全巻刊行の運びになった、と辞書研究家・境田氏がまとめておられる。なお同4年(1915年)には、出版印刷部門が「三省堂」として独立され、今日まで続いている。 件の神田大火は、このように社運を賭した一大事業が、三省堂の経営を追いつめる事態になりつつあった年の2月20日に起こったのだった。 https://jaa2100.org/entry/detail/036609.html 三省堂書店神保町本店に拠点を据える「本の街・神保町を元気にする会」が出しておられる、『神保町が好きだ!』誌第13号のp. 10「明治・大正2度の大火に見舞われた、その後の復活劇!」に、この火災の経緯が出てくる。 https://www.books-sanseido.co.jp/jimbocho/pdf/jinbocho_sukida_13.pdf また、この時校舎と、そしてそれに隣接する校長私邸が罹災した順天中學(北区王子本町にある順天学園順天中学校・高等学校の前身)校史にも「神田の大火災」として載っている。 https://www.junten.ed.jp/kousi/160nen-68.htm これらによると、20日の午前1時過ぎに今のJR中央線水道橋駅南側、東京歯科大水道橋病院の西側(裏手)の辺りにあった救世軍大學殖民部の建物から出火、折りからの烈しい北風に煽られて、今の白山通り両側の街並みを捲き込みながらみるみる南側へ燃え拡がって、神保町交叉点辺りから東へ逸れてお堀端の錦町河岸まで焼き尽くしていったらしい。 『東京日日新聞號外』の方は、拡大図が格納されていたサーヴァが今はお亡くなりらしくてすこぶる読みづらいが、「燒失の町 三崎町、猿樂町、■(仲?)猿樂町、裏神保町、表神保町、錦町」「燒失戸数 三千百九十戸」「發火!! 三崎町二丁目救世軍大學殖民部より」「猿樂町を燒き盡す」「神保町に燃出づ」「烈々たる二手の火勢」「錦町河岸へ燃え拔く」「午前八時消止む」などと書いてあるのがかろうじてわかる。 『東京朝日新聞』の方も荒れていてキビシいが、PDFを拡大し眼を凝らしてみると「二手の火勢」について「一方は三崎町一丁目二丁目を水道橋方面に■■し一方は仲猿樂町を南に走り■■■線路を飛越え裏神保町へ移り■■幅數町に亘る火の海となつて只押しに神保町方面へ■■■て學校商店其他大建築を■紙の如く無造作に燒し盡し裏、表神保町を攻めて一は東明館勸工場附近を■し其裏手より小川町方面へ出でんとし他の火先は神保町の中心を貫きて錦町二丁目へ突進しつゝ一ツ橋通りに其■■を揮はんとす……午前三時半頃には、北は三崎町より西は西小川町の■場、東は猿樂町二丁目、南は錦町二三丁目に至るまで南北十數町の■■の一大焦熱地獄と化したる光景、……」などと書かれているようにみえる。 さて、そこで8枚目の「三省堂營業所及所屬工場」を眺めてみると、全滅した裏神保町にあった「器械標本部」は惜しくも2棟とも罹災したのは間違いないだろうし、火元に近い三崎町三丁目の「商品貯藏場」も助からなかったかもしれない。 しかし美土代町三丁目の「理化器械工場」は、焼けた錦町二、三丁目の東隣の延焼しなかった錦町一丁目と、その向こうの電車通り(今の本郷通り)を挟んだ更に東に位置していることから考えると、ここは焼けなかったのではないかしらん……とおもえてくる。 ともかく、本店に加えてショウルームを兼ねた店舗と、製品もろともにストックヤードとが同時に失われたとすれば、このときの経営状態からして「器械標本部」再建は断念なさらざるを得なかっただろう、と腑に落ちる。反対に、工場はどれも被災を免れたのであれば、解雇せざるを得なくなった有能な従業員たちに設備を譲ることで先行きの補償に充てた、とみることもできよう。「中村理化器械店」が5年後に立ち上げられたのも、三省堂の製造設備が無傷だったお蔭かもしれない。 最後に余談だが、「三省堂器械標本部」扱いの「海保オルガン」について触れられた、日本リードオルガン協会長・赤井励氏の『オルガンの文化史』には「海保と思われる楽器工場の住所は、小石川西江戸川町二十二。」とある。 https://books.google.co.jp/books?id=HG9xDgAAQBAJ&pg=PA97 その隣に当たる同町二十一番地に「生理模型工場」が設けられたからこそ、海保のオルガン工場は三省堂扱いで製品を世に送ることになる縁が生まれたに違いない。最初に提携を持ちかけたのがどちらかのかはわからないにしても。
理化樂器械及藥品 天文地文氣象學器械 數學製圖及測量器械 顯微鏡及寫眞機目録 明治45年(1912年) 明治42年(1909年)? 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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日本でも売られていたヴィクトリア朝のマスク@明治初期の医療用品カタログ
前回取り上げたカタログ https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/items/162 を出した自動車用品店の創業時期もそうだが、ある事業や商品が「いつが最初だったのか」がはっきりしていることはあんまりない。先行きどうなるかわかったものではないときに、そんなことをいちいち記録しておこうという考えが浮かぶ余地はないのかもしれないし、当事者は当たり前のようにわかっていたとしても、彼らがいなくなってしまえばたちまちわからなくなってしまうのは仕方のないことだろう。 今や誰もが日々お世話になっている医療用マスクにしても、大正期のいわゆる「スペイン風邪」流行の際に一般に広まったことはしられているものの、日本で最初に使われ出したのがいつなのかは精確にはわかっていない。宮武外骨が大正14年に出した自著『文明開化』二 廣告篇の中で、日本橋區本町の薬種商・いわしや松本市左衛門が自家製マスクの売り出しをしている広告を紹介している https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1182351/42 のはよくしられているけれども、「遅くともこの頃には、我が国でも作られるようになっていた」ということがわかるばかりだ。 なお同書では、外骨は新聞広告についてはちゃんとその出典を明記しているので、括弧書きで「(明治十二年二月)」としか書き込んでいないからには、この広告は恐らく引き札のたぐいなのだろう。松本一族のいわしやは大正期あたりまで、屋号の「わ」を変体仮名で書き表すのが常だから、文の文字組みはオリジナルではなく、この本のために新たに組み直していることがわかる。 と、前置きがちょっと長くなってしまったが、今回はそのいわしやが明治11年に刊行した医療用品のカタログに載っているマスクをみてみよう。 図解してあるのは表側が真っ黒で、口だけを覆うものと、それから鼻と口とを覆うものとの2種類。今日のものと同じく両耳にかけるものと、それから頚の後ろに紐を回して留めるものとがあったようだ。品名表の方をみると、「護息器 レスピラートル」と総称されている。 49番は「英式三層護息器」、50番は「ヱフライ氏の護息器」となっていて、このほかに「單純護息器」「英式四層護息器」「英式六層護息器」「鼻口護息器」というのもあったらしいことがわかる。カタカナで添えてあるのはドイツ語のようだが、綴りがちょっと思いつかないものもあって正確な意味がつかみづらい。素材や価格なども書かれていなくて不明。 それはともかく「英式」というからには、イギリス式のマスクがこの頃には輸入販売されていたということになる。では「ヱフライ氏」とはナニモノか? というところに興味が向くが、図版研で最有力候補と目されているのが、ヴィクトリア朝のロンドンで外科医をしていたジュリアス・ジェフリーズ Julius Jeffreysだ。 彼は自身の考案した慢性呼吸器疾患対策用の「レスピレータ」、つまりマスクの特許を取った初めての人物という。インペリアルカレッジ・ロンドンやオハイオ州立大の医学史研究者の方々のお話によると、ジェフリーズは東インド会社の武官や文官の診療にあたる医師としてインドのベンガルに赴任していたが、その後ロンドンに戻ってきた際に彼の妹(でなければ姉)の喘息の発作がひどくなったため、UKの寒冷で乾燥した空気がよくないと考えて、絹布と革、そして重ねた金属製の網を用いたマスクの開発に取り組んだという。彼女は結局1838年に結核で世を去ってしまうが、彼は呼吸器疾患に苦しむ人のために「身につける人工環境」を実現する道具として改良を重ね、1864年「呼吸環境改善装置climatic apparatus」として売り出して、大いに世の支持を得たらしい。 ただし、少なくとも当初は超高級品で、当時の値段で1コ7〜50シリング、今の日本円にしてざっと2600円あまり〜2万円近くもしたという。当然一般庶民には到底手が届くものではなかったし、使い捨てなどとても考えられないシロモノだった。それでも人気を博したのは、ルイ・パストゥールやロベルト・コッホによって感染症を惹き起こす病原菌が見出されるよりも前の時代、「悪い空気が病の元凶」という考えが支配的だったからだろう。 19世紀も後半になって、スコットランドの化学者ジョン・ステンハウス John Stenhouseがロンドンの下水から発生する有毒ガスの除去で効果を挙げている木炭に目をつけ、これを用いた新しいマスクを考案したそうだ。彼はジェフリーズと違って特許登録をせず、なるべく価格を抑えるように努め、一般への普及に貢献したらしい。 https://origins.osu.edu/connecting-history/covid-face-masks-N95-respirator https://newseu.cgtn.com/news/2020-05-17/The-Respirator-the-face-mask-used-by-the-Victorians-QuthYXeI8w/index.html http://wwwf.imperial.ac.uk/blog/imperial-medicine/2020/04/27/masks-and-health-from-the-19th-century-to-covid-19/ ということで、外骨紹介の広告に「或は金屬板を以てし或は金線を以てし或は木炭を以てする等各一樣ならず」とあるように、ジェフリーズやステンハウスその他の考案した色々な種類のUK製マスクが明治初めの日本にも入ってきていたことが、このカタログから窺えるというわけだ。 因みに、大幅に増補されて倍以上に分厚くなったこのカタログの明治17年訂正再版でも、マスクのヴァリエーションは図版ともども初版と全く同じで、なぜかいわしや自家製「呼吸器」は載せられていない。
醫療器械圖譜 明治11年(1878年) 明治11年(1878年) 銅版刷り図版研レトロ図版博物館
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輸入車用の幌@昭和初期の自動車用品カタログ
昭和10年代の自動車用品カタログに載っている、US製輸入車のための幌張り替え用ゴム引き生地。 画像3枚目は組み立て成型済みの既成幌。窓のところはセルロイドが嵌まっていたようだ。 貼り付けてある現物見本のうち、一番上の合成皮革のものが既製幌の1928〜31年式フォードと1927〜28年式シボレー、次の織物のものが1929〜30年式シボレー、その下のものが1932〜34年式フォードと1931〜34年式シボレー用、とある。 測り売り生地の方は、「ヤール(=ヤード)」単位売りなのに幅が尺貫法表示なのが可笑しい……「巾四尺六寸モノ」のように尻尾に「モノ」がついているのは、ヤードポンド法ベースの寸法を尺貫法に換算したおおよその幅寸、ということなのだろう。1930年代に輸入車を乗り回すような人々でも、メートル法より尺貫法の方が馴染みがあったのかしらん、とついついおもってしまう。 こういう風に現物見本がついていると、当時の車の屋根幌や横幌がどのような見た目や感触だったのかがよくわかる。殊に複層構造や裏面の色味・テクスチャなどは、こういう資料が残っていてこそ初めてしれるものだ。 画像5枚目と6枚目は幌を取りつけるための部品や補修用品。「シネリ式幌止メ」の「シネリ」は「捻り」のこととおもわれるが、商店主が江戸っ子入っているかww 画像7・8枚目、見本のうち下3枚は座席シート張り替え用の生地。ただし下から3番目の黒いものは横幌用兼用だそうだ。 このカタログを出していた森田商會は、東京市が昭和8年に出した『東京市商工名鑑』第五回によれば、経営者が森田鐵五郎といったらしい。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1115189/546 所在地がカタログ表紙では芝區田村町一丁目、☝の商工名鑑では「芝、櫻田本郷」となっているが、銀座局内の電話番号がどちらも同じなので間違いないだろう。 この人物名で商工信用録などを国会図書館デジタルコレクションで追ってみると、大正11年の東京興信所『商工信用録』第四十六版に大正10年1月調査で「森田鉄五郎」「自動車附屬品」「京、新肴、一七」「1年前」というのがある。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970692/355 また大正12年の第四十八版では大正11年3月調査調査で「森田鐵五郎」「自動車附屬品」「芝、新幸、七」というのが出てくるが、こちらも「開業年月」のところは「1年前」となっている。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970694/327 翌大正13年の第四十九版をみると、大正13年3月調査で「森田鐵五郎」「自動車附屬品」「芝、櫻田本郷、二」「3年前」 となっている。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970693/284 試しに昭和7年第六十五版をみてみると、昭和6年3月調査で「森田鐵五郎」「自動車附屬品」「芝、櫻田本郷、二」「10年前」 とある。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242111/312 ……ということは、創業は大正8〜9年ごろ京橋區新肴町にて、ということになるだろうか。毎年出ている同じ出版物でこうもバラついているとなると、開業がいつだったのか特定するのはなかなか難しそうだ。 なお、帝國商工會『帝国商工録』東京府版の昭和7年版 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1024841/89 では所在が「芝區櫻田久保町二」、翌昭和8年版 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1023922/97 では「芝區田村町一ノ三ノ六」で、こちらはカタログの表示と同じになっている。昭和7年12月1日に、帝都復興計画の一環で大幅な町域改正がおこなわれた際、櫻田本郷町は田村町一丁目、櫻田久保町は田村町二丁目に編入されたようだから、前者の「櫻田久保町二」は「櫻田本郷町二」の誤りではないかとおもわれるが、あるいは建物改修か何かで一時的に近所に越していたのだろうか。 ともあれ、今の都営三田線内幸町駅のあたりにあった、おそらくは家族経営の中小自動車用品販売店だったのだろう。
自動車用品型録 No. 15 昭和11年(1936年) 網版+活版刷り 洋紙図版研レトロ図版博物館
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東半球と西半球@明治中期の地理教科書
明治20年代前半に版を重ねていた分厚い地理教科書の巻頭に載っている、彩色世界全図。子午線と180°線とで地球をすぱっと割った「東半球」と「西半球」の2葉に分かれている。このような世界地図が載っている地理書はたいがいが明治20年代、早くて18〜19年、晩くて20世紀が明けた明治33年(1900年)のようにおもう。こうした本の書き出しは必ずといっていいほど、「惑星/遊星は太陽のまわりを回っているまるい天体で、われわれの住む地球はそのひとつ」であって、球体である証拠としての現象が3つばかり挙げられている。というのも、それまでの日本人の大半は17世紀に入ってきた天文書『天經或問』 https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/html/tenjikai/tenjikai2009/shiryo/kaisetsu08.html そのままの天動説か、あるいはいわゆる「仏教天文学」、つまりこの世は天地ともに平らで、世界の中心には巨大な須弥山という山がそそり立ち、太陽や月などが昇ったり沈んだりしてみえるのは実は須弥山の向こう側に隠れてしまうからだ、という考え方を信じていたから、世界地理を説くにもその前に誤った世界観をまずはただす必要があったからなのだろう。当時も他の描き方の地図がなかったわけではないのに、判で押したようにこうした東西両半球として描かれた図版が載っているのも、地球がまるく、我が国がその上にへばりついている小さな島々であることを視覚的にわからせようとしたからではないかしらん。 海岸線の形は大ざっぱには現代人の認識とあまり変わらないが、細かくみていくとかなりいい加減な感じだ。台湾など、そこだけ取り出したらどこの島だかさっぱりわからない。南極大陸はまだ海岸線のごく一部しか描かれていない。それと、国境がひとつも描かれていないのも、今ではあんまりない種類の地図ではないかしらん。 地名は漢字が宛てられているところが多く、ややわかりづらいかもしれない。オーストラリアが「豪州」の「豪」ではなく「墺」で始まっていたり、オセアニアが「亞西亞尼亞」になっていたり、ニューギニア島の東のニューブリテン島が「新貌利顚」と書いてあったりする。また、ベンガル湾やハドソン湾が「ベンゴール曲海」「ハドソン曲海」、カニャークーマリー(コモリン岬)や喜望峰が「コモリン海角」「好望海角」となっているし、マゼラン海峡は「マゲラン海峽」だがモザンビーク海峡の方は「モザンビク海岔〈かいふん〉(<大正前期の代表的な漢和辞典・上田萬年ほか『大字典』(啓成社)をひいてみたら「大きなる海峽のこと」だそうだ)」になっていたり、と今日では使われない用語が出てくる。このへんは多分支那語の借用なのだろう。ウラル海を「裏海」と書くのは、明治期の出版物にはよくみられる。 西半球図をみて、あれ? 海の難所として有名な「サルガッソ海」がアメリカ大陸を挟んで2ヶ所もある……とおもったら、あらら「太平洋」と「大西洋」とが逆じゃないの。タイヘンなポカミスだが、その所為でサルガッソ海もサンドウィッチ諸島の北方にもうひとつ出現しちゃったのではないだろうかww 19世紀の地図は色味がかわいいとおもう。地名などの「現代の地図との違い」とともに、題字の飾り罫その他のデザインもたのしめるのが、古地図を眺めるひとつの魅力だろう。
訂正萬國地理 明治25年(1892年) 明治21年(1888年) 石版刷り図版研レトロ図版博物館
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カフェーの図案・喫茶店の図案@昭和初期の商業図案集
画家にして装幀家、博覧強記の物書きでもあられる林哲夫氏が『喫茶店の時代』(ちくま文庫) https://sumus2013.exblog.jp/31179026/ でまとめておられるところによると、東京市内の喫茶店は欧州大戦後大正9年(1920年)からの恐慌にあおられてか11年(1922年)には32軒にまで減ったものの、翌12年(1923年)の関東大震災後にはほかの飲食店などは数を減らしているにもかかわらずひとり55軒まで回復、以降年々増えていき、そのピークとなる昭和13年(1938年)には3307軒をかぞえたという。今回はその当時の売れっ子グラフィックデザイナーが世に送り出した商店や企業の宣伝向けの図案プレート集(冊子体ではなく、一葉一葉厚手のカードに仕立てられたものが函や帙などに収められている型式)から、カフェや喫茶店、ついでにバーやビヤホールのところを拾い出してみよう。 序文で著者・内藤良治〈ないとうながはる〉は「本書の内容は諸君の便宜上、商業別に致しました、(中略)幸ひに諸君の御硏󠄀究の御參考になりましたら欣快の至りで御座います。」と書いているが、目次があるわけでも各葉にタイトルがついているわけでもないので、その辺は受け手側のよいように、という考えによる構成のようだ。この手の図案集はいってみれば「素材集」なのだから、なまじいはっきりカテゴライズしていない方が先入観にじゃまされなくてよいのかもしれない。 ところでご存知の方はご存知だろうが、戦前の「カフェー」は、今いうカフェとはちょっと趣向が違った。林氏が引用しておられるところによれば、「洋風の設備を有し直調理を客に供し、連続して客席にはべり、歓興するもの」と法的に規定されていた業種だそうで、要するに酒色を伴う風俗営業店の類いだったのだ。そういう視点で眺めてみれば、おのずとどれが「カフェー」向きでどれが「喫茶店」向きなのかはわかってこよう。もちろんどちらも、化粧をばっちりきめて着飾った女給たちが立ち働いてはいたのだが。 それはともかく、和製デコに傾いた図案化の手法や配色など、当時もてはやされたデザインの趣味的方向性が、たったこれだけ抜き出してみてもよくわかるようにおもう。こうした一種の洗練が、戦局が悪化し統制がすすむにつれて次第に荒れた感じに変わっていき、戦後復興期に一時(恐らく著者に断わりなく)改題覆刻されたりしたものの、やがて消えていってしまうのだった。こうした図案が人知れず埋もれたままになっているのは、なんとももったいない話だ。7枚目は惜しいことに青版が版ずれを起こしているが、これによって緑の部分は青版と黄版とのかけ合わせではなく緑版として別途刷られている、つまり3色のプロセス印刷ではなくて多色刷りであることがしれる。出版意図や目的からして、おそらく初版からこうしたヘマがあったとはおもえないのだが、これも大東亜戦時下に突入した後の版だからだろうか。
色彩商業圖案集 昭和16年(1941年) 昭和13年(1938年) 網版多色刷り図版研レトロ図版博物館
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婦女子に愛される猫@昭和初期の愛玩動物飼育手引書
ペットといえば、今や我が国で最も飼われている頭数が多いのは永年トップだったイヌを追い落としたネコらしい。一般社団法人ペットフード協会が毎年おこなっている調査によると、イヌがじりじり減りつつあり、ネコは反対に少しづつふえてきていて、3年前についに逆転したそうだ。 https://petfood.or.jp/data/chart2019/3.pdf ということで、前回ウサギについて取り上げた昭和初期のペットの飼い方の本 https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/items/158 の、ネコのところも眺めてみよう。 今や完全室内飼いが推奨されることもあって、キャットハウスとかトイレとかいろいろ関連グッズがあるが、かつてはせいぜい首に鈴をつけるくらいだったから、図版もウサギのときのように小屋だとかは出てこなくて、かわりに1枚目の道具を使った面白写真とか、2枚目の池の中に魚でもいるのか水面を前肢でちょいちょいやっているところとかが載っている。3枚目は章の冒頭部分だが、「猫は犬と共に家庭愛物の雙璧とも云ふべきもの」とあって、当時もイヌと人気を二分していたことがわかる。イタリアのファシスト党が食糧の無駄遣いとして市民に猫を飼うことを禁じた、という話は初めて識った。まったく、しょーもないヤツだムッソリーニ。 つづいて「猫の魅力」として、「元來ネコは鼠捕りと云ふ転職はありますが、それにしても犬などに較べると利用の範圍の極めて狹いものです。それにも拘はらず、かく愛育されるのは、身體が手頃の大さで可愛いらしく、一種の魅力があるからでありませう。そして主として婦女子の愛撫を受け、その方面に絶大の人氣をもつてゐます。」と解説されていることから、女性に好まれる傾向が強かったことがしれる。5枚目はその実例として、和装の若い女の方に抱きかかえられて落ち着いている黒猫が写真に収まっている。4枚目右の方は垂れ耳の長毛種らしき下の犬も、その背の上に乗っかっている仔猫も外国種らしく見える。1枚目の「猫の學校」「猫のカメラマン」ともども、おそらくは日本国内ではなく、海外で撮影された写真を輸入書から引っ張ってきたのではないかしらん。2枚目のは三毛柄らしいから、4枚目左同様日本猫だろう。 「猫の七不思議」として、高いところからたとえ背を下に落としても必ず前肢から平然と着地すること、遠くに棄ててきてもいつの間にか戻ってきて平然と日向ぼっこなどしていること、水に濡れることを非常に嫌うくせに水中の魚を巧みに獲ってしまうこと、天候の変化を敏感に感じとるので昔は船に乗せられていたこと、三毛柄の雄は航海安全のお守りとして珍重されていたこと、暗闇でも視覚が利き、また暗がりで毛並みを逆なでしてみると火花が散ること、仕込めばかなり芸当ができることが挙げられている。このうち船に乗せられた三毛猫については、欧州大戦中の大正7年(1918年)の実話として、「郵船平野丸」にいたものがイギリスの港に碇泊中、隣の「丹波丸」へいつの間にか乗り換えてしまい、翌日出港してから猫がいないことに乗組員が気付いたその日のうちにドイツ海軍の潜航艇からの魚雷を喰らって沈没してしまった、という「面白い話」が紹介されている。なお貨客船平野丸の撃沈から100年を記念して平成30年(2018年)、当時犠牲者を埋葬したウェールズ南部の土地に慰霊碑が建てられたそうだ。 https://www.nyk.com/news/2018/20181005_01.html 5・6枚目は「種類」のところに添えられている図版で、イヌはもちろんウサギにくらべてもだいぶ少ない。当時最も多く飼われていたのはもちろん短毛の在来種「日本猫」だが、「併〈しか〉し最近は大分〈だいぶ〉歐洲種、中にもペルシヤ種が愛養されるやうになりました。」とある。そのほか、被毛の長いものとして5枚目上の「アンゴラ種」、それから「フランス長毛種」「ロシヤ長毛種」、短いものとして「シヤム種」、それから5枚目下の「エジプト種」が紹介してある。 「毛色」のところで、「日本種は白、黑、茶もしくはその斑〈ぶち〉か白黑茶の三毛に限られてゐますが、その模樣に依つて虎斑〈とらふ〉、雉猫〈きじねこ〉などの名稱があります。虎斑は虎の斑のやうなだんだらの斑があるもの、雉猫は一見雉のやうな毛並のものを云ふのです。外國種にはこのほかに赤茶、鼠、靑などの毛色もあつて、ペルシヤ猫は白、黑、金色、靑色、灰󠄁色及びそれ等〈ら〉の斑があげられます。」と説明してあり、つづいて「こゝで一つ不思議なのは、三毛の雄猫で、日本でも昔から三毛の雄は非常に數が尠〈すくな〉いために珍重されますが、歐米でも矢張りこの三毛の雄は殆んど生れず、優生學的にいろいろ硏󠄀究した學者もありますが、まだはつきりした理由は判らないやうです。卽〈すなは〉ち三毛の雄は科學的にも未だ謎の存在で、猫の七不思議が今一つ殖えた譯〈わけ〉です。」とあるのだが、三毛柄は伴性遺伝によるもの、ということがわかったのは結構最近になってかららしい。ネコの性染色体は人間と同じくXXが雌、XYが雄なのだが、遺伝の仕組みを理解させるために長年ネコの毛色について調査研究を重ねてこられた東京学芸大学附属高等学校教諭の浅羽宏氏によれば、メラニン色素(黒)かフェオメラニン色素(茶/オレンジ/黄)かを発現させるO遺伝子はX染色体に乗っているため、Xをひとつしか持たない雄は三毛にはならない(雄が三毛になり得るのは三倍体XXY)、という理屈のようだ。 http://ci.nii.ac.jp/books/openurl/query?url_ver=z39.88-2004&crx_ver=z39.88-2004&rft_id=info%3Ancid%2FAN00158465 ここに添えてある「變〈かは〉つた虎斑猫」は何種かは書いてないのだが、この太い渦巻き柄は「クラシック・タビー」と呼ばれる欧米に多い模様。今や「国産」をうたうネコ餌の容器にまで登場するほど人気の品種アメリカン・ショートヘアーなどはこの手だ。ネコの野生種と家畜種とを比較した図鑑、澤井聖一+近藤雄生『家のネコと野生のネコ』(エクスナレッジ) https://cat-press.com/cat-news/book-ieneko-yaseineko によると、13世紀にイタリアで生じた、という説と、イギリスの雑種の8割がこの柄ということから同国が発祥地なのでは、とする説とがあるそうだ。 なおネコの被毛の色柄表現にかかわる基本的な遺伝子は20種ほどあるそうだが、その仕組みについて浅羽氏のご解説を視覚的によりわかりやすくたのしく理解できるよう工夫した『ねこもよう図鑑』(化学同人) https://netatopi.jp/article/1201046.html がすこぶる面白いので、まだの方は是非ご一読いただきたい。 さて、昭和初期のネコの餌についてだが、もちろん当時は既製品のキャットフードなどはなかった。で、この本には「食物の與〈あた〉へ方」としてどのように書いてあるかというと、「普通朝夕の二囘、お飯の少量に牛乳か魚肉の煮たものを少し添へるか、その汁を交ぜてやれば喜んで食べます。非常にその點〈てん〉は樂で、魚の あら(<傍点つき) とか頭とか鰹節〈かつぶし〉の粉をふりかけて與へても喜んで食べます。味噌汁をかけてもお腹の空いた時は食べますが、一般的には菜食は不向で、その他では猫にも依りますがうどんを好んで食べるもの、鹽〈しほ〉せんべいを嚙んで與へると、これ又喜んで食べるものがあります。」とあって、要するに基本的にはいわゆる「ねこまんま」推しだったようだ。今日では、ネコの身体はナトリウムなどの金属を摂り込んでしまうとなかなかうまく排出できず、それが重なると健康を害することから塩気は極力避けることが推奨されているが、かつてはそういう知識はなかったため全く気にされていなかった。最近の飼い猫は栄養状態がよい上に家の外に出さない個体もふえていることから、前掲の「令和元年 全国犬猫飼育実態調査」によれば平均寿命が15.03歳とのこと、そういえば20年を超えたという個体の話もときどき聞こえてくるようになったが、塩分の摂り過ぎに飼い主が注意するようになったのも長生きにプラスに働いているのではないだろうか。なお、「さうした譯で食物は手近のもので間に合ひますが、食べ過ぎるとよく嘔吐することがあり、こんな場合殊更に靑草など食べて吐き出すものです。」とあるのは、毛玉吐きの習性が誤解されているものとおもわれる。7枚目のイギリスの猫病院はどうみても屋外だが、これは日本にはない形態なのではないだろうか。雨が大量に降ったりせず、そのかわり陽射しが少ない時期の長い土地ゆえかもしれない。 「飼育上の注意」として「最も大切な點は、猫の環境を住心地よくすることです。」とあるのは、今でも大いに首肯けるところ。8枚目の親ネコが仔ネコを運んでいる図は、「猫のお産」「仔猫」のところに添えてある。お産は床下などの薄暗い、外敵におそわれる心配のないところでするもの、と説いたあと、「仔猫を見たい許〈ばか〉りに、無暗〈むやみ〉に覗き込んだり、仔猫をいぢつたりしますと、母猫は不安を感じて、仔猫を啣〈くは〉へて他へ移轉することがあります。」と注意しているが、これも大事な点。トイレのしつけについては、「不淨を一定のところでさせる習慣をつけるため、戸外に出られる通路を作ってその度に外へ出すやうにするか、小箱に砂を盛つて、その中で行はせるやうに仕込みます。仕込み方は犬と同樣、繰返し行へば間もなく習慣となります。」と書かれている。箱に砂を入れてトイレにするのは座敷猫、つまりおそらくは(完全ではないかもしれないが)室内飼いの場合だろう。ブラッシングは日に一度はしてやることを奨めている。
愛翫動物 昭和05年(1930年) 昭和05年(1930年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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ペットとしてのウサギ@昭和初期の愛玩動物飼育手引書
明治の初め、さまざまな西洋の文物とともに舶来種のウサギももたらされ、にわかペットブームが起きたのだが、明治5年(1872年)からそれが本格化し人気の柄のものに高値がついて、投機に入れ込む人が続出し社会が混乱したという。 http://doi.org/10.15083/00031135 あまりのことに明治10年(1877年)対策として高額の課税がなされてブームはしぼんだが、ウサギの毛織物製造の産業課をこころみる動きがそのころからはじまり、明治30年代にかけていくつか会社も立ち上げられたものの、政府がバックアップをしなかったこともあって輸入製品に太刀打ちできず失敗におわったそうだ。大正も末になって、アンゴラウサギを蕃殖してその毛で商売しようという人も現われたが、昭和3年(1928年)あたりから養兎業者が増えてきて、さまざまな種類が飼われるようになったという。 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10076939&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 その一方で、利殖のためでなく純粋に生活にうるおいをあたえるためのペット飼育が、庭つきマイホームを手に入れた人々の間で流行るようになってきた。今回取り上げるのはそうした時期に出された、一般向けの総合飼育解説書のウサギのところ。 当時はペットショップなどはないから、ウサギを飼うための巣箱は自作する必要があった。1枚目の上のはビールびんの空きケース(2ダース入り木箱)を加工したもので、放し飼いができるような広い庭がない家庭用のもの、2枚目のはもっと広い敷地に拵える、庭木を取り込んで金網で囲った「兎のお家」。図には描かれていないが、金網の外から飼い犬が土を掘って中に入り込んだり、穴掘りの得意なウサギ自身が脱走したりしないよう、「尠〈すくな〉くも地下一尺位〈くらい〉は金網に限りませんが、兎の逃亡の邪魔になる亞鉛板か貫板〈ぬきいた〉を埋込んで置く必要があります。」と本文には注意書きがある。なお1枚目の下はウサギの持ち方を示している。なお今日では「耳はつかまない方がよい」という考え方に変わっているようだ。 3〜7枚目はウサギの種類についての解説に添えてある輸入種の例の図。「ベルヂアン種」はベルギー原産で野ウサギに似ていて、赤茶色の毛で耳や脚が長い。「フレミツシユ種」は「ベルヂアン」とフランス産の大型種「バタコニアン種」とをかけ合わせた中欧産の、当時最大種のウサギで灰色のが多い。「イングリツシユ種」は脊骨に添った1本の縞と、それから胴のわきと眼のまわり、鼻先、耳に黒斑がある特徴的な見た目。「白色メリケン種」は我が国在来種の白ウサギと外来種(どれなのかは書いてない)とを交配させて作った大きな白ウサギ。「ヒマラヤン種」は「露西亞種」とも呼ばれ支那北部産で、鼻・耳・脚・しっぽが黒くそのほかの部分は真っ白、というもの。「ダツチ種」はオランダ産で黒・灰・黄・白とその斑、と柄はいろいろ、写真のようにびしっと塗り分けになっているのが特徴。「ロツプイヤー種」は「耳が素適(<ママ)に大きい英國兎」で毛色は「ダツチ」に似ているが、虚弱なのが欠点。「チンチラ種」は昭和に入ってからひろまった、毛の特に柔らかい種。「シルバー種」はその名のとおり銀色の毛をもつ英国産の割と大きな品種。終いのもこもこしたヤツが「小亞細亞のアンゴラ地方の原産で、佛蘭西〈ふらんす〉で盛んに飼育され」ていたという「アンゴラ種」。白・黒・茶とそれぞれの斑があり、ご覧のとおり非常に毛が長いのが盗聴だが比較的弱いのが玉に瑕、というように解説している。このほかにフランス産のダッチ種の突然変異「ジヤパニーズ種」、イギリスでダッチ種に在来種を交配して作った斑の色が濃い「タン種」、オランダ原産で光の当たり具合により毛色が変わってみえるという「ハバナ種」、ベルギー産で白いのと青いのとがあるという「ベヘリン種」、イギリスでダッチ・アンゴラ・ローブ種などをかけ合わせて作出した緑色の毛の「インペリヤル種」も、図はないが紹介されてある。 さて、8枚目に掲げたのはこの章の最初の部分なのだが、これをお読みになるとおわかりのように、当時家庭でウサギを飼う目的は現在のように単に日常生活のともとしてかわいがるだけでなく、食肉目的もあった。輸出元の西欧諸国ではもちろん食べていたわけだし、我が国でも、鳥肉の一種という方便で昔から食べられていたから数えるときに「1羽2羽」という、とする説があるように、元から馴染みのある人々もある食材だったから、それは自然な流れといえるだろう。しかし、ここに「食肉の矛盾」として書かれているように、飼っているウサギを絞めて食卓にのせる、ということに抵抗を感じる人々が昭和のはじめには既にかなりの数あったことが知れる。
愛翫動物 昭和05年(1930年) 昭和05年(1930年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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マシン・エイジの巨大蒸気機関@昭和初期の科学図鑑
18世紀に大量生産方式と工場生産制とを導入した合衆国の工業は急速に発展していき、明治23年(1890年)にその生産高が農業を追い抜き、大正2年(1913年)には世界の3分の1のシェアを占めるまでになったそうだ https://americancenterjapan.com/aboutusa/profile/1936/ が、さまざまな場面に機械が採り入れられるとともに、そのイメージは明るい未来を招来するものとしてもてはやされ、やがて美術や建築デザインなどの分野にも強い影響をあたえて精密派、国際様式 https://kenchikuchishiki.jimdofree.com/2017/08/18/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB-%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%81%A8%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0%E5%BB%BA%E7%AF%89%E3%81%AE%E4%B8%89%E5%A4%A7%E5%B7%A8%E5%8C%A0/ などを生み出すことになった。そうした時代は「機械時代——マシン・エイジ——」と呼ばれた https://jp.techcrunch.com/2018/05/30/2018-05-27-review-cult-of-the-machine-at-the-de-young/ が、そうした流れのなかで大量の電力供給をもとめられる発電所などでは、その動力源となる機械が巨大化していった。今回は1920年代の巨大蒸気機関のようすを、昭和初期に刊行された科学図鑑にみてみることにしよう。 1枚目はキャプションにあるように当時最新式の機関室でパブコック式水管汽缶(かま)42基が整然とならんでいる。2枚目がその汽缶のひとつを部分断面図で示したもの。石炭をかたまりのまま燃焼室へほうりこむのではなく、まず右手にある乾燥室で水分をできるだけ飛ばしてから歯車で微粉炭にして送風機で汽缶内に送り、燃焼効率を高めている。3枚目はさらに改良を加えた機械で、上は循環するうちに冷めた蒸気を余熱を利用して温度を上げてから汽缶に送り込むようにしたもの、下は微粉炭燃燒による高温が耐火煉瓦を融かしかねないので、その余熱を水管加熱にまわして蒸汽にするための補助とし、エネルギーの有効活用を図ったものだそうだ。 4枚目は当時世界最大の「メトロポリタン・ヴヰカース」蒸気タービン組立工場のようす。「ラトー式衝動タービン」という型式で、手前にあるのが完成品とのこと。5枚目の発電所はキャプションに「マンチエスターのバートン發電所」とあるが、ここのことはよくわからない。イギリス第3の都市マンチェスターの古い発電所について地元の方が紹介されている動画があったが、これには出てこなかった。 https://www.youtube.com/watch?v=zDQEW4PE_1s もしかするとアメリカのニューハンプシャー州にある同名の街のことかもしれないが、こちらの発電所事情もやはりよくわからなかった。 6・7枚目のタービンは国産品で、キャプションにあるように三菱神戸造船所で組み立て中のものと、発電室に据え付けられたもの。本文には「内地製としては三菱製のものが多い。」とある。この「ユングストロム・タービン」は基礎もふくめ小型軽量ながら発電量がほかの型式に退けをとらないのだそうだ。8枚目は「ニューヨーク・エディソン會社のヘルゲート發電所」に設置された当時世界最大の蒸汽タービンで、上が高圧部を組み立てているところ、下が組み上がったものを運転試験台に載せたところだ。余談だが、この発電所は昭和11年(1936年)に停電騒ぎを起こしているそうだ。 https://books.google.co.jp/books?id=nuzQDwAAQBAJ&pg=PA61
最新科學圖鑑6 機械時代 上 昭和05年(1930年) 昭和05年(1930年) グラビア刷り+網版刷り図版研レトロ図版博物館
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商店建築図案@大正後期の商店建築デザインコンペ優秀作品選集
前回のショウウィンドウ図案 https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/items/154 に引き続き、震災復興期の建築資料展覧会に出品された公募商店建築デザイン画の受賞作を今回は取り上げる。 1・2枚目の「洋品化粧品ト美容店」、3枚目の「喫茶店」、4枚目の「金物商(普通一般家庭ニ用フル諸金物)又ハ硝子商(シートグラ(<「シートグラス」の誤りとおもわれる。要するに板ガラス)及びガラス製器具)」の3つが金賞、5枚目の「寫眞機諸材料店」、6枚目の「化粧品店と附設理容館」、7枚目の「寫眞機業商店」、8枚目の「小さな百貨店」が銀賞を勝ち取った作品。各階平面図もそれぞれにあるのだが、画像の枚数制限があるのでほぼ割愛。どれも正面の造作はかなり凝っている。屋上庭園を設けたり、水洗便器や汚水浄化装置・温水暖房設備を導入したり、とかなり先進的な仕様で、最初に掲載されている建物などは、1階が洋品雑貨売り場と事務室、2階が化粧品・薬品売り場と休憩室、3階が男女ヘアサロンと貸し展示会場と事務室、4階が店主一家の住処と女中、店員の居室というプランが想定されていて、荷物上げ下ろし用のエレベータまである。二つ目の喫茶店は貨客用エレベータつきだ。内部は壁面にレリーフをあしらい、調光スイッチつきのブラケット灯がそれを照らし、またガス灯も併用すると書いてある。三つ目の商店は金物やガラス製品以外の小売商でもよく、また上階は貸店舗や賃貸居室を設定可能なことも想定している。 実はこの図案集、国会図書館デジタルコレクションに帝國圖書館旧蔵の初版が公開されている https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966918 のだが、序文の後の図版ページが頭から4丁分失われている。だから最初の「洋品化粧品ト美容店」は平面図も含めまるまるなく、次の「喫茶店」も正面図・立面図が欠けているのだ。帝國圖書館の蔵書は、デジタルコレクションでインターネット公開されているものだけでも一部のページ抜けや破れ欠損・書き込みなど、利用者のモラルを疑わせる痕跡が相当数みられる。この本の欠落ページも最優秀作品のところが消えているわけで、おそらくはさもしい性根の手合いがこっそり破り取って持ち去ってしまったものとおもわれる。いつの世にもほかの人々の迷惑を顧みない困り者は少なからずいた、ということを端的に示しているのだろう。 なおこれらの図版は拡大してみても網点がなく、写真をコロタイプで縮刷したものとおもわれる。だから細かいところまでかなりよく見えるのだけれども、それでも手書きの解説文や註釈などの文字が小さくてなかなか読み取りづらいページもある。余白をかなり大きくとってあってかっこいいレイアウトではあるが、それにしてももうちょい読みやすくできなかったのかな、というのが正直なところww それにしても、こんなスタイリッシュで趣味のよい建物群が整然と建ち並ぶ通りを散歩したら、どんなにか心たのしいことだろう。今のピカピカした、面白味も統一感もないガラス張りのハコをごちゃごちゃと並べたてた都市風景は、機能的にははるかに進歩しているのだろうけれどもどうも好きになれない。
商店建築及店頭計畫圖案 大正13年(1924年) 大正13年(1924年) コロタイプ図版研レトロ図版博物館
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大東京の橋@昭和初期の東京風景写真帖
今日は都知事選の投開票日……何ひとつ期待はしていないけれど、一応投票だけはした。ま、それはさておいて。 昭和7年(1932年)、大正12年(1923年)の震災の後にそれまで農村だった東京十五區の外側の郡部へ住宅地がひろがっていき、そのままのしくみではいろいろと障りがもちあがってきたところで、荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾の五郡だったところに新たに二十區を設定して三十五區からなる「大東京」になった。さらにその4年後、昭和11年(1936年)に北多摩郡の一部をくっつけて、現在の二十三特別区とほぼ同じ版図になった。そのへんの経緯などは「探検コム」のお方がわかりやすくまとめておられる。 https://tanken.com/35.html 住民が東京市外に移り住むようになったのは、震災で被災したというのももちろんあるが、都心部は煤塵などの公害がひどかったようだし、住環境も狭くてよいとはいえない状況になっていたから、この際もっと空気も水もきれいな広いところで暮らしたい、という人がふえたからだろう。 今回ご覧に入れるのは、ちょうどそのころの大東京の姿を紹介した小型の写真帖に載っている、いろいろな橋の姿。1・2枚目はご存知日本橋、明治44年(1911年)に架け替えられた石橋が今も使われているが、2枚目の図版と違って高速道路が上におっかぶさってうっとうしいことこの上ない。当時は中央に据えられていた道路原標も、都電の路線が廃止された昭和48年(1973年)に橋向こうに見える今はなき大栄ビル(旧帝國製麻ビル)の脇にどけられてしまっている。 https://blog.goo.ne.jp/ryuw-1/e/bc95758191a3d9f1b52e68aef01c742c 3枚目は隅田川にかかる橋々のなかから震災復興建築としての清洲橋と永代橋、それから駒形橋上から吾妻橋方向を眺めたところ、そして4枚目として拡大した部分には御茶ノ水驛に近い昌平橋あたりの中央線高架橋と聖橋。よくみると、聖橋の下の鋪道を若い女性がふたり歩いているのが写っている。 5・6枚目のはね上げ橋は、湾岸を走る貨物線が通っていた芝浦可動橋。 http://odawaracho.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-0ae8.html 廃線になった後もしばらく残っていたが、現在では東京臨海新交通臨海線が頭上を通る、新浜崎橋という特徴のない歩行用の橋にかけ替わっているらしい。 7・8枚目は新たに東京市に加わった地域から、世田谷區の多摩川にかかる鉄橋……ということなのだが、このトラス橋は鉄道線のように見える。世田谷区から多摩川を渡っている線路といえば東急田園都市線の二子玉川〜二子新地間しかない筈だが、二子橋梁はたしかこんな形はしていなかった。じゃあいったいこれはどこ? ……としばらく悩んだが、同じく東急の東横線が多摩川を渡る多摩川橋梁が以前はこんな鉄橋だったのを思い出した。 http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link151.html 同線前身の東京橫濱電鐵が大正15年(1926年)丸子多摩川驛〜神奈川驛間を開通させたときに造られたというが、二十世紀末ぐらいにかけ替えられて今はトラスじゃなくなっている。この橋の東京側は当時大森區(現在は大田区)の筈だが、丸子橋の上あたりからこの鉄橋方向にレンズを向けたとすれば、川向こうの左手や奥はたしかに世田谷區の玉川村ということになるようにおもう。
大東京寫眞帖 昭和12年(1937年) 昭和12年(1937年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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ライカ解剖図@昭和初期の写真術解説書
写真撮影といえば今やスマートフォン全盛、コンパクトデジカメなどすっかり市場を奪われて風前の灯状態らしいが、その一方でかつてデジタルカメラに追いやられて似たような立ち位置に追い込まれたかにみえたフィルムカメラは、今なお熱烈な愛好家が少なからずおられるばかりか、若い世代にまでファン層がひろがっているようだ。 そうした背景あって、今も高い人気を誇る戦前のカメラのうちにドイツ・ライツ社製のライカがある。図版研はカメラマニアがいるわけではないのでくわしいことは専門の方々におまかせするとして、昭和初期にすてきな装幀の本をたくさん出している出版社・アルスの写真大講座シリーズの本に載っている、ライカの内部構造を示した図版を今回は眺めてみることにしよう。精密機械萌えの方にはたまらん感じだとおもうし、インターネットでちょっと検索してみてもこういう図は意外と引っかかってこないようだから、こういうカメラにご興味がおありの向きにもちょっと面白いかな、ということで。 この本によれば、「十數年前、イーストマンより 3A判と 1A判のロール・フィルムにこの型式を應用したのが、距離計とレンズとを連結させた始祖ではないでせうか。」ということだが、おそらく大正の半ばごろに出たこのカメラは距離計の精度が低い上に、「(おそらく焦点合わせの)見方」が難しく扱いづらかったのだそうだ。1930年代に入って、いずれもドイツのメーカー・ライツとツァイス=イコンがほぼ同時期に製品化したライカとコンタックスで、こちらははるかに使いやすく市場に大歓迎され、ホクトレンデル(フォークトレンダー)社もプロミネントで参戦して、ようやくその仕組みが普及するようになったという。 この本の中ではライカが如何にすぐれているか、その特徴を12箇条にわたって挙げたあと、「今日の寫眞術はこの型式に屬する寫眞器を度外して話をすることが出來ないし,技術問題を述べることも出來ない立場にあります。隨つて,此の型式の寫眞器が在來のものに比べ,如何に完全,如何に精巧,如何に精密に作られてあるかを知つてゐることは,この型式の寫眞器を有〈も〉つてゐる人には無論必要であるし,有つてゐない人にも亦〈また〉必要ですから,更に詳しく述べたいのですが,紙面の都合があるので」ということで、ライカの代表機種として「III型」と呼ばれるものの解剖図を代わりに載せている。1枚目の機体+レンズの写真のうち一番上が初めて距離計連動機構を載せた「II型」、一番下(2枚目がその拡大したもの)はそれに加えて「1/20秒以下の遲速度シヤツター」、つまりスロー・シャッターを採用した上位機種の「III型」、真ん中は両機種に取り付けられる「廣角・大口徑・長焦點距離」などの交換レンズヴァリエーション。 3枚目以降が「斷面圖」、つまり筐体やパーツをまっぷたつにした内部構造図で、4枚目に拡大したのが機体を上下の真ん中で水平に切って上からみたところ、5枚目が同じく前後の真ん中で垂直に切って後ろからみたところ、6枚目が左側からみたところで「遲速度シヤツター目盛輪」のところだけ縦に切ってみせている。丸つき数字で示した各部名称もここにまとめられている。8枚目に拡大したのが「焦點距離7.3cm. f:1.9 ヘクトール・レンズの斷面と距離計への連絡裝置」と、その下が機体上部の距離計を水平に切って上からみたところ。7枚目に以上の図版の説明原文が載っている表裏2ページ分を並べてみたが、小さくてちょっとご覧になりづらいかも。なおその右側にある図版はコンタックス本体と交換レンズヴァリエーション。双方の機械について、「人間のやれる處には自づと限りがあるためか,ライカとコンタックスとの同格品を比較すれば,その能力は殆ど同等。差異は,極めて難かしい細かい問題。簡單に片附けられません。/普通一般の用途に對しては,/ライカで出來ることなら,コンタックスでも出來ます。/CONTAXで出來ることなら,ライカでも出來ます。/ライカならではとかコンタックスなるが故に,……などといふ言葉をウカツに使ふことが出來ないほど,兩者は,極めて接近したものであります。」と評してある。
ルス最新寫眞大講座 第3卷 撮影の實際 昭和10年(1935年) 昭和10年(1935年) 網版+銅版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
