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写真乾板用ステレオカメラとステレオスコープ@明治後期の写真器材カタログ
20世紀初期の写真器材綜合カタログでは、まだ乾板を使う器械の方が幅を利かせていて、フィルムカメラの方はやっと関連製品が増えつつある途上だったようだ。 100年以上も前の写真のことについてよくご存知の方には説明するまでのことでないだろうが、この当時はレンズはもちろんのこと、暗箱・シャッタ・ファインダなどがそれぞれ別々の器械で、撮影するにもまずそれらを択んで買いそろえて組み立てて使う必要があったし(セットになっている商品もあるにはあったが)、現像・焼付などおこなうにも危ないものを含む色々な薬品や周辺器材を調達して自ら調合し、必要があれば手作業でレタッチし、鍍金をほどこし、仕上げに艶出しローラをかけ……という具合に、非常に手間とお金とがかかる、趣味としてはもっぱら「ゆとりある階級向け」のものだった。 そうした乾板用の器械で、立体視ができる撮像が得られるいわゆる「ステレオカメラ」と、それからそれを焼き付けた作品を鑑賞するための「ステレオスコープ」のところをみてみよう。 1・2枚目は同じ焦点距離の鏡玉(レンズ)2本と、双眼ファインダのついた「携帯用」暗箱、つまり野外撮影などに使うカメラ本体。 3・4枚目はステレオ撮影用シャッタ単体。管の先についているゴム球を握ると、当然ながら二つとも同時に動作する。左側のものには、レンズを取り付けるための「前板」がついている。 5・6枚目はステレオカメラで撮影した写真を焼き付けたものをレンズの向こう側の枠へ挿し込んで、立体視するためのステレオスコープ。当時は「双眼寫眞覗」とも呼んだようだ。顔の大きさ……というか両目の離れ具合に合わせて、左右のレンズの位置を細かく調整できるものらしい。 7・8枚目はこれの簡易版で、片手で持ち支えて見る「實體鏡」。これが今回のうちでは、最も実物を目にする機会があるシロモノだろう。 現代では考えにくいだろうが、こうした器械の筐体はだいたいが金属製ではなくて、綺麗に表面仕上げされた木の箱だった。もちろん、プラスティック製のパーツなどは使われていない。あってもセルロイドとか、だったろうか。暗箱の蛇腹部分は革製だ。 当時のカメラ関係器材などは、ほとんどが輸入品だったこともあって、図版も輸出元のカタログから持ってきたものが多いのだが、今回取り上げたカタログをよぉく見ると中には「S. KUWADA」と添えてある絵もあって、これはカタログを編む際に新たに彫刻した、日本製の細密版画であることがわかる。 なお国会図書館デジタルコレクションには、このカタログの明治34年(1901年)版が公開されているのだが、これにはまた別のステレオカメラがいくつか出てくる。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/853871/84 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/853871/92 かつてのデジタルライブラリー時代のスキャニング画像は画質がひどく粗いものが多く、図版の細かいところが潰れてしまっていてよくわからない。こうした稀少資料の現物が覧られないのは残念なことだ。
桑田寫眞要鑑 明治四十一年 明治41年(1908年) 銅版+活版刷り 洋紙図版研レトロ図版博物館
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日本の古い視力検査表いろいろ@昭和初期の医療器械カタログ
今ではちょっと考えられないことかも知れないが、戦前には医療器械のメーカーが共同で作った綜合カタログというものがあった。かつては小規模の企業……というか個人商店が非常に多かったため、手間もコストもかかるカタログを同業組合で出す、という形が明治の終いあたりからみられるようになった。 今回は昭和10年代のそうしたカタログに載っている、古い視力検査表のヴァリエーションをみてみよう。 1・2枚目は、試視力表を均等に明るく見せるための「中泉氏試視力表照明裝置」。それぞれ壁面固定式と、キャスタで転がせる移動式。地方の古い個人病院などには、もしかしたらまだあるのかも? 3枚目は、今でもひろく使われている「石原氏萬國式日本視力表」で、右側が幼児向けの「小兒視力表」。大人向けが「日本」と冠されているのは、カタカナが使われているから。 二十世紀初めにアメリカで作られた、さまざまな言語の文字が使われた万国式試視力表が、だいぶ前に「カラパイア」記事で紹介されていたことがある☟ ----- 「視力検査表の先駆けとなったあらゆる国籍の人々に対応した視力表(1907年)」@カラパイア https://karapaia.com/archives/52252504.html ----- この記事に出てくるレプリカ商品は、今でも売っているようだ。 4枚目は右側が「井上氏萬國式環狀試視力表」、今では「環狀」というよりも「ランドルト環」という方が一般的だろう。左側が「伊藤氏最新萬國式試視力表」。この「最新」の方は今ではあまり見かけないとおもう。 5枚目は「井上氏萬國式鉤狀試視力表」と「井上氏萬國式小兒試視力表」。この「鉤狀」の方は「スネレン試視力表」と呼ばれるもので、こういう「コ」の字形のほかに「E」字形も使われる。 6枚目が価格票、試視力表そのものはどれも65銭均一。照明装置の方は固定式が50円、移動式が90円だから、だいぶ値が張る。 比較のために週刊朝日編『続値段の明治大正昭和風俗史』(昭和56年 朝日新聞社)を引っ張ってみると、「英和辞典」項「値段のうつりかわり」表によれば当時の三省堂『コンサイス英和辭典』が昭和9年2円50銭、昭和13年に3円。『続続値段の明治大正昭和風俗史』(昭和57年 朝日新聞社)の「週刊誌」項では『週刊朝日』が昭和10年8月13銭、昭和12年7月15銭、となっていた。現行価格は『コンサイス英和辞典』第13版3520円、 https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/dict/ssd10146 『週刊朝日』2022年6月3日号440円。 https://publications.asahi.com/ecs/24.shtml 7枚目は左上が「草間氏照輝試視力表裝置」(35円)、左下が「伊藤氏試視力表照明裝置」(20円)。どうやら現行品のように試視力表の裏側から照らすのではなく、手前に立っている黒い筒状の覆いの内側に照明灯が仕込んであるようだ。そして右側は「小川氏試視力表裝置」(20円)。「裝置」という語が連想させるようなメカメカしさをあんまり感じない見た目だが、裏側にも試視力表がついていて、くるっと廻して切り換えする仕組みらしい。 8枚目は、まるで操り人形のように糸で引っ張って切り換える「井上氏絲引試視力表裝置」(35円)と、それの簡易版のような「前田氏絲引視力計」(20円)という超アナログ視力検査器械、そして金属じゃなくて木でできた「東大式遮眼器」(1円50銭)。この辺になると、今日の検眼現場ではもう全く考えられないようなシロモノだろう。 こういう忘れ去られた、現物などおよそ残っていそうもない昔の道具を、古い図解カタログたちは教えてくれる。
日本醫科器械目錄 昭和12年(1937年) 昭和12年(1937年) 活版刷り図版研レトロ図版博物館
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あぶない(!?)ヴィデオカメラ@昭和初期の一般向け科学雑誌
昭和初めの娯楽科学雑誌巻頭グラヴィアに出てくる、ドイツ人放射線医と技術者とがタッグを組んで考案なさったという小型連続撮影用カメラ。 といっても普通の映画を撮るためのものではない。なんと、エックス線撮像を連続して写すことができる、という「レントゲン活動写真機」なのだ。 写される側の患者や付き添っておられるドクトルは、当時のエックス線撮影のときにフツーにつかわれていた装備(表面はゴム製で内部に鉛の板が仕込んであるもの)のようだが、肝腎のカメラを構えておいでの技術者氏はどうも何も放射線を防護するようなものを身につけておられないように見える。放射線はレンズが向いている方にしか飛ばないからだいじょーぶ☆ ということなのだろうか……。 この時代のライヒスマルクはハイパーインフレのあおりをもろに受けていたのではないかとおもうのだが、果たしてこの「一マルク」はどれくらいの価値だったのか……ともかく、それまで局部を1枚撮るだけで十数マルクかかったものが、この新案装置を使えばたったの1マルク! しかも操作も簡便! とくれば医療界がこぞって飛びつきそうな画期的発明だ。 しかし、実際そういうブレイクスルーがあった、というお話は聞いたことがないから、ウィーンで開催された放射線医療学会で紹介されたこの器械は、恐らく何らかの致命的な問題があって、歓呼をもって迎えられることなく消えてしまったのだろうとおもわれる。 いや〜、どう考えても危ないでしょ、これ。撮影者の命がいくつあっても足りなさそう。 オマケの7枚目はご参考までに、同じ号に載っている小型撮影機の広告。こういう器械が、当時の庶民はともかく富裕層には「手の届く実用品」になっていた。
科學知識 第九卷第七號 昭和04年(1929年) グラビア刷り 洋紙(塗工紙)図版研レトロ図版博物館
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かわいいイラストの近現代史年表@昭和初期の少年ヴィジュアル百科事典
国家総動員法が制定され、いよいよきな臭くなってきた昭和13年に刊行された、少年向けヴィジュアル百科事典に載っている「現代の繪話」というタイトルの、明治初頭から昭和初期にかけてのカラーイラスト年表。 子どもたちの興味を惹くためだろう、かなりトリビアルなネタも取り交ぜてあって、かわいらしい彩色の絵も親しみやすく、面白い仕上がりになっている……が、しかしこうしてみると、ひと昔ふた昔前の日本は結構物騒な世界だったんだな、と改めて感じさせられる。 この本全体が、装幀デザインからして「たのしく国威発揚・戦意昂揚」を目指した編集方針なのがみてとれる、ある意味「わかりやすい」方向性の百科事典なのだが、図版が(巻末の政治家や軍人などのおエラ方顔写真は別として)全般的にかわいい感じで、なかなか魅力的。 それにしても、この絵を眺めて眼をきらつかせていた少年少女たちが、その数年後にどのような人生を歩んでいたのかは知る由もない。ただ、少なくともこの当時に思い描いていた将来とは、かなり違ったものであったろうことは、想像に難くない。 文化によって得られたものは千年、二千年経って、その価値をいよいよ増して残り得る。しかし戦争によって得られたもののうち、千年経ってなお残っているものは、「破壊の傷痕」と「消しがたい遺恨」がほとんどだろう。 それでも為政者が敢えて戦争に踏み出す選択肢を決して棄てようとしないのは、短期的には自身の立場や権益をまもったりつよめたりするのにおおいに役立つことを知っているからだろう。殊に、自国内や自身のまわりに、国民の視線を一刻も早く逸らさせたいような問題を抱えている塲合には。
少年百科寶鑑 昭和13年(1938年) 昭和13年(1938年) 網版刷り図版研レトロ図版博物館
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高山大河に囲まれた東西両半球の世界地図@明治中期の地理教科書
「ドイツ式」に倣ったことを謳う、明治二十年代の地理教科書の彩色世界地図。それまでに出ていた地理書があまりにもつまらないので、もうちちょっと何とかしたい、と考えて新機軸を打ち出したことが、この本の序文に綴られているのだが、巻頭近くにあるこの折り込み地図も「ドイツ式」なのかどうかは不明。 十九世紀の教科書に載っている世界地図は、だいたい例外なく宇宙空間から地球を眺めたような正射図法による、東西両半球が描かれていた。 それは、教える対象となる若者たちが、「地球は円い」というのが決して常識ではなかった世代を親に持っていた、ということもあろうし、これから未知なる広い世界に目を向けるにあたって、我が版図の大きさや海外諸国との位置関係などを把握させることが取り敢えず第一の課題だったから、実際に外洋航海をするに欠かせない海図に使われるメルカトル式正角円筒図法へはなかなか切り換えられなかったのだろうとおもう。 四角い紙に両半球図を描くとなると、どうしても周りには結構な余白が生じることになる。そのまま何もなし、という地図も少なくはないが、この地図のように世界の著名高山の高さ較べ、大河の長さ較べを図解して興味を惹こうと工夫された例もときどき見かける。実際、資料としてもデザインとしても、今日でも魅力ある図版ではないだろうか。色遣いや標題文字の排列など、全体としてなんとなく「たのしさ」や「かわいらしさ」が感じられるような気がする。 東半球の右端のところに「大日本帝國」、そしてその左手には「支那帝國」と書かれている。単に「日本」と国号が書かれているものが多いが、このように「帝國」までくっつけてある例はあまり憶えがない。このころになると、南極大陸はかなりそれらしく描かれるようになる。もう少し古い本になると、海岸線の極く一部だけ描いてあったりする(さらにその前は、何も描かれていなかったりする)。
萬國地理指要 明治26年(1893年) 明治26年(1893年) 石版刷り図版研レトロ図版博物館
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岩鹽@大正の鉱物教科書
国内ではまず採れない、塩の固まり。なーんとなく、やっぱりサイコロが寄り集まっている感じはある。ピンク色のとか、時々売っているのを目にされるかもしれない。 鉱物とはいえないが、岩石標本の展示室が準備できていないので、ここに仮置き。 なお出典資料については、当研Q所「架蔵資料目録」ブログにて紹介している。 http://lab-4-retroimage-jp.seesaa.net/article/458570445.html
女子鑛物教科書 大正04年(1915年) 大正02年(1913年) 銅版(あるいは鉛版)刷り図版研レトロ図版博物館
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大腿筋(前内側)@明治の解剖学書
右太もも前側の筋肉や靭帯の図。骨との位置関係が解りやすいように描かれている。 なお出典資料については、当研Q所「架蔵資料目録」ブログにて紹介している。 http://lab-4-retroimage-jp.seesaa.net/article/458288544.html
實用解剖學 卷一 明治33年(1900年) 明治20年(1887年) 銅版刷り図版研レトロ図版博物館
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金剛石@大正の鉱物教科書
ダイアモンド原石の、いろいろな形の結晶の図。現物にはまずお目にかかれないが、なかなかたのしい姿。ガラス製のでいーから、ちょっと欲しいかも。 なお出典資料については、当研Q所「架蔵資料目録」ブログにて紹介している。 http://lab-4-retroimage-jp.seesaa.net/article/458570445.html
女子鑛物教科書 大正04年(1915年) 大正02年(1913年) 銅版(あるいは鉛版)刷り図版研レトロ図版博物館
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20世紀初期のビーカーいろいろ@明治末期の理化学実験用品カタログ
少し前に、戦前まではビーカーはセット売りだった、当時のカタログをみるとわかる、などと書いた https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/items/149 のに、名前を出したカタログをご覧に入れないわけにもいかないよね、ということで今回はそれを取り上げようと改めて開いてみたら、あららちゃんと1個売りの単価も載っていた……ということで、先に以前の記事の方を書き直しておいた。だいぶ前に調べたことを再確認せずにうろおぼえで書いてしまったのがまずかった。イケマセンね〜。 というわけで、少なくとも20世紀に入ってからはばら売りもされていたけれども、しかしやはりここに掲げた図版にみられるように、複数のサイズを入れ子にしたセット売りが相変わらずおこなわれていたことは間違いない。どうしてそういう売り方が引き続いていたのかはわからないが、何かしらそういう需要があったからなのか、それとも単なる商習慣なのか……どの本だったか忘れてしまったが、戦後に理化学ガラス業界のお方がお出しになった回顧録にも戦前は組で売っていた、という記述を読んだことがあるのだけれども、そこにもたしかその理由は言及されていなかったようにおもう。 さておき1・2枚目にある、今日もっとも普通に使われる、高さが底面直径のおよそ1.4倍の比率のビーカーを「グリフィンビーカー」と呼ぶのだが、これはあの想像上の生き物のくちばしを連想したわけではなくて、考案者のジョン・ジョセフ・グリフィンの名を冠してあるのだ。で、3・4枚目をみると、これとは別に「普通形」という、もっと縦長のものがあったことがわかる。現在「トールビーカー」と呼ばれる、高さが底面直径の倍くらいのものに似ているが、これよりもさらに細長〜い「長形ビーカー」というものもあったのがご覧いただけるだろう。そのほかにも6枚目にみられるように、磁器製の「煮沸ビーカー」、注ぎ口のない「厚壁硝子ビーカー」、それに「銅製ビーカー」など今では全くみられなくなったものも出てくる。このようにやたらと種類が多いのはなにもビーカーに限ったことではなく、それがまた図版を眺めて喜んでいる口にはたのしい限りなのだが、現場で実験を重ねながら改良や取捨選択を試行錯誤していた時代ならではのヴァリエーションの多さなのではないかと考えている。
理化學機械藥品類目録 明治44年(1911年) 明治35年(1902年) 銅版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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人身活體ニ就キ「レントゲン」X光線寫眞圖@明治の解剖学書
X線を当てて撮った手及び足の図。ドイツでのX線の発見が明治二十八年(1895年)、国内で初めて撮影したのがその翌年だそうだから、かなり早い時期の撮像ということになる。 なお出典資料については、当研Q所「架蔵資料目録」ブログにて紹介している。 http://lab-4-retroimage-jp.seesaa.net/article/458288544.html
實用解剖學 卷一 明治33年(1900年) 明治20年(1887年) コロタイプ図版研レトロ図版博物館
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磁鐵鑛に鐵粉の附着せし有樣@大正の鉱物教科書
うずくまるパンクス……ではなくて、磁鉄鉱に鉄粉が吸い付けられてトゲトゲ状になっているありさま。四角いのが結晶。かつては山梨の大日向あたりでも磁力の強いのが採れていたのだとか。 なお出典資料については、当研Q所「架蔵資料目録」ブログにて紹介している。 http://lab-4-retroimage-jp.seesaa.net/article/458570445.html
女子鑛物教科書 大正04年(1915年) 大正02年(1913年) 銅版(あるいは鉛版)刷り図版研レトロ図版博物館
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三省堂の理科教材ショウルーム@明治末期の理化学器械カタログ
今年の4月に創業140周年を迎えられた老舗の三省堂書店は、最初に古本屋として出発した後に新刊書店に転換して事業を拡大、次いで乗り出した出版印刷業部門が大正期に三省堂として独立したことがよく知られているが、明治40年代に理化学器械や標本などの教材を拵えて売り出しておられたというのは、それに較べたらかなりマイナー、というか寧ろマニアックな部類の話だろう。 このお店、「三省堂器械標本部」については、その後継企業を自負される教育理科機器製造販売会社「ナリカ」が創立百周年を迎えられた、平成30年(2018年)に就任なさった現社長氏が、そのご著書『ナリカ製品とともに読み解く理科室の100年』 https://www.scibox.jp/index.php?dispatch=products.view&product_id=7770 などで熱く語っておられるほかは、東日本大地震の際に津波による難を受けながらも救い出されたことが話題になった1台を含め、公式には僅か3台しか現存が確認されていない所謂「海保オルガン」 http://www2.pref.iwate.jp/~hp0910/tsunami/data/Sect02_13.pdf の表向きの製造元として取り沙汰されるくらいではないだろうか。 同店は明治38年(1905年)11月に三省堂書店本店の並び、神田區裏神保町七、八番地(今日では冨山房buildが神田すずらん通りに面する、ツルハドラッグ神田神保町店や地下のサロンド冨山房FOLIOが店開きしているところ)にできたとされる。1枚目に掲げた外観写真をみると、七番地の方は三面のショウウィンドウを持つ重厚な土蔵造りの、典型的な明治期商店建築で、手前の八番地の方はそれよりもっと簡素な造りの木造二階屋だ。 ここには実験室や、製品ショウルームとしての器械陳列室・標本陳列室が置かれていたことが2〜4枚目の画像から知れるが、どの部屋が建物のどこにあったのかは平面図などがないためわからない。とはいえ、「實驗室2」写真に写っている実験台の上の背の高い器械が、「器械陳列室1」写真の奥の部屋にあるものと同じように見えるし、窓の木枠のデザインも同じようだ。これはどちらかの建物の二階部分で、窓のあるのが通りに面している側だろう。そして「標本陳列室1」写真のライオンの剥製の後ろに写っている硝子戸は、手前側建物の入口のそれに似ている。 5枚目の巻頭序には、如何にも明治人らしい大言壮語が綴られているが、それが伊逹じゃないことを証明するためか、明治43年(1910年)にロンドンで開催された「日英博覽會」に製品を出品して「金賞牌(GOLD MEDAL)」を受けた、と誇らしげに掲げている。6枚目はそのメダルと賞状、そして7枚目は国内の博覧会や共進会で得たメダルとあわせて、「日英博覽會」の際に大英博物館長から授与された感謝状まで載せてある。ただ、どのような製品で賞を得たのか、という肝腎なところがすっぽ抜けている。ありゃま。 6枚目の賞状を拡大してよぉくみてみると一部読み取れないものの、 'Chuichi Kamei' という堂主の名、そして 'for Specimen of Stuffed Animals' と書いてあるらしいのが何とかわかる。少なくともこの金賞は、(4枚目画像のライオンのよーな)動物剥製標本に対して与えられたもののようだ。ほかにどのようなものが出品され、彼の地でどう評価されたのかはわからないが、部門発足から僅か5年で先進国の博覧会に出品し好評を得た、というのは「弊堂創業以來歳月長カラズト雖モ長足ノ進歩ヲナシ」と序文にいうのがまんざら誇張でもなかったことを示しているとおもう。 このように順調な発展をみせ勢いづいておられた「三省堂器械標本部」は、しかし短命に終わってしまわれたらしい。ナリカの中村社長が書いておられるところによると、大正2年(1913年)に起こった神田大火により焼けてしまい、その後三省堂は百科辞典刊行に傾注する方針になったこともあって、結局再建されなかったという。ナリカ社長氏のご祖父は明治41年(1908年)からここで勤めておられたが、器械標本部解散のとき「器械部」を譲り受け、それを基に大正7年(1918年)現在社屋のある場所、当時の神田區龜住町四番地にナリカの前身「中村理化器械店」を興されたそうだ。 https://www.sci-museum.jp/files/pdf/study/universe/2019/06/201906_04-09.pdf ところで三省堂のその百科辞典というのは、明治41年(1908年)から刊行が始まっていた我が国最初の本格的なエンサイクロペディアである『日本百科大辭典』を指す。当初は6巻+索引巻の計7巻組で企画されたが、二百数十名の各分野専門家を動員した執筆陣、豪華な装幀造本、あくまで妥協しない編集方針、そしてあまりにも編集作業に時間を喰って途中で改訂作業にも手を着けざるを得なくなり、10巻組に膨らむことになったはいいが、結局版元の三省堂の方がもたず、大正元年(1912年)10月に経営破綻してしまわれたという。 https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/ayumi17 しかし第6巻で打ち切りとは如何にも惜しい、という声が引きも切らず、善意が寄せられ出資が集まって、大正2年(1913年)5月には「日本百科大辭典完成會」なる組織が立ち上がり、そして同8年(1919年)4月にめでたく全巻刊行の運びになった、と辞書研究家・境田氏がまとめておられる。なお同4年(1915年)には、出版印刷部門が「三省堂」として独立され、今日まで続いている。 件の神田大火は、このように社運を賭した一大事業が、三省堂の経営を追いつめる事態になりつつあった年の2月20日に起こったのだった。 https://jaa2100.org/entry/detail/036609.html 三省堂書店神保町本店に拠点を据える「本の街・神保町を元気にする会」が出しておられる、『神保町が好きだ!』誌第13号のp. 10「明治・大正2度の大火に見舞われた、その後の復活劇!」に、この火災の経緯が出てくる。 https://www.books-sanseido.co.jp/jimbocho/pdf/jinbocho_sukida_13.pdf また、この時校舎と、そしてそれに隣接する校長私邸が罹災した順天中學(北区王子本町にある順天学園順天中学校・高等学校の前身)校史にも「神田の大火災」として載っている。 https://www.junten.ed.jp/kousi/160nen-68.htm これらによると、20日の午前1時過ぎに今のJR中央線水道橋駅南側、東京歯科大水道橋病院の西側(裏手)の辺りにあった救世軍大學殖民部の建物から出火、折りからの烈しい北風に煽られて、今の白山通り両側の街並みを捲き込みながらみるみる南側へ燃え拡がって、神保町交叉点辺りから東へ逸れてお堀端の錦町河岸まで焼き尽くしていったらしい。 『東京日日新聞號外』の方は、拡大図が格納されていたサーヴァが今はお亡くなりらしくてすこぶる読みづらいが、「燒失の町 三崎町、猿樂町、■(仲?)猿樂町、裏神保町、表神保町、錦町」「燒失戸数 三千百九十戸」「發火!! 三崎町二丁目救世軍大學殖民部より」「猿樂町を燒き盡す」「神保町に燃出づ」「烈々たる二手の火勢」「錦町河岸へ燃え拔く」「午前八時消止む」などと書いてあるのがかろうじてわかる。 『東京朝日新聞』の方も荒れていてキビシいが、PDFを拡大し眼を凝らしてみると「二手の火勢」について「一方は三崎町一丁目二丁目を水道橋方面に■■し一方は仲猿樂町を南に走り■■■線路を飛越え裏神保町へ移り■■幅數町に亘る火の海となつて只押しに神保町方面へ■■■て學校商店其他大建築を■紙の如く無造作に燒し盡し裏、表神保町を攻めて一は東明館勸工場附近を■し其裏手より小川町方面へ出でんとし他の火先は神保町の中心を貫きて錦町二丁目へ突進しつゝ一ツ橋通りに其■■を揮はんとす……午前三時半頃には、北は三崎町より西は西小川町の■場、東は猿樂町二丁目、南は錦町二三丁目に至るまで南北十數町の■■の一大焦熱地獄と化したる光景、……」などと書かれているようにみえる。 さて、そこで8枚目の「三省堂營業所及所屬工場」を眺めてみると、全滅した裏神保町にあった「器械標本部」は惜しくも2棟とも罹災したのは間違いないだろうし、火元に近い三崎町三丁目の「商品貯藏場」も助からなかったかもしれない。 しかし美土代町三丁目の「理化器械工場」は、焼けた錦町二、三丁目の東隣の延焼しなかった錦町一丁目と、その向こうの電車通り(今の本郷通り)を挟んだ更に東に位置していることから考えると、ここは焼けなかったのではないかしらん……とおもえてくる。 ともかく、本店に加えてショウルームを兼ねた店舗と、製品もろともにストックヤードとが同時に失われたとすれば、このときの経営状態からして「器械標本部」再建は断念なさらざるを得なかっただろう、と腑に落ちる。反対に、工場はどれも被災を免れたのであれば、解雇せざるを得なくなった有能な従業員たちに設備を譲ることで先行きの補償に充てた、とみることもできよう。「中村理化器械店」が5年後に立ち上げられたのも、三省堂の製造設備が無傷だったお蔭かもしれない。 最後に余談だが、「三省堂器械標本部」扱いの「海保オルガン」について触れられた、日本リードオルガン協会長・赤井励氏の『オルガンの文化史』には「海保と思われる楽器工場の住所は、小石川西江戸川町二十二。」とある。 https://books.google.co.jp/books?id=HG9xDgAAQBAJ&pg=PA97 その隣に当たる同町二十一番地に「生理模型工場」が設けられたからこそ、海保のオルガン工場は三省堂扱いで製品を世に送ることになる縁が生まれたに違いない。最初に提携を持ちかけたのがどちらかのかはわからないにしても。
理化樂器械及藥品 天文地文氣象學器械 數學製圖及測量器械 顯微鏡及寫眞機目録 明治45年(1912年) 明治42年(1909年)? 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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方鉛鑛@大正の鉱物教科書
割っても割っても四角くなる、鉛の原料方鉛鉱の図。毒なので舐めちゃダメ。こうして鉛版の細密画にすると、遺跡か何かのようにも見える。 なお出典資料については、当研Q所「架蔵資料目録」ブログにて紹介している。 http://lab-4-retroimage-jp.seesaa.net/article/458570445.html
女子鑛物教科書 大正04年(1915年) 大正02年(1913年) 銅版(あるいは鉛版)刷り図版研レトロ図版博物館
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別圖(實物標本を得ること困難なるもの數種)@大正の鉱物教科書
基本は現物の鉱物標本を見せたいけれど、そうそう揃えられないものもあるよね、ということでイラストで見せることにした鉱物の数々。しかし何だか図と名称との位置関係も数も合っていないし、図の方にも名称の附番に対応する番号が添えられていないし……ということで、生徒らの混乱増大に資すること間違いナシ☆ という、綺麗だけれどもちょっと困った図版。いーのかこんなんで。 なお出典資料については、当研Q所「架蔵資料目録」ブログにて紹介している。 http://lab-4-retroimage-jp.seesaa.net/article/458570445.html
女子鑛物教科書 大正04年(1915年) 大正02年(1913年) 三色版刷り図版研レトロ図版博物館
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鳩あれこれ@昭和初期の原色動物図鑑
前に空撮用の「鳩カメラ」を取り上げた https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/items/138 が、そういえば当時我が国ではどんなハトが紹介されていたのだろう? とふとおもって動物図鑑の鳥類編を引っ張り出して、「鳩鴿目」つまりハト目のところを開いてみたら思いの外、図版だけみてその名前が言い当てられないものでいっぱいだった。だいぶ前にモノ日記の(中断したままになっている)「ザボンと文旦」稿 https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/diaries/19 のなかで引用した一冊もの図鑑の別ヴァージョン6巻組の端本。彩色図版は特に、あのメタリックな羽の色つやがうまい塩梅に表現されているとおもう。 1枚目の上半分にあたる2枚目アオバトのうち上段のふたつは日本産、下段のふたつは南洋諸島の産。1枚目下半分を拡大した3枚目は左側のボタンバト・カルカヤバトがマレー半島からスンダ列島にかけて分布。右上のカラスバトは国産種で、この図鑑には「本州・四國・九州の南部沿岸の諸地方並〈ならび〉に琉球の北部に分布してゐる。」とあるが、現在では離島にしかいないらしい。 https://db3.bird-research.jp/news/wp-content/uploads/2016/04/13_4_janthina.pdf 右下のカワラバトは街中でもっとも普通にみられるドバトや伝書鳩などの原種。この本の解説では「我國にては、往時は本州より沖繩までの各地に、棲息せし種類なれど、現時は四國・沖繩などの海岸に少數を見るに過ぎぬ。」と書いてあるが、山階鳥類研究所『ドバト害防除に関する基礎的研究』 http://www.yamashina.or.jp/hp/kenkyu_chosa/dobato には、日本鳥類學會会長を務められた黑田長禮の図鑑『鳥類原色大圖說』の中で見間違いとされている、とある。 http://www.yamashina.or.jp/hp/kenkyu_chosa/dobato/hato11.html で、同書第三卷(昭和9年(1934年)刊)を引っ張り出してみたらたしかに、「743 かはらばと」のところに「嘗て本州・琉球・臺灣等より報吿あるものは總べて家禽となれる「どばと」中にて「かはらばと」に類似の羽色のものを誤稱せるによる。」と書かれていた。当時の博物ギョーカイと鳥類ギョーカイとで意見が割れていた、ということだろうか。 4枚目はどれもカワラバトを品種改良したもので、原形とは似ても似つかない愛玩種もある。上半分を拡大した5枚目の左上が伝書鳩で、解説には「我國へは、白耳義〈ベルギー〉の品種が輸入され、其〈その〉雜種又は原品も輸入せられてゐる。」とある。右上のドバトの方には、「現今數百の品種があり、愛玩用・食用・傳書用として、利用される有用の鳩である。何れも原種カハラバトより淘汰改良をうけて生ぜしもので、羽色にも種々あり、黑色・白色・黃色・黑白斑・蒼色二引・鞍掛などがある。我國では、多く神社・佛閣に飼養せられてゐる。」と解説されているが、昭和中期以降有害駆除がはじまったそうで、人間が手前勝手にこの島に持ち込んでおきながら今やすっかり害鳥扱いだ。 http://www.yamashina.or.jp/hp/kenkyu_chosa/dobato/hato221.html 5枚目のやや地味なひとたちは左上から、俗にヤマバトとも呼ばれる、当時「鳩類中最も普通に見る種類」のキジバト、その隣が屋久島から琉球諸島にかけて分布しているリュウキュウキジバト、2段目左が台湾や支那に多いカノコバト、次のジュズカケバトは現在では中央アフリカ産のバライロシラコバトから派生したとされているようだ http://www.ax.sakura.ne.jp/~hy4477/link/zukan/tori/juzukakebato.htm が、当時は「原産地は、北亞弗利加〈アフリカ〉か、印度・小亞細亞〈アジア〉であるとの說がある。」という認識だったようだ。次の「べにじゅずかけばと」というのは解説に書かれている学名と「「スマトラ」・爪哇〈ジャワ〉に産し、飼鳥として舶來する。」という一節からして、スンダ列島にいるオオベニバトのことのようだ。昭和31年(1956年)に埼玉県の鳥に指定されたシラコバトについては、「小亞細亞・土耳古〈トルコ〉・印度・「ビルマ」・支那等に、棲息してゐる。往時は我國にも、廣く各地に分布せしも、現時は、埼玉縣・千葉縣に亙る、江戸川筋の御獵場と其附近に限り、棲息するを見るのみである。」と書いてある。なおこれもまた、当時は「じゅずかけばと」と呼ばれていたらしい。コブバトは南洋、ベニバトは「「ビルマ」・交趾支那〈こーちしな〉・「ヒリツピン」・支那・西比利亞〈シベリア〉東南部地方、滿洲等に分布し、我國にては、臺灣にのみ多く棲む。」とあるが、現在は南西諸島にもいるようだ。 https://www.birdfan.net/pg/kind/ord10/fam1001/spe100106/ 7・8枚目はモノクロ図版だが、よくみると実は墨単色刷りではなく二色版でことがわかる。「すずめばと」は「南米「コロンビヤ」・墨國〈メキシコ〉の東南部に棲息してゐる。」とあるが、学名からして今いうフナシスズメバトで、「南「アリゾナ」・南「テキサス」・「カリフオーニア」・墨國等に分布してゐる。」とある「しゅばしすずめばと」の方が今日のスズメバトのことらしい。ケアシスズメバトは中南米の暖かい地方の産で、当時飼い鳥として輸入されることもあったようだ。チョウショウバトはマレー・フィリピン・スンダ列島・タイなどにいて、古くから日本へも飼い鳥として持ち込まれていたそうだ。ベニカノコバト・ウスユキバトはオーストラリア方面から輸入されていた当時の人気品種。ヒムネバトはフィリピン産で、こちらは稀に輸入されることもあったという。キンバトは印度からニューギニアにかけて分布していて、琉球南部や台湾にもいる、と書いてある。ショウキバトとレンジャクバトはオーストラリア産、シッポウバトはアフリカ産、当時は「さざなみすずめばと」と呼んだサザナミインカバトは南アメリカ産で、いずれも輸入飼い鳥として人気があった。カンムリバトはニューギニア西部とその周辺にいると書いてあるが、19世紀初頭に描かれた絵巻物『外國珍禽異鳥圖』にも出てくる。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286746/3 キンミノバト、ソデグロバトはいずれも東南アジアの産だが、当時愛玩用として 稀に輸入されていたという前者は島部にしかいないそうだ。http://www.ax.sakura.ne.jp/~hy4477/link/zukan/tori/kinminobato.htm 1920年代、大正後期から昭和のはじめにかけて飼い鳥ブームが起こり、さまざまな珍しい鳥がさかんに輸入されたから、図鑑にもそうした興味を惹きつける図版が必要とされたにちがいない。
内外動物原色大圖鑑 第二卷 昭和13年(1938年) 昭和11年(1936年) 原色版図版研レトロ図版博物館
