🔴【閲覧No5/1170人以上】加賀藩の空白地帯に織田一族は生きていた。~加賀に生きる細川家一族の末裔が明かす

初版 2019/03/09 22:05

改訂 2019/03/11 10:38

下の地図は、1673年~1681年、加賀藩5代藩主、前田綱紀の頃に作られた金沢城から北方の地区。元は、加賀藩2代藩主・前田利長の正室・玉泉院(織田信長の4女・永姫)の土地だった場所は、空白です。私の居住地区です。なぜ、空白だったのでしょうか?

上の地図の【西尾家】は、2代関白・豊臣秀次の旧・家臣。【前田主膳(監物)】は、前田利家の弟で、七日市藩(群馬県)の分家筋で、石動(富山県小矢部市~高岡市)の年貢の管理をしていました。

【寺西家】は、旧・織田家の家臣。【那古屋(名古野)家】も、旧・織田家の家臣で、蒲生家にも繋がります。いずれも、末裔が、加賀藩士となりました。


 玉泉院の土地には、宇喜多秀家と前田豪姫(前田利家の4女、豊臣秀吉の養女)の姫の化粧田も含まれます。豪姫の妹・千世姫(前田利家の7女)が、細川忠興と細川ガラシャの嫁です。


 空白地帯は、【大衆免】と呼ばれた地域で、神宮寺の僧の免税田だった地区です。この地域は、公家の二条家の荘園でもあった地域です。


 年貢が免税だった理由は、前田家すら、特別扱いしなければならない人達だったという事です。


 さて、倶利伽羅峠の津幡城(石川県津幡町)、今石動城(富山県小矢部市)、木舟城(富山県高岡市)の城主が、前田秀継(前田利家の弟)で、当家の高祖母一族(細川家)が、秀継の菩提寺の管理、墓守をしていましていました(各フロアー、モノ日記参照)。

 下の写真は、前田秀継を取り巻く系図です。前田秀継のまわりには、織田家、細川家、蒲生家が取り巻いています。



 倶利伽羅峠も、また、江戸時代の地図は、簡易なイラストのみで、詳細なものは残っていません。しかし、饗応料理のレシピや、饗応料理に使用する鶴の骨などが発見されています。故に、徳川家級の人物を、前田家が、もてなした様です。

 

ここで、1枚と2枚目の写真に戻って下さい。前田主膳は、石動の年貢を管理していました。また、那古屋家は、旧・織田家の家臣であり、蒲生家の家臣であった家系です。


【私の持論】

加賀藩5代藩主・前田綱紀は、加賀藩の文化の礎を築いた藩主で、当時の加賀藩の力を持ってすれば、古地図の空白地帯も調査して、家屋を書き込めたはずです。全てが、手つかずの土地だったはずはありません。敢えて、空白にしたのです。なぜなら、そこには、織田一族が、徳川家の目を盗んで、潜伏していたからです。倶利伽羅も同様です。石動付近(富山県小矢部市から富山県高岡市)は、前田家の以前は、織田信長の妹、神保・稲葉夫人が、前夫の神保氏に付き添い治めていた土地です。

古地図の空白地帯の接点には、前田主膳、旧・織田家、旧・蒲生家の家臣の家が書かれているのが、カギです。

キリシタンの織田家の残党は、加賀藩の前田家に庇護されていたのです、きっと。 


     【津幡城址(石川県津幡町)】


津幡城には、佐々成政の討伐のために、前田利家、前田慶次、細川忠興、奥村助右ヱ門(永福)、そして、豊臣秀吉が、軍縮会議のために集っていました。加賀藩の記録に残っています。


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