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ノベルティコップ「カブトビール」
カブトビールの歴史は明治20年、中埜酢店の4代目である中埜又左衛門とその甥であり後に敷島製パンの創業者となる盛田善平が丸三麦酒醸造所を設立し、1889年(明治22年)5月に「丸三ビール」を初出荷したことに始まる。 丸三ビールはカブトビールの前身であり、明治31年愛知県半田市榎下町に工場を新築し、銘柄を「加武登麦酒(カブトビール)」に改める。その後「加富登麦酒株式会社」に社名を変更し、東海地方で最大のシェアを誇ったが、昭和18年に企業整備令が適用され、半田工場を閉鎖してカブトビールの製造を終了した。 このコップは底の形状(画像2枚目参照)からも判る通り、金属型による型吹きによって成形されたもので明治末頃のものと思われる。 型吹きのトロリとした質感と兜のロゴマークが美しい。
明治後期 日本M.S
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ノベルティコップ「カブトビール」2
先に紹介したカブトビールのノベルティーコップとは別デザインになるもの。カブトビールは広告・販促物に力を入れておりノベルティーコップにも多くの種類がある。そういった広告戦略と明治33年のパリ万国博覧会での金牌受賞が功を奏し、戦前の有力ビール銘柄に成長した。 近年、半田市ではカブトビールの半田工場があった建物を「半田赤レンガ建物」として保存活用し街づくりを行っている。その一つの取り組みとしてカブトビールの復刻醸造があり、半田赤レンガ建物などで販売を行っている。重厚で甘みの残る味であったとされるカブトビールがいかなるものか、いつかは半田に出向き当時の味を楽しみたいと考えている。 半田赤レンガ建物のHPを見ると、このコップと同じデザインの復刻版が300個限定で販売されているようである。機会があればこちらも購入して愉しみたいものである。
大正 日本M.S
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ノベルティコップ「豆腐商 鈴木屋」
「境町 鈴木屋」と緑色のエナメルにより筆書きされた木型吹きのコップ。高台の付いた湯飲み型である。 裏面には「豆腐、油揚商」と同じく緑のエナメルで筆書きしている。 茨城県境町に同名の割烹旅館があり、HPでは創業から140年となっているが、このコップにある鈴木屋と関係があるかは不明である。 木型吹きの高台付きコップである、屋号などが手書きである点などを考えると明治後期から大正頃のものと考えられる。
明治〜大正 日本M.S
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ノベルティコップ「ユニオンビール・三ツ矢サイダー」
胴部前面に天使をモチーフにしたユニオンビールのロゴマーク、裏面には枠で囲まれた三ツ矢サイダーの文字がエナメル刷りされている。ユニオンビールは大正11年(1922)に日本麦酒鉱泉が発売したビールで昭和8年(1933)7月に大日本麦酒株式会社に併合された後も、国内主要ビール銘柄として製造販売された。このコップはユニオンビールと三ツ矢サイダーのみの表記であり「NIPPON BEER KOSEN」と表記されているため、日本麦酒鉱泉時代のものである。大日本麦酒統合後のノベルティコップにはアサヒ、サッポロなど多くの銘柄が併記されることになる。
1922年(大正11)~1933年(昭和8) 日本M.S
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丸に万(いちりき)とあるコップ
丸に万(まん・いちりき?)の屋号と登録商標とあるコップで、底や器壁は厚くずっしりとした手持ちのものである。残念ながら、口縁に欠けがみられる。 厚手に出来ている点や、屋号入りの点において、取引先や客に配られたノベルティーとするより、店舗で実際に使われたものと考えている。 この不思議な屋号、丸に万であるが、読み方はマルマンかイチリキではないだろうか。 丸の中の文字が『万』とすると二画目が三画目を突き抜けている点で相違があり、やはりイチリキと読むべきだろう。 一力といえば、京都祇園にある格式ある茶屋『一力亭』が有名である。 一力亭ではこのコップに見られる印を使用しているが、このコップがはたして一力亭のものであるかは確証がない。
大正〜昭和初期 日本M.S
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ノベルティコップ「イソベサイダー」
コップ正面にイソベ、裏面にサイダーの文字を配し、文字を三角形で囲んだ洒落たロゴのノベルティコップ。 群馬県にある磯部温泉は温泉マークの発祥の地として知られ、鉱泉は炭酸泉である。戦前、同地にあった旅館鳳来館の主人、大手萬平の邸園より湧出した鉱泉がサイダー風味であったことから磯部鉱泉株式會社を設立し、清涼飲料水を発売していたとされる。 このコップが上記のサイダーのものである可能性は高いと考えるが、確証は得られていない。
大正〜昭和初期 日本M.S
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ノベルティコップ「アサシヲ」
美味滋養 清涼飲料 アサシヲとあるノベルティコップ。アサシヲ飲料株式會社が戦前に発売していた飲料であるが、どのような物かは史料が少なく不明である。当時の広告に「昔はサイダー 今はアサシヲ」とあるので、やはり炭酸飲料であると考えられる。また、ボトルディガーのブログを拝見すると、アサシヲの瓶は一般的なサイダー瓶のサイズであるが六角形である所に個性があり、胴部にアサシヲのロゴと底部に朝潮の文字のエンボスがあると言う。 王冠栓のサイダーは当時ラムネに比べて高級飲料と言う位置付けであったようで、品質が良く高級であることを謳った商品が多い。各地に様々なサイダーがあり、またノベルティコップも多く存在すると思われるが、なかなか入手は難しい。最近はサイダーのノベルティコップを蒐集の主軸としている。
大正〜昭和初期 日本M.S
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糸巻文赤花縁鉢
底部から口縁にかけて、細い乳白ガラスの筋を幾重にも巻き付けた「糸巻文」の鉢である。ガラスが熱いうちに乳白ガラスの線を巻き付け、成形するという、熟練の技を必要とする手間の掛かった作品となっている。口縁には赤を暈し、襞状に仕上げた花縁鉢と呼ばれるもので、大きさから蜜豆や氷菓子を盛ったものと考えられる。糸巻の技法を用いた製品は大正を中心に数多く作られ、氷コップやコンポート、鉢類、電笠などに多く見られる。乳白の線をさらに細かく、緻密に巻き付けたものは「千段巻」と呼ばれ、こちらも多くの作品が現存している。 白の糸巻が繊細さを際立たせ、涼やかな効果を発揮している。
大正〜昭和初期 日本M.S
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おはじき
子供の玩具として、代表的なものの一つに「おはじき」がある。おはじきは、古くは奈良時代に中国より渡来し、平安時代の宮中遊戯から時代を経て庶民の遊戯として定着したものらしい。現在見るようなガラス製で扁平なおはじきは明治時代後期に普及したものである。 この品は、飛騨高山の古道具店から入手したもので、京都土産と思しき紙製の舞妓をデザインした小箱に収まっていたものである。時代はやはり明治時代後期から大正のものであろう。一つ一つ見ていくと、個性があり、まるで宝石を見るがごとく大変美しい。古い時代のガラスは玩具といえど馬鹿にできない。そんなおはじきであるが、いくつか種類があるのでご紹介する。 ・「型押しおはじき」(2枚目写真) 簡単なプレス加工のもので、栗、ひょっとこ、紅葉、茅葺の家などを象っている。赤色ガラスは当時高価であったためか、塗装による彩色となっている。残念ながら、ここでは赤と透明のもの以外ないが、青や緑、茶色、乳白、紫などの色ガラスを用いたものもあり、現在では高値で取引されている。 また、型押しの中でも表に花、裏に平仮名を押したものがあり、これは「花はじき」とよばれている。(3枚目写真) ・「ヘソおはじき」(4枚目写真) ガラス種を切り、扁平になるように押しつぶした簡単なものの中に、片側にヘソのような窪みを持つもの。 ・その他 個々の名称は不明ながら、片面に菊水紋や三ツ丸文(5枚目写真)、格子文を押したもの(大きいものは石蹴りか?)や、飴のように両端を切り離しただけのもの(6枚目写真)、碁石のように両面を凸形にしたもの(ガラス製碁石の可能性あり)(7枚目写真)、無紋で単にガラスを扁平に潰しただけのものがある。(8枚目写真)
明治後期〜大正 日本M.S
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乳白ガラスのエッグカップ
乳白色のガラス生地で宙吹きし、口縁部をミントグリーンの色ガラスで暈している。 イギリスにおける色ガラス製品の生産はブリストル地方が有名で、イギリスアンティークグラスの世界では、こうした色ガラスの製品は一纏めに『ブリストルグラス』と呼ばれる。 しかし、ブリストル産ガラス製品と断言できるものは案外少なく、色ガラス製品の生産に関しては不明な点が多い。 口縁部に段があり、液体を飲むための物としては不自然な形であったため、調べたところ卵を乗せるエッグカップであることが分かった。 R3.10.22 タイトルを『ジングラス』から『エッグカップ』に変更しました。
1780〜1800 イギリスM.S
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ソーススプーン
シカモアという木材から削り出されたソーススプーン。ハンドルには容器の縁に掛けるための突起や、装飾的な蕨型の彫刻がされている。また、杯部の背面にはシェル模様も彫刻されており美しい。 シェル模様はもう少し後の時代のシルバースプーンに多用された装飾で、その出現の早い例と言えるかもしれない。 約300年、ひとからひとへ受け継がれ、磨かれて琥珀色となり、トロリとした質感がある。
1700年頃 イギリスM.S
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エナメル彩八重桜文コップ
コップの胴部にエナメル彩によって帯状に八重桜が描かれている。ガラス素地の色調は黒く鉛色である。 平凡社「別冊太陽 明治大正のガラス」(1994)には胴部がくびれた同形状のコップを「大正形コップ」と紹介している。 淡く光を透過する白いエナメル彩の花弁が桜の質感を見事に表している。
明治後期〜大正 日本M.S
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ミニアチュール
19世紀の半ば、カメラの普及によって人々は簡単に自身の肖像を残せるようになった。それ以前は絵画に頼るほかなく、一部の裕福な者のみが肖像画を依頼し、画家に描かせる事が出来た。 ミニアチュールとは、非常に小さな画面に写実的かつ細密に描かれた肖像画である。 サインは毛描きで、Herman.1836とあり、1836年にM.Hermanによって描かれた事がわかる。なお、モデルの名も伝わっている。絵は肌の色を美しく見せるため、象牙の薄板に描かれている。
1836年 イギリスM.S
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ノベルティコップ「倉片牧場」
埼玉県所沢市に存在した陸軍所沢飛行場の近く、曽根の坂にあった倉片牧場のノベルティコップ。 前面に「陸軍御用 倉片牧場 電所澤一六〇番」裏面に「衛生 全乳」とエナメル刷りされた、大ぶりのコップである。 陸軍御用とある点や特設電話番号が表記されている点から、所沢飛行場建設及び特設電話の開始が明治44年であり、昭和10年頃の国土地理院地図では、倉片牧場の場所は市街地の表記になっているため、推測ではあるが明治末から大正にかけてのものと考えられる。 倉片牧場は所沢に縁のある女流歌人「三ケ島葭子(本名:倉片よし)」の夫、寛一の実家である。結婚後、長女みなみを儲けるも次々と病が襲い、病気を移さぬようまだ幼い娘を倉片牧場へと預けた。その後、東京に移り住んだ葭子の生活は、病苦と夫との齟齬もあり苦しいものであった。しばしば所沢の倉片牧場に通った葭子は愛娘とのひと時にどんなにか心休まる思いがしたであろうか。 目覚むればわが子はすでに牛舎にゆき祖父と語れりその声聞こゆ 葭子 大正13年、脳溢血で倒れてから体調復さず、昭和2年3月26日永眠。 所沢実蔵院の倉片家墓地に葬られた。
明治末期〜大正 日本M.S
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梅に鶯文小皿
機械による型押し(プレス)技法で製作された皿である。宙吹きや型吹きの皿にくらべ、均一かつ大量に生産可能である型押し技法は明治末にはガラス器生産の主流となった。 型吹きのようにガラスの滑らかな美しさは少ないが、それでも現代のプレスによるガラス器と比べると随分不均一であり、面白さがある。模様も多種多様で、日本的な意匠もあれば西洋を模したもの、軍事色の強いものなど色々ある。
明治後期〜大正 日本M.S
