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Andre Miller:アンドレ・ミラー
デビュー以来、欠場したのは7シーズンでわずか3試合のみ。それほど故障をしない丈夫な肉体を保っているので「鉄人」と形容されることもしばしばある。アウトサイドからのシュートはないが、ドライブから切り込んでシュートを放つ。故障しないことから司令塔としても計算できる選手であり、キャリア平均1試合あたり35分近い出場時間があり、スタミナを携えた選手でもある。 戦術理解度が高くどのような選手と組んでも一定以上のスタッツを残せるコーチ陣としては実に計算しやすいポイントガードである。 参照:Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ アンドレ・ミラー
2000年 2002年 アディダス 1999年8位ダブルクラッチ
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Andre Turner:アンドレ・ターナー
ダブルクラッチ
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Andrew Bynum:アンドリュー・バイナム
2005年のNBAドラフトでロサンゼルス・レイカーズから1巡目10位指名を受けてNBA入り。2005年11月2日のデンバー・ナゲッツ戦で18歳と6日の若さでNBAデビューを果たし、歴代最年少のNBA選手となった(翌2006-2007シーズンまでの2シーズンは現役最年少選手だった)。 4年目の2008-2009シーズン、故障から復帰したバイナムは先発に定着、ガソルとの長身コンビは他チームを圧倒し、強豪となったレイカーズは快調に勝利を重ねる。 初の出場となったNBAファイナルで、レイカーズはマジックを破って優勝し、バイナムにとっても初めての優勝の経験となった。翌2009-2010シーズンもウェスタンカンファレンスを制したレイカーズは、再びボストン・セルティックスと対戦。第7戦まで縺れた激戦を制し、連覇を果たした。2011-2012シーズンは、自身初のNBAオールスターゲームにも出場している。 参照:Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ アンドリュー・バイナム
2012年 2006年 2009年 2010年 2005年10位ダブルクラッチ
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Anthony Johnson:アンソニー・ジョンソン
アンソニーマークジョンソンは 191cmでポイントガードポジションを務め、プロNBAファイナルに参加する最初のNBA Dリーグ選手になった。サウスカロライナ州チャールストン生まれ、ジョンソンはチャールストン大学でバスケットボールを行い、1997年にサクラメントキングスにNBAでドラフトされた。彼は、サクラメントキングスによってNBAドラフトで選ばれたチャールストン大学の歴史の中で最初の選手である。 参照 Wikipedia https://en.m.wikipedia.org/wiki/ Anthony_Johnson_(basketball)
1997年 2位 SG/PG サクラメント・キングス チャールストン大学ダブルクラッチ
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Anthony Mason:アンソニー・メイソン
身長は201cmと決して高くはなかったが、プロレスラーの様な屈強な体格を武器に、主にパワーフォワードとしてプレイし、リーグでも有数のタフなディフェンダーとして恐れられた。またその風貌からは想像し難い程の有能なパサーでもあり、ボールハンドリングも巧みなポイントフォーワードとしても活躍した。坊主頭にロゴや模様などの当時としては奇抜な剃り込みがトレードマークであった。 テネシー州立大学から1988年のNBAドラフトにエントリーし、ポートランド・トレイルブレイザーズに3巡目53位で指名を受けていたが、入団を前に解雇された。その後トルコやベネズエラ、さらにCBAやUSBLのクラブチームを転々しながらNBA入を目指していた。1989年、どうにかニュージャージー・ネッツと契約したものの出場時間は短く、翌年移籍したデンバー・ナゲッツではわずか3試合の出場しか与えられなかった。その後1991年オフにニューヨーク・ニックスと契約した。 新天地ニックスでメイソンは頭角を現わし始めた。当時の指揮官であったパット・ライリーに見出されたメイソンは、パトリック・ユーイング、チャールズ・オークリー、チャールズ・スミスといった面々と共に強固なフロントコートを形成する。プレーオフでは黄金期のシカゴ・ブルズと激闘を繰り広げ、彼らはバッドボーイズⅡと呼ばれるまでになった。そして1994年、ニックスにとっては1973年以来となるNBAファイナル進出を果たしたが、第7戦までもつれた末にアキーム・オラジュワン率いるヒューストン・ロケッツに敗れ優勝には届かなかった。多くの出場機会を得た彼は、1995年にNBAシックスマン賞を受賞している。 1996年、ラリー・ジョンソンとのトレードでシャーロット・ホーネッツへと移籍。1年目の96-97シーズンは、平均16.2得点、11.4リバウンド、さらには5.7アシストと軒並みキャリアハイの成績で、また4度のトリプルダブルも記録している。98-99シーズンには上腕筋の断裂により調子を落としてしまっている。 2000年、9人が絡む大型トレードによりマイアミ・ヒートへと移籍し、再びパット・ライリーの指揮下に入ることとなった。当初はロールプレーヤーとして起用が見込まれていたが、大黒柱であるアロンゾ・モーニングが腎臓の疾患により離脱すると、メイソンはチームの中心メンバーとして活躍するようになり、16.1得点、9.6リバウンドの好成績で、故障者の多かったヒートが50勝を上げプレイオフに進出する原動力となった。またこの年、モーニングやオーランド・マジック所属のグラント・ヒルが故障欠場する中、2001年のNBAオールスターゲームに初選出されている。 参照Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ アンソニー・メイソン
2001年 1995年 1988年 58位 SF/PFダブルクラッチ
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Antonio McDyess:アントニオ・マクダイス
1995年のNBAドラフトで、アラバマ大学からロサンゼルス・クリッパーズに全体2位で指名された後、そのままデンバー・ナゲッツへトレードされた。爆発的な身体能力を生かして1997年、フェニックス・サンズへトレードされたが、1年でFAとなりナゲッツへ戻った。2000年にシドニーオリンピックアメリカ代表に選出。金メダル獲得チームの一員となった。2000-01シーズンには20.8得点、12.1リバウンドの数字を残し、オールスターにも選出されるなどまさにキャリアの絶頂であった。しかし翌シーズン2001-02シーズン初めに膝に重傷を負い、1年間を棒に振ることになる。これ以降怪我がちになり、何度も手術を経験している。この時期にマーカス・キャンビーとのトレードのためニューヨーク・ニックスへ移籍することになる。この時点ではすでに膝はボロボロの状態で彼の特長である爆発的な跳躍力は影を潜めていった。しかしそれでも治療を繰り返し、2004年のオフシーズンにデトロイト・ピストンズへ移籍。ピストンズではシックスマンとして重要な働きを担う。2007-08シーズンには再び先発フォワードとして78試合に出場した。 2008‐09シーズン直後、アレン・アイバーソンとのトレードでチャンシー・ビラップスらと共にデンバー・ナゲッツへ移籍が決まる。しかし、マクダイスは2年ほど前から常々「ピストンズを出てまで現役を続けようとは思わない。」とコメントをしていた。その後、ナゲッツとのバイアウトが成立し、ピストンズに復帰した。 2008-09シーズン後、サンアントニオ・スパーズに移籍し、2シーズンプレーし2010-11シーズン後に引退した。 キャリア前期は、高い跳躍力とパワーを生かした豪快なダンクシュートとブロックショット、およびリバウンドが特長であった。膝を痛めるまでは垂直跳びで120cm=47インチを誇っていた。2001-02シーズンに膝を痛めて以降はその身体能力は鳴りを潜めるようになりスタッツも軒並み低下してしまっている。それでもペリメーター付近のジャンプシュートとリバウンド、優れた技術と戦術眼を持つチームに貢献するベテランとして重宝された。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ アントニオ・マクダイス
2001年 2000年シドニー 金メダル 1995年2位 PFダブルクラッチ
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Avery Johnson:エイブリー・ジョンソン
エイブリー・ジョンソンは、身長180cm、体重84kg。5フィート11インチの低い身長ながらポイントガードとしてリーダーシップを発揮しチームを率いたため、サンアントニオ・スパーズ在籍時、チームメイトのデビッド・ロビンソン(提督:Admiral)に対して "Little General"(小さな将軍) と呼ばれた。 1988年、彼はドラフトで指名されなかったが、シアトル・スーパーソニックスを皮切りに、デンバー・ナゲッツ、ヒューストン・ロケッツサンアントニオ・スパーズ、ゴールデンステート・ウォリアーズ、ダラス・マーベリックスで16年間NBAでプレイした。ジャニーマンとしていくつものチームを渡り歩いた彼の最も知られた時代は、スパーズ時代で特に1999年のニューヨーク・ニックスとのNBAファイナル第5戦では試合を決める重要なシュートを決めた。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ エイブリー・ジョンソン
1999年 2006年 1988年 ドラフト外 PGダブルクラッチ
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Bobby Jackson:ボビー・ジャクソン
ノースカロライナ州の地元の高校卒業後、ネブラスカ州の大学に進学し、1995年にミネソタ大学に転校。1997年のNCAAトーナメントでチームをFinal 4に導く活躍を見せたジャクソンは、1997年のNBAドラフトでシアトル・スーパーソニックスから23位で指名され、ドラフト開催日当日にデンバー・ナゲッツに権利が移動。ルーキーシーズンはチームが低迷する中で68試合に出場、53試合に先発するなど健闘し、NBAオールルーキーチームにも選出されたが、1998年のNBAドラフト開催日に、ナゲッツがトレードでニック・ヴァン・エクセルを獲得したのに伴い、ミネソタ・ティンバーウルブズに移籍。ウルブズ移籍後はベンチプレーヤーに定着し、2シーズン後にサクラメント・キングスに移籍。キングスではスコット・ポラードやヒド・ターコルーなどと共に "ベンチ・モブ" と呼ばれた強力ベンチ陣に中心的役割を担い、2000年代半ばに懸けてのキングスの快進撃を支え、2002-03シーズンにはNBAシックスマン賞を受賞した。 2005年以降はメンフィス・グリズリーズ、ニューオーリンズ・ホーネッツ、ヒューストン・ロケッツなどを転々とし、2008年のNBAドラフト開催日にロン・アーテスト (現:メッタ・ワールド・ピース) とのトレードでキングスに復帰。2008-09シーズンは71試合に出場し、シーズン終了後に引退した。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ ボビー・ジャクソン
2003 1997年23位 PG/SG サクラメント・キングスダブルクラッチ
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Brian Oliver: ブライアン・オリバー
ダブルクラッチ
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Calbert Cheaney:カルバート・チェイニー
チャーニーは、インディアナ大学のヘッドコーチボブ・ナイト彼の手がけた最初の左利き選手であり、1年生のシーズン開幕戦で20ポイント(唯一のインディアナ新入生)のフラッシュでキャリアをスタートさせた。またチャーニーは4年間、インディアナのスムースなリーダーとして知られていた。 1993年のNBAドラフトにおいて、ワシントン・ブルーツによって全体6位で選ばれた。 13年間のNBAキャリアの中で、チャーニーは平均して9.5ポイントと3.2リバウンドの成績を記録。異なる5つチームでプレーし続けた。 余談だが、彼は1994年の映画「Blue Chips」にインディアナ大学の選手として登場している。 参照Wikipedia https://en.m.wikipedia.org/wiki/ Calbert_Cheaney
1990年 1993年6位 SG/SF ボストン・セルティックスダブルクラッチ
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Charles "BO" Outlaw:ボー・アウトロー
彼の武器は、高い運動能力、ディフェンス能力、そしてフリースローの精度の高さである。 アウトローは1993年にNBAドラフトの適格性を宣言したが、選出されなかった。 そしてアウトローはCBA(コンチネンタルバスケットボール協会)でキャリアをスタートさせ、グランドラピッズ・フープでプレーしたハーフシーズンで3.8ブロックを平均した。 1994年2月15日、アウトローはロサンゼルス・クリッパーズでNBAキャリアを開始した。 アウトローはフリーエージェントとしてロサンゼルスを離れ、1997年9月5日にオーランド・マジックと2年契約を結んだ。 アウトローの1997-98シーズンには、82試合中76試合に出場し、アシストを除いてすべての統計カテゴリでキャリアトップの平均ストアを残した。殿堂入りしたチャック・デイリーの監督が引退し、ドクター・リバーズに代わった後、アウトローはオフシーズンにマジックと契約を結び、その後2年半ぶりにチームのためにプレーした。 余談だが、1998年4月17日、アウトローはニュージャージー・ネッツ戦で121-109のストア中で25得点、13リバウンド、10アシストを記録した。ゲームの後、記者は、彼が最初のトリプルダブルのことをどのように感じたのか、という質問に対し「それは何か、ハンバーガーのようなもの?」と答えた。 参照 Wikipedia https://en.m.wikipedia.org/wiki/ Bo_Outlaw
1993年 未選出 PF/C オーランド・マジックダブルクラッチ
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Chris Webber:クリス・ウェバー
アメリカ合衆国ミシガン州デトロイト出身のバスケットボール選手。ミシガン大学卒。NBAで活躍し、2008年に引退を表明。リーグ屈指のパワーフォワードとして名を馳せた。208cm/111kg。愛称は「C-Webb 」。背番号はブレッツ時代の1シーズン目は2、ピストンズ時代は84、その他は4。現在はテレビ解説者を務めている。 208cm111kgの体格でありながらボールハンドリングがうまく中距離からのシュートを得意とし 2004–05にはシーズン平均5.5アシスト、キャリア通算平均4.2アシスト記録するなどパス能力にも秀でる PFとしてNBA屈指のオールラウンダーであった。 参照Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ クリス・ウェバー
1997年,2000年〜2003年 1994年 2001年 1999年,2002年,2003年ダブルクラッチ
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Christian Laettner:クリスチャン・レイトナー
1991年、1992年、名将マイク・シャシェフスキーのもとデューク大学で2年連続NCAAチャンピオンになった。またNBA選手が初めて出場可能となったバルセロナオリンピックで唯一アマチュア選手として出場を果たした。 大学時代 、レイトナーは1992年のNCAAトーナメントにおけるケンタッキー大学との試合で終了間際にバンクショットを決めて104-103で劇的に勝利したことで特に知られている。このゲームで彼は、10本のフィールドゴールを決めて、フリースローも10本全て成功した。 1992年に卒業したレイトナーの背番号32番はデューク大学の永久欠番となった。彼は1試合平均16.6得点、7.7リバウンドの成績を残し3ポイントシュート成功率48.5%は大学記録となった。 レイトナーは4年連続NCAAトーナメントのファイナル4に進んだことのある4人のうちの1人であり、史上唯一の4年間とも先発出場した選手である。レイトナーはトーナメント記録をいくつも作り、その後当分破られることはないと思われる。 1992年のNBAドラフトで、シャキール・オニール、アロンゾ・モーニングに次いで全体3位でミネソタ・ティンバーウルブズに指名された。13年間のキャリアでウルブズ、アトランタ・ホークス、デトロイト・ピストンズ、ダラス・マーベリックス、ワシントン・ウィザーズ、マイアミ・ヒートでプレイした。NBAではセンターやパワーフォワードとしてプレイした。1993年にはオールルーキーチームに選ばれて1997年にはNBAオールスターゲームのメンバーに選ばれた。しかしレイトナーは1992年に先に指名された2人(オニールとモーニング) ほどの期待されたスーパースターにはならなかった。1998-99シーズンの大部分をアキレス腱を断裂する怪我で欠場した後、出場時間は減少した。最後のシーズンとなった2004-05シーズンは、マイアミ・ヒートでオニールとモーニングと共にチームメイトとなった。 参照Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ クリスチャン・レイトナー
1997年 1991,1992 1992年 3位 F/Cダブルクラッチ
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Corliss Williamson:コーリス・ウィリアムソン
アーカンソー大学時代の1994年に、NCAAトーナメントで優勝し、ファイナルフォーの最優秀選手にも選出されたウィリアムソンは、翌年の1995年のNBAドラフトにアーリーエントリーを表明。13位でサクラメント・キングスから指名されてNBA入り。1997-98シーズンには平均17.7得点を記録し、MIP候補にも挙げられたが、チームは1998-99シーズン開幕前にリック・アデルマンをHCに迎え、クリス・ウェバー、ペジャ・ストヤコヴィッチ、ブラデ・ディバッツなど大型補強を行い、ウィリアムソンの序列は低下。結局2000年夏にダグ・クリスティとのトレードでトロント・ラプターズに移籍。更に2000-01シーズン途中に大型トレードでデトロイト・ピストンズに移籍。ピストンズ加入後はシックスマンに転向し、2001-02シーズンはNBAシックスマン賞を受賞。2003-04シーズンにはNBAチャンピオンを経験した。 2004年夏にフィラデルフィア・76ersに移籍するも、翌年2月にクリス・ウェバーとの大型トレードでサクラメント・キングスに復帰し、2007年に引退した。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ コーリス・ウィリアムソン
2002 2004年 1994年 1995年 13位ダブルクラッチ
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Darius Miles:ダリアス・マイルズ
イーストセントルイスの高校を卒業後、カレッジには進まず2000年のNBAドラフトにエントリーし、ロサンゼルス・クリッパーズより全体3位で指名されてNBA入りした。これは当時の高卒選手としては最高順位である。ルーキーイヤーから攻守に渡り優秀な成績を残し、特に1.5ブロックはキャリアハイである。オールルーキー1stチームに選出された。クリッパーズで2シーズン過ごした後にクリーブランド・キャバリアーズにトレードされ、シーズン途中でポートランド・トレイルブレイザーズに移籍。2005年4月19日にはチームフランチャイズ記録8位となる自己最高47得点を挙げる大活躍を見せた。 俳優としても活動。 参照:Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ダリアス・マイルズ
2001年 2000年全体3位 SF/SG アメリカダブルクラッチ