-
Christian Laettner:クリスチャン・レイトナー
1991年、1992年、名将マイク・シャシェフスキーのもとデューク大学で2年連続NCAAチャンピオンになった。またNBA選手が初めて出場可能となったバルセロナオリンピックで唯一アマチュア選手として出場を果たした。 大学時代 、レイトナーは1992年のNCAAトーナメントにおけるケンタッキー大学との試合で終了間際にバンクショットを決めて104-103で劇的に勝利したことで特に知られている。このゲームで彼は、10本のフィールドゴールを決めて、フリースローも10本全て成功した。 1992年に卒業したレイトナーの背番号32番はデューク大学の永久欠番となった。彼は1試合平均16.6得点、7.7リバウンドの成績を残し3ポイントシュート成功率48.5%は大学記録となった。 レイトナーは4年連続NCAAトーナメントのファイナル4に進んだことのある4人のうちの1人であり、史上唯一の4年間とも先発出場した選手である。レイトナーはトーナメント記録をいくつも作り、その後当分破られることはないと思われる。 1992年のNBAドラフトで、シャキール・オニール、アロンゾ・モーニングに次いで全体3位でミネソタ・ティンバーウルブズに指名された。13年間のキャリアでウルブズ、アトランタ・ホークス、デトロイト・ピストンズ、ダラス・マーベリックス、ワシントン・ウィザーズ、マイアミ・ヒートでプレイした。NBAではセンターやパワーフォワードとしてプレイした。1993年にはオールルーキーチームに選ばれて1997年にはNBAオールスターゲームのメンバーに選ばれた。しかしレイトナーは1992年に先に指名された2人(オニールとモーニング) ほどの期待されたスーパースターにはならなかった。1998-99シーズンの大部分をアキレス腱を断裂する怪我で欠場した後、出場時間は減少した。最後のシーズンとなった2004-05シーズンは、マイアミ・ヒートでオニールとモーニングと共にチームメイトとなった。 参照Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ クリスチャン・レイトナー
1997年 1991,1992 1992年 3位 F/Cダブルクラッチ
-
Glenn Robinson:グレン・ロビンソン
ニックネームは「ビッグ・ドッグ」 高校時代、ゲイリー・ルーズベルト・ハイスクールをインディアナ州チャンピオンに導き、マクドナルド・オールアメリカンに選ばれている。パデュー大学でプレイしたのは2年間だけだったが、1994年にはウッデン賞とネイスミス賞を受賞、大学をNCAAトーナメントのベスト8に進出した。また1試合平均30.3得点、10リバウンド以上をマーク、ビッグ・テン・カンファレンスの年間最優秀選手にも選ばれている。 1994年のNBAドラフトで全体1位でミルウォーキー・バックスに指名されて入団した。ルーキーシーズンに1試合あたり21.9得点を挙げてオールルーキーチームに選ばれている。ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票では同時受賞となったグラント・ヒル、ジェイソン・キッドの2人に次ぐ3位となった (ヒルとキッドは新人王を同時受賞)。入団した当初はオールスター選手であるヴィン・ベイカーと共にチームを引っ張った。また2001年にはレイ・アレン、サム・キャセールらと共にイースタン・カンファレンスファイナルまで進出した。ロビンソンはバックス史上2位の歴代得点を挙げており、バックスでプレイした8シーズン中7シーズンは1試合平均20得点以上を挙げた。 2002年8月2日にトニー・クーコッチ、レオン・スミス、2003年のドラフト1巡指名権と引換にアトランタ・ホークスへ移籍したが、その1年後の2003年7月23日にはフィラデルフィア・セブンティシクサーズへ移籍した。2004年-2005年シーズンは怪我のためプレイしていなかったが、2005年2月24日にニューオーリンズ・ホーネッツからバイアウトでFAになった後にサンアントニオ・スパーズと契約。プレーオフでも活躍し、チームがNBAファイナルを制覇するのに貢献、チャンピオンリングを手に入れ、その後引退した。これまでの通算成績は14,234得点(1試合平均20.7得点)、1試合あたり6.1リバウンド、2.7アシスト、1.2スティールをマークしている。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ グレン・ロビンソン
2005年 1994年 1位 F ミルウォーキー・バックスダブルクラッチ
-
Corliss Williamson:コーリス・ウィリアムソン
アーカンソー大学時代の1994年に、NCAAトーナメントで優勝し、ファイナルフォーの最優秀選手にも選出されたウィリアムソンは、翌年の1995年のNBAドラフトにアーリーエントリーを表明。13位でサクラメント・キングスから指名されてNBA入り。1997-98シーズンには平均17.7得点を記録し、MIP候補にも挙げられたが、チームは1998-99シーズン開幕前にリック・アデルマンをHCに迎え、クリス・ウェバー、ペジャ・ストヤコヴィッチ、ブラデ・ディバッツなど大型補強を行い、ウィリアムソンの序列は低下。結局2000年夏にダグ・クリスティとのトレードでトロント・ラプターズに移籍。更に2000-01シーズン途中に大型トレードでデトロイト・ピストンズに移籍。ピストンズ加入後はシックスマンに転向し、2001-02シーズンはNBAシックスマン賞を受賞。2003-04シーズンにはNBAチャンピオンを経験した。 2004年夏にフィラデルフィア・76ersに移籍するも、翌年2月にクリス・ウェバーとの大型トレードでサクラメント・キングスに復帰し、2007年に引退した。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ コーリス・ウィリアムソン
2002 2004年 1994年 1995年 13位ダブルクラッチ
-
Larry Johnson:ラリー・ジョンソン
1988-1989年シーズンはオデッサカレッジでプレーしていた。移籍したUNLV大学で1990年のNCAA男子バスケットボールトーナメントで優勝、1991年のNBAドラフト1巡目全体1位でホーネッツに指名されて入団した。その年ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。ケンドール・ギルと翌1992年のドラフト1巡目全体2位で指名されたアロンゾ・モーニングが加入しホーネッツは「フューチャーブルズ」(未来のシカゴ・ブルズ)と呼ばれるほど強豪チームとして期待された。 1994年バスケットボール世界選手権にドリームチームIIとして出場し優勝した。 1996年、ジョンソンもアンソニー・メイソンとのトレードでニックスにトレードされた。 ニックスでは、1999年のプレーオフのインディアナ・ペイサーズ戦で重要な役割を演じた。残り11.9秒でボールを受けたジョンソンは3ポイントシュートを放った際に、アントニオ・デービスのファウルを受けたがこれを見事沈めてフリースローも与えられ92-91でそのゲームの勝利を呼び込んだ。その年ジョンソンにとって初のNBAファイナル出場を果たした。翌2000年のカンファレンスファイナルでのペイサーズとのシリーズでも活躍したが、チームは2勝4敗で敗れた。2001年の10月10日に引退を表明した。腰に爆弾を持ったままの現役生活で、キャリアの最後の5年間では序々に平均得点を減らしていた。 ジョンソンはパワーフォワードとしては身長201cmと小柄であるがパワフルなプレーでインサイドを支配した。無骨な容姿に似合わずシュートレンジも広く、アシストも巧みで洗練された選手である。 参照Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ ラリー・ジョンソン_(バスケットボール)
1990年 1989年 1991年1位 PFダブルクラッチ
-
Antonio McDyess:アントニオ・マクダイス
1995年のNBAドラフトで、アラバマ大学からロサンゼルス・クリッパーズに全体2位で指名された後、そのままデンバー・ナゲッツへトレードされた。爆発的な身体能力を生かして1997年、フェニックス・サンズへトレードされたが、1年でFAとなりナゲッツへ戻った。2000年にシドニーオリンピックアメリカ代表に選出。金メダル獲得チームの一員となった。2000-01シーズンには20.8得点、12.1リバウンドの数字を残し、オールスターにも選出されるなどまさにキャリアの絶頂であった。しかし翌シーズン2001-02シーズン初めに膝に重傷を負い、1年間を棒に振ることになる。これ以降怪我がちになり、何度も手術を経験している。この時期にマーカス・キャンビーとのトレードのためニューヨーク・ニックスへ移籍することになる。この時点ではすでに膝はボロボロの状態で彼の特長である爆発的な跳躍力は影を潜めていった。しかしそれでも治療を繰り返し、2004年のオフシーズンにデトロイト・ピストンズへ移籍。ピストンズではシックスマンとして重要な働きを担う。2007-08シーズンには再び先発フォワードとして78試合に出場した。 2008‐09シーズン直後、アレン・アイバーソンとのトレードでチャンシー・ビラップスらと共にデンバー・ナゲッツへ移籍が決まる。しかし、マクダイスは2年ほど前から常々「ピストンズを出てまで現役を続けようとは思わない。」とコメントをしていた。その後、ナゲッツとのバイアウトが成立し、ピストンズに復帰した。 2008-09シーズン後、サンアントニオ・スパーズに移籍し、2シーズンプレーし2010-11シーズン後に引退した。 キャリア前期は、高い跳躍力とパワーを生かした豪快なダンクシュートとブロックショット、およびリバウンドが特長であった。膝を痛めるまでは垂直跳びで120cm=47インチを誇っていた。2001-02シーズンに膝を痛めて以降はその身体能力は鳴りを潜めるようになりスタッツも軒並み低下してしまっている。それでもペリメーター付近のジャンプシュートとリバウンド、優れた技術と戦術眼を持つチームに貢献するベテランとして重宝された。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ アントニオ・マクダイス
2001年 2000年シドニー 金メダル 1995年2位 PFダブルクラッチ
-
Detlef Scrempf:デトレフ・シュレンプ
高校時代にワシントン州に移住したシュレンプは、大学も地元ワシントン大学に進学した。4年間プレイし、オールアメリカセカンドチームに選ばれた。 1985年のNBA年ドラフトにおいて、ダラス・マーベリックスから全体8位指名を受けNBA入りした。1987年から2年連続でオールスター前夜のスリーポイントコンテストに出場し、1987年にはラリー・バードと優勝を争った。 1989-90シーズン途中、ハーブ・ウィリアムズらとの交換でインディアナ・ペイサーズに放出される。ペイサーズでは出場時間も増え、平均二桁得点を残すようになった。1991年、1992年には、2年連続でシックスマン賞を受賞した。 1993-1994シーズンには、デリック・マッキーらとの交換でソニックスに移籍。1999年までチームの主力として活躍し、1996年にはNBAファイナル進出に貢献した。NBAオールスターゲームには1993年、1995年、1997年に3回出場した。 1999年にフリーエージェントとして、ポートランド・トレイルブレイザーズと契約、2年間プレーした後、2001年に引退した。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ デトレフ・シュレンプ
1993,1995,1997 1991,1992 1985年8位 Fダブルクラッチ
-
Jerry Stackhouse:ジェリー・スタックハウス
バスケットの名門強豪のノースカロライナ大学からアーリーエントリー。1995年のNBAドラフトでフィラデルフィア・セブンティシクサーズから全体の3番目で指名を受けた。ちなみに、この経歴はマイケル・ジョーダンと全く同じである。シクサーズでは持ち前の得点能力を存分に発揮。ルーキーながら1試合平均19.2得点の成績を残し、NBAオールルーキーチームにも選ばれて、一躍チームのスタープレーヤーとなる。1996年のNBAドラフトでシクサーズは後にNBAを代表するプレーヤーとなるアレン・アイバーソンがチームに加入、スタックハウスとアイバーソンのコンビに期待が寄せられ、96-97シーズンは2人で合わせて1試合平均44.2得点を記録した。しかしお互いに得点が持ち味のプレイヤーだったことから、翌97-98シーズンの途中に、スタックハウスはデトロイト・ピストンズへトレードされた。当時のピストンズはグラント・ヒルを中心とした強豪チームだったが、スタックハウスは控えとしてプレーすることになった。 ピストンズのスターターになったのは移籍2年後の99-00シーズンで、スタックハウスはキャリア初の全試合(82試合)出場、1試合平均23.6得点を記録した。続く00-01シーズンにはリーグ2位となる29.8得点を記録してリーグを代表する得点能力のある選手としての地位を築いた。このシーズン終盤に彼はシカゴ・ブルズ相手に自己ベスト、ピストンズ史上最多の1試合57得点を記録した。そのシーズン終了後スタックハウスはワシントン・ウィザーズに移籍してマイケル・ジョーダンと共にプレーした。ウィザーズに移籍した最初の02-03シーズンは1試合平均21.5得点、4.5アシストを記録したが、翌03-04シーズンは故障で26試合にしか出場できなかった。 2004年のオフになって、スタックハウスはダラス・マーベリックスに移籍した。ダーク・ノビツキーら豊富なタレントが揃う中、6THマンとしてプレーした。2006年のNBAファイナルにも出場したが、マイアミ・ヒートにマーベリックスは敗れてチャンピオンリングを獲得することはできなかった。 2009年7月8日、メンフィス・グリズリーズにトレードされたが契約買い取りで放出された。2010年1月17日、ミルウォーキー・バックスに、2010年10月23日、マイアミ・ヒートに、2011年12月9日、アトランタ・ホークスとそれぞれ契約。 2012年7月11日、ブルックリン・ネッツに移籍。かつてブルックリン・ドジャースでプレーした黒人初のメジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソンと同じ背番号42をつけることになった。 2015-16シーズンから、トロント・ラプターズのアシスタントコーチを務め、2016-17シーズンからは傘下のラプターズ・905のヘッドコーチに転身。同シーズン39勝11敗の好成績に導き、最優秀コーチ賞を受賞。更に同チームをリーグ優勝に導いた。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ ジェリー・スタックハウス
2017 2001,2002 2017 1995年3位ダブルクラッチ
-
Douglas Christie:ダグ・クリスティー
リーグを代表するディフェンダーであり、オールディフェンシブ1stチームに1度、2ndチームに3度選出されている。相手エースとマッチアップし、得点を封じ込めるエースキラーとして活躍した。また、ボールハンドリングやパスセンスにも優れており、状況に応じてポイントガードを務めることもあった。シュートタッチも良く、3ポイントシュートの名手としても知られていた。 数々のチームを渡り歩き、出場機会に恵まれていなかったクリスティは2000年、再びトレードによってサクラメント・キングスに移籍した。 クリスティの才能はキングスにて開花。先発シューティングガードの地位を掴み、リーグを代表するディフェンダーに成長を遂げ、初めてNBAオール・ディフェンシブの2ndチームに名を連ねることになった。また、この時期は3ポイントシュートの精度も向上し、リーグ屈指のシューターとして名を知られるようにもなった。この時期のキングスにはクリス・ウェバー、ブラデ・ディバッツ、ペジャ・ストヤコビッチ、マイク・ビビーなどの才能ある選手が揃い、西部屈指の強豪チームとなっており、クリスティのキャリアの絶頂期でもあった。 恐妻家として知られている。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ ダグ・クリスティ
2003年 1992年17位 SG/PG サクラメントキングスダブルクラッチ
-
Eddie Jones:エディー・ジョーンズ
シューティングガード以外にスモールフォワードもこなすスウィングマンで、高いディフェンス力が特徴。オフェンスでもペネトレイト・アウトサイドシュートの両方で貢献できる。人や試合に対する姿勢は誠実で真面目。 大学はテンプル大学でプレイ。2年生の時にはアトランティック・テン・カンファレンスの年間最優秀選手に選ばれ、また同校のNCAAトーナメントのElite8進出に貢献した。3年生時には19.2得点6.8リバウンドの成績で、通算100アシスト100ブロック以上を達成した同校初の選手という記録を残して、NBAドラフトにアーリーエントリーした。 1994年のNBAドラフトでロサンゼルス・レイカーズから1巡目10位指名を受けてNBA入りを果たす。ルーキーイヤーは14得点2スティールのアベレージを残し、オールルーキーファーストチームに選出される。またオールスターウィークエンドのルーキーチャレンジに参加し、ゲームハイの25得点をあげてMVPに選ばれた。マジック・ジョンソンの引退から負け越しのシーズンが続いていたレイカーズは、ジョーンズが加入したシーズンよりチーム成績が向上し始め、1996年にはシャキール・オニールが移籍し、レイカーズは西の強豪の地位を取り戻すことに成功。ジョーンズはオニールに続くチーム2番目のスコアラーとして活躍し、1996-1997シーズンには通算得点でチームトップとなった。またこのシーズンにオールディフェンスチームに初めて選ばれ、NBAオールスターゲームにも初出場を果たした。1997-1998シーズンにレイカーズは61勝21敗の好成績を残し、カンファレンスファイナルにまで進出するなど、NBAファイナル制覇も十分に狙えるチームにまで成長したが、ジョーンズは成長著しい若手シューティングガードのコービー・ブライアントとポジションが重なるため、1998-1999シーズン中にエルデン・キャンベルと共にシャーロット・ホーネッツに放出された(レイカーズは2000年からNBA3連覇を達成)。 ホーネッツで過ごした1999-2000シーズンは、20.1得点4.8リバウンド4.2アシスト2.7スティールの成績を残し、初のオールNBAサードチーム、3シーズン連続のオールディフェンスセカンドチームに選ばれた。20.1得点はチームトップ、2.7スティールはリーグトップの数字であり、個人では自己最高のシーズンを過ごした。 翌2000-2001シーズンにはサイン・アンド・トレードでマイアミ・ヒートに移籍。この大型トレードは、ジャマール・マッシュバーンやアンソニー・メイソンなどを巻き込む大がかりなトレードとなった。ヒートでも毎シーズン18得点のアベレージを残すリーディングスコアラーとして活躍したが、2001-2002シーズン以降アロンゾ・モーニングの体調不良などでヒートは低迷期に入り、ジョーンズはヒートで初めてプレイオフ不出場を経験。2002-2003シーズンまで我慢の日々が続いたが、ヒートは2003年のNBAドラフトでドウェイン・ウェイドを指名すると、翌2004年にはジョーンズのかつてのチームメイトであるシャキール・オニールをトレードで獲得。ヒートはイースタンカンファレンス屈指の強豪に成長し、ジョーンズもレイカーズ時代以来の優勝を狙える機会に恵まれたかに見えたが、2005年のオフにヒートは補強に乗り出し、5チーム13選手が絡む大規模なトレードを敢行。ジョーンズはジェームス・ポージー、ジェイソン・ウィリアムスとの交換でメンフィス・グリズリーズに放出された(ヒートは翌シーズンに初優勝を果たす)。 すでに30代半ばに差し掛かっていたジョーンズは、グリズリーズで2年目となる2006-2007シーズンにはついに平均得点二桁を割り、このシーズン中にグリズリーズを解雇された。フリーエージェントとなったジョーンズと契約したのは古巣のヒートだった。前シーズン優勝チームはオニールやウェイドの故障などで苦しいシーズンを送っていたが、ジョーンズの復帰から徐々に調子をあげていき、プレイオフに出場するも、1回戦で4戦全敗で敗退した。オフにフリーエージェントとなったジョーンズはダラス・マーベリックスと契約。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ エディー・ジョーンズ_(バスケットボール)
1997,1998,2000 1995年 2000年 1994年 10位ダブルクラッチ
-
Anthony Mason:アンソニー・メイソン
身長は201cmと決して高くはなかったが、プロレスラーの様な屈強な体格を武器に、主にパワーフォワードとしてプレイし、リーグでも有数のタフなディフェンダーとして恐れられた。またその風貌からは想像し難い程の有能なパサーでもあり、ボールハンドリングも巧みなポイントフォーワードとしても活躍した。坊主頭にロゴや模様などの当時としては奇抜な剃り込みがトレードマークであった。 テネシー州立大学から1988年のNBAドラフトにエントリーし、ポートランド・トレイルブレイザーズに3巡目53位で指名を受けていたが、入団を前に解雇された。その後トルコやベネズエラ、さらにCBAやUSBLのクラブチームを転々しながらNBA入を目指していた。1989年、どうにかニュージャージー・ネッツと契約したものの出場時間は短く、翌年移籍したデンバー・ナゲッツではわずか3試合の出場しか与えられなかった。その後1991年オフにニューヨーク・ニックスと契約した。 新天地ニックスでメイソンは頭角を現わし始めた。当時の指揮官であったパット・ライリーに見出されたメイソンは、パトリック・ユーイング、チャールズ・オークリー、チャールズ・スミスといった面々と共に強固なフロントコートを形成する。プレーオフでは黄金期のシカゴ・ブルズと激闘を繰り広げ、彼らはバッドボーイズⅡと呼ばれるまでになった。そして1994年、ニックスにとっては1973年以来となるNBAファイナル進出を果たしたが、第7戦までもつれた末にアキーム・オラジュワン率いるヒューストン・ロケッツに敗れ優勝には届かなかった。多くの出場機会を得た彼は、1995年にNBAシックスマン賞を受賞している。 1996年、ラリー・ジョンソンとのトレードでシャーロット・ホーネッツへと移籍。1年目の96-97シーズンは、平均16.2得点、11.4リバウンド、さらには5.7アシストと軒並みキャリアハイの成績で、また4度のトリプルダブルも記録している。98-99シーズンには上腕筋の断裂により調子を落としてしまっている。 2000年、9人が絡む大型トレードによりマイアミ・ヒートへと移籍し、再びパット・ライリーの指揮下に入ることとなった。当初はロールプレーヤーとして起用が見込まれていたが、大黒柱であるアロンゾ・モーニングが腎臓の疾患により離脱すると、メイソンはチームの中心メンバーとして活躍するようになり、16.1得点、9.6リバウンドの好成績で、故障者の多かったヒートが50勝を上げプレイオフに進出する原動力となった。またこの年、モーニングやオーランド・マジック所属のグラント・ヒルが故障欠場する中、2001年のNBAオールスターゲームに初選出されている。 参照Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ アンソニー・メイソン
2001年 1995年 1988年 58位 SF/PFダブルクラッチ
-
Tim Duncan:ティム・ダンカン
ポジションはパワーフォワード。NBAのサンアントニオ・スパーズ一筋19年にわたり活躍した。 ウェイク・フォレスト大学時代にカレッジバスケの個人賞を総舐めにした後、1997年のNBAドラフトにてサンアントニオ・スパーズから全体1位指名を受けてNBA入り。以後スパーズの黄金期を築き上げ、NBAファイナルを5回制覇。個人としてもNBAルーキー・オブ・ザ・イヤー、シーズンMVP受賞2回、ファイナルMVP受賞3回、デビューしてから2010年まで13シーズン連続で、オールNBAチーム、NBAオールディフェンシブチーム、オールスター(ロックアウトの影響で開催されなかった1999年を除く)に選ばれ続けた。 プレイに華やかさはないため「地味」というイメージが付き纏うが、その圧倒的な実績から史上最高のパワーフォワードとの呼び声も高い。 基本に忠実なプレースタイルからThe Big Fundamentalの愛称で知られる。 一つ一つのプレーの安定感・正確さ、自己犠牲もいとわないチームを第一に考えた献身的な態度、勝者のメンタリティを持つ精神的に浮ついたところのない逞しさなど、現役選手の中では最も信頼された実力の持ち主である。ダンカンより派手で成績も上回っている選手は数多く存在するが、ダンカンより評価されている選手はほとんど存在しない。ダンカンがプレイする時代のNBAはパワーフォワードの層が非常に充実しており、彼がNBA入りした頃にはカール・マローンやチャールズ・バークレー、クリス・ウェバーらが、そして彼の同世代にはケビン・ガーネットやダーク・ノビツキー、ラシード・ウォーレス、ジャーメイン・オニールらが居るが、そんな猛者たちを抑えてルーキーイヤーから8年連続オールNBA1stチームに選出され続けたことは、彼が同時代における最高のパワーフォワードであることを意味している。また優勝5回、シーズンMVP2回、ファイナルMVP3回と、過去これに匹敵するほどの実績を残したパワーフォワードはおらず、カール・マローンを指導したジェリー・スローンHCをしてダンカンを「史上最高のパワーフォワード」と言わしめたほどである。また11回の優勝を誇るビル・ラッセルはダンカンを「同世代において最も有能な選手」と評し、カリーム・アブドゥル=ジャバーも彼の意見を支持した。 身体能力が高いほうではないが、抜群のバスケットIQと無駄を一切排したプレースタイルで今日の地位を築いたダンカンはリーグトップクラスのスコアラーであり、リバウンダーであり、ショットブロッカーであり、ディフェンダーであり、そしてクラッチプレーヤーである。重要な時間帯ほど多用されるダンカンの1on1は、ミドルポストでディフェンダーと正対した状態から開始され、その場からのジャンプシュートやドライブからのフックシュートなどが展開され、それは至極単純なプレーであるが彼を止めることは困難だった。現役では最もバックボードの使い方が上手いとの意見も多く、バンクショットを得意としていることでも知られ、またパスセンスも高く、ディフェンダーに囲まれた際もフリーの味方にパスアウトできる判断力と柔軟性を持ち合わせている。通算ダブル・ダブル達成回数歴代1位という成績が示すように、抜群の安定感を持っていることもダンカンの大きな長所である。スパーズのチームカラーである強力なディフェンスもダンカンの存在が根底にあり、ブルース・ボウエンが現役時にはペリメーターにボウエン、インサイドにダンカンと鉄壁の守備が構築され、多くのスコアラーが袋小路に迷い込んでは彼らの餌食となった。さらにプレーオフに入ると個人成績が軒並み上昇することからも分るように、より重要な試合で真価を発揮できる選手である。彼の唯一の弱点はフリースローと言われているが、キャリア通算で成功率は70%に届いていないが致命的に低いという程度ではない。ただし、シーズンによって59%~79%とバラつきがあると言える。 全試合フル出場の回数こそ少ないものの全てのシーズンで65試合以上出場しており、接触プレーが多いインサイドのポジションを主戦場とするがフィジカルも強い。大黒柱ダンカンの長期欠場が少ないため、チームもダンカンが加入した1997-1998シーズン以降全30チーム唯一の「全てのシーズンで勝率6割以上」を記録している。 勝利への道を最短で行くような彼のプレーはしばしば「退屈である」と指摘され、1999年の優勝時にスポーツ・イラストレイテッド誌はファイナルMVPに輝いたダンカンを「静かで退屈なMVP」と評し、またシャキール・オニールから付けられたニックネーム、"The Big Fundamental"も最初は決してダンカンを賞賛する意味ではなかった(ただし、スポ・イラもシャックもダンカンが築いた実績に対しては賞賛を惜しまない)。このような評価に対してダンカンは「気にならない。好きなように批評すればいい」と泰然自若の態度である。 参照Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ ティム・ダンカン
2000年 1999,2003,2005,2007,2014 1999,2003,2005 2002-2003ダブルクラッチ
-
Isaiah Rider:イザヤ・ライダー
ミネソタティンバーウルブス ライダーは、ミネソタティンバーウルブズの1993年のNBAドラフトの第5位で選ばれた。ライダーは、NBAのオールルーキーファーストチームのメンバーとしてプレーした。彼は1994年のNBA Slam Dunkコンテストで優勝しました。彼のダンクは "The East Bay Funk Dunk"と呼ばれた。 ライダーはティンバーウォルフとの3年間で平均19ポイントを獲得していたが、ルーキーシーズン後にはプレー機会を失った。ライダーは1996年にポートランドトレイルブレイザーズに移籍した。 ポートランドトレイルブレイザーズ 1997-98シーズンでは、ブレイザーズをリードするキープレイヤーとして活躍した。ライダーは、1998年2月1日にトロント・ラプターズとの試合で38ポイント(15-25FG)で5リバウンドと4アシストを記録した。 1998-99シーズンでは、ライダーはゲームごとに平均13.9点を獲得し、13得点でチームをリードしました。 その後ライダーはアトランタホークズ、ロサンゼルスレイカーズ、デンバーナゲッツと渡り歩いた。 NBAのキャリア統計 ライダーは、563のNBA試合(424試合)で、平均16.7ポイント、3.8リバウンド、2.7アシスト、1ゲームあたりのフロアタイムの31:42を記録した。ライダーは9年間のNBAキャリアで合計9,405ポイントを獲得した。 参照Wikipedia https://en.m.wikipedia.org/wiki/ Isaiah_Rider
1994年 2001年 1993年 5位 SG/SFダブルクラッチ
-
Tony Battie:トニー・バディ
テキサス工科大学で中心選手と活躍し、3年生時の1996-97シーズンに平均18,8得点 11,8リバウンド 2,3ブロックショットを記録したバティは、4年生はプレーせず1997年のNBAドラフトへのエントリーを表明。全体5位という高評価を受けてデンバー・ナゲッツから指名された。1シーズンナゲッツでプレーした後、1998年のNBAドラフトでナゲッツが全体3位でレイフ・ラフレンツを指名したのに伴い、ナゲッツはロサンゼルス・レイカーズ、ボストン・セルティックスを相手に三角トレードを敢行。27位で指名したティロン・ルーの権利をレイカーズに譲渡しニック・ヴァン・エクセルを獲得。ナゲッツは更にバティをセルティックスに放出。バティは新天地で奮闘し、2001-02シーズンは、7年振りのプレーオフ出場に貢献した。 マジックでは、2004年のNBAドラフトで全体1位で入団したドワイト・ハワードとフロントラインを形成。2005-06シーズンは、自身初の全82試合スタメン出場。2008-09シーズンはNBAファイナルまで勝ち上がったものの、ファイナルではロサンゼルス・レイカーズに1勝4敗で敗れた。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ トニー・バティ
1997年 5位 C/PF オーランド・マジック テキサス工科大学ダブルクラッチ
-
Avery Johnson:エイブリー・ジョンソン
エイブリー・ジョンソンは、身長180cm、体重84kg。5フィート11インチの低い身長ながらポイントガードとしてリーダーシップを発揮しチームを率いたため、サンアントニオ・スパーズ在籍時、チームメイトのデビッド・ロビンソン(提督:Admiral)に対して "Little General"(小さな将軍) と呼ばれた。 1988年、彼はドラフトで指名されなかったが、シアトル・スーパーソニックスを皮切りに、デンバー・ナゲッツ、ヒューストン・ロケッツサンアントニオ・スパーズ、ゴールデンステート・ウォリアーズ、ダラス・マーベリックスで16年間NBAでプレイした。ジャニーマンとしていくつものチームを渡り歩いた彼の最も知られた時代は、スパーズ時代で特に1999年のニューヨーク・ニックスとのNBAファイナル第5戦では試合を決める重要なシュートを決めた。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ エイブリー・ジョンソン
1999年 2006年 1988年 ドラフト外 PGダブルクラッチ
-
Dikembe Mutotbo: ディケンベ・ムトンボ
ディケンベ・ムトンボ・ンポロンド・ムカンバ・ジャン・ジャック・ワムトンボは、コンゴ民主共和国(入団時の国名はザイール)出身で1991年よりNBAのデンバー・ナゲッツに入団して以降2009年に引退するまで数チームでプレーした。 ディフェンスを得意とする好センターである。最優秀守備選手賞を4度受賞、オールスター戦には8度出場。2015年には殿堂入りを果たした。 参照 Wikipedia: https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ ディケンベ・ムトンボ
1994〜1996 2000〜2001 1994,1996,1997,2000 1991年 4位ダブルクラッチ