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マイケル・ジョーダン:Michael Jordan
シカゴブルズで活躍した、全世界で一番有名なバスケット選手。 記録もすごいのだけど、数々の記憶が残るプレーヤー。 この先、神様ジョーダン以上の選手は現れないと思う。 ちなみに、23番は僕のラッキーナンバー。貸しロッカーなどで23番が空いていると、絶対にそこを使う!
1991~1993, 1996~1998 1991~1993, 1996~1998 1988, 1991, 1992, 1996, 1998 1987~1993, 1996~1998ダブルクラッチ
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Zydrunas Ilgauskas: ジードルーナス・イルガウスカス
1996年のNBAドラフトでクリーブランド・キャバリアーズより1巡目20位指名を受け、NBAデビューした。以降、キャブス一筋。1996-97シーズンは右足の骨折で全休し、デビューとなった1997-98シーズンはフル出場(82試合)を果たした。うち、81試合で先発出場するなど、即戦力として、同じくルーキーとして加入したブレビン・ナイト、デレック・アンダーソン、セドリック・ヘンダーソンと共にプレイオフ進出の原動力になった。1998年の2月にはルーキーオールスターゲームにも出場。見事、大会MVPにも輝いた。 キャバリアーズはレブロン・ジェームズの加入後にチーム成績が向上。一方で自身はドリュー・グッデンやアンダーソン・ヴァレジャオらの成長に伴い、出場時間は減少し、特にゲーム終盤ではベンチに控えることが多くなっていった。しかしベテランとしての役割を始め、チームにとっても欠かせない存在になっており、2005-06シーズンはルーキーイヤー以来となる8年ぶりのプレイオフ出場も果たした。翌2006-07シーズンには自身初のNBAファイナルに進出した。 221cmという長身をフル活用したテクニックあふれるプレイが特徴的な選手である。リバウンドはもちろん、ブロックも得意とし、ゴール近辺では脅威の存在である。オフェンス能力も長けており、フックシュート、ダンクシュート、ティップイン、ジャンプシュート、ミドルシュート等インサイドの選手としては破格のシュートバリエーションを誇り、「技のデパート」と雑誌ダンクシュートは表現した。シュート成功率もNBA屈指を誇る。また長身選手に苦手な選手が多いフリースローもヤオ・ミンと並んで非常に上手いタイプといえよう。2005-06シーズンには.834の成功率を残し、キャリアハイを記録した。運動能力やフィジカルコンタクトに強い方ではなく、上手さが売りの「柔」のセンターという存在である。 参照:Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ ジードルーナス・イルガウスカス
2003,2005 1998年 1996年 20位 Cダブルクラッチ
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Tony Battie:トニー・バディ
テキサス工科大学で中心選手と活躍し、3年生時の1996-97シーズンに平均18,8得点 11,8リバウンド 2,3ブロックショットを記録したバティは、4年生はプレーせず1997年のNBAドラフトへのエントリーを表明。全体5位という高評価を受けてデンバー・ナゲッツから指名された。1シーズンナゲッツでプレーした後、1998年のNBAドラフトでナゲッツが全体3位でレイフ・ラフレンツを指名したのに伴い、ナゲッツはロサンゼルス・レイカーズ、ボストン・セルティックスを相手に三角トレードを敢行。27位で指名したティロン・ルーの権利をレイカーズに譲渡しニック・ヴァン・エクセルを獲得。ナゲッツは更にバティをセルティックスに放出。バティは新天地で奮闘し、2001-02シーズンは、7年振りのプレーオフ出場に貢献した。 マジックでは、2004年のNBAドラフトで全体1位で入団したドワイト・ハワードとフロントラインを形成。2005-06シーズンは、自身初の全82試合スタメン出場。2008-09シーズンはNBAファイナルまで勝ち上がったものの、ファイナルではロサンゼルス・レイカーズに1勝4敗で敗れた。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ トニー・バティ
1997年 5位 C/PF オーランド・マジック テキサス工科大学ダブルクラッチ
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Tim Duncan:ティム・ダンカン
ポジションはパワーフォワード。NBAのサンアントニオ・スパーズ一筋19年にわたり活躍した。 ウェイク・フォレスト大学時代にカレッジバスケの個人賞を総舐めにした後、1997年のNBAドラフトにてサンアントニオ・スパーズから全体1位指名を受けてNBA入り。以後スパーズの黄金期を築き上げ、NBAファイナルを5回制覇。個人としてもNBAルーキー・オブ・ザ・イヤー、シーズンMVP受賞2回、ファイナルMVP受賞3回、デビューしてから2010年まで13シーズン連続で、オールNBAチーム、NBAオールディフェンシブチーム、オールスター(ロックアウトの影響で開催されなかった1999年を除く)に選ばれ続けた。 プレイに華やかさはないため「地味」というイメージが付き纏うが、その圧倒的な実績から史上最高のパワーフォワードとの呼び声も高い。 基本に忠実なプレースタイルからThe Big Fundamentalの愛称で知られる。 一つ一つのプレーの安定感・正確さ、自己犠牲もいとわないチームを第一に考えた献身的な態度、勝者のメンタリティを持つ精神的に浮ついたところのない逞しさなど、現役選手の中では最も信頼された実力の持ち主である。ダンカンより派手で成績も上回っている選手は数多く存在するが、ダンカンより評価されている選手はほとんど存在しない。ダンカンがプレイする時代のNBAはパワーフォワードの層が非常に充実しており、彼がNBA入りした頃にはカール・マローンやチャールズ・バークレー、クリス・ウェバーらが、そして彼の同世代にはケビン・ガーネットやダーク・ノビツキー、ラシード・ウォーレス、ジャーメイン・オニールらが居るが、そんな猛者たちを抑えてルーキーイヤーから8年連続オールNBA1stチームに選出され続けたことは、彼が同時代における最高のパワーフォワードであることを意味している。また優勝5回、シーズンMVP2回、ファイナルMVP3回と、過去これに匹敵するほどの実績を残したパワーフォワードはおらず、カール・マローンを指導したジェリー・スローンHCをしてダンカンを「史上最高のパワーフォワード」と言わしめたほどである。また11回の優勝を誇るビル・ラッセルはダンカンを「同世代において最も有能な選手」と評し、カリーム・アブドゥル=ジャバーも彼の意見を支持した。 身体能力が高いほうではないが、抜群のバスケットIQと無駄を一切排したプレースタイルで今日の地位を築いたダンカンはリーグトップクラスのスコアラーであり、リバウンダーであり、ショットブロッカーであり、ディフェンダーであり、そしてクラッチプレーヤーである。重要な時間帯ほど多用されるダンカンの1on1は、ミドルポストでディフェンダーと正対した状態から開始され、その場からのジャンプシュートやドライブからのフックシュートなどが展開され、それは至極単純なプレーであるが彼を止めることは困難だった。現役では最もバックボードの使い方が上手いとの意見も多く、バンクショットを得意としていることでも知られ、またパスセンスも高く、ディフェンダーに囲まれた際もフリーの味方にパスアウトできる判断力と柔軟性を持ち合わせている。通算ダブル・ダブル達成回数歴代1位という成績が示すように、抜群の安定感を持っていることもダンカンの大きな長所である。スパーズのチームカラーである強力なディフェンスもダンカンの存在が根底にあり、ブルース・ボウエンが現役時にはペリメーターにボウエン、インサイドにダンカンと鉄壁の守備が構築され、多くのスコアラーが袋小路に迷い込んでは彼らの餌食となった。さらにプレーオフに入ると個人成績が軒並み上昇することからも分るように、より重要な試合で真価を発揮できる選手である。彼の唯一の弱点はフリースローと言われているが、キャリア通算で成功率は70%に届いていないが致命的に低いという程度ではない。ただし、シーズンによって59%~79%とバラつきがあると言える。 全試合フル出場の回数こそ少ないものの全てのシーズンで65試合以上出場しており、接触プレーが多いインサイドのポジションを主戦場とするがフィジカルも強い。大黒柱ダンカンの長期欠場が少ないため、チームもダンカンが加入した1997-1998シーズン以降全30チーム唯一の「全てのシーズンで勝率6割以上」を記録している。 勝利への道を最短で行くような彼のプレーはしばしば「退屈である」と指摘され、1999年の優勝時にスポーツ・イラストレイテッド誌はファイナルMVPに輝いたダンカンを「静かで退屈なMVP」と評し、またシャキール・オニールから付けられたニックネーム、"The Big Fundamental"も最初は決してダンカンを賞賛する意味ではなかった(ただし、スポ・イラもシャックもダンカンが築いた実績に対しては賞賛を惜しまない)。このような評価に対してダンカンは「気にならない。好きなように批評すればいい」と泰然自若の態度である。 参照Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ ティム・ダンカン
2000年 1999,2003,2005,2007,2014 1999,2003,2005 2002-2003ダブルクラッチ
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Steven Smith:スティーブ・スミス
ミシガン州立大学時代に長身ガードとして "マジック・ジョンソンの再来" として注目され、1991年のNBAドラフト5位でマイアミ・ヒートに指名された。1995年にはアトランタ・ホークスに移り、1998年のNBAオールスターゲームに出場している。その後、ジミー・ジャクソン、アイザイア・ライダーとのトレードでポートランド・トレイルブレイザーズに移籍した。2001年のオフシーズンにはデレック・アンダーソンとのトレードでサンアントニオ・スパーズに移籍。2003年のNBAファイナルでは優勝を味わったが、マヌ・ジノビリの台頭もあり、プレーオフを通じて出場機会は限られた。その後ニューオーリンズ・ホーネッツ、シャーロット・ボブキャッツでプレイした。2005年2月24日、トレード期限間際にマリック・アレンとのトレードで古巣のヒートに移籍し、そこで引退宣言をした。 2000年のシドニーオリンピックでアメリカ代表に選出され、金メダルを獲得した。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ スティーブ・スミス
2002年 2003年 2000年シドニー 金メダル 1991年5位ダブルクラッチ
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Stephon Marbury:ステフォン・マーブリー
ジョージア工科大学在学中に1996年のNBAドラフトにアーリーエントリーし、ミルウォーキー・バックスから全体4位の指名を受けたが、直後にミネソタ・ティンバーウルブズが5位で指名したレイ・アレンとの交換トレードが成立し、キャリアがスタートした。 初年度となる1996-1997シーズンから67試合に出場し、1試合平均15.8得点、7.8アシストの好成績を残し、NBAオールルーキーファーストチームに選出される。その後1998-1999シーズンの途中までウルブズでプレーするが、ニュージャージー・ネッツとウルブズの3チームで行われたトレードでネッツに移籍した。 ネッツでは得点能力を発揮させ、1試合平均23.4得点をマークし、1999-2000、2000-2001シーズンも22.2得点・8.4アシスト、23.9得点、7.6アシストという成績を残すが、チームをプレーオフへ導けず、2000-2001シーズン終了後フェニックス・サンズへ放出された。 サンズでも毎シーズン個人成績は20得点・8アシスト以上の成績を残すが、チームは2003年にプレイオフに進出したのみ(1回戦敗退)の成績に終わり、2003-2004シーズン中に自己3回目のトレードでニューヨーク・ニックスへと移籍した。 2010年1月、CBA所属の山西ドラゴンズに入団し、15試合に出場した。7月29日、チームとの3年の契約に合意した。その後北京ダックスに移籍し、2014年と2015年にCBA優勝を経験した。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ ステフォン・マーブリー
2015 2004年アテネ銅メダル 1996年4位 PGダブルクラッチ
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Shawn Bradley:ショーン・ブラッドリー
ブリガムヤング大学での活躍と将来性を高く評価され、1993年のNBAドラフトにおいてフィラデルフィア・セブンティシクサーズから2位指名を受ける。新人ながら1試合あたり10~12得点、平均3.5ブロックを記録し、入団して数年で自分のポジションを確立する。しかし身長は高いが線は細く、同世代のセンターやパワーフォワードと比べてフィジカル面ではかなり劣る。そのためか「ディフェンスは消極的」と批判された。そしてよくポスタライズされる選手としても有名。そのためディフェンシブファウルを取られることが多く、1試合30分以下の出場時間でのファウル数が平均4ファウルを越えた。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ ショーン・ブラッドリー
2002年 1993年 2位 1997年 Cダブルクラッチ
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Ron Mercer:ロン・マーサー
Ronald Eugene Mercerは、ケンタッキー大学でのキャリアの後、マーサーはボストンセルティックスに入団。その後デンバーナゲッツ、シカゴブルズ、インディアナ・ペイサーズなどのいくつかのチームを渡り歩いてプレーしました。彼は2005年にニュージャージー・ネッツでキャリアを終えました。 参照: Wikipedia https://en.m.wikipedia.org/wiki/ Ron_Mercer
1996年 1997年 6位 SG/SF ボストン・セルティックスダブルクラッチ
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Rod Strickland:ロッド・ストリックランド
デュポール大学で3シーズンプレーした後、1988年のNBAドラフトで、ニューヨーク・ニックスに1順目19位で指名され入団。ルーキーシーズンは81試合に出場し、10試合でスターターを務め、1989年のオールルーキー・セカンドチームに選ばれた。1990年にサンアントニオ・スパーズに移籍し、その後7チームでプレーし、2005年に引退した。1,094試合出場、14,463得点(13.2ppg)、7,987アシスト(7.3rpg)、1,616スティール(1.5spg)を記録した。 2011年のNBAドラフト1位で、NBAオールスターMVP等を獲得したカイリー・アービングの名付け親でもある。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ ロッド・ストリックランド
1989年 1998年 1987年 19位 PGダブルクラッチ
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Rik Smits:リック・スミッツ
ニックネームは「ダンキン・ダッチマン」 ニューヨーク州ポキプシーにあるマリスト大学から1988年のNBAドラフトにおいて全体2位でインディアナ・ペイサーズより指名を受けプロ入りした。ルーキーイヤーはスティーブ・スティパノヴィッチの控えとしてベンチ入りしていたが、スティパノビッチ突然の故障により引退を余儀なくされたため、急遽71試合に先発出場し11.7得点6.1リバウンドを挙げ、オールルーキー1stチームに選出された。その後、引退まで毎シーズン2桁得点を記録している。リバウンドやブロックショットはセンターとして特筆すべきものではないが、持ち前の柔らかなシュートでチームの人気者の一人となった。 1990年代に入り、ペイサーズにはレジー・ミラーを中心に優秀な選手が集まり、スミッツは不動のセンターとしてチームに貢献。1995年のオーランド・マジックとのプレーオフ第4戦では、残り時間1.3秒でインバウンズパスを受けるとトゥリー・ロリンズをフェイクでかわしてブザービーターを決めた。1998年のプレーオフでは気合の表れとして、彼を含めチーム全員がスキンヘッドしたが、一際肌の色が白いスミッツだけはあまり似合っていないと言われていた。 1998年にはNBAオールスターゲームに選出され10得点,7リバウンド,4アシストを記録した。また2000年にはチーム史上初のNBAファイナルに進出した。スミッツは足に長年に渡って慢性的な故障を抱えており、優勝を逃したこの年に現役を引退した。その後ファン投票による、ペイサーズ40周年記念チームに選出され、レジー・ミラー、メル・ダニエルズ、ジャーメイン・オニールに次いで4番目に票を獲得した。 有能なビッグセンターが多かった1990年代のNBAの中においても224cmのスミッツは一際高く、相手センターは彼の高さ対策に少なからず手を焼いた。特にそのサイズに見合わないほどの、柔らかなタッチのフックショットや中間距離からのシュートに長けていた。フリースローも80%近い数字を残している。一方、センターとしては体の線が細く、身長の割にはリバウンド争いはあまり得意とはしていなかった。 その長身によりジャンプをせずともダンクが可能である。また、フリースローを投じる前に必ず3回ボールを床に突くルーティーンが印象的であった。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ リック・スミッツ
1998年 1988年 2位 C インディアナ・ペイサーズダブルクラッチ
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Rick Mahorn:リックマーホン
ダブルクラッチ
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Reggie Miller:レジー・ミラー
NBAで活躍した元プロバスケットボール選手で、現在はTNTのNBA解説者。カリフォルニア州リバーサイド出身。 1987年のNBAドラフト1順目11位でインディアナ・ペイサーズに指名された。当初ペイサーズは、セント・ジョーンズ大学のマーク・ジャクソンを指名する予定だったが、ドニー・ウォルシュ球団社長の閃きで、急遽ミラー指名に切り替えたという。その後ジャクソンは18位で地元のニューヨーク・ニックスに指名され、ペイサーズでもプレーしている。 2006年3月、インディアナ・ペイサーズがミラーの背番号31を永久欠番にすることを発表し、3月30日に永久欠番のセレモニーが行われた。 参照Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ レジー・ミラー
1994年カナダ 金メダル 1995年,1996年,1998年,2000年 1998年 2002年ダブルクラッチ
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Othella Harrington:オセラ・ハリントン
オセラ・ハリントンは退職したアメリカ人のプロバスケットボール選手で、ジョージタウン大学男子バスケットボールチームのバスケットボール運営の元ディレクター。彼はMurrah High Schoolで高校のキャリアを終えた後、Georgetown Universityの大学でNBAスーパースターAllen Iversonとチームを組んだ。ハリントンは、1996年のNBAドラフト「ヒューストン・ロケッツ」にドラフトされた。 2011年、ハリントンは母校ジョージタウンのアシスタントコーチに就任した。 参照:Wikipedia https://en.m.wikipedia.org/wiki/ Othella_Harrington
1993年 金メダル 1995年 金メダル 1996年2巡目30位 PF/Cダブルクラッチ
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Mike Conley:マイク・コンリー
三段跳び金メダリストの父と元NFL選手のスティーブ・コンリーを叔父に持つスポーツ一家で育った。少年時代は父の指導のもと、後に高校と大学をともにするグレッグ・オデンとともにバスケットボールに励んだ。 学生時代からディフェンスには定評があり、スティールの能力に長けている。オフェンスの方も年々向上しており、サウスポーの利点を活かして積極的にゴール前に切り込む。試合の重要な場面のショットを任されることも増え、今やリーグ屈指のクラッチシューターとして名を馳せている。 参照:Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ マイク・コンリー
2013年 2014年 2016年 2007年全体4位 PGダブルクラッチ
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Mark.Jackson:マーク・ジャクソン
1987年にセント・ジョーンズ大学を卒業し、ドラフト1巡目18位でニューヨーク・ニックスに指名されNBA入りした。ルーキーシーズンは平均13.6得点、4.8リバウンド、10.6アシスト、2.5スティールと活躍し、ルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)を受賞。新人王を受賞した歴代のNBA選手の中で最も指名順位が低い選手だった。2年目にはキャリア唯一のオールスターに出場した。ニックスでは、パトリック・ユーイングらとプレイし、カンファレンスセミファイナルまで進んだ。 1992年には、3チーム間のトレードでロサンゼルス・クリッパーズへ移籍した。クリッパーズには2シーズン在籍し、ダニー・マニング、ロン・ハーパーらと共に、1年目はプレイオフに出場した。 1994年には、マリック・シーリーやエリック・パイカウスキーらとの交換で、インディアナ・ペイサーズへ移籍した。1996年に、一旦デンバー・ナゲッツに放出されるが、再びトレードでペイサーズに復帰した。2000年には、ペイサーズのNBAファイナル進出に貢献した。 2000-01シーズン前、フリーエージェントとなったジャクソンは、トロント・ラプターズと契約した。しかし、シーズン途中にまたもやトレード、古巣のニューヨーク・ニックスで2シーズンプレイすることとなった。 2002年には、ユタ・ジャズと契約し、アシスト数歴代1位のジョン・ストックトンと2位のジャクソンが同じチームに在籍することになる。ジャズ時代に1万アシストを達成。 2003-04シーズンはABAのラスヴェガス・ラットラーズ、ヒューストン・ロケッツに所属した後、引退した。 ポイントガードでありながら、ジャンプシュートはあまり得意ではなく、体の幅を生かしたポストプレイからフックシュート、あるいはパスアウトで味方を生かすことを得意としていた。 リーダーシップがありゲームメイクも上手い、パス優先型のガードとして長年活躍し、アシスト数は歴代3位まで達し10323アシストを記録した。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ マーク・ジャクソン
1989年 1997年 1987年 18位 PGダブルクラッチ