金栗四三さんの先輩(1回・2回生)について
初版 2024/08/30 22:07
改訂 2024/08/30 22:07
金栗四三は私の出身高校の旧制中学3回生です。2期上の1回生が卒業したのは明治41年3月の事でした。人数は27名。この当時、最難関校とされていた旧制第一高等学校、陸軍士官学校、海軍兵学校、東京高等師範学校、広島高等師範学校、東亜同文書院大学の全てに合格・進学者を輩出しています。旧制第一高等学校に進学した藤原保明さんは、その後、東京帝国大学を卒業し、初代の航空局長官などを歴任しました。陸軍士官学校に進学した者は3名でした。1番出世したのは下田充・陸軍大佐で、第六師団の兵器部長などを歴任しました。海軍兵学校に進学したのは河口嘉勝さんでこの方は海軍少佐の時に当時の軍縮の方針で退役しています。東京高等師範学校に進学した古沢肥後男さんはペルー国の日本人学校の校長を、広島高等師範学校に進学した染村亀鶴さんは後に京都帝国大学も卒業され、旧制女学校や中学の校長、また、旧制高等商業学校の教授などを歴任しました。東亜同文書院大学に進学したのは中島止水さんで、金栗四三さんはこの先輩の影響を受けて、ある時期、この東亜同文書院大学への進学を考えていたそうです。それくらいこの当時の東亜同文書院大学は難関中の難関でした。また、長崎高等商業学校を卒業し、海軍の主計将校となり、海軍主計大佐となった中江嘉作さんもこの期の卒業生です。
明治42年3月に卒業した2回生は38名でした。この期は東京帝国大学進学者が3名、京都帝国大学進学者が3名居ました。また、医学学校に進学し、医師になった者は8名に上りました。また、陸軍士官学校に進学した者はこの期も3名でした。山内真喜男・陸軍大佐や南庄太郎・陸軍中佐などです。この期で有名なのは零戦に使用した超々ジュラルミンの発明者である五十嵐勇さん(東北大教授)やマレー語の権威で母校である東京外語学校の教授や陸軍教授を歴任した上原訓蔵さんでしょう。
これらの先輩から金栗四三さんは良い影響を受けて後の素晴らしい人生を送られたのではないかと思われます。