【チェス その15-5:イギリスのナイト『第9槍騎兵連隊の将校』】

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 この連隊は、1715年、ジャコバイト(ジェームズII世派)の反乱に際して新たに増強された騎馬部隊の一隊で、はじめはウェインの竜騎兵隊として編成されました。当時、ナポレオンのフランス軍とその同盟軍の槍騎兵隊の数々の働きは敵側に深い感銘を与えており、これに習って、1816年、第9軽竜騎兵隊をはじめいくつかの部隊が装備を強化され、名前を変えることになったのです。第9連隊は1842年以降インドに進駐、シーク戦争で激しい野戦を経験することになります。
 1857年5月、デリーが反乱軍の手に落ちるや、すぐさま制圧部隊に加わり、アンバラから駆けつけます。その数3万、大規模ながら無秩序な反乱軍と、猛然と進撃する3000人のイギリス軍とは、ついに6月8日、デリーから約10キロの地点、ハドリー・キ・サラーエで戦闘状態に入ります。イギリス軍はこの戦いに勝利するものの、続く数ヵ月の間、戦果に恵まれることはありませんでした。6月から9月まで、第9槍騎兵連隊は他連隊からの増援を細々と受けながら、デリー・リッジ上の包囲戦で危険と不自由を我慢しなければなりませんでした。やがて8月末、敵の拠点デリーに猛攻を加えるための大砲を装備した攻撃隊が向かいつつあるとの情報が彼らのもとへ届きます。しかし、反乱軍もまたこの大援軍の情報を察知し、待ち伏せるために強力な兵力を送り出すのです。そして8月24日、精力的な師団長ジョン・ニコルスン指揮下の遊撃隊と第9槍騎兵連隊からなる大隊は、待ち伏せする敵をナジャフガルで撃破、大切な大砲を守ります。1857年の一連の戦闘において、第9槍騎兵連隊は「デリーの槍男」と呼ばれるようになりました。
 第9槍騎兵連隊は、幾多の厳しい騎馬行軍と戦闘を続けた部隊です。ラクナウでは、1857年11月の救援作戦、翌年3月の最終奪還戦の両戦闘に参戦。また1857年10月10日、アグラで反乱軍に露営中を奇襲された彼らは、靴も履かないまま戦ってこれを追い払い、その武勲により2つのビクトリア十字勲章を受けます。大反乱の期間を通じ、連隊では、この勇敢さを称える最高の勲章を12個も授かることになるのです。
 チェス駒の士官は、デリー目前、灼熱の太陽の下で戦闘中の姿を描写したものです。野戦帽は白布で包まれ、うしろにはキルティングした日除け布が下がっています。そして、顔を覆うほどの口髭と顎髭。1854年の命令により、東方赴任中の軍人はすべて髭をたくわえなければならないことになっていました。なお、第9槍騎兵連隊では、一般隊員は槍で武装し、将校はサーベルと鞍につけたピストルで武装していました。

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【チェス その15:ミニチュア肖像彫刻 インド統治のチェス・セット(The Raj Chess Set)】
ディアゴスティーニやアシェットコレクションなどの先駆けともいえる、テーマ・コレクション通販の老舗、フランクリン・ミント社により1990年に限定販売された【インド統治のチェス・セット】です。  1857年に勃発した『インド大反乱(我々世代だと世界史で『セポイの反乱』で習ったでしょうか)』に材を取り、一連の争いに所縁のある実在の人物を模したピューター製のチェス駒が特徴です。 「ミニチュア肖像彫刻」と名を打つ精細なコマは、ひとつひとつがすべて手作り・手彩色で作られた芸術的なものとなっています。 当然、値段もBIGです😅 注文者には、この手作りコマが1個ずつ定期的に届き、その値段はなんと1個6,800円!😱 チェス駒は全部で32個なので、それだけで217,600円ナリ……😱😱 定期購入で32個をすべてそろえた場合は、重厚な一本脚テーブル状のチェスボードがオマケでもらえたという……😱😱😱 館主が入手できた本アイテムは、コマもチェス・テーブルもそろった美品ですが、唯一、チェス・テーブルの一本脚が破損しており、自立しない……ということで、まあ比較的安価に落札できたものになります😊 コマもチェスボードもほぼ完品でしたし、脚なんか直せばそれまでだし……とはいえ、当館のアイテムの中では最高額の部類に入るでしょうか。 せっかくなので、これらのチェス駒は個別に展示・紹介していきたいと思います。 そのモチーフとなった人物についての概略がブックレットで解説されているし。 以下は、背景となっている『インド大反乱』の勃発から終焉までの概説です。 ブックレットからの引用ですが、長いので読まなくてもOK😅 うまく要約されているので、興味のある方は一読くださいませ。    *     *  1857年のインド大反乱は、2世紀に及ぶイギリスのインド支配を揺るがした忘れがたい歴史のひとこまです。両軍の残虐極まりない行為が汚点となって残る苛烈な戦いでしたが、反面、叙事詩にうたわれたような勇気、自己犠牲、献身を示すさまざまなドラマを生む舞台にもなりました。現代人の目には奇異に映るかもしれませんが、巨大で豊かな国インドは、ある商業的な組織に長いこと支配されていたのです。しかし、この反乱の鎮圧をきっかけに、この支配に終止符が打たれ、インドは大英帝国の一部となり、イギリス国王の支配下におかれることになりました。  栄光の東インド会社は、17世紀、インド沿岸部にあった小さなイギリスの貿易租借地で生まれました。当初は純粋な貿易会社としてスタートしましたが、長いこと土着の政治勢力と絡み合い、拮抗するフランスとの植民地争いに明け暮れるうちに、徐々に権力と影響力を拡大し、ついにはインド亜大陸の大部分を治める正式な行政機関に発展しました。残存していた旧来の諸王国や、バンジャブ、ネパールのような境界州は粉砕されたり、従属国や同盟国となって細々と命脈を保ちました。インドの大部分において、税金を徴収し、法を執行し、さらにインドで採用した傭兵からなる大英帝国指揮下の連隊である大軍隊をあやつっていたのは、他ならぬ東インド会社の役人たちだったのです。深刻な国境紛争の期間を除くと、インドには正規のイギリス軍連隊はほとんど駐屯しておらず、わずかなその軍勢も広範囲に分散していました。  インド北部および中央部、特に当時東インド会社のベンガル地区として統治されていた地方では、多くの不平不満が渦巻き、複雑に絡み合っていました。端的に言えば、1850年代には、諸侯や地主、農民、聖職者などインドのすべての階層の人々が、伝統的な文化や特権、宗教の信仰などに対してイギリスの脅威を感じ、徐々に憤りをつのらせていたのです。イギリス人の側からすれば、利益をもたらすことが自明の社会的な諸改革も、保守的なインド社会にとっては反感の種であり、実際、インドの伝統的社会をなんとか理解しようと努めたイギリス人はほとんどいませんでした。一触即発の危険を孕んでいる宗教的な問題にも、きわめて無神経な対応をしたため、イスラム教徒、ヒンズー教徒双方に、彼らの宗教生活に強大なキリスト教勢力が襲い掛かろうとしているという誤った、しかしやむをえない疑いを抱かせることになりました。あからさまな拡張主義の時期に、東インド会社は、見え透いた口実を弄して土着の諸侯たちの領地を次々に併合していきました。そして1857年春、統率のとれていなかった東インド会社ベンガル軍のインド人連隊の士気の低下は、不穏な空気を生む温床となり、上巻による不当な扱いから生じた種々雑多な不満がそれに拍車かけました。決定的なものが何だったのか定かではありませんが、新しく支給される薬包に牛や豚の脂が塗ってあるという噂が広く流布していたことは確かです。当時、薬包は兵士が歯でかみ切らなければならず、牛や豚の脂の塗ってある薬包を口の中に入れるということは、ヒンズー教徒、イスラム教徒にとってのっぴきならない宗教的な穢れを意味したのです。薬包の使用を拒絶したセポイ(インド人傭兵)を厳罰に処したことが、反乱に火をつける結果となりました。  1857年5月10日、デリーの近くのメーラトで、3連隊が怒りにかられ上官の将校たちを殺害、非常な残酷さでイギリス人家族を皆殺しにし、反乱を広めるため各地に分散していきました。イギリス軍の守備隊がいなかったデリーは翌日陥落しました。そして、ボンベイ、フェロゼブル、バレイリーをはじめ多くの駐屯地で次々に反乱の火の手があがったのです。イギリス上層部の対応は迅速さを欠き混乱をきわめたうえ、信頼のおける舞台はほとんど皆無でした。6月には、反徒たちは旧支配者の大物、ナーナー・サーヒブと連合し、凄惨な攻城戦の末に少数のイギリス部隊を降伏させ、カーンプルを開城させました。そのイギリス部隊の兵士たちは、身の安全を保障されて出てきたところを殺され、女や子供たちも2週間の虜囚生活の後、夫や父と同じ運命を辿ることになったのでした。カーンプルでの残虐非道な行為がイギリスの世論を大いに煽り立てたため、その後の戦闘では、イギリス軍は敵を捕虜として捕えることを不満とし、うわべだけの尋問をしたうえで捉えた反徒たちを即刻縛り首にするか、機関砲で吹き飛ばしてしまいます。  1857年6月は、ビクトリア朝時代に叙事詩として民衆にあまねく知れ渡ったもうひとつの籠城戦が幕開けした時でもありました。その頃、ラクナウでは多くの守備隊とその家族たちが、先見の明のある司令官に率いられて5か月後に幕を閉じることになった血なまぐさい試練に突入していたのです。一方、ようやく到着したイギリス軍縦隊、すなわち王党の東インド会社と女王陛下の軍隊、そして常に忠実なるシク教徒とグルカ人の同盟軍からかき集めた軍勢は、デリー・リッジめざして進攻し、ついにデリーを反徒たちの手から奪還したのです。  7月から8月にかけて、果敢なハブロック将軍はラクナウを救援しようと努力しましたが、奮闘のかいなく失敗してしまいます。しかし、9月になると壊滅寸前のラクナウのために援軍がようやく来るようになり、有能なコリン・キャンベル卿が新任の総司令官として着任し、11月には、とうとうラクナウが解放されました。そして、12月には、カーンプルの近くで反乱軍の最も有能なリーダー、タートヤ・トーペーの軍を打ち破りました。  1858年の前半には、キャンベル卿は北部インドで次々と精力的な戦闘を展開してゆき、彼の有能な副官、ヒュー・ローズ卿が中部インドの各地でめざましい活躍をし、タートヤ・トーペーとジャーンシー王国の王妃に率いられた軍勢を潰滅しました。この頃には、イギリス軍は本国からの軍隊で増強されており、さらにシク教徒やグルカの同盟軍から派遣された兵士たちの測り知れない貢献があったにもかかわらず、イギリス軍は圧倒的に人数のうえで劣っていました。反徒たちと彼らの支援者たちは勇敢で戦術的に長けていましたが、実質的な統一に欠け、訓練を積んだ司令官もいませんでした。反乱軍は戦闘に次々に敗北していき、1858年後半にはすでに散り散りになったグループでゲリラ戦を行なうまでに弱小化していました。そして、1859年7月、ついに平和の再建が宣言されたのです。  制圧したインド人たちに対して断固たる制裁措置をとるべきだと息巻く主張は、ビクトリア女王の強力な後ろ盾を受けたキャニング総督の人道的で現実的な政策に抑えられました。インドはイギリス王冠のもとに統治されることになり、いつしか、大反乱の痛ましい傷跡も癒えていきました。  ともあれ、人間がとことん苦しむという多大な犠牲を払って、イギリス人もインド人も数々の教訓を得たのです。 (以上、ブックレットより) #ボードゲーム #伝統ゲーム #チェス #インド大反乱 #ピューター製 #手造り手彩色 https://muuseo.com/sarura_004/items/853 https://muuseo.com/sarura_004/items/949 https://muuseo.com/sarura_004/items/982 https://muuseo.com/sarura_004/items/1437 https://muuseo.com/sarura_004/items/1438 https://muuseo.com/sarura_004/items/1448 https://muuseo.com/sarura_004/items/1446 https://muuseo.com/sarura_004/items/1443 https://muuseo.com/sarura_004/items/1444 https://muuseo.com/sarura_004/items/1449 https://muuseo.com/sarura_004/items/1447 https://muuseo.com/sarura_004/items/1439 https://muuseo.com/sarura_004/items/1440 https://muuseo.com/sarura_004/items/1441 https://muuseo.com/sarura_004/items/1442 https://muuseo.com/sarura_004/items/1450 https://muuseo.com/sarura_004/items/1452 https://muuseo.com/sarura_004/items/1451 https://muuseo.com/sarura_004/items/1453
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【チェス その15-1:イギリスのポーン『第93歩兵連隊の兵士』】
 サザーランド・ハイランダーズは最高司令官コリン・キャンベル卿のお気に入りの連隊でした。勇猛なスコットランドの兵士達でもこの闘争的な将官に心服しており、その兵士たちは彼の指揮下の軍隊中でも特に名が知られていました。1857年の11月16日、コリン卿がラクナウの敵包囲軍に猛攻撃を加えようと救援隊を率いて到着すると、まず最初に、厳しく防衛されている重要な2つの門、シカンデルバーとシャーナジャフを味方のシーク軍に攻撃させました。しかし撃退されてしまいます。コリン卿は「タータン達を出せ!」と命じ、第93連隊を攻撃に投じました。現場にいた人々は、「7つの中隊すべてがまるで一人の人間のように城壁にとびつき、後にも先にも耳にしたことのない鬱積されていた怒りの雄たけびをあげました。それは歌声ではなくて、怒りに満ちたどう猛な激しい叫びでした……」と云っています。第93連隊はその1日の勇敢な働きをたたえられて、6個ものヴィクトリア十字勲章を得ました。彼らは「コーンポールを忘れるな!」というスローガンを口にしつつ街の中になだれ込みました。クエーカー教徒のウォーレスという兵士は、終始讃美歌116番を歌いながら、混戦の中で少なくとも20人の敵を殺したといわれています。24時間後にラクナウ駐在官邸はとうとう解放されました。そしてサザーランド・ハイランダーズの銃弾で敗れた軍旗が、燃えるシャーナジャフ門の上にうちたてられると、12歳のバグパイプ奏者が「コック・オー・ザ・ノース」の曲を挑戦的に吹き鳴らしました。  反乱のニュースが英国本土に届いた時には、第93連隊はすでに中国へ向けて遠征していました。彼らの常備の赤い軍服は「オランダ布」と呼ばれる薄茶の軽装にかえられており、上着の衿と肩帯とカフスだけに赤いふちどりがしてありました。しかし伝統のキルトはサザーランドタータンという青と緑の地に黒の模様のあるものでした。兵士達は、その上にしんちゅうで上を締めたふさと、あなぐまの顔の飾りがついた山羊製のスポラン(キルトの前に下げる毛皮のパウチ)をつけていました。約36センチの高さの帽子には黒いだちょうの羽毛が一面についていました。どちらでも都合のよい方向に動かせるキルティングでできた日除けには、帽子バンドの上にひもで結びつけられ、灰色の大きなコートは筒状に身体に巻いていました。所持品は、白の皮ベルトにつけられた2個の弾薬箱と、「スリーバンド・エンフィールド」旋条式雷管マスケット銃のための雷管をいれる小さい袋と、ベルトにつるされた長いとりつけ銃剣でした。雑のうと水筒は左腰の上に吊り下げていました。 #ボードゲーム #伝統ゲーム #チェス #インド大反乱 #ピューター製 #手造り手彩色 https://muuseo.com/sarura_004/items/1411 https://muuseo.com/sarura_004/items/1438 https://muuseo.com/sarura_004/items/1448 https://muuseo.com/sarura_004/items/1446 https://muuseo.com/sarura_004/items/1443 https://muuseo.com/sarura_004/items/1444 https://muuseo.com/sarura_004/items/1449 https://muuseo.com/sarura_004/items/1447 https://muuseo.com/sarura_004/items/1439 https://muuseo.com/sarura_004/items/1440 https://muuseo.com/sarura_004/items/1441 https://muuseo.com/sarura_004/items/1442 https://muuseo.com/sarura_004/items/1450 https://muuseo.com/sarura_004/items/1452 https://muuseo.com/sarura_004/items/1451 https://muuseo.com/sarura_004/items/1453
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【チェス その15-2:インドのポーン『セポイ、ベンガル現地歩兵』】
 反乱が発生した当時、ベンガル行政区の軍隊には74個の歩兵連隊がありました。アグラからカルカッタに至る約1,300キロにわたる地域では、たった4個のイギリス連隊が守備についていました。ベンガルの各現地歩兵連隊(BNI)は1,000人のセポイ(傭兵)と120人のインド人下士官、20人のインド人士官、10人のイギリス人中隊長、3人か4人のイギリス人参謀将校とで成り立っていました。白人将校と部下との間柄は、1857年までの数年間に非常に悪化していました。ひとりよがりで無頓着な上級将校や傲慢に部下を扱う新人の若い将校があまりに多かったのです。セポイの大多数は、アウド地方で徴兵され、アウドが独立の地位を失ったことに大きな恨みを持っていました。自分たちを強制的にキリスト教徒に転向させようとイギリス人たちが計画しているという途方もないうわさが、大きな不安をひきおこしました。  反乱に火をつけることになったきっかけは、新しく導入されたエンフィールド・ライフル銃の弾薬包の油脂が牛や豚の脂で作られていたことにありました。これを口で食い破るということはヒンズー教徒やイスラム教徒にとって宗教的冒涜にあたることから、それが強制されていると思い込んだのでした。1857年3月に第34BNIのセポイのひとりであるアンガル・バンデが狂暴なふるまいをしたかどで処刑されました。彼は不穏な状態にあったインド兵にとって殉教者であり、あちらこちらで紛争が起きました。1857年5月10日にメールトで新しい弾薬包の使用を拒否した多数のセポイたちがまとめて公の場で罰を受けたことが、反乱の口火を切らせました。第3ベンガル軽騎兵連隊と第11、第20BNIは、上官の将校を殺しイギリス人の家族を虐殺してデリーへと進軍しました。暴動の炎はあまりに速くあまりに猛烈に広がっていったので、その場を守るべき少数のイギリス部隊にとっては抑制することが不可能でした。  ベンガルの現地歩兵の「軽行軍装備」は、イギリス軍隊といろいろな点で似ていました。イギリス兵の丈の高いシャコという羽毛付きの軍帽のかわりに軽いキルマーノック帽をかぶり、夏には白ズボンに合わせてその防止に白いカバーをかぶせていました。赤い上着には、連隊ごとに違う色の別布で衿とカフスと肩帯をつけていました。腰の白い革ベルトで銃剣を支え、肩からななめにかけた革ひもで弾薬包を入れた箱をつるしていました。反乱者たちは制服を脱ぎすてて白の現地服に着替える者が多かったのですが、中にはズボンだけをドーティというゆるい腰布に替えただけで元の制服のままという者もいました。うち続く野戦の間も、イギリス軍の礼服をたくさん所有していたり、戦場へ進軍する時にイギリス人に人気のある歌、たとえば「チァ・ボーイズ・チァ!」などを連隊の軍楽隊が演奏したりさえしたのです。彼らに立ち向かうイギリス人兵士にとって、それはなんと気味の悪い体験であったことでしょう。 #ボードゲーム #伝統ゲーム #チェス #インド大反乱 #ピューター製 #手造り手彩色 https://muuseo.com/sarura_004/items/1411 https://muuseo.com/sarura_004/items/1437 https://muuseo.com/sarura_004/items/1448 https://muuseo.com/sarura_004/items/1446 https://muuseo.com/sarura_004/items/1443 https://muuseo.com/sarura_004/items/1444 https://muuseo.com/sarura_004/items/1449 https://muuseo.com/sarura_004/items/1447 https://muuseo.com/sarura_004/items/1439 https://muuseo.com/sarura_004/items/1440 https://muuseo.com/sarura_004/items/1441 https://muuseo.com/sarura_004/items/1442 https://muuseo.com/sarura_004/items/1450 https://muuseo.com/sarura_004/items/1452 https://muuseo.com/sarura_004/items/1451 https://muuseo.com/sarura_004/items/1453
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【チェス その15-3:イギリスのルーク『ラクナウの駐在官邸』】
 イギリス人、インド人兵士、そして一般市民の少数混成守備隊が、5ヶ月にも及ぶ籠城戦の末、最後までラクナウの駐在官邸を防衛した話は、インド大反乱史上最も有名な英雄談として語り継がれています。この駒は、その駐在官邸の中央部の建物の塔を模したものです。アワド地方の長官、サー・ヘンリー・ローレンスは、戦闘開始前に非常事態に備えて邸の周囲に塹壕を掘りめぐらせましたが、その時には邸の敷地は15万平方キロほどでした。  また、先見の明があったヘンリー卿は、あらかじめこの避難場所の防備を固め、1857年5月30日に起きたラクナウ市の第1次蜂起を鎮圧し、本格的なラクナウの反乱が始まるまでの1ヶ月間、着々と準備を整えたのでした。カーンブルを陥落させた反乱軍はラクナウをめざし、ついに6月30日、ラクナウ市を包囲しました。イギリス人とイギリスに忠誠をつくしたインド人兵士は、堅固で食糧や物資も十分に蓄えられている塹壕に集結しました。迎え撃つ守備側は総勢およそ3100名、うち兵士は1600名ほどで、927名のインド人兵士も加わっていました。一方、反乱軍はおよそ6000名で、武装も訓練も申し分なく、おまけに大砲まで装備していました。  サー・ヘンリー・ローレンスは、7月2日に砲火で戦死し、第32歩兵連隊のイングリス大佐が、籠城戦の指揮を引き継ぎましたが、この闘いは、真に忍耐と勇気を要し、さらに先を見通してすばやく決断を下さなければならないという歴史に残る苛烈なものでした。砲火、狙撃、白兵戦で多くの人命を失ったうえに、天然痘、コレラをはじめさまざまな病が追い打ちをかける悲惨な状況のなかで、守備隊は7、8月の雨期を闘い抜きました。8月中旬に企てられたラクナウ救援の試みは失敗に終わり、その頃には無傷の兵はイギリス人350名、インド人300名ほどだけという有様でした。  700名近くの病気と負傷に苦しむ兵士や女性、子供たちが、砲弾に崩れた建物の中にひしめきあい、食糧や物資も乏しくなっていました。そして9月25日、生き残っていた人々ももう最後の力が尽きようという時、突然市街で銃撃戦の音が鳴り響き、スコットランドのバグパイプの音色が聞こえたかと思うと、第78歩兵連隊の髭面の兵士たちが駆け寄ってきたのです。しかし、ハヴェロック将軍率いるこの3500名の増援部隊も、包囲を突破する際に手痛い打撃を被っており、反乱軍を完全に撃破するのは無理でした。彼らは守備隊に合流して守備範囲を押し広げ、さらにその後2ヵ月も籠城戦を繰り広げたのです。しかし、ついに1857年11月16、17両日、スコットランド高地兵、シーク兵、グルカ兵、そしてイギリスの歩兵を率いた、サー・コリン・キャンベルがラクナウ市内に進攻してきました。守備隊が救出されると市は放棄されましたが、1858年3月にキャンベルが再び占領しました。 #ボードゲーム #伝統ゲーム #チェス #インド大反乱 #ピューター製 #手造り手彩色 https://muuseo.com/sarura_004/items/1411 https://muuseo.com/sarura_004/items/1437 https://muuseo.com/sarura_004/items/1438 https://muuseo.com/sarura_004/items/1446 https://muuseo.com/sarura_004/items/1443 https://muuseo.com/sarura_004/items/1444 https://muuseo.com/sarura_004/items/1449 https://muuseo.com/sarura_004/items/1447 https://muuseo.com/sarura_004/items/1439 https://muuseo.com/sarura_004/items/1440 https://muuseo.com/sarura_004/items/1441 https://muuseo.com/sarura_004/items/1442 https://muuseo.com/sarura_004/items/1450 https://muuseo.com/sarura_004/items/1452 https://muuseo.com/sarura_004/items/1451 https://muuseo.com/sarura_004/items/1453
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【チェス その15-4:インドのルーク『デリーのレッド・フォート』】
 この駒は、デリーの王宮、かの有名なレッド・フォートの塔のうちのひとつを模しています。王宮と市の主だった城壁が、茶色がかったオレンジ色の砂岩で造られているところから、レッド・フォートといわれています。王宮は、タージマハルの建造者シャージャハーン帝の命をうけてつくられたものです。1857年5月、老齢に達していたデリーの王は、このレッド・フォートを居城としていました。レッド・フォートは、オールド・デリーの北東の隅、メーラトへと通ずる街道がジャムナ河と交差し、船の橋が架かっている近くにあります。  怒涛のごとく舟の橋を渡ってきた、メーラトの第3軽騎兵連隊の兵士たちが、反乱勃発の第1報を知らせたのは、5月11日のことでした。その時、デリーにはイギリス連隊は駐屯しておらず、イギリス人は、第38、54、74のインド人連隊の将校たちと、わずかばかりの技術担当者のみでした。反乱の炎は数時間と経たないうちに燃え広がり、多くの将校と、不幸にも暴徒に捕われた民間のイギリス人は、即刻殺されました。その日のうちに、第11と第20のインド人歩兵連隊の反乱兵たちもデリーに押し寄せました。生き残ってたイギリス人とまだ忠実だったインド人兵士たちは、市の北西部にある丘に退避して成行きを見守っていましたが、市中の火薬庫に反乱者たちが乱入したらどうなるか、と戦々恐々でした。午後4時ごろ、耳を聾する爆発音が響きわたりました。火薬庫に籠城した兵站部の3人の将校と6人の下士官が、もはやこれまでと、反乱軍の手に渡らないよう火薬庫もろとも自爆したのでした。ちなみに、9人のうち5人は奇跡的に死を免れ、全員がビクトリア十字勲章を授与されています。  その後、1857年の6月から9月にかけて、長期にわたる血みどろの包囲戦の間、レッド・フォートは、インドの抵抗運動のシンボルとなっていました。そして、レッド・フォートがイギリス人およびイギリスに忠誠をつくしたインド人たちの手に陥落した時、デリーの反乱軍は一挙に崩壊へと突き進み、ムガール王朝は終焉を迎えたのでした。あらん限りの略奪が行われましたが、これはベンガル軍のセポイ(イギリス東インド会社のインド人傭兵)を軽蔑していたシーク教徒が主にしたことでした。二度と反乱の拠点とならないよう、王宮の建物や防御施設を完全に破壊してしまおうという案も強硬に主張されましたが、結局はレッド・フォートはそのまま残され、1947年のインド独立まで、イギリス軍の司令部および監獄として使用されました。 #ボードゲーム #伝統ゲーム #チェス #インド大反乱 #ピューター製 #手造り手彩色 https://muuseo.com/sarura_004/items/1411 https://muuseo.com/sarura_004/items/1437 https://muuseo.com/sarura_004/items/1438 https://muuseo.com/sarura_004/items/1448 https://muuseo.com/sarura_004/items/1443 https://muuseo.com/sarura_004/items/1444 https://muuseo.com/sarura_004/items/1449 https://muuseo.com/sarura_004/items/1447 https://muuseo.com/sarura_004/items/1439 https://muuseo.com/sarura_004/items/1440 https://muuseo.com/sarura_004/items/1441 https://muuseo.com/sarura_004/items/1442 https://muuseo.com/sarura_004/items/1450 https://muuseo.com/sarura_004/items/1452 https://muuseo.com/sarura_004/items/1451 https://muuseo.com/sarura_004/items/1453
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【チェス その15-6:インドのナイト『ベンガル軍第3軽騎兵連隊の騎兵』】
 反乱の火の手は、悲劇的にも、「古風で沈着な第3連隊」と呼ばれ、信頼のおけることで名高かったインド人軽騎兵連隊から上がったのでした。この連隊は、メールトを基地に、過酷で嫌われ者の大佐の指揮下にありました。1857年5月9日、戒律を理由に新しい弾薬筒の使用を拒否した隊員85人が軍法会議(裁判官はインド人の士官たちでした)にかけられるという事件が起こります。彼らは、10年の重労働を言い渡され、引き立てられる前に公衆の面前で辱めを受けます。その日の夕方、ひとりの忠実なインド人士官が、不満がくすぶっていることを中尉に警告します。しかし、イギリス人上級将校はその報告を一蹴してしまいます。5月10日、イギリス第60ライフル連隊が近くで行進しているのを聞きつけた非番のインド人兵たちは、自分たちが奇襲されるのだと思い込んでしまいます。ライフル隊は、実際には教会に向かって行進していたのですが、この噂は火薬樽に火をつけるのには十分でした。隊員たちはすぐさま武装すると、馬に乗って監獄を襲い、まず85人の仲間を解放し、同時に数百人の一般囚人も解放したのです。たちまちにして暴徒と化した彼らは、興奮と怒りをあおりたてながらイギリス人居住区を襲撃し、殺人、婦女暴行、拷問、放火など非道の限りをつくします。ベンガル軍第11歩兵連隊は、制止する大佐を射殺して暴徒に加わります。イギリス側の各部隊では、勢いを増す騒乱への対応が遅れ、上級将校たちは部下を守備態勢に保ったまま、デリーへ向かう反乱軍を追撃しようとはしませんでした。かくして、大反乱を制圧する最後のチャンスは失われたのです。  第3軽騎兵連隊の中核の人々は忠節を保ち、イギリス人将校やその家族を救うために、大いなる勇気と献身を示しました。残りの隊員たちは散り散りになり、町にとどまっていた部隊の一部は、6月9日、忠誠なる移動警備騎兵隊によって手ひどく粉砕されてしまいます。  通常、ベンガル軍軽騎兵隊は、このチェス駒に見られるように、軽野戦服を身につけていました。軽い布製の帽子、短めの上着とズボンは青味がかった灰色の布地で、白いテープの縁飾りがついていました。腰のベルトには、重いサーベルと“セイバータシ”という平らな皮の袋。この袋はもともと細かい備品を入れるためのものでしたが、1957年頃にはちょっとした筆記用具や紙を入れるだけの装飾的なものになっていました。2つの重いピストルは鞍の前のホルスターに入れ、毛布を被せて雨やほこりを防いでいました。弾薬は小袋に入れて、肩から斜めにかけたベルトに吊るしていました。 #ボードゲーム #伝統ゲーム #チェス #インド大反乱 #ピューター製 #手造り手彩色 https://muuseo.com/sarura_004/items/1411 https://muuseo.com/sarura_004/items/1437 https://muuseo.com/sarura_004/items/1438 https://muuseo.com/sarura_004/items/1448 https://muuseo.com/sarura_004/items/1446 https://muuseo.com/sarura_004/items/1443 https://muuseo.com/sarura_004/items/1449 https://muuseo.com/sarura_004/items/1447 https://muuseo.com/sarura_004/items/1439 https://muuseo.com/sarura_004/items/1440 https://muuseo.com/sarura_004/items/1441 https://muuseo.com/sarura_004/items/1442 https://muuseo.com/sarura_004/items/1450 https://muuseo.com/sarura_004/items/1452 https://muuseo.com/sarura_004/items/1451 https://muuseo.com/sarura_004/items/1453
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【チェス その15-7:イギリスのナイト『第2近衛竜騎兵隊の騎兵』】
 この近衛隊は、女王の鹿毛の馬軍団としてあまねく知れ渡っており、その源は1685年に創設された第3騎兵隊に発します。そして、1857年、インド大反乱鎮圧のために、他の連隊とともにインドに派遣されました。  到着してすぐの頃は、反乱軍に幾度か敗北を喫しましたが、1857年11月、サー・コリン・キャンベルのラクナウ解放戦では、守備隊や民間のイギリス人たちを安全に護送するという任にあたりました。市はその直後放棄されましたが、彼らが翌年3月舞い戻りラクナウを占領しました。  その後数ヵ月にわたって、女王の鹿毛の馬軍団は、アワド地方およびゴグラ河流域を、それこそうんざりするくらいの長距離を進軍してまわりました。こうして、散開戦術をとったイギリス軍は、敵対者たちの孤立地帯を鎮圧し、丘陵地帯の北方に散り散りになった反乱軍の群れをひとつひとつ壊滅していったのです。ウイリアム・キャンベル連隊長は、1858年、ラクナウの戦闘で戦死を遂げましたが、1857年9月28日におけるボランドゥシャンダールでのブレア中尉の働き、そして1858年10月8日におけるアワドのサンデーラにおけるラッパ手のモナハンとアンダーソン兵卒の功績を称えて、計3個のビクトリア十字勲章が連隊に授与されました。  イギリス軍は、ヨーロッパ軍務の軍服と装備のままでインド入りしました。夏のインドの灼熱の気候にそぐわない重い軍服は、拷問以外の何物でもなく、真鍮製のヘルメットはギラギラ輝く太陽の光を少しでも遮るためにターバンでくるまなければなりませんでした。そうでもしないと、ヘルメットに触れた肌は、一瞬にしてオーブンに入れたように火ぶくれをおこすのです。インド勤務の経験がある他の連隊の兵たちは軽い軍帽と白のゆったりした上着とズボンを着用していました。紅茶やコーヒー、泥、カレー粉などで染められたカーキ(ウルドゥ語で埃の意味)色の衣服もよく用いられました。階級によって色合いが少しずつ違っていたようですが、このカーキ色は、秘色や青、金などよりもずっと実用的でした。  ヘルメットの他に、この連隊の兵たちが実用面で唯一譲歩したのは、ヘルメットのてっぺんからぶら下がっていた馬の尻尾の飾りを取り除いたことでした。ここに描かれている騎兵は、緋色の厚手のサージの軍服の上着と皮で補強した騎兵ズボンを着用しています。そして、腰には重いサーベル、肩からはカービン銃を吊り下げ、携帯口糧を入れる雑嚢と木製の水筒を装備しています。さらに、鞍の前には折りたたんだ外套が、しりがいには背嚢がくくりつけられ、乗りごこちを良くするために、鞍には羊の皮がかけられています。 #ボードゲーム #伝統ゲーム #チェス #インド大反乱 #ピューター製 #手造り手彩色 https://muuseo.com/sarura_004/items/1411 https://muuseo.com/sarura_004/items/1437 https://muuseo.com/sarura_004/items/1438 https://muuseo.com/sarura_004/items/1448 https://muuseo.com/sarura_004/items/1446 https://muuseo.com/sarura_004/items/1443 https://muuseo.com/sarura_004/items/1444 https://muuseo.com/sarura_004/items/1447 https://muuseo.com/sarura_004/items/1439 https://muuseo.com/sarura_004/items/1440 https://muuseo.com/sarura_004/items/1441 https://muuseo.com/sarura_004/items/1442 https://muuseo.com/sarura_004/items/1450 https://muuseo.com/sarura_004/items/1452 https://muuseo.com/sarura_004/items/1451 https://muuseo.com/sarura_004/items/1453
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【チェス その15-8:インドのナイト『インド人騎兵』】
 インド人騎兵を意味するsowarという言葉は、イギリス東インド会社軍の騎兵のみならず、もっと広義にインド人の騎兵すべてを表わす呼称です。インドの各部族、特にマラーター族では、騎兵戦の長い伝統があり、イギリスに対して蜂起したベンガル軍に馳せ参じたインド兵たちの多くも、この伝統を色濃く受け継いでいました。  1857年から58年にかけて、ベンガル州を縦横無尽に荒れ狂った悪魔の嵐。猛烈なスピードと荒々しさがインド特有の塵旋風にたとえられる大反乱ですが、その原因は数多く、複雑にからみあっています。しかし、反乱に身を投じた兵士たちの不平不満の原因、不安の種などは比較的はっきりしています。1856年、海外出征を約しない者は採用せずという命令が初めて出されました。上官たるイギリス人将校たちからすれば、ごく当たり前の命令ですが、王位カーストのヒンドゥー教徒にとっては、インド亜大陸を離れることは、カーストを失う禁忌だったのです。この件はじめ、さまざな革新が噂され、イギリス人が力づくで彼らをキリスト教徒に改宗させようと目論んでいる、という噂が飛び交いました。事実ではありませんでしたが、その噂はまたたく間に広まってゆきました。丁度、イギリス人が良かれと思って行なった諸改革が、インドの伝統的な暮らしを著しく変容させ、人々の憤りがつのっていた折でした。  腐敗し旧弊なインド諸侯たちの専制政治に縛られているよりは、むしろイギリスの統治と裁判権の下で暮らす方が、一般のインド人はより安泰で良い生活が望めたかもしれません。ともあれ、1850年代には、各地の諸侯の領地と徴税権をイギリスが理不尽に併合してゆき、大きな社会不安を巻き起こしました。インド社会は大変保守的なのに、インドの事情をわきまえないイギリスの行政官たちが、有無をいわさず近代的な西洋式の諸改革を強行したのです。そのうえ、インドのインテリ階級に対しても、大方の政治や行政官吏の昇級の道を閉ざしてしまいました。背ピノ中にも出身者が非常に多かったアワド地方の無理無体な併合が、農民・兵士の憤りをさらに煽り立てました。そしてひとたび怒りに火がつくと、兵士も一般市民も一丸となってイギリスに立ち向かい、情け容赦なくイギリス人虐殺へと走りました。他方、イギリス側の報復も、女王や総督の穏健主義にもかかわらず、反乱軍に負けず劣らず残忍さをきわめたのでした。  この騎手は、当時民衆に一般的だった伝統的な白い装い――ターバン、ゆったりした長衣とズボンを身につけています。反乱軍兵士の多くは、イギリス軍に反旗を翻すやいなや、軍服を脱ぎ捨て、この民族衣装に着替えました。また、この兵はタルワールというインドの湾刀とダールという盾を手にしています。 #ボードゲーム #伝統ゲーム #チェス #インド大反乱 #ピューター製 #手造り手彩色 https://muuseo.com/sarura_004/items/1411 https://muuseo.com/sarura_004/items/1437 https://muuseo.com/sarura_004/items/1438 https://muuseo.com/sarura_004/items/1448 https://muuseo.com/sarura_004/items/1446 https://muuseo.com/sarura_004/items/1443 https://muuseo.com/sarura_004/items/1444 https://muuseo.com/sarura_004/items/1449 https://muuseo.com/sarura_004/items/1439 https://muuseo.com/sarura_004/items/1440 https://muuseo.com/sarura_004/items/1441 https://muuseo.com/sarura_004/items/1442 https://muuseo.com/sarura_004/items/1450 https://muuseo.com/sarura_004/items/1452 https://muuseo.com/sarura_004/items/1451 https://muuseo.com/sarura_004/items/1453
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【チェス その15-9:イギリスのビショップ『サー・コリン・キャンベル中将』】
 コリン・キャンベルは、1792年、大工の息子としてグラスゴーで生まれ、71歳で陸軍元帥、クライド男爵として亡くなりました。そして、イギリスが誇る英雄たちに囲まれながら、ウェストミンスター寺院の墓地に眠っています。キャンベル卿は、勇猛果敢な優れた武将として尊敬されたばかりでなく、慈悲深く知性あふれる司令官として愛されていました。身分の低い出身だっただけに、部下の心情をよく理解することができたのです。  1807年、若く貧しいスコットランドの青年が、伯父の尽力で第8歩兵連隊の旗手に任命されました。彼は、ウェリントン公に率いられて半島戦争に従軍しましたが、幾多の戦闘において砲火をかいくぐっての勇敢な戦いぶりで、めきめき頭角を現わしました。そして、1814年にイギリスに帰国しましたが、ビクトリア朝の初期は長いこと平和が続いたので、彼も25年間、国内や国外で辛抱強く地道に勤務に励むほかありませんでした。ようやく1841年になると、第98歩兵連隊の中佐として中国のアヘン戦争に赴き、実戦での手腕を存分に発揮することができました。この戦役で、彼は准将に昇進し、その名がとどろきわたりました。1849年には、インドでの華々しい活躍が認められて、ナイト爵に叙せられましたが、1852年に自ら志願して故国に戻り、予備役に退きました。そして1854年、現役に復帰すると、クリミア戦争での殊勲で、再び名声が高まったのです。その後、歩兵連隊の監察長官としてイギリスに戻っていたところ、1857年7月にインド大反乱勃発の知らせがとびこみ、急遽最高司令官として彼の地に赴いたのでした。  直ちにキャンベルはカイロでインドに向かい8月に到着すると、増援部隊を率いてカーンブルへ進軍しました。カーンブルでのイギリス人虐殺の話を聞いて、増援部隊の兵士たちは復讐の念にかられました。11月9日、キャンベルは、籠城戦をくりひろげていたラクナウに兵を進め、11月30日には敵の包囲網を突破し、一気に町を占領し、生き残った守備兵や市民たちをカーンブルへと無事避難させたのです。その後各地で軍事行動を展開し、1858年5月までに、北部インドを完全に制圧しました。その頃にはキャンベルは将官に昇進し、帰属に列せられていました。健康を損ねて1860年に故国に戻り、1863年に世を去りました。  インド大反乱の間に撮影されたキャンベルの写真は、わずか1枚しか判明していません。大反乱の最中にイギリス人将校がよくしたように、彼も熱帯用の軽装備のヘルメットに、パガリという布を巻いています。簡素なダークブルーの上着には、黒ひもの飾りがついており、白い熱帯向きズボンをはいています。そして、飾りのない重い軍刀を身につけています。ラクナウ攻撃の際、この老いた将軍は自らスコットランド高地連隊兵の先頭に立って突撃しました。彼のように、軍刀を手に部下の歩兵たちとともに戦闘に加わるような最高司令官は、もう出ないでしょう。 #ボードゲーム #伝統ゲーム #チェス #インド大反乱 #ピューター製 #手造り手彩色 https://muuseo.com/sarura_004/items/1411 https://muuseo.com/sarura_004/items/1437 https://muuseo.com/sarura_004/items/1438 https://muuseo.com/sarura_004/items/1448 https://muuseo.com/sarura_004/items/1446 https://muuseo.com/sarura_004/items/1443 https://muuseo.com/sarura_004/items/1444 https://muuseo.com/sarura_004/items/1449 https://muuseo.com/sarura_004/items/1447 https://muuseo.com/sarura_004/items/1440 https://muuseo.com/sarura_004/items/1441 https://muuseo.com/sarura_004/items/1442 https://muuseo.com/sarura_004/items/1450 https://muuseo.com/sarura_004/items/1452 https://muuseo.com/sarura_004/items/1451 https://muuseo.com/sarura_004/items/1453
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【チェス その15-10:インドのビショップ『タートヤ・トーペー』】
 反乱軍のなかでも最も優れた指導者といわれるタートヤ・トーペーですが、彼自身について詳しいことはほとんど知られていません。タートヤ・トーペーとは偽名で、本名すらわかっていないのです。大反乱が勃発する前に、ナーナー・サーヒブに仕えて昇格したマラーター族のバラモン階級のラムチャンドラ・バンドゥランガという男が、おそらくタートヤ・トーペーだろうといわれています。  1857年6月27日に起こったカーンブルの虐殺での彼の罪状についてもよくわかっていません。タートヤ・トーペーが扇動したのだという見方もありますが、ナーナー・サーヒブのイギリス人嫌いはつとに有名で、おそらくそれが事件のひきがねとなったのでしょう。7月15日の婦女子殺戮にもタートヤ・トーペーは関与していなかったはずです。なぜならその日トーペーは反乱軍を率いて、カーンブルを目指して進軍してきたヘンリー・ハヴェロック旅団長指揮下の一団を阻止しようと、勝ち目のない闘いを挑んでいたからです。ビトゥールで敗北を喫した後、タートヤとナーナー・サーヒブはカーンブルを放棄しましたが、新たに反乱軍を組織し、この地域でゲリラ戦を展開しながら抵抗を続けました。11月28日、ワインダム将軍率いる1700名のイギリス兵と忠実なインド兵をカーンブル市外で破った時点では、2人とも健在でしたが、12月6日にサー・コリン・キャンベルが到着して反乱軍を壊滅すると、ナーナー・サーヒブは遁走し、残されたトーペーが闘いを続けました。  タートヤ・トーペーは、生き残った兵たちを率いてジャーンシーへ逃れ、当地の王妃と同盟を結びました。サー・ヒュー・ローズが6000名の兵とともにジャーンシー市に進軍してきた時、タートヤ・トーペーは巧みに包囲網をかいくぐって2万2000もの兵を集めると、包囲を解くために戻ってきました。しかし、ローズ司令官はわずか1500名のイギリス軍で反乱軍を打ち破り、ほどなくジャーンシー城も陥落しました。王妃とタートヤ・トーペーはともにグワーリヤルへと逃げのびました。彼らは、英国と同盟関係にあったこの州を侵略し、当地の王の軍隊を殲滅しました。しかしここでもまたローズの中央インド野戦部隊が追撃してきて、ついに1858年6月19日、イギリス軍の総攻撃の前に反乱軍はもろくも崩壊したのでした。王妃は、最後の決戦の2日前に戦死しました。タートヤ・トーペーは、敗走してなお9ヵ月間、ラージプターナやブンデルカンドのジャングルでゲリラ部隊を率いて闘い続けました。1859年4月、タートヤ・トーペーは、部下のひとりの裏切りでイギリス軍人のリード少佐に捕えられ、裁判で有罪を宣告されて絞首刑に処せられました。  処刑された時タートヤ・トーペーは、40歳くらいであったろうといわれています。中背でがっしりとした体格、狭い額、幅広い鼻孔、そして表情豊かな目をしていたといわれ、いつも白いターバンをしていました。ここでは、マラーター族の戦士の指揮官の典型的な服装で描かれています。 #ボードゲーム #伝統ゲーム #チェス #インド大反乱 #ピューター製 #手造り手彩色 https://muuseo.com/sarura_004/items/1411 https://muuseo.com/sarura_004/items/1437 https://muuseo.com/sarura_004/items/1438 https://muuseo.com/sarura_004/items/1448 https://muuseo.com/sarura_004/items/1446 https://muuseo.com/sarura_004/items/1443 https://muuseo.com/sarura_004/items/1444 https://muuseo.com/sarura_004/items/1449 https://muuseo.com/sarura_004/items/1447 https://muuseo.com/sarura_004/items/1439 https://muuseo.com/sarura_004/items/1441 https://muuseo.com/sarura_004/items/1442 https://muuseo.com/sarura_004/items/1450 https://muuseo.com/sarura_004/items/1452 https://muuseo.com/sarura_004/items/1451 https://muuseo.com/sarura_004/items/1453
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【チェス その15-11:イギリスのビショップ『W.S.R.ホジスン少佐』】
 英雄に憧れ、果てしない冒険を求めて志願したビクトリア朝時代の軍人の一典型。その功績の数々は、あたかも奇想天外な小説を読むかのようです。ウィリアム・ステファン・レイクス・ホジスンは、1821年生まれ、ラグビー・スクールとケンブリッジのトリニティ・カレッジで教育を受けました。本を読むと頭痛がすると言って学問の道を放棄すると、ホジスンはすぐさま軍隊入りし、自分の生きる道を見出しました。インドでの数々の軍事行動で大活躍をし、名望を集めたのでした。ホジスンは、馬術や剣術にすぐれ、諸外国語にも通じていましたし、どんな場合にも動転せず勇敢で、荒々しく非道な騎兵隊非正規軍の指導者としてまさにうってつけの人物でした。配下のバンジャブ軍シク教徒騎兵隊の兵士達から尊敬され、インド大反乱では彼らを率いて幾多の勝利をおさめました。彼のホジスン騎兵隊(ホジスンズ・ホース)は、イギリス側として闘った連隊のなかで最も重要な働きをし、1901年には、第9ベンガル軍槍騎兵連隊としてインド軍に編入されました。  ホジスンにまつわる話は数多く残っていますが、名誉となる話ばかりではありません。彼は、連隊を率いる任務の他に、イギリス諜報機関の仕事にも従事していました。スパイ網を個人的に動かせる力、敵側の方言を巧みに操り、デリー周辺にある反乱軍の貯留地にスパイを自由に出入りさせることなどは、たいへん価値のあることだったのです。しかし、略奪を許さないほど高潔な人物ではなかったらしく、連隊の荒くれ兵士たちのすることを黙認していたのも事実のようです。また、彼自身も冷酷無情で、敵には情け容赦しませんでした。デリーでホジスンは、武装した反徒たち3000人もの群衆のさなかで、わずか100名ばかりの騎兵の先頭に立って、老いた皇帝とその息子や孫たちを捕えましたが、即刻3人の王子たちを射殺したのもホジスンだといわれています。また、彼は人も動物も魅きつける強烈な個性を発揮し、思慮分別もある人間でしたが、ただひとつ、好戦的な気性だけは自分でも抑えられなかったようです。  ホジスンの評価をめぐっては、現代のイギリス軍人の間でも、意見が二つにわかれます。一方では、乗馬も剣さばきも文句のつけようがなく、鉄のような神経、そしてすばしこく理知的な眼……騎兵として完璧な男だったという意見があり、その反面、せいぜいイタリアの山賊の親分がお似合いだった、という辛辣な意見もきかれます。ともあれ、彼の闘わずにはいられない激しい気性が身の破滅を招きました。1858年3月、ラクナウの市街戦で、サー・コリン・キャンベルが市を奪還しようと奮戦しているさなかに、ホジスンは、苛烈な白兵戦で斬り殺されたのでした。残された荒くれ兵たちは、父を失ったように嘆き悲しんだといわれています。  ホジスンは背が高い金髪の男性で、薄茶色の軍服をまとい、胴のまわりに赤いカシミアの飾帯を巻き、赤いターバンでくるんだ日除け用ヘルメットをかかえていたということです。 #ボードゲーム #伝統ゲーム #チェス #インド大反乱 #ピューター製 #手造り手彩色 https://muuseo.com/sarura_004/items/1411 https://muuseo.com/sarura_004/items/1437 https://muuseo.com/sarura_004/items/1438 https://muuseo.com/sarura_004/items/1448 https://muuseo.com/sarura_004/items/1446 https://muuseo.com/sarura_004/items/1443 https://muuseo.com/sarura_004/items/1444 https://muuseo.com/sarura_004/items/1449 https://muuseo.com/sarura_004/items/1447 https://muuseo.com/sarura_004/items/1439 https://muuseo.com/sarura_004/items/1440 https://muuseo.com/sarura_004/items/1442 https://muuseo.com/sarura_004/items/1450 https://muuseo.com/sarura_004/items/1452 https://muuseo.com/sarura_004/items/1451 https://muuseo.com/sarura_004/items/1453
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【チェス その15-12:インドのビショップ『ナーナー・サーヒブ』】
 ナーナー・サーヒブは、正式の名をナーナー・ゴヴィンド・ドゥンドー・バントといい、イギリスに退位させられ巨額の年金を与えられてビトゥールに隠棲していたマラーター族のペーシュワー(宰相)、バージー・ラーオ2世の養子でした。バージー・ラーオ2世が死んだ時、その巨額の年金を遺族に支払うことを拒絶されたことで、ナーナー・サーヒブはイギリスを恨み、彼から安全を保障された何の罪もない人々を虐殺して復讐をとげたといわれています。それがイギリス軍を煽り立て、反乱軍とみると情容赦なく皆殺しという事態にまで発展してしまいました。  カーンブルで反乱が勃発した時、アウド地区のイギリス軍司令官、サ・ヒュー・ウェラーの手の内にあったのは、第32歩兵連隊だけでした。他の連隊はすべて反乱軍側についたため、イギリス側では、240名ほどの兵士が400名近くの非戦闘員の男女や子供たちを守らなければなりませんでした。圧倒的劣勢のうえ、食糧や水、弾薬の不足に悩まされながらも、彼らは砦と呼ばれた病院の建物にたてこもり、18日間にわたる反乱軍4連隊の間断ない攻撃に持ちこたえました。1857年6月25日、ウェラーは、かつての友人であり現在は反乱軍の指揮をとるナーナー・サーヒブから一通の手紙を受け取りました。それは疲弊したイギリス人たちをアラハバードまで安全に護送するという申し出でした。ガンジス河の近くに船が用意してあり、男たちはピストルなど携帯武器を身につけていてもよいとのことでした。条件は受諾され、27日には憔悴しきったイギリス人たちが列をなして船へと歩を進めました。全員が船に乗り込んでいざ出航という時に、反乱者たちが襲撃をしかけ、見つけられる限りの男たちを全員殺戮しました。生き残った200名ほどの女性や子供たちは、上陸させられ監禁されました。そして2週間後の7月15日、イギリス軍進軍のニュースが届いた時にはすでに遅く、女性や子供たちは虐殺されてしまっていました。イギリス軍はその残虐非道な行為に逆上し、カーンブルを忘れるな! というスローガンのもとに、さらに戦局が苛烈な様相を呈してゆきました。  イギリス軍到着の前に退却をしたナーナー・サーヒブと彼の有能な副官、タートヤ・トーペーは、兵たちを集めては反乱軍を組織し、カーンブル地方でゲリラ戦を展開しながら転戦を続けました。1857年11月28日、ワインダム将軍に対して小さな勝利をおさめた反乱軍でしたが、12月6日にはカーンブルでサー・コリン・キャンベルに大敗北を喫します。ナーナー・サーヒブは北へ遁走し、1859年にネパールで熱病のため死亡したと伝えられています。  ナーナー・サーヒブは、1857年当時は35歳前後で、色艶のよい太り気味の男性で、マラーター族にしては浅黒い肌をしています。彼は亡くなった養父、バージー・ラーオ2世の御剣を誇らしげに見せびらかしましたが、これはマラーター族最後の末裔として認められたいがゆえの行為だったといえるでしょう。 #ボードゲーム #伝統ゲーム #チェス #インド大反乱 #ピューター製 #手造り手彩色 https://muuseo.com/sarura_004/items/1411 https://muuseo.com/sarura_004/items/1437 https://muuseo.com/sarura_004/items/1438 https://muuseo.com/sarura_004/items/1448 https://muuseo.com/sarura_004/items/1446 https://muuseo.com/sarura_004/items/1443 https://muuseo.com/sarura_004/items/1444 https://muuseo.com/sarura_004/items/1449 https://muuseo.com/sarura_004/items/1447 https://muuseo.com/sarura_004/items/1439 https://muuseo.com/sarura_004/items/1440 https://muuseo.com/sarura_004/items/1441 https://muuseo.com/sarura_004/items/1450 https://muuseo.com/sarura_004/items/1452 https://muuseo.com/sarura_004/items/1451 https://muuseo.com/sarura_004/items/1453
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【チェス その15-13:イギリスのクイーン『ビクトリア女王』】
 1819年に生まれたビクトリアは1837年に王位につきました。1857年から58年にかけてのインドのベンガル反乱の時には38歳でした。後年の彼女は堂々と権威を誇示することを好みましたが、その当時はただ好奇心の強い意志のはっきりした分別のある女性で、自分の義務をきまじめに遂行していました。1840年にプリンス・アルバートと幸福な結婚をしたことで、次第に自身が育ってきました。彼女の憲法上の権力には制約がありましたが、公の事柄については傍観するようなことは決してありませんでした。反乱の期間中にも、イギリスの作戦の指揮や処理の仕方について賢明で正当な意見をのべました。当初から彼女は、政府が蜂起のニュースをあまりに軽くしか扱っていないと感じていました。  やがてデリーでイギリス人が虐殺されると、大衆は復讐を求めてヒステリックに近い状態になりました。そして、穏やかで先見の明のある総督「クレメンシー(温和)」キャニングを辞職させよと政府に迫りました。実際に非道を行なった者と事件に巻き込まれただけの者たちを正しく区別しようと考える彼の主張に、女王は身をもって賛同の意を表しました。ビクトリアは、堅実な忠告を与え、キャニングを罷免しようとする政治的圧力を拒否しました。政治家たちのほとんどは理解していなかったのですが、女王はインド人たちが自分たちの宗教的慣習が汚されるのではないかと恐れていることを無視するのではなく、なだめ静めねばならないと理解していました。女王ははっきりと穏健派に味方していたようで、無実の人々に不当に過酷な処置が行なわれることなく反乱が鎮圧されたという事実は、彼女の功績であるといえます。それによって数十年後にはインド亜大陸を女帝として統治することが出来ました。その治世の後期に於て、インドは常に平和であったとは言えませんでしたが、少なくとも課の大反乱のスケールに及ぶような謀反は発生せずにすみました。  1861年に夫君を失ってからのビクトリアは死に至るまで喪に服していましたが、この駒にはそれ以前の王冠を頂いて公式の礼服をつけた姿が描かれています。衣装にはナイトの上位勲位であるガーター勲章のさまざまな記章をつけています。左腕の上部には金縁の青いビロードリボンで出来たガーター章そのものが描かれており、左肩の上に巾広い勲章の青い飾り帯がかかり、左胸に銀の星形の記章が、右腰の帯の結び目の上には聖ジョージ勲章がついています。彼女は美人であると評されたことは一度もありませんでしたが、若い頃は生き生きとした魅力的な容姿であったと言われています。 #ボードゲーム #伝統ゲーム #チェス #インド大反乱 #ピューター製 #手造り手彩色 https://muuseo.com/sarura_004/items/1411 https://muuseo.com/sarura_004/items/1437 https://muuseo.com/sarura_004/items/1438 https://muuseo.com/sarura_004/items/1448 https://muuseo.com/sarura_004/items/1446 https://muuseo.com/sarura_004/items/1443 https://muuseo.com/sarura_004/items/1444 https://muuseo.com/sarura_004/items/1449 https://muuseo.com/sarura_004/items/1447 https://muuseo.com/sarura_004/items/1439 https://muuseo.com/sarura_004/items/1440 https://muuseo.com/sarura_004/items/1441 https://muuseo.com/sarura_004/items/1442 https://muuseo.com/sarura_004/items/1452 https://muuseo.com/sarura_004/items/1451 https://muuseo.com/sarura_004/items/1453
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【チェス その15-14:インドのクイーン『ジャーンシーの王妃、ラクシュミー・バーイー』】
 「敵側で最も秀でた人物」とイギリス人に評されたジャーンシー王国の若く美しい王妃がイギリス人を敵と考えるに至ったのは、元総督のダルフージーが実行した無神経な政策のためです。コーンポールの南西約200キロに位置する都市国家ジャーンシーの藩王が1853年に死亡したあとには、未亡人と後継ぎとしての養子の少年とが残されました。しかし、ダルフージーはその子供の権利を認めようとせず、簡単にジャーンシーをイギリスの領土に併合してしまいました。そのために反乱が起こり、ジャーンシーに住んでいたイギリス人たちは虐殺されました。しかし、王妃がこの罪深い行為に加担していたという証拠はありません。彼女はしばらくの間は中立の立場を保っていました。しかし、すでに反乱軍はジャーンシーをすっかり手中に納めていました。そこで、ヒュー・ローズ卿が報復にはやるイギリス軍を率いて1858年3月にこの地に到着した時、王妃は自国の人々と運命を共にしようと定めたのでした。街にいた11000人の反乱軍は包囲されました。包囲を解こうとするタートヤ・トーペーの指揮する大軍は、1858年4月1日にわずか1500人のイギリス軍と激しく戦って破れ、4月3日になって町はイギリス人の手に落ちました。ラクシュミー・バーイーは難をのがれて、タートヤ・トーペーと合流しました。王妃と彼と王妃の残存部隊とは、グワリオール侵入に成功し、イギリス人に忠誠を誓っていた統治者シンディアを追い払いました。王妃はトーペーとともに戦闘を続け、ついには戦場で果てたのでした。  チェスの駒のラクシュミー・バーイーは、その地位にふさわしく豪華な飾りのついた伝統的な衣装に身を包んだ姿で描かれています。ドバタと呼ばれるショールは長い黒髪をおおい包んで両肩のまわりにゆるやかにかかっており、身にぴったりとした半袖のチョリは彼女の魅力的な容姿をひきたてています。ガーグラと呼ばれる総ひだのスカートには念入りな金の刺繡がほどこされ、細腰のところで金のひもによって止められています。たくさんの宝石が全身を飾っています。しかし、野戦場での王妃は、部分的に、あるいはすっかり男性の衣装をつけていたと記録されています。彼女が戦闘のわざをふるうことを楽しんだの衆知のことでした。実際に目にした人々の話によると、彼女は馬のたずなを口でくわえて、タルワールといわれる半月型のそりのある刃のついたまばゆいばかりの伝統の剣を両手に握っていたということです。そうした時には金の足環とグワリオールのシンディアから略奪した大粒の真珠の首飾りだけをつけていたといわれています。ラクシュミー・バーイーは戦場で第8軽騎兵隊の軍曹に射たれて(一説には刺されて)倒れた時にも、その首飾りをつけていました。騎兵たちが戦闘をくりかえす土煙と混乱のさなかで、軍曹は彼女が女性であるとは思わなかったにちがいありません。 #ボードゲーム #伝統ゲーム #チェス #インド大反乱 #ピューター製 #手造り手彩色 https://muuseo.com/sarura_004/items/1411 https://muuseo.com/sarura_004/items/1437 https://muuseo.com/sarura_004/items/1438 https://muuseo.com/sarura_004/items/1448 https://muuseo.com/sarura_004/items/1446 https://muuseo.com/sarura_004/items/1443 https://muuseo.com/sarura_004/items/1444 https://muuseo.com/sarura_004/items/1449 https://muuseo.com/sarura_004/items/1447 https://muuseo.com/sarura_004/items/1439 https://muuseo.com/sarura_004/items/1440 https://muuseo.com/sarura_004/items/1441 https://muuseo.com/sarura_004/items/1442 https://muuseo.com/sarura_004/items/1450 https://muuseo.com/sarura_004/items/1451 https://muuseo.com/sarura_004/items/1453
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【チェス その15-15:イギリスのキング『キャニング卿』】
 キャニング卿は、1856年から62年にかけてインドで総督を務め、能力や公正な判断力の劣る前任者たちのでたらめな施策の報いを引き継ぐはめになりました。しかし、1857年5月に端を発するインド大反乱、打ち続く虐殺と復讐の恐ろしい数ヵ月の間に、彼の真価はいかんなく発揮されたのです。彼の名が人々の記憶に深く刻み込まれているのは、恐らくその生涯で多くの敵を作ることにもなった彼の優れた性格、すなわち、報復主義よりも穏便で道理にかなった正義を貫く姿勢ゆえでしょう。「クレメンシー(寛大な)」キャニングというニックネームは、今となってこそ名誉に輝くのです。  チャールズ・ジョン・キャニングは、ジョージ・キャニングの末子として生を受けました。父親は才気あふれ、機知に富むイギリスの政治家で、彼も若い頃インドの高官を務めています。1836年、下院入りしたチャールズは、翌年、母の死に伴ってその称号を受け継ぎ、子爵キャニングとして上院に登りました。彼は、次官として有能なところをみせましたが、インド総督に任命されたのは、彼自身の優れた業績や顕著な名望によってというよりは、むしろ彼の家系に対する敬意の表われでした。  ともあれ、インド大反乱が勃発すると、キャニング卿は勢力と勇気をもってこの難局に立ち向かいました。たとえば、中国に向かう途中のイギリス軍隊を、自らの権限でインドに投入したのは他ならぬキャニング卿だったのです。  当時、イギリス人の間では、インド人をひとり残らず血祭りにあげろ、という血なまぐさい世論が沸きかえっていたのです。しかし、キャニング卿は動じませんでした。「私の身体に血が通う限り、他の政策をとる気は毛頭ない。政略として得策だからというだけではなく、これが正しいからだ。私は怒りにまかせて政治はしない。法と権力の範囲内で、厳格に毅然と、公平な裁きを行なうだけだ。とまれ、私が総督として責任を負う限り、インド政府が怒りに狂った見境のない言動に走ることは断じて許さない」  ところが部下の軍人たちの多くが、卿と同意見とはとてもいえない情況であり、各地でおびただしい数の「即決裁判」が行なわれていたのも事実です。しかし、再建と和解に向けてのキャニング卿の忍耐強い努力は、英領インドの未来の平和にとって、はかり知れない価値のあるものでした。  キャニング卿には、インド大反乱の間の功績に対して伯爵の位が授けられましたが、インド総督という役職の重責に疲れ果て、さらに追いうちをかけるように妻を失い、失意のうちに1826年、イギリスへ帰国します。そして、2度と健康を回復することなく、帰国後2ヵ月と経たないうちに永眠しました。ちなみに、彼はその死の2週間前にガーター勲爵士に叙せられています。  当時の肖像写真は、ダーク・ジャケットに白い手袋という、すっきりとした民間人の服装のキャニング卿の姿を今にとどめています。 #ボードゲーム #伝統ゲーム #チェス #インド大反乱 #ピューター製 #手造り手彩色 https://muuseo.com/sarura_004/items/1411 https://muuseo.com/sarura_004/items/1437 https://muuseo.com/sarura_004/items/1438 https://muuseo.com/sarura_004/items/1448 https://muuseo.com/sarura_004/items/1446 https://muuseo.com/sarura_004/items/1443 https://muuseo.com/sarura_004/items/1444 https://muuseo.com/sarura_004/items/1449 https://muuseo.com/sarura_004/items/1447 https://muuseo.com/sarura_004/items/1439 https://muuseo.com/sarura_004/items/1440 https://muuseo.com/sarura_004/items/1441 https://muuseo.com/sarura_004/items/1442 https://muuseo.com/sarura_004/items/1450 https://muuseo.com/sarura_004/items/1452 https://muuseo.com/sarura_004/items/1453
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【チェス その15-16:インドのキング『バハードゥル・シャー2世』】
 デリーのマハラージャ(大王)、そしてインドに君臨したムガール帝国の19代皇帝、バハードゥル・シャー2世は、若い頃、剛健で弓の名人として名を馳せました。しかし、1857年当時は齢82を数え、陰謀と腐敗が渦巻くなか、もはやかつての栄光も色褪せた宮殿で、東インド会社からの年金を頼りに暮らす一介の老人にすぎませんでした。このティムール帝国の最後の末裔は、もはや政治にはほとんど関心がなく、タバコを愛し、妻たちや子供たち、ペットに囲まれて、毎日を詩作や手書き写本に費やしていました。実際、その方面では、秀でた才能が高く評価されています。ともあれ、彼は伝統的な「世界君主」として、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒双方から崇められていました。皇帝の悲劇は、5月11日反乱軍がデリーになだれ込み、彼を「ヒンドスタンの皇帝」すなわち、インドの皇帝と歓呼したことから始まります。反乱軍指導者層の傀儡に過ぎないものの、皇帝はこの名目上の頭首の役割を引き受けました。ただし、イギリス人居留者の殺戮には何ら責任はなかったものと思われます。  1857年9月13日から23日にかけて、後に市街戦で1200名近い部下とともに果てたジョン・ニコルスン准将の総指揮のもと、イギリス軍の最後の総攻撃が敢行されました。バハードゥル・シャー2世は、その時点で反乱軍に加勢しうる数7万といわれた兵の頭首に立ち、熾烈な反撃を指揮するよう迫られたのです。いったんは同意したものの、老皇帝は後になって決意を翻し、反乱から身を退こうと試みました。混乱し意気沮喪した多くの反徒たちは、それ以上の抵抗もみせずに散り散りになってしまいます。  そしてついに、イギリス、シーク、グルカの5000名余の兵がデリーを完全に陥落させたのです。勝ち誇った攻撃軍は、今までに蒙った苦しみや損害に怒り、イギリス人の女子供が虐殺されたことへの復讐の念に燃え、情けなど微塵もみせませんでした。命を落としたインド人のなかには、捕えられ、弁解の余地なく射殺されたバハードゥル・シャー2世お2人の息子と孫も含まれています。老皇帝自身は、もう少しましな扱いを受け、ラングーンの比較的快適な流刑地で数年を過ごし、1862年に永遠の眠りにつきました。  現在、何枚かの皇帝の肖像画と少なくとも1枚の写真が残されています。宮廷服と王冠をまとった皇帝が描かれており、長くゆったりとした礼服は、ぜいたくに刺繍が施された布でつくられ、金銀のレースや宝石で飾り立てられています。毛皮の衿がつき、真珠で埋め尽くされて大粒の宝石が散りばめてある華麗な当て布が両肩を覆っています。また、色とりどりの花柄があしらわれた赤い布のパネルでつくられた王冠にも、真珠や貴石が縫いとられ、正面には白い羽飾りがついています。 #ボードゲーム #伝統ゲーム #チェス #インド大反乱 #ピューター製 #手造り手彩色 https://muuseo.com/sarura_004/items/1411 https://muuseo.com/sarura_004/items/1437 https://muuseo.com/sarura_004/items/1438 https://muuseo.com/sarura_004/items/1448 https://muuseo.com/sarura_004/items/1446 https://muuseo.com/sarura_004/items/1443 https://muuseo.com/sarura_004/items/1444 https://muuseo.com/sarura_004/items/1449 https://muuseo.com/sarura_004/items/1447 https://muuseo.com/sarura_004/items/1439 https://muuseo.com/sarura_004/items/1440 https://muuseo.com/sarura_004/items/1441 https://muuseo.com/sarura_004/items/1442 https://muuseo.com/sarura_004/items/1450 https://muuseo.com/sarura_004/items/1452 https://muuseo.com/sarura_004/items/1451
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