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【ポール・モーフィー(1858~1859)】 fanta館長さまからのチェス切手
アメリカ南部、ニューオーリンズの裕福な家に生まれました。1857年、大学を天才的な記録で卒業しました。
1857年、アメリカ最強のポールセンを5勝1敗2引き分けで破ったことにあきたりず、当時チェス黄金時代であったヨーロッパへ武者修行に旅立ちました。次から次へ多くの名人たちとのマッチに勝ち、ついに名人中の名人アンデルセンをも破りました。
1859年、負けを知らぬまま、チェスに失望してニューオーリンズに帰りました。
1869年以降はチェスを一切拒絶、弁護士の看板をかかげたのですが、あまりに理詰めのため南部のアメリカ人気質に合わず成功しませんでした。1884年、世界中のチェス・ファンに惜しまれつつ卒中で亡くなりました。
現在のチェス理論はすべて、モーフィーの遺した棋譜のエッセンスから組み立てられているといっても過言ではありません。
「調和」という概念の生みの親です。
(以上、『図解早わかりチェス』より)
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ポール・モーフィー(1837~1884)は、アメリカはニューオーリンズ出身のチェス・プレイヤーで、幼い頃からチェスの才能を周囲に認められていました。
1858年にイギリスに渡り、ハワード・スタントンとの対局を熱望しました。
その間に当時の世界チャンピオンと認められていたアンデルセンとパリで対局、7勝2敗2分で圧勝し、次代の世界チャンピオンと見なされましたが、結局、スタントンとの対局は叶わず(スタントンが逃げ回ったとも言われますが、本業のシェイクスピア研究に軸足を置いていたためでもあります)、失意のうちに帰国。
時折しも南北戦争の勃発もあり、チェスを断念します。
一時は法律事務所を開設しましたが経営はうまく行かず、ファンからはチェス界への復帰を求められるも拒絶。彼にとって、チェスは尊敬されるべき職業ではなかったようです。
生涯結婚せず(できず)、妹と母親の3人で暮らす晩年は不遇で、脳卒中で倒れているのを母親が発見したと言われています。
恥ずかしがり屋だったという彼の棋譜は、反面派手派手しい積極的な動きとサクリファイス(犠牲・ただ捨て)、強気な攻め手が多くて人気も高く、近代チェスの創始者として尊敬されています。
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