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【ミハイル・タリ(1960~1961)】fanta館長さまからのチェス切手
1936年ソ連のリガに生まれ、医者である父に7歳の時チェスの手ほどきを受けました。 1957年第24回ソ連選手権で優勝し、翌年続いて連続優勝しました。 18歳でM(マスター)、21歳でGM(グランドマスター)、1960年23歳のとき49歳のボトヴィニクに6勝2敗13引き分けで勝ち、史上最年少の世界チャンピオンとなりました。 1961年のリターンマッチに5勝10敗6引き分けで敗れました。 “チェス盤の魔術師”と言われる異才・タリは健康がすぐれず、世界チャンピオンにカムバックできませんでした。特異な棋風のタリは、リガでチェス誌の編集をしたりしてチェスの普及に努め、世界中にファンを持っていました。 (以上、『図解早わかりチェス』より) * * ミハイル・タリ(1936~1992)は、旧ソ連ラトビア出身のチェス・プレイヤー。 一見、無謀とも無策とも思われるサクリファイス(犠牲手)を指して勝つことから、『盤上の奇術師』『チェス盤の魔術師』の異名を持ちます。 1957年、翌58年と当時のソ連選手権で連続優勝し、21歳でグランドマスターとなりました。 1960年にはミハイル・ボトヴィニクを破り、23歳で当時世界最年少の世界チャンピオンの座につきました。 しかし、翌年のボトヴィニクとのリターンマッチには敗れ、わずか一年にして失冠。ボトヴィニクに3度目のチャンピオンの座を明け渡してしまいます。 タリは健康状態が思わしくなく、その後、挑戦者となることはありませんでした。 その攻撃的な棋風は世界中に多くのファンを持ち、またチェスの専門誌の編集にも携わり、多くの記事を残しています。 自戦記『Life and Games of Mikhail Tal(ミハイル・タリのゲームと生涯)』『Tal-Botvinnik 1960(1960年 タリ対ボトヴィニク戦)』などは名著の誉れ高く、『史上最強のチェスライター』と称されることもあります。 健康の悪化に耐えられず、1992年死去。まだ55歳の若さでした。 #チェス #グランドマスター #世界チャンピオン #チェス切手
切手 プライスレス fanta館長よりさるら。
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【ワシリー・スミスロフ(1957~1958)】fanta館長さまからのチェス切手
※写真が見切れているので、後で更新します。 1921年モスクワで生まれ、6歳のとき父親にチェスを学びました。 1938年学生チャンピオンとなりました。 1954年世界選手権でボトヴィニクと対戦しましたが、7勝7敗10引き分けで失敗。1957年、再び挑戦者となり、6勝3敗13引き分けでチャンピオンとなりました。 1958年のリターン・マッチで5勝7敗11引き分けでボトヴィニクにチャンピオンの座を返しました。 18年間、この2人は91局という公式戦にまみえました。この間の、コンピュータとチェスに関しての二人の論争は、科学雑誌をにぎわせました。 コンピュータを認めるボトヴィニク、人間の頭脳の偉大さを主張するスミスロフ。 芸術家としての彼は、人間の創作活動にこの上ない愛情をそそいでいるのです。 (以上、『図解早わかりチェス』より) * * ワシリー・スミスロフ(1921~2010)はモスクワ生まれのチェス・プレイヤー。 6歳の時に父親からチェスの手ほどきを受け、1938年にはソ連(当時)ジュニアチャンピオン、その数ヵ月後にはモスクワ・チャンピオンとなり、名を馳せました。 1948年、アレクサンドル・アレヒンの死によって空位となったチャンピオンの座を争う『新チャンピオン決定戦』を戦ったが、惜しくも2位となり、優勝したボトヴィニクが世界チャンピオンとなりました。 その後、1954年に最初の世界選手権マッチに挑戦しましたが、7勝7敗10引き分けで、チャンピオン・ボトヴィニクに引き分け防衛を許してしまいます。 その3年後の1957年の挑戦では6勝3敗13引き分けでボトヴィニクを破り、念願の世界チャンピオンとなりました。 しかし、その翌年のリターン・マッチでは5勝7敗11引き分けで敗れ、わずか1年でボトヴィニクの復位を許してしまいます。 スミスロフの全盛期はボトヴィニクの全盛期と重なったため、「もしボトヴィニクがいなかったならば、長期に渡って世界チャンピオンの座を維持しただろう」と言われています。 その棋風は穏健で、特に終盤の指しまわしは史上屈指の名手とされています。 その棋力を長く保ち、1983年には62歳で挑戦者決定戦の決勝に進み、敗れたもののチェス界を大いに驚かせました。 相手は42歳年下のガルリ・カスパロフ。彼は奇しくも、ボトヴィニクが主宰するチェス学校の出身でした。 2010年3月、89歳で没しましたが、その名はチェスの歴史のみならず、『小惑星スミスロフ』としても残されています。 #チェス #グランドマスター #世界チャンピオン #チェス切手 https://muuseo.com/sarura_004/items/1552
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【アレクサンドル・アレヒン(1927~1935)(1937~1946)】fanta館長さまからのチェス切手
1892年モスクワで貴族の子として生まれ、4歳年上の兄からチェスを学びました。 1908年15歳で国際大会にデビュー、1921年ソ連を後にしチェス修練のための世界周遊に出ました。 1927年ブエノスアイレスでカパブランカに6勝3敗25引き分けで勝ち、チャンピオンになりました。 1924年、1934年、ボゴリューボフの2度の挑戦を退けましたが、1935年エーベに8勝9敗11引き分けの1点差で敗れ王座を失いました。この敗戦をキッカケに好きだったタバコと酒をやめ、1937年のリターン・マッチでは圧倒的な差でチャンピオンを奪還しました。 ロシア革命の前後、不遇のうちに世界を放浪。 第二次大戦のあと1946年ボトヴィニクの挑戦を前にポルトガルの寒村でさびしく亡くなりました。 アリョーヒンは全部で92回トーナメントに参加し62回優勝しました。24回のマッチのうち負けたのはわずか3回、チェス史上最も「詩的」な棋風の持ち主です。 アリョーヒンのドラマチックな人生は、ロシアで名作映画「白い雪」となりました。 1933年来日しています。 (以上、『図解早わかりチェス』より) ※引用元では「アリョーヒン」の表記が使われていますが、誤読・誤記とのことです。 * * アレクサンドル・アレヒン(1892~1946)は、モスクワの裕福な家庭に生まれたロシアのチェス・プレイヤー。後にフランスに帰化しました。 1914年22歳の時にサンクトペテルブルク大会で3位に入賞し『グランドマスター』の称号を贈られました。 1927年当時の世界チャンピオン、ホセ・ラウル・カパブランカに挑戦、マッチに勝利して世界チャンピオンとなりました。この際の契約ではカパブランカにリターン・マッチの権利がありましたが、以降、アレヒンは再戦を避け続け、自分の参加するトーナメントからも彼を締め出すことに躍起になっていたそうで、人間的な評判はよろしくなかったと言われています。 1929年、1934年とエフィム・ボゴリュボフの挑戦を退けましたが、1935年に格下と見られていたマックス・エーワに敗北、失冠します。準備不足と過度の飲酒習慣が原因とされ、断酒して挑んだ2年後のリターン・マッチでは雪辱を果たし、チャンピオンに返り咲きました。 第二次大戦中に、ナチス・ドイツ占領下のフランスで行われた協議会に参加したことで対独協力者と見られたため、戦後は主要な競技会に招待されることも無く、移住先のポルトガルで、1946年にチャンピオンの座についたまま死去。 アレヒンの死後、マックス・エーワ、ミハイル・ボトヴィニク、サミュエル・ハーマン・レシェフスキー、パウリ・ケレス、ワシリー・スミスロフの5人による新チャンピオン決定戦が行われ、これに優勝したボトヴィニクが新チャンピオンとなりました。 アレヒンの創造性豊かな棋風は「詩的」で「盤上の詩人」と讃えられ、その生涯は映画『ロシアの白い雪(1980年)』のモデルとなりました。 彼の名は、1.白e4に対して黒Nf6で受ける、一風変わった『アレヒン防御(アレヒン・ディフェンス)』にも残されています(写真2枚目が基本形)。 棋譜に表すと、 1.e4・Nf6(白ポーンe4、黒ナイトf6) ……となります。 アレヒンにより深く研究されたオープニングの1つですが、基本形からの変化が多く難しいため、中級者や上級者向けのオープニングとされています。 #チェス #グランドマスター #世界チャンピオン #チェス切手 https://muuseo.com/sarura_004/items/1551
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【ホセ・ラウル・カパブランカ(1921~1927)】fanta館長さまからのチェス切手
ホセ・ラウル・カパブランカ(1888~1942)はハバナ出身で、「チェス・マシーン」や「チェス・コンピュータ」と称されるほど、指し手にミスの少ないチェス・プレイヤーとして名を馳せました。 4歳の頃に、父親とその友人がチェスを指しているのを見ていてルールを覚え、その3日後には父親を破るほどに上達したといいます。 13歳でキューバ・チャンピオンとなり、1909年当時アメリカ最強と言われたグランドマスター、フランク・マーシャルに勝ち、一躍有名となりました。 1914年当時の世界チャンピオン、エマーヌエール・ラスカーに挑戦状を送りましたが、第一次世界大戦の勃発とラスカーが対戦拒否したために先送りされ、7年後の1921年に24番勝負として開催されました。 14局を闘ったところで0勝10分け4敗だったラスカーが中途放棄し、4勝10分け0敗でカパブランカが世界チャンピオンとなりました。 タイトルを失ったラスカーは、「チェスの強い人間はたくさん知っているが、チェスの天才は彼一人だけだ」と讃えています。 チャンピオンの座についてから6年後の1927年、挑戦者のアレクサンドル・アレヒンに敗れ、チャンピオンの座を失ったものの、その後も国際大会で活躍。 1942年にニューヨークで死去しますが、まだ53歳の若さでした。 カパブランカからタイトルを奪ったアレヒンは、カパブランカとは犬猿の仲で知られていましたが、彼の訃報を聞いて「二度と現れない偉大なプレイヤーを失った」と宿敵の死を嘆きました。 #チェス #グランドマスター #世界チャンピオン #チェス切手 https://muuseo.com/sarura_004/items/1550
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【エマーヌエール・ラスカー(1894~1921)】fanta館長さまからのチェス切手
シュタイニッツと同じユダヤ人で、ドイツに生まれ10歳の時、兄からチェスを覚えました。 ベルリン大学数学部で勉強したラスカーは26歳の時、シュタイニッツを破り世界チャンピオンとなりました。 27年間も世界チャンピオンの座を守ったことは他の分野を通じて大記録です。 1921年、53歳のとき、カパブランカとのマッチでは4敗10引き分け(24番勝負)で王座を放棄し、若い挑戦者に席を譲りました。 後年のラスカーは競技会に積極的に参加し、素晴らしい成績を残しています。 第二次大戦中ヒトラーに追われ、1941年ニューヨークで還らぬ人になりました。 ラスカーは数学及び哲学博士としても大きな足跡を残しています。アインシュタインは自伝の中に「この並外れた人が科学だけに専念しなかったこと」を大いに口惜しがっている文章があります。 チェス執筆者として雑誌、書籍にたくさんのチェスの文章を残しています。 (以上、『図解早わかりチェス』より) * * エマーヌエール・ラスカー(1868~1941)は、ユダヤ系ドイツ人の数学者にしてチェスプレイヤー。1894年にシュタイニッツを破り世界チャンピオンの座を獲得、以後カパブランカに敗れる1921年まで27年間もチャンピオンに君臨しました。 ラスカーは、人間同士のチェスにおいては互いの心理状態を重要な要素のひとつと捉えていました。 オープニング(序盤戦)の準備には余り重きを置いていなかったようですが、一方では劣勢な展開で相手の裏をかく狙いがあったとも言われます。 チェスの他にも『囲碁』にも通じていて、そのゲーム的広がりに関して「チェスは地球上に限定されているが、囲碁はさらに宇宙的だ」という主旨のコメントを残しています。 #チェス #グランドマスター #世界チャンピオン #チェス切手 https://muuseo.com/sarura_004/items/1543
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【ネクロン・ウォーリアー ace王朝仕様】
『WARHAMMER40,000』における機械種族ネクロンの兵士【ネクロン・ウォーリアー】です。 “生ける金属(リヴィング・メタル)”によって形造られた、骸骨のような機械種族。その生体金属は再生能力を持ち、きわめて高い耐久力を誇る。 その手に持つ科学兵器『ガウスウェポン』は、目標を粒子状に分解する恐るべき効果を持つ。 新たなる暗黒時代において、銀河の諸種族は再びネクロンの力に震え上がる…… こちらの【ネクロン・ウォーリアー】は、『WARHAMMER40,000スタートガイド』同梱のキット(のハズ)。 ペイントセットの3体とは、また違った造形となっています。 同じ『ネクロン・ウォーリアー』でも、微妙な造形の違いを楽しめるのも、シタデルフィギュアの大きな魅力の一つ。 こちらは西の方ace王朝所属の一体、ということで、ace館長さまの作品となります!😆🤣 WTMの戦車と共に送ってくださいました。 ありがとうございます。 https://muuseo.com/sarura_004/diaries/970 当然、シタデルカラーを用いた“本物”です😅 歴戦を潜り抜けてきたベテラン・ウォーリアーらしさを感じさせる仕上がりが素晴らしい。 全体のトーンに比して、ガウス・フレイヤ―のエネルギーチューブの緑が悪目立ちかなぁ…‥などと悔し紛れにコメントしてしまいましたが、チューブも発光しているイメージで仕上げたとのこと。 なるほど。 黒バックで見ると、本当に発光している雰囲気でイイですね!😆🤣 ありがとうございました! #ウォーハンマー #ボードゲームフィギュア #ネクロン https://muuseo.com/sarura_004/items/1544 https://muuseo.com/sarura_004/items/1547 https://muuseo.com/sarura_004/items/1548
フィギュア Games Workshop プライスレスさるら。
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【ヴィルヘルム・シュタイニッツ(1866~1886)(1886~1894)】 fanta館長さまからのチェス切手
1836年プラハに生まれ、10歳の時にチェスを始めました。 フランス第一の名門校工業術大学を中退しチェスに全てを投入する生活に入りました。1862~1864年、世界の強豪とのマッチに次々と勝ち、残りはアンデルセン唯一人です。 1866年ついにアンデルセンとのマッチが実現し8対6の激闘を演じ勝利をものにしました。 1866年ツケルトートとのマッチに10勝5敗5引き分けで勝ち、チャンピオンの地位を公式に確立しました。 1894年ラスカーに5勝10敗で敗れチャンピオンの座を失い、2年後のリターン・マッチも2勝10敗の完敗を喫しました。4年後の1900年ニューヨークでこの世を去りました。 現在のチェスの理論や布局定跡は、シュタイニッツの提起した仮説「均衡理論」を原点に展開、発達したものです。 (以上、『図解早わかりチェス』より) * * ヴィルヘルム・シュタイニッツ(1836~1900)は、非公式の世界チャンピオンだったアドルフ・アンデルセンに勝利してチャンピオンとなった後、1886年に開催された初の世界選手権戦でも勝利したことにより、公式の初代世界チャンピオンとなったオーストリア帝国プラハ出身(のちにアメリカの市民権を獲得)のチェス・プレイヤー。 チェスのオープニングの1つである『ルイ・ロペス』の変化の1つである『シュタイニッツ・ディフェンス』にその名を残しています。 写真2枚目がその基本形。 棋譜に表すと、 1.e4・e5(白ポーンe4、黒ポーンe5) 2.Nf3・Nc6(白ナイトf3、黒ナイトc6) 3.Bb5・d6(白ビショップb5、黒ポーンd6) ……となり、攻め手の『ルイ・ロペス』の展開(3.Bb5まで)に対して、ポーンを進める(d6)ことで中原に対してプレッシャーを掛けます。 1894年にはエマーヌエール・ラスカーに敗れ、世界チャンピオンから陥落。2年後のリターンマッチにも敗れ、チェスの第一線から退きました。その後、精神を患うようになりチャンピオン陥落から6年後の1900年にニューヨークで死去。 晩年までチェス・プレイヤーであったことに誇りを持ち、ある大会で優勝した際には「自分は老いぼれたライオンだが、口の中に指を入れられれば嚙み千切ってやる」との名台詞を残したといいます。 #チェス #グランドマスター #世界チャンピオン #チェス切手 https://muuseo.com/sarura_004/items/1535
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【ポール・モーフィー(1858~1859)】 fanta館長さまからのチェス切手
アメリカ南部、ニューオーリンズの裕福な家に生まれました。1857年、大学を天才的な記録で卒業しました。 1857年、アメリカ最強のポールセンを5勝1敗2引き分けで破ったことにあきたりず、当時チェス黄金時代であったヨーロッパへ武者修行に旅立ちました。次から次へ多くの名人たちとのマッチに勝ち、ついに名人中の名人アンデルセンをも破りました。 1859年、負けを知らぬまま、チェスに失望してニューオーリンズに帰りました。 1869年以降はチェスを一切拒絶、弁護士の看板をかかげたのですが、あまりに理詰めのため南部のアメリカ人気質に合わず成功しませんでした。1884年、世界中のチェス・ファンに惜しまれつつ卒中で亡くなりました。 現在のチェス理論はすべて、モーフィーの遺した棋譜のエッセンスから組み立てられているといっても過言ではありません。 「調和」という概念の生みの親です。 (以上、『図解早わかりチェス』より) * * ポール・モーフィー(1837~1884)は、アメリカはニューオーリンズ出身のチェス・プレイヤーで、幼い頃からチェスの才能を周囲に認められていました。 1858年にイギリスに渡り、ハワード・スタントンとの対局を熱望しました。 その間に当時の世界チャンピオンと認められていたアンデルセンとパリで対局、7勝2敗2分で圧勝し、次代の世界チャンピオンと見なされましたが、結局、スタントンとの対局は叶わず(スタントンが逃げ回ったとも言われますが、本業のシェイクスピア研究に軸足を置いていたためでもあります)、失意のうちに帰国。 時折しも南北戦争の勃発もあり、チェスを断念します。 一時は法律事務所を開設しましたが経営はうまく行かず、ファンからはチェス界への復帰を求められるも拒絶。彼にとって、チェスは尊敬されるべき職業ではなかったようです。 生涯結婚せず(できず)、妹と母親の3人で暮らす晩年は不遇で、脳卒中で倒れているのを母親が発見したと言われています。 恥ずかしがり屋だったという彼の棋譜は、反面派手派手しい積極的な動きとサクリファイス(犠牲・ただ捨て)、強気な攻め手が多くて人気も高く、近代チェスの創始者として尊敬されています。 #チェス #グランドマスター #世界チャンピオン #チェス切手 https://muuseo.com/sarura_004/items/1534 https://muuseo.com/sarura_004/items/1535
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【カール・エルンスト・アドルフ・アンデルセン(1851~1858・1862~1866)】 fanta館長さまからのチェス切手
ドイツ生まれの数学者。チェスに没頭しましたが周囲からしばらくは万年5級とあだ名されていました。 38歳の時忽然と悟って一夜で名人技に到達したといわれています。 「不朽の局」「常緑の局」は歴史に輝く名局です。手筋の最高峰はアンデルセンによって征服されたといえるでしょう。 1858年モーフィーに敗れた時の好態度はスポーツマンとしての名声を後世に残しています。 (以上、『図解早わかりチェス』より) * * アンデルセン(1818~1879)は、ドイツのチェス・プレイヤーで数学教師。 1851年、イギリスのスタントンが主催も務めた第1回国際チェス大会にドイツ代表として招待され、スタントンも破って優勝。制度確立前の非公式ながら世界チャンピオンとなりました。 この大会の休憩時間に指された、フランスのライオネル・キーセリツキーとの対局は『The Immortal Game』と呼ばれる名棋譜として知られています。 この対局で、アンデルセンはビショップ、ルーク、クイーンを犠牲にしながらも、残りのビショップと2つのナイトでチェックメイトしました。 同時代の名プレイヤーのひとりであるサヴィエリ・タルタコワは、このゲームを『美しいゲーム』と讃えています。 写真5枚目がその終局図。 d8の黒キングをg7のナイト、d5のナイトで取り囲み、24手目のビショップe7でチェックメイトとなりました。 その後、1858年にアメリカのポール・モーフィーとのマッチに敗れ、世界チャンピオンの座を一度は譲りますが、モーフィーの引退後、1862年の国際大会で12勝1敗で優勝、再び世界チャンピオンとして返り咲きました。 1866年には、後に制度確立後の初代公式チャンピオンとなる若きヴィルヘルム・シュタイニッツに敗れ、世界最強の座を降りることとなりましたが、1868年の国際大会ではシュタイニッツを僅差で抑えて優勝しています。 1877年、59歳でライプツィヒでの大会で2位となったのを最後の棋歴として61歳で没しました。 その人柄は誰にでも好かれ、正直で公正な人間であったとシュタイニッツは書き残しています。 また、アンデルセンの名は、モーフィーとの対戦で指した奇妙な初手(1.a3=白ポーンをa3。写真6枚目)につけられた『アンデルセン・オープニング』にも残されています。 #チェス #グランドマスター #世界チャンピオン #チェス切手 https://muuseo.com/sarura_004/items/1534 https://muuseo.com/sarura_004/items/1543
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【ハワード・スタントン(1843~1851)】 fanta館長さまからのチェス切手
イギリスのチェス・マスター。1840年代には、イギリスのチェスのリーダーでした。 はじめ俳優として生計をたてました。これが元で終生シェイクスピア戯曲に関心を持ちました。シェイクスピア学者としても有名になりました。 19歳でチェスを学びましたが、すぐ熟達はしませんでした。 1841年イギリスで最初のチェス雑誌を発行しました。1851年第1回国際チェス・トーナメントをロンドンで開きましたが、アンデルセンに負け4位。 1853年のマッチに負け、その後執筆の方に取り組みました。 1847年「チェス・プレイヤーの手引」を出版。 (以上、『図解早わかりチェス』より) * * ハワード・スタントン(1810年~1874年)は、非公式ながら英国人で初めてのチャンピオンとなったチェス・プレイヤー。 シェイクスピア研究家でもあり、その傍ら新聞紙上でチェスに関するコラムを連載するコラムニストでもありました。 1841年から1854年まで、英語圏で最初の重要なチェス・マガジン『Chess Player's Chronicle』を編集。特に1847年に手掛けた『Chess Player's Handbook』は、現代でも読み継がれる重要なチェス参考書となっています。 中でも彼の普及した『シシリア防御(シシリアン・ディフェンス)』と『イングリッシュ・オープニング』は現代でも重要なオープニングとされています。 『シシリア防御(写真2枚目)』は、白の1手目e4で始まるゲームにおいて、現在もっともよく指される定跡となっています。 1.e4、e5で始まるオープン・ゲームはかなりの深度で研究されており、黒番の勝ち目が少なくなっています。 白のe4に対して勝つべく研究されたオープニングがこの『シシリア防御』で、白e4に対して黒c5と受け、白側の中原(中央4マス)への展開に睨みを利かせる形となります。 2手目以降の手筋は多くのバリエーションに分岐しますが、「他の防御よりは(黒側の)勝率が良い」とされています。 一方『イングリッシュ・オープン(写真3枚目)』は、鉄板ともいえる定跡を外し、白1手目をc4から開始するオープニングで、その後の指し手によって他のオープニングへと多岐に変化していきます。 1851年、体調不良を主な理由に真剣勝負のチェス競技界からは引退してしまいますが、ロンドンで開催された第1回国際チェス大会を主催しながら、自身は不本意な結果に終わってしまったためともいわれています(2回戦で、後に世界チャンピオンとなるアンデルセンに敗れ、3位決定戦でもイライジャ・ウィリアムズに惜敗しました)。 この翌年『The Chess Tournament』を出版し、この国際大会実現に向けた努力を詳細に記すと共に、行われたすべての対局についてコメントを入れて紹介しています。 またチェスに対する貢献の中でもっとも著名なのが、彼の名を冠したチェスメン(チェスピース、チェス駒)のデザイン『スタントン・パターン(スタントン・スタイルとも)』。 それまで不揃いだったチェスメンを、ナサニエル・クックがデザインし製造されたものを、自身のコラムで推薦することで世界に広まり、競技会で使われるスタンダードとなっています。 チェス競技の表舞台からは降板したスタントンですが、その後も精力的に執筆活動に励み、数多くのコラムや論考を発表しています。 #チェス #グランドマスター #世界チャンピオン #チェス切手 館主の持っている『スタントン・パターン』のチェスメンはこちら~ https://muuseo.com/sarura_004/items/1514
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【ルイ・ド・ラ・ブルドンネ(1824~1840)】 fanta館長さまからのチェス切手
ルイ・ド・ラ・ブルドンネ(1795~1840)は、インド洋に浮かぶフランス領レユニオン島で生まれたフランスのチェス・プレイヤー。 1820年に自身の師でもある、当時のチェス・チャンピオンと目されていたアレクサンドル・デシャペルを破り、最強のチェス・プレイヤーと見なされました。 1834年、英国チャンピオンであったアレクサンドル・マクドネルとの対局が有名なシリーズとして知られ、これらの棋譜はグランドマスターのひとりであるガルリ・カスパロフによって研究されました。 注目すべきゲームとしては、オープニング『クイーンズ・ギャンビット』で始まり、マクドネルの性急な攻撃を受け流して勝利をおさめた一戦が挙げられます。 『クイーンズ・ギャンビット』は初手でクイーン前のポーンから動かすオープニングの定跡のひとつ。 2手目以降の展開で多くのバリエーションがありますが、 1.d4・d5(白ポーンd4、黒ポーンd5) 2.c4・~(白ポーンc4) この展開が基本形となります。2手目の黒の手筋によって多くのバリエーションに分岐しますが、狭義の『クイーンズ・ギャンビット』では、黒の2手目e6(黒ポーンe6)と斜めに構える形となります。 制度確立前の非公式世界チャンピオンながら、ブルドンネのその生涯は決して恵まれたものとは言えず、チェスプレイヤーになったのも、不動産投資に失敗した挙句のことであり、結局はロンドンで無一文での最期を迎えることとなります。 債権者たちによって、彼の所有物はすべて売り払われてしまったそうです。 無情。 #チェス #グランドマスター #世界チャンピオン #チェス切手
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【フランソワ=アンドレ・ダニカン・フィリドール(1747~1795)】 fanta館長さまからのチェス切手
1726年パリの郊外で生まれチェスと音楽の才能に恵まれた18世紀の名人。 オペラ作曲家としても著名なフランスの宮廷音楽家です。 今では盲チェスはさほど珍しくありませんが記録上は1744年のフィリドールの対局がヨーロッパで最初のこととされています。 1749年「ポーンはチェスの命」を出版しました。これは、余りに斬新な内容で当時の人には理解されず、今世紀半ばになってようやく正当な評価を得た有名な理論書です。 1770年代はロンドンでチェスを指導したり盲チェスなどをしてすごしました。 当時、世界のチェスの中心であったロンドンにも互角の相手が全くいなかったからです。 イギリス滞在中、フランス革命が起こり帰国できないまま、1795年ロンドンで客死しました。 (以上、『図解早わかりチェス』より) * * フランソワ=アンドレ・ダニカン・フィリドール(1726~1795)は、フランスの宮廷音楽家でもあった当時最高のチェス・プレイヤー。 名著『フィリドールの解析』を出版し、「ポーンこそがチェスの魂である」の名格言を残しました。 ポーンを使って中原(中央4マス)の防御を手厚くするオープニング『フィリドール防御』を考案しましたが、自身では一度も指すことは無かったと言います。 「自分が研究したオープニングを使わなくても勝てる」と豪語しており、実際その通りだったそうです。 写真4枚目の盤面が、その基本形。「防御」なので、黒手番におけるオープニングの形となります。 棋譜に表すと、 1.e4・e5(白ポーンe4、黒ポーンe5) 2.Nf3・d6(白ナイトf3、黒ポーンd6) ……となります。 形としては、黒のキング側のビショップの移動先が制限されるために悪形とも言えますが、自らは攻撃せず、白側の動きに応じて反撃の形を整える戦略となります。 現在の研究では「黒側やや不利」と解析されており、余り差されない定跡ですが、1970年代にリバイバルしたこともあります。 このオープニングの他、限られた駒数で不利な状況から引き分けに持ち込むエンドゲーム「フィリドール・ポジション」など、彼の名に因んだ重要なテクニックがいまでも活用されています。 #チェス #グランドマスター #世界チャンピオン #チェス切手
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【ルイ・ロペス・デ・セグラ(1560~1575)】 fanta館長さまからのチェス切手
スペインの小さな街に生まれました。 1572年フィリップ2世に招待されローマで数人の強いマスターと対局しましたが全勝し、その報奨にいくつかの教会の収入と純金でできたルークのペンダントをもらいました。 そして彼の戦略論と布局の理論は現在も波打っています。 1575年イタリア人のデ・クルチとの試合、スペインやポルトガルの名人たちとの試合に続けて勝ちました。イタリアに戻りましたが、彼の成功をねたんだ人に毒殺されたということです。 ルイ・ロペスは1561年刊「チェスの自由な発想と技術」という著書の中で次のように述べています。 「試合の前日は酒を飲んではならない。食事は八分目とせよ。試合が野外なら太陽を背にせよ。室内ならば、ランプが左になるように席を取れ」 (以上、『図解早わかりチェス』より) * * ルイ・ロペス・デ・セグラ(1530~1580)はカトリック司祭のチェスプレイヤー。 ヨーロッパで最初のチェスの書となる「チェスの自由な発想と技術」を出版した人物でもあります。 チェスのオープニング(序盤の定跡)のひとつ『ルイ・ロペス』は、考案した彼の名に因んだもので、『スペイン布局』とも称されます。15世紀に考案されたオープニングですが、21世紀の現在でも数多く指されている定跡で、館主も良く用いるオープニングです。 チェスの基本形ともいえる、「ポーンをセンターに」「ビショップよりナイトを先に出す」「なるべく早くキャスリングする」を体現する定跡と評されています。 写真3枚目がその基本形で、写真2枚目の切手の背景に描かれている形がそうです。 棋譜に表すと、 1.e4・e5(白ポーンe4、黒ポーンe5) 2.Nf3・Nc6(白ナイトf3、黒ナイトc6) 3.Bb5(白ビショップb5) ……として、キング側での早いキャスリング(入城)を狙います。 ちなみにキング側でのキャスリングは、キングをg1に移動した後、ルークをf1に配置する手を一手で行なうことができます。こうすることで、キングをルークとポーンで囲う守備陣を整えると共に、縦横に広く移動できるルークを中原(中央4マス)に向けて備えることができます。 未だ制度の整備されていない時代に、非公認ながら世界チャンピオンと目された最初のチェス・プレイヤーと言えるでしょう。 #チェス #グランドマスター #世界チャンピオン #チェス切手
切手 プライスレス fanta館長よりさるら。
