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大洋球団(川崎球場)灰皿
大洋球団(川崎球場)灰皿 直径125㎜ 盛岡南部 岩鋳製 岩手県盛岡市南仙北2丁目23-9 大洋ホエールズ時代の本拠地(1957~77)
野球 大洋ホエールズふくすけ
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ダルビッシュ有(初期)サインボール
ダルビッシュ有(2005-09?)NPB試合球
野球 北海道日本ハムファイターズふくすけ
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『殺気の中に王がいた』(荒川博)
『殺気の中に王がいた』世界のフラミンゴへ師弟の苦闘の日々(荒川博 署名入) 『一打一生』 「荒川道場」にて『三振王から“世界のホームラン王”』に覚醒させた記録である。
野球 1977年 読売ジャイアンツふくすけ
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大谷翔平 サインボール
大谷翔平サインボール(NPB試合球) NPB通算成績(2013-17) 42勝15敗1H 防御率252 打率286 本塁打48 打点166
野球 北海道日本ハムファイターズふくすけ
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伝説の澤村投手と吉原捕手
『野球界(1941/7/15発行)』 澤村榮治(1917/2/1-1944/12/2(27歳没)) 大日本東京野球倶楽部・東京巨人軍(1934-1937,1940-1941,1943) 野球殿堂(1959) 1936年秋 史上初のノーヒットノーラン達成 同年12月 優勝決定戦で3連投、巨人初優勝 徴兵により帝国陸軍に入営(1938-40)日中戦争に従軍 復帰後は従軍時の負傷により球威が落ちるも3度目のノーヒットノーランを達成 再応召、予備役へ(1941-42) 1943年に再復帰するが成績を残せず10月24日が最後の出場となる 1944年シーズン開始前に巨人から解雇 同年10月2日に応召 同年12月2日フィリピン防衛戦に向かう輸送船に乗船中、米潜水艦の攻撃を受け撃沈、戦死 職業野球通算63勝22敗(防御率1.74) 1934年11月の日米野球の全日本チームに参加 11月20日の試合ではルー・ゲーリックの本塁打(7回裏)のみ8回5安打1失点と快投 1935年の第1次アメリカ遠征(21勝8敗1分) 1936年の第2次遠征(11勝11敗)に参加、大リーグのスカウトの引抜き工作に遭う 1947年7月9日、巨人は『背番号14』を日本プロ野球史上初の永久欠番にまた同年、功績と栄誉を称え『沢村栄治賞』を設立 吉原正喜(1919/1/2-1944/10/10(25歳没)) 東京巨人軍(1938-41) 野球殿堂(1978) 新人から退団までスタルヒン、沢村栄治、中尾輝三ら投手陣をリード、正捕手で活躍 1938年秋季から1941年まで巨人の4連覇に貢献 1941年応召のため退団 1944年10月10日にインパール作戦後のビルマで戦死 吉原の『背番号27』は戦後、巨人の森昌彦をはじめ大矢明彦、伊東勤、古田敦也、谷繁元信らの名捕手ナンバーとなる なお、両雄がバッテリーを組んだのは1940-41年の2シーズンだけであった・・・
野球 1941年 読売ジャイアンツふくすけ
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与那嶺 要(ウォーリー・ヨナミネ)〜王貞治との出会い
与那嶺 要(ウォーリー・ヨナミネ) 読売ジャイアンツ(1951-60) 中日ドラゴンズ(1961-62) 監督・コーチ歴 中日(打撃コーチ(1963-66)ヘッドコーチ(1970-71)監督(1972-77)) 川上巨人から戦力外を受けた経緯もあり、特に対巨人戦には闘志を燃やし巨人V10を阻止するとともに、G差0、20年ぶりのリーグ優勝(1974年)を果たす。監督就任期間の対巨人戦は64勝60敗6分であった。 野球殿堂(1994年)外国人選手の殿堂入りは史上唯一 NPB通算成績 打率311本塁打82打点482 1956年の成績 1956年 球団史上初の開幕戦初回先頭打者本塁打を記録 打率338本塁打13打点47(首位打者3回1954/1956/1957) ベストナイン(1952-58):7回 シーズンホームスチール(1951):5回(日本記録) 通算ホームスチール:11回(日本記録) アメリカンベースボールスタイルを日本野球に新しい戦術を伝道した。 戦闘的スライディング、タックルや一塁走者リードの際の左足部の蹴り込み、ドラッグバント、ダイビングキャッチなど ある少年がサインをもらおうと玩具のゴムボールを差し出すが、選手達も忙しいこともあり粗末で目立たないゴムボールなどは見向きもされなかった。 その時、与那嶺だけが少年のゴムボールに気付き、立ち止まって快くサインに応じた。 その少年は『王貞治』であった。 王はこの時の感激から与那嶺と同じようにファンからのサインを断らず、できる限りファンサービスを大事にする姿勢を貫いているという。 また奇しくも与那嶺と王は1994年、同時に野球殿堂入りをしている。
野球 1956年 読売ジャイアンツふくすけ
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権藤博『継投論~投手交代の極意』署名本
権藤博『継投論 投手交代の極意』 権藤博・二宮清純 (2017/12/14 第1版第1刷)署名あり 1938年12月2日生れ、2017年(79歳)WBC日本代表、投手コーチを務めた元中日ドラゴンズ投手。 1年目(1961)よりエースとして活躍。 その年35勝19敗、投球回数429.1回、奪三振310、防御率1.70を記録、沢村賞・新人王を受賞。 翌年(1962)30勝17敗、投球回数362.1回、奪三振212、防御率2.33を記録、2年連続最多勝。 新人投手の2年連続30勝はプロ野球史上唯一。 3年目以降は17勝しかできず1968年引退(82勝60敗(防御率269)) 1973年に与那嶺中日監督の投手コーチに就任。翌1974年のリーグ優勝に貢献する。 『与那嶺イズム』を受け『やられたら、やり返せ』を戦いの理念とする。 たった2年で投手生命が終わった自身の立場から『投手の肩は消耗品』また『先発完投主義』の寓を説き、1998年横浜監督になるとクローザー『大魔神』を後軸に、リリーフ陣の『中継ぎローテーション』を確立する。投手交代は監督自らピッチャーマウンドに行きボールを渡すシーンは目新しい。 本書では投手が完投勝利をしても嬉しいのは完投投手だけ4人の継投で勝利すれば4人が幸せになれるを説き交代のポイントを権藤流に対話形式で解説している。
野球 2017年ふくすけ
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『もう一人の世界ホームラン王』高井保弘とスペンサーメモ
『世界の代打男』高井保弘 阪急ブレーブス(1964-82) NPB通算成績 打率269本塁130打点446 通算代打本塁打:27本(世界記録) シーズン最多代打本塁打:6本(1974 パ・リーグ記録) 高井は投手の球種と僅かなフォームの違いを観察していたスペンサーに学び、メモ帳に記録。 守備力難からレギュラー定着できなったが『スペンサーメモ』を習得し「世界の代打男」としての礎をつくる。 1972年頃から結果が出始め、1974年に代打本塁打日本記録を更新。 同年のオールスターでは調査済みの松岡弘から史上初の代打逆転サヨナラ本塁打を一振りで仕留める。 このホームランを観ていたアメリカ人記者の提唱によって指名打者制度が検討されMLBを参考に1975年から導入される。 1975年8月27日のロッテ戦でMLBの通算代打本塁打数の世界記録を更新した。 1981年9月3日の西武戦で生涯3度目の代打サヨナラ本塁打が最後の代打本塁打となった。 翌1982年に引退。 現在も『世界の代打ホームラン王』として君臨する。 ダリル・スペンサー MLB(1952-53/1956-63) 阪急ブレーブス(1964-68/1971-72)兼任コーチ(1971-72) NPB通算成績 打率275本塁152打点391 1965年7月16日サイクル安打を記録するが日本では認識がなく本人が「『サイクル安打』はすごい記録だ」とアピール。 それ以降、MLBに習いサイクル安打達成者には連盟表彰と記録達成者として公式に記録されることになる。 また遡って記録が調べられ藤村富美男が史上初として記録された。 スペイサーは投手毎の球種と僅かなフォームの違いを観察しメモ(スペンサーメモ)する方法を日本に広めた。
野球 阪急ブレーブスふくすけ
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大映スターズ 森口哲夫・坂上惇
大映スターズ(1956) 1946年に千葉ロッテマリーンズの支流にあたる『ゴールドスター』を結成。その後『金星ゴールドスター(1946-48)』に改称。 1948年12月21日に大映が金星スターズを買収⇒『大映スターズ(1949-56)』 1957年2月25日に高橋ユニオンズを吸収合併⇒「大映ユニオンズ(1957)』 1958年3月10日に毎日オリオンズと対等合併⇒『毎日大映オリオンズ(大毎オリオンズ)(1958-)』 1956年の成績 57勝94敗3分(7位) 森口哲夫 大映スターズ(1955-57) 阪急ブレーブス(1958) 1958年3月2日の対巨人オープン戦でルーキー長嶋茂雄に第1号HRを献上。 1956年の成績 5勝18敗防御率297 坂上惇 西鉄ライオンズ(1952-54) 大映スターズ(1954-57) 1956年の成績 1勝4敗防御率348
野球 1956年 大映スターズふくすけ
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大映スターズ 松山冬季練習記念(1949)色紙+観戦チケット
大映スターズ(1949-56) 松山冬季練習記念(1949/2)サイン色紙 1949年成績(藤本定義監督) 67勝65敗2分(3位) V.スタルヒン 27勝17敗 防御率261 最多勝利 高野裕良 1勝1敗 防御率209 渡辺一衛 打率205本塁打1打点3 野田誠二 打率000本塁打0打点0 加藤正二 打率301本塁打14打点76 滝田政治 打率265本塁打1打点17 木場 巌 2勝4敗 防御率414 川畑 博 打率200本塁打0 打点0 金山次郎 打率210本塁打0打点5 大岡虎雄 打率272本塁打26打点92(助監督) 野口正明 12勝13敗 防御率491 山田 潔 打率269本塁打2打点20 伊勢川真澄 打率249本塁打2打点20(正捕手) (スタルヒンから時計回り) ヴィクトル・スタルヒン(1934-55) NPB通算成績 303勝176敗 防御率209奪三振1960 最優秀防御率:1回(1938年秋) 最多勝利:6回(1937年秋 - 1940年、1949年) 最多奪三振:2回(1938年秋、1939年) 最高勝率:2回(1938年秋、1940年) 通算83完封勝利 (プロ野球記録) シーズン42勝 (1939年プロ野球記録タイ(稲尾和久)) 野球殿堂(1960) 1925年日本に亡命(生涯無国籍)。 読売新聞は職業野球団「大日本東京野球倶楽部(現読売巨人)」を結成時、旭川中を強引に中退させ加入させた。 1937年7月3日にはノーヒットノーランを達成 戦時中は「須田 博(すた ひろし)」に改名、無国籍者だったため徴兵はなかった。 白系ロシア人であったため「敵性国民」軟禁。またソ連の日ソ中立条約破棄侵略を開始したことから追放処分にあう。 戦後、パシフィック球団の藤本定義監督に誘われ復帰。 1946年10月に史上初の通算200勝を達成。 1955年7月通算300勝を達成。 1957年1月12日22時40分頃、都内で運転中、電車と衝突し事故死(40歳)した。 長女(ナターシャ・スタルヒン)が2016年6月7日の日本ハム対広島戦(旭川スタルヒン球場)で『スタルヒン生誕100周年記念試合』として始球式に立つ。
野球 1949年 大映スターズふくすけ
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若生忠男・荻 孝雄(西鉄ライオンズ)
若生忠男・荻 孝雄(西鉄ライオンズ) 若生忠男 西鉄ライオンズ(1955-68) 1967年9月17日 阪急戦(西宮)ノーヒットノーラン達成 1956年成績 0勝2敗 防御率283 荻孝雄(署名時は明治大学4年生) 西鉄ライオンズ(1957-61) 東京六大学(1956年秋季リーグ)打率2位、ベストナイン(外野手)選出 1957年 西鉄ライオンズ入団 1960年 試合中に負傷、1961年完治せず引退 1962年 中西太選手兼任監督のマネージャーへ 右項サインは明治大学の同期の佐々木重徳(1955年に中退、国鉄スワローズへ入団)
野球 1956年 西鉄ライオンズふくすけ
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トンボユニオンズ 球団旗
トンボユニオンズ(1955年)球団旗 高橋ユニオンズ(トンボユニオンズ)は1954~56年に存在したが1955年1年間のみ存在したプロ野球球団である。現千葉ロッテマリーンズの支流にあたる 1954年の成績不振から、翌年にトンボ鉛筆をスポンサーとして『トンボユニオンズ』に改名。しかしチームは低迷、罰則対象の勝率3割5分(勝率3割)に届かず、制裁金500万円を払う。提携は解消し1956年に再び高橋ユニオンズに戻る。 1955年、現役最後の球団となったヴィクトル・スタルヒン投手が日本球界初の300勝を達成するも同年引退。1957年1月不慮の事故死。
野球 1955年 トンボユニオンズふくすけ
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野球塔(絵葉書)
野球塔 1934年、第20回全国中等学校優勝野球大会を記念して、大阪朝日新聞社が建設。 球場北東の松林に高さ30mの塔、20本の柱廊、直径35m・8段・2,500名収容の階段型観覧席を備え、柱には第1回大会から第20回までの優勝校・選手名ほか1枚ずつ銅製の銘板に刻まれていた。塔中部の立像は『伊達正男』がモデルである。 塔は近くに新設された鳴尾飛行場への離着陸の邪魔になると太平洋戦争中に撤去、銘板は軍に供出され、残りの列柱も空襲で崩壊、跡地も戦後、国道43号の拡張時に区画整理され無くなった。 鋳潰されなかった銘板のうち第2回・慶應義塾普通部のものが野球体育博物館に、第20回・呉港中のものが甲子園歴史館に保存されている。 その後、1958年(2006年撤去)・2010年に再建。
野球 1934年 高校ふくすけ
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第20回全国中等学校優勝野球大会 記念章
第20回全国中等学校優勝野球大会 記念章(銀製) 1934年(昭和9年(皇紀2594年)) 8月13~20日 関係者・出場校に配布されたものか?
野球 1934年 高校ふくすけ
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アサヒスポーツ『第20回全国中等学校優勝野球大会』特別号
アサヒ・スポーツ 第20回全国中等学校優勝野球大会 1934年(昭和9年) 8月13~20日 1回戦 鳥取一中 3-1 京都商(沢村投手) 決勝戦 呉港中 2-0 熊本工 主な出場選手 藤村富美男(呉港中-阪神)優勝投手 川上哲治(熊本工-巨人)右翼 吉原正喜(熊本工-巨人)捕手 沢村栄治(京都商-巨人)投手 12奪三振 この年、退学し11月に開催された読売新聞社主催の日米野球の全日本チームに参加
野球 1934年 高校ふくすけ
