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水原茂『道』 毛筆色紙
水原茂 毛筆色紙 『道』 東京ドームの監督室には歴代監督の色紙が飾られおり水原氏の色紙はこれと同じタイプです。
野球 読売ジャイアンツ 野球殿堂ふくすけ
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川上哲治 『平常心是道』 毛筆色紙
川上哲治 『平常心是道』 現役引退後、禅の道から野球観を悟り、常勝巨人軍を作り上げ『栄光のV9』に導く。
野球 読売ジャイアンツ 野球殿堂ふくすけ
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金田正一 現役最終年(1969年)サイン色紙
金田正一(1969/10/23)現役最終年 10/23は公式戦終了(10/19)から阪急ブレーブスとの日本シリーズ(1969/10/26~11/2)直前にあたる。 1969年成績(36才) 5勝4敗 防御率425 10月9日 5年連続セ・リーグ優勝決定 10月10日の中日戦で日本球界初の通算400勝を達成 11月30日に現役引退を正式に表明 背番号34は球団の永久欠番(1970年4月2日認定) NPB通算成績(1950-69) 400勝298敗 防御率234 奪三振4490(日本記録) 初奪三振 樋笠一夫(1950/8/23広島戦) 最終奪三振 一枝修平(1969/10/18中日戦) 日本シリーズ 第2戦 10月27日(西宮) 先発投手として登板。4回裏連続四球を出し降板。 日本シリーズ 第4戦 10月30日(後楽園) 7回表4番手で登板するも打者2人に連打を許し僅か6球で降板。現役最後の登板となった。 400勝達成後、石原慎太郎から引退を諭されていたが、この降板で決意したようだ。 翌日(10/31)の報知新聞には引退決意の見出しが掲載された。
野球 1969年 読売ジャイアンツふくすけ
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『快打洗心』長島茂雄 サインボール
長島茂雄(1960年代) サインボール 『快打洗心』
野球 読売ジャイアンツ 国民栄誉賞ふくすけ
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『殺気の中に王がいた』(荒川博)
『殺気の中に王がいた』世界のフラミンゴへ師弟の苦闘の日々(荒川博 署名入) 『一打一生』 「荒川道場」にて『三振王から“世界のホームラン王”』に覚醒させた記録である。
野球 1977年 読売ジャイアンツふくすけ
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与那嶺 要(ウォーリー・ヨナミネ)〜王貞治との出会い
与那嶺 要(ウォーリー・ヨナミネ) 読売ジャイアンツ(1951-60) 中日ドラゴンズ(1961-62) 監督・コーチ歴 中日(打撃コーチ(1963-66)ヘッドコーチ(1970-71)監督(1972-77)) 川上巨人から戦力外を受けた経緯もあり、特に対巨人戦には闘志を燃やし巨人V10を阻止するとともに、G差0、20年ぶりのリーグ優勝(1974年)を果たす。監督就任期間の対巨人戦は64勝60敗6分であった。 野球殿堂(1994年)外国人選手の殿堂入りは史上唯一 NPB通算成績 打率311本塁打82打点482 1956年の成績 1956年 球団史上初の開幕戦初回先頭打者本塁打を記録 打率338本塁打13打点47(首位打者3回1954/1956/1957) ベストナイン(1952-58):7回 シーズンホームスチール(1951):5回(日本記録) 通算ホームスチール:11回(日本記録) アメリカンベースボールスタイルを日本野球に新しい戦術を伝道した。 戦闘的スライディング、タックルや一塁走者リードの際の左足部の蹴り込み、ドラッグバント、ダイビングキャッチなど ある少年がサインをもらおうと玩具のゴムボールを差し出すが、選手達も忙しいこともあり粗末で目立たないゴムボールなどは見向きもされなかった。 その時、与那嶺だけが少年のゴムボールに気付き、立ち止まって快くサインに応じた。 その少年は『王貞治』であった。 王はこの時の感激から与那嶺と同じようにファンからのサインを断らず、できる限りファンサービスを大事にする姿勢を貫いているという。 また奇しくも与那嶺と王は1994年、同時に野球殿堂入りをしている。
野球 1956年 読売ジャイアンツふくすけ
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伝説の澤村投手と吉原捕手
『野球界(1941/7/15発行)』 澤村榮治(1917/2/1-1944/12/2(27歳没)) 大日本東京野球倶楽部・東京巨人軍(1934-1937,1940-1941,1943) 野球殿堂(1959) 1936年秋 史上初のノーヒットノーラン達成 同年12月 優勝決定戦で3連投、巨人初優勝 徴兵により帝国陸軍に入営(1938-40)日中戦争に従軍 復帰後は従軍時の負傷により球威が落ちるも3度目のノーヒットノーランを達成 再応召、予備役へ(1941-42) 1943年に再復帰するが成績を残せず10月24日が最後の出場となる 1944年シーズン開始前に巨人から解雇 同年10月2日に応召 同年12月2日フィリピン防衛戦に向かう輸送船に乗船中、米潜水艦の攻撃を受け撃沈、戦死 職業野球通算63勝22敗(防御率1.74) 1934年11月の日米野球の全日本チームに参加 11月20日の試合ではルー・ゲーリックの本塁打(7回裏)のみ8回5安打1失点と快投 1935年の第1次アメリカ遠征(21勝8敗1分) 1936年の第2次遠征(11勝11敗)に参加、大リーグのスカウトの引抜き工作に遭う 1947年7月9日、巨人は『背番号14』を日本プロ野球史上初の永久欠番にまた同年、功績と栄誉を称え『沢村栄治賞』を設立 吉原正喜(1919/1/2-1944/10/10(25歳没)) 東京巨人軍(1938-41) 野球殿堂(1978) 新人から退団までスタルヒン、沢村栄治、中尾輝三ら投手陣をリード、正捕手で活躍 1938年秋季から1941年まで巨人の4連覇に貢献 1941年応召のため退団 1944年10月10日にインパール作戦後のビルマで戦死 吉原の『背番号27』は戦後、巨人の森昌彦をはじめ大矢明彦、伊東勤、古田敦也、谷繁元信らの名捕手ナンバーとなる なお、両雄がバッテリーを組んだのは1940-41年の2シーズンだけであった・・・
野球 1941年 読売ジャイアンツふくすけ
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三原脩・川上哲治 サインフォト+スポーツ紙(1958/10/22)
第9回日本シリーズ(三原西鉄対水原巨人)西鉄ライオンズが球史初の3連敗からの逆転日本一に輝く! 西鉄ライオンズの3連覇(1956-58)は3度の水原巨人が相手の日本一であった。 第5戦は鉄腕稲尾の延長10回サヨナラホームラン。 翌日の新聞一面には西鉄ライオンズ日本一の報道とは対照的に『打撃の神様』川上哲治(38歳)の現役引退表明の報道でもあった。 写真は当時巨人監督であった三原修(改名脩)監督と川上哲治選手の連名サインフォトである。 筆跡から1951年以降のようである。
野球 1958年 西鉄ライオンズふくすけ
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長嶋茂雄・高林恒夫 サイン色紙
高林恒夫・・・ 立教大学野球部の長嶋茂雄2年後輩である。 3年生からレギュラーで活躍。 卒業後も社会人野球(熊谷組)で活躍、1961年読売ジャイアンツに入団。オールスター戦ファン選出と活躍するも翌年度は不調。1963年国鉄スワローズにトレード、1965年引退。 トレードに決まった後輩の送別会の意味のひとコマか?
野球 1963年 国鉄スワローズふくすけ
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読売ジャイアンツ 球団旗
1960年前後 Gマークが1950年代のロゴのようだ。
野球 1960年頃 読売ジャイアンツふくすけ
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『代打満塁逆転サヨナラホームラン』樋笠一夫 サイン
1956年3月25日 巨人対中日0-3 9回裏1アウト満塁 代打 樋笠一夫×投手 杉下茂 S1B1 3球目 プロ野球史上初『代打満塁逆転サヨナラホームラン』を放つ! 2017年9月10万号ホームランが記録されたがその内8本しか記録されていない。 偶然にもスポーツ誌により知る。既に所有するサイン帳(1952年頃)と照らし合わせる。
野球 1952年 読売ジャイアンツふくすけ
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『球史初の逆転4連勝』西鉄VS読売(1958年)日本シリーズチケット
第9回日本シリーズチケット(1958年10月17日) 3連敗からの第5戦 三原西鉄VS水原巨人(対戦成績2勝3敗) 10回裏 鉄腕稲尾 巨人大友から逆転サヨナラホームランの劇勝(3-4×)! 3連敗からの逆転優勝は史上初。
野球 1958年 西鉄ライオンズ 読売ジャイアンツふくすけ
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長嶋茂雄(立教大学3年)・木戸美摸 サイン
長嶋茂雄(立教大学3年生(20才9ヶ月)) 筆跡からたっぷり使った墨跡が照り輝き、燦然とオーラが輝いている。知り得る中で最も若いサインである。 木戸美摸(1956/57/58?) 1956年は木戸美摸投手負傷事件が発生。 1957年は17勝の勝ち星を挙げ最高勝率を獲得する。 1958年春の明石キャンプ時はルーキー長嶋と相部屋となる。
野球 1956年 立教大学ふくすけ
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週刊ベースボール 昭和35年9月28日号
昭和35年オールスター戦時の両雄(セリーグ水原監督・三原コーチ) この年、三原脩氏がセ・リーグ大洋ホーエルズ監督として戻って来た。 水原巨人との対戦成績はG11(1)14Wであった。 また昭和25年創設以来初のリーグ優勝・日本シリーズ優勝となる。 水原巨人監督はこの年をもって退任、東映フライヤーズ監督へ・・・ この時、どんな会話が交わされたか聞いてみたいものである。
野球 1960年 大洋ホエールズ 読売ジャイアンツふくすけ
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『世紀のホームラン競争』サイン
週刊ベースボール(昭和49年12月2日号) 日米野球(1974年11月2日)第6戦 世紀のホームラン競争はアーロン10本王9本 1974年オフ時点でHアーロン733本、王634本である。
野球 1974年 MLBふくすけ
