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飛行機②
トランスワールド航空 ボーイング747-100 最終塗装版TWAのクラシックジャンボ機です。 空路認可取得したものの幻に終わったセントルイスから成田への直行便で帰省してみたかったです。 トランスワールド航空 ボーイング767-300ER 老朽化した747の代替機として導入された767は、米欧間のTrans Atlantic 路線の主力機として数多くのエアラインに採用されてます。 2-3-2のエコノミークラスのシートレイアウトはミドルマンの悲劇を14%に引き下げた超優秀なワイドボディ機で、大き過ぎないことで乗降時間も短めなことから、私のお気に入りの機体です。 ロイヤルヨルダン航空 ロッキードL1011-500 昭和50年に田中角栄元首相等が贈収賄で逮捕されたロッキード事件のきっかけになっていたトライスターです。 予定通りに全日空ではこの機体が採用されたものの、全世界的には貨物スペースの不足や整備性の問題もあって同時期のマクドネルダグラスDC-10に完敗でした。 更に直後での双発機の洋上運行距離規制緩和により、3発機の需要も無くなり、ロッキード社はこのトライスターをもって旅客機市場から完全に撤退しました。 機能面はさておいて、デザイン的には武骨なDC-10を凌駕していたと思います。 ルフトハンザ航空シティライン ボンバルディアCRJ700 21世紀初頭からブラジルのエンブラエル社と共にDC9や727等の代替機種として急速に普及したカナダのボンバルディア社の小型リージョナルジェット機は航空会社の効率化と経営の安定化に貢献しています。
久本 拓司
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飛行機
かつての駐在先で頻繁に利用していたエアラインの飛行機です。 TWA トランスワールド航空のロッキードコンステレーション、マクドネルダグラスMD83、ボーイング747-100(最古のジャンボ機)。 エアベルリンのエアバスA320。 ブリティッシュエアウェイズのボーイング747-400。 TWAはセントルイス-成田間の就航認可を得た1年後の2001年にAAに買収、エアベルリンは9年遅れで2021年に開港出来たベルリンブランデンブルク空港開港を待たずに2017年に倒産しその機材はEasy Jet等に引き継がれました。
久本 拓司
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怪獣
ジャミラ 故郷は地球。元宇宙飛行士。 ダダ 三面怪人。とにかく弱い。 ツインテール グドンの餌。体形はJKのパンツ見放題。 ケムール人 年寄り宇宙人。走りのいい奴。 恐竜戦車 一度その名前を聞いたら絶対に忘れられないことでしょう。
久本 拓司
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列車
457系 急行電車 貧乏学生時代に仙台に帰省する際に特急料金節約の為に、5時間以上かかる「急行まつしま」を頻繁に利用していました。 58系 急行Diesel Car 四国の両親の実家に帰省した際に道後温泉へ旅行した際に「急行いよ」「急行うわじま」で利用し、祖父の計らいで生まれて初めてグリーン車に乗せてもらいました。また、全線電化区間なのに何故か気動車で運用だった仙台発常磐線経由上野行きの「急行そうま」も利用したことがあります。最高速度95キロと遅いものの、爆音を轟かせての走行にはかなりの迫力がありました。 485系 特急電車 東北新幹線開業前の東北本線及び常磐線では、上野発の仙台行き「ひばり」「ひたち」会津若松行き「あいず」盛岡行き「やまびこ」青森行き「はつかり」山形行き「やまばと」秋田行き「つばさ」と485系特急列車のオンパレードでした。ひばり号は4時間切りの表定速度90キロ近い大暴走で食堂車のコーヒーが溢れる大揺れが発生してました。 ナハネ11系 寝台客車(旧型客車) 1972年秋の祖母の葬儀の際に初めて乗った寝台急行「天の川」「きたぐに」で使用されていたブルートレイン前での旧型寝台客車です。 「きたぐに」に乗車した翌日の反対方向大阪行き「きたぐに」が北陸トンネルで火災事故を起こしていたのには大変驚きました。 12000系 近鉄特急電車 鈴鹿出張時に頻繁に利用した近鉄特急、とにかくバリエーションが多くて矢継ぎ早に新車を投入す割にはこの旧型車輌も活用されています。 高校の修学旅行で近鉄特急で「おしぼり、どうぞ」の言葉を耳にした際には全員が、カルチャーショックを受けてました。 E3系 山形新幹線つばさ 山形県新庄市に在る関係会社に出張する際にお世話になる車体です。 配色は数多い新幹線車輌の中では良く、長過ぎないボンネットには親しみを感じます。福島まで(から)の速さが 、新庄までの時間を異様に長く感じさせてくれます。 10000系 東武東上線通勤電車 最寄りの朝霞駅から池袋または川越方面へ出掛ける際の足です。気が付けば乗り始めてから35年もの年月が経過しました。来年2023年3月には住み慣れたこの電車の沿線上に終の住処を構えることになります。 1980年代初頭までは床が木製の旧型電車が使用されていて非常に暗いイメージだった東武東上線でしたが、今や東急東横線の電車も乗り入れて港町横浜へも直行する非常にステータスの高い路線へと変貌を遂げました。 オハ47 旧型客車 国鉄時代の昭和20年代中盤から30年頃迄急行列車や各駅停車用として製造された旧型客車は昭和の末期まで乗降用の手動扉を開けっぱなしで全国の幹線を走行していました。 トイレの汚物も線路上へ垂れ流しでした。
久本 拓司
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バブルの象徴 荒木師匠の時代
1982M Mitsubishi Strarion 半年位前に近所のスーパーに鳥のモモ肉だけを買いにお遣いに行かされた際に20年以上以来振りにスタリオンを駐車場で目撃して興奮のあまり鳥肉売場へ行ったらどの部位を買えば良いのかを失念してしまいました。 バブル前夜にリリースされたクルマですが、トヨタのソアラ、日産レパード、いすゞピアッツア等と同時期生まれの自動車市場に活気をもたらし始めた存在と言えます。 1984M Toyota Crown 「いつかはクラウン」、マークII 3兄弟と同様に非常に良く売れてました。 マークⅡを始め国内のセダン市場が衰退する中でも唯一輸入高級セダンに対抗し続けて来たものの、矢付き刀折れ果てて2022年4月を以ってセダンボディの生産を停止せざるを得なくなってしまったことは、日本の自動車市場としても「終戦記念日」とも言えます。 これでトヨタでさえも、レクサスを除外すれば伝統的な4ドアセダンはカローラと本来は米国市場が主戦場の「分類:都市型スポーツセダン」カムリの2車種だけになってしまいました。 1988M Toyota Mark II チェイサーとクレスタを合わせたマークII3兄弟のかつての月販台数は3万台前後もあったそうです。2回位しか連れていってもらったことの無い銀座のナイトクラブに倣ったワインレッドの内装色とルースクッションシートが大流行してました。所謂「アッシー君」の御用達であったと同時に、本当の真相までは定かではないものの、若手はカローラ・スプリンター、係長クラスがコロナ・カリーナ、課長クラスがマークII 3兄弟、部長クラスがクラウン、取締役ではセルシオというはっきり言って余計なお世話的なヒエラルキーがあったという記事を当時の自動車雑誌で目にしたことがあります。そんな阿呆みたいな車格のヒエラルキーがあった一方で「ワインレッドの肌触りの良いモケット表皮をふんだんに使用した内装は全ての車種で選択可能」ということは恐らくは「1億総中流」の流れを受けてのことだったからでしょう。 私は大好きでした「モケット」は何時の間にか廃れてしまいザラ目の「ジャージ」に置き換わってしまった時は非常にガッカリしましたが、ここ最近では感触の似てる「アルカンターラ」が選べる様になってきて胸を撫で下ろしています。 そんなお化けの様な存在でしたマークII3兄弟も90年代半ばからのミニバンやSUV、プリウスを筆頭としたハイブリッド車と軽自動車の攻勢には抗えず、ジリジリと販売台数を減らしていき2004年にはマークXとしてコンセプトを修正しながら若干息を吹き返したものの、2020年代を前に廃止されてしまいました。 1989M Nissan Cima 上の階に住んでいらした大家さんが乗っていました。豪快な255馬力のターボエンジン音とは結びつかないエレガントなデザインで500万円台でも良く売れていてCima現象という言葉が聞かれました。 その後はモデルチェンジを重ねる毎に販売台数を縮小しながら細々と30年超に渡り継続させて来たものの、遂に2022年での廃止が決定されました。 ライバルのトヨタクラウンでさえもセダンボディを止めざるを得ない所まで来てしまったということから、やむを得ない企業判断です。 1991M Mitsubishi Diamante 税制改正で3ナンバー車を身近にした三菱自動車渾身の一作と言える存在感のある高級車でした。 テレビで大竹まことが「ディアマンテ」と「みのもんた」が似てると言っていたことが何故か頭にこびりついています。ホンダのインスパイア等と同様で、次期モデルのインパクトがコストダウンの影響で弱くなったと同時にミニバン・SUVへの市場移行、更にはリコール隠しによる信用失墜もあって、フルラインナップメーカーとしての三菱自動車は終焉に向かいました。 しかしながら、アジア拡大と欧州撤退、日産との共同での軽自動車開発とPHEV等のコア技術・得意分野を活かした選択と集中による経営手法は個人的には非常に高く評価しています。 1990M Honda Accord Inspire 直列5気筒のFFミッドシップによる8頭身ボディが売りのアコード上級モデルの4ドアハードトップは、粉体成形本革調表皮と本木目を採用したインパネとドアトリム、航空機にも使われているハニカム構造基材のルーフトリム、スエード表皮のシートによる豪華さが決めてとなると同時に2.5lエンジンの3ナンバーモデルも追加され、日本市場では同等価格帯で販売されていたアコード及び菅原文太と山下真司によるほのぼのとしたCMが印象的だった意外には全く記憶に残らないアスコットの本家セダンシリーズを完全に駆逐してしまいました。逆にAcura Vigorのブランドネームで米国へもリリースされたこのハードトップモデルは大柄な米国人にとっては狭過ぎたせいで全く売れず、セダンのアコードに人気が集中しました。 バブル崩壊後の1995年発売の次期モデルは、3.2lのV6エンジンが追加設定されたものの内装材もチープなものへ置き換えられてミニバンブームにも押されてしまい、販売台数を大きく落としてしまいました。 現在では「インスパイア」というブランド名は中国の東風ホンダで生産されているアコード(広州ホンダ製)の姉妹車として活用されています。 1998M Nissan Cedric Classic SV(Y31) 最近近所を走っているセドリックのタクシーのプロポーションの良さに気が付きましたと同時に昨今の日本製セダンの衰退理由も何となく想像出来ました。 四角いフォルムと長いトランクの存在がはっきりとした典型的な3ボックスに横長のテールランプの組み合わせはまさにThe Sedanと言えるものです。 このミニカーは1998モデルですが、Y 31セダンは1987年に発売されて営業車用としては2014年までの27年間に渡って生産されていた日本のトラバント(東ドイツ車)の様な存在です。このスタイルに感銘を受けるということは徐々に年寄世代に足を突っ込み始めているのかも知れません。
久本 拓司
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ちょっと気になり買いました⑧
2021M Honda Civic (FL1) 11代目となるホンダの代名詞とも言えるシビックは今年2022年に発売50周年を迎えました。 1990年代6代目あたりまではスポーティな大衆車として若者の人気を集めつつコンスタントに月販1万台を超えるホンダのベストセラーで私自身も4代目EF3のSi、8代目FN2英国製Type-R EUROのハンドルを握りました。 いつしか大衆車としてポジションをFitに譲り米国でのベストセラーを狙って車格を大幅に上げた現行モデルの新車価格は400万円に迫ろうかというレベルですが、ターボ仕様にしろハイブリッド仕様にしろ輸入車に引けを取らない出来栄えと言えます。 1999M Toyota Celica (ZZT230) セリカの最終7代目モデルは1800ccへダウンサイズしてターボチャージャーの四駆も設定されなかったものの、前モデルのNA2000ccエンジンを10馬力上回る190馬力を確保すると同時にスーパーストラットサスペンションがもたらす確かな操縦性を備えた21世紀の幕開けを飾るスペシャルティカーとして発売されました。 既にバブル経済崩壊後の数十年に渡るであろう経済不況下における若者のクルマ離れによる全体市場の縮小、軽自動車や小型車・ミニバン・SUVへの移行もあって人気ブランドであったセリカとしてはこのモデルで廃盤となりましたものの、そのコンセプトは現在においても86やレクサスのクーペモデルとして存続されていることは大トヨタの圧倒的な企業力を感じるばかりです。 1985M Toyota Celica (ST160) 4代目のセリカは流面形デザインと映画「私をスキーに連れていって」で強烈な存在感を示したフルタイム四駆のターボチャージャー仕様GT−Fourの設定で人気を博し、バブル期初頭にホンダプレリュードや日産シルビア等と共にスペシャルティカー市場の最盛期を構成していました。 1989M Toyota Celica (ST182) 5代目セリカはバブル時代真っ只中ということもあってエディマフィーをCMキャラクターに起用していました。 前モデル同様にフルタイム四駆のGT-Fourで世界ラリーを席巻すると同時一方でコンバーチブル仕様も設定され、オープンエアモータリングを満喫出来る様にもなりました。 1983M Toyota Celica (AA60) 1981年に発売された3代目セリカはポルシェ928に次ぐ斬新なライズアップヘッドライトが採用されたものの、イマイチ人気が盛り上がらなかったことから、1983年のMMC時においては人気が出始めていたホンダプレリュードに類似したブラックフェイスのリトラクタブルヘッドライトを採用しました。 ツインカムかターボかという巷での論争に対しては国内発のツインカムターボエンジンの採用で終結させた記念すべきモデルでした。
久本 拓司
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ちょっと気になり買いました⑦
1983M Nissan Silvia RS-X (S12) アートフォースとして大ブレークする1世代前のシルビアの初期モデルはFJ 20型2000cc16バルブツインカムターボチャージャーエンジンがエンジンルームに収まり切らないので力瘤の様に大きなパワーバルジをボンネット上に設けた迫力のある超体育会系スポーツカーでした。 ところがMMC時にはデートカーとして人気爆発のホンダプレリュードに触発されたせいか、1800ccへとダウンサイズしてバルジを取り去りつつ一転して草食系路線へ転換し、次期S13型へと繋ぎました。 2015M Honda Grace アジア地域ではCityのブランド名で展開されているFitベースの4ドアセダンをGraceとして日本に持ち込んでみたものの、日本における4ドアセダンの市場は壊滅状態であることから実を結ぶには至らず、1代限りで消滅に至りました。 ところがアジア市場で引き続き継続する次期モデルは1リッターターボチャージャーエンジンを若干幅を拡げたシャープなボディデザインに搭載し、不評な柴犬デザインでシェアを落としたフィットよりもはるかに魅力的な出来栄えに仕上がっていて打切りは非常に勿体無い様に思われました。 度重なるリコール騒ぎで勢いを失った上にFMCデザイン大失敗で瀕死状態に陥ってしまったフィットに加えて、比較的好調だった姉妹車シャトルまで打ち切ってしまったホンダの経営戦略は益々N Boxしか売れずに低利益率に喘ぐことになり、電動車の開発原資の確保に窮し何れはGMあたりに買収されるよりは継続不能になるかも知れません。 1975M Nissan New Silvia (S10) 高人気のトヨタセリカリフトバックに対抗すべく日産がロータリーエンジンを搭載しながら華々しく打って出るつもりが、オイルショックでロータリーエンジンはお蔵入りとなりました。その流麗なボディだけは何とか有効活用出来ないかと既存のファミリーカー用1800cc4気筒SOHCを搭載して市場に送り出されたのが、ニューシルビアでした。 スタイル的にはセリカリフトバックに見劣りしないものの、平凡なエンジンと時代遅れの板バネリアサスでは歯が立ちませんでした。 その後、トータルイルミネーションシステム等の内装の華やかさを売りにした次期モデルS 11ではセリカの牙城を崩し、更にアートフォースS13ではプレリュードをも凌駕し、スペシャルティカー市場の頂点に立ちました。 1988M Nissan Cefiro 「くうねるあそぶ」のキャッチフレーズで井上陽水の「皆さん、お元気ですか」と助手席から呼びかけるCMで注目を浴びたセフィーロは、トヨタの強力なライバルであったマークII3兄弟に対抗する為にスカイラインとローレルを援護射撃すべくバブル時代真っ只中に華々しく登場したFRスポーティセダンです。 同時期に発売された人気車シルビア同様の丸目四灯が印象的なプロジェクターヘッドライトを備えたシャープで伸びやかなデザインの車体に今は亡き滑らかに吹け上がるRB 20型直列6気筒のエンジンを搭載し発売当初は人気爆発となったものの、昭和天皇の病状悪化に伴う井上陽水のCM音声自粛もあってかその勢いは長くは続かず、マークII3兄弟の牙城を崩すまでには至りませんでした。 2世代目のモデルは米国マキシマをベースとした平凡なFFファミリーセダンへと変貌を遂げてしまい、華やかだったバブル時代の終焉を感じさせました。
久本 拓司
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ちょっと気になり買いました④
1982M Toyota Corona Hardtop 1800GT-TR 今日では商標としての使用価値が全く失われてしまったとされるトヨタの正真正銘「新型コロナ」、FRレイアウトの最終世代でセリカ・カリーナの兄弟車と同時に国内初のツインカムターボが搭載されました。910ブルーバードに完敗した前モデルを3年半で諦めて、007のロジャームーアをキャラクターに添えてブルーバードCMの白いタキシードを纏った沢田研二もどきを噴水内に落下させて「Have a good day」と言いながらその横を立ち去るさまは、後のセフィーロCMの井上陽水の「皆さん、お元気ですか(昭和天皇崩御で音声が消えたのにも大爆笑)」に通じるセンスの良さを感じました。 1986M Nissan Leopard 1980年代に一世を風靡したトヨタのソアラの対抗馬として日産からリリースされていた2代目レパードは、発売当時はソアラの日陰に隠れた非常に地味な存在とされていたものの、「もっと危ない刑事」での起用とその端正なクーペデザインの評価も高まったことから、現在の中古車市場では300万円超で売買されている人気車種となっています。 シーマにも搭載されたV6ツインカムターボは、ド迫力の一言に尽きます。 1977M Toyota Celica Coupe 2000GT(TA40) 7年近く生産された人気車の2代目は米国市場を意識したデザインで「友よ、答えは風の中にあった」というエアロダイナミクスが強調されてましたものの、基本的なメカニズムは初代モデルを踏襲しています。マイナーモデルチェンジ時には意地で継続させてきたツインカムエンジンを武器にしながら排ガス対策でパワーを失ったライバル スカイラインをあからさまにこき下ろす様に「名ばかりのGT達は道を開ける」とか、ターボエンジン設定で息を吹き返した際には「ツインカムを語らずに真のGTは語れない」という様な挑発的なCMを展開させており、バブル期に繋がるパワー競争の口火を切りました。 1980M Skyline Sedan 2000GT Turbo (C210) 排ガス規制で完全に牙を抜かれてライバルのセリカに名ばかりのGTとこき下ろされていたL20Eエンジン搭載のスカイラインジャパンにターボチャージャーが装着されたのは1980年5月のことでした。カタログ表示ではグロス145馬力ながら雑誌社の走行試験の為に貸し出されたクルマには広報チューンが施されており、0-400加速は驚異の15.8秒を切るタイムを叩き出しており、トヨタツインカム軍団に虐げられていた状況に日産ファンは一気に溜飲を下げていました。
久本 拓司
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ちょっと気になり買いました③
1981M Isuzu Piazza 1960年代後期から80年代初頭の長きに渡って販売が継続された117クーペの後継として発売されたピアッツアはSenior感覚が売りの高級スペシャリティーカーでした。117クーペと同様のイタリアの有名デザイナーのジウジアロウによるデザインは21世紀の今日においても通用する一方で、70年代中盤のジェミニベースのエンジンと足回りは発売時点で時代遅れでした。 その後、エンジンについては新世代のアスカより流用されたターボエンジンへ換装されて、イルムッシャ-やハンドリングバイロータスのスペシャルバージョンへと発展して人気を集めました。 1967M Isuzu Florian 兄弟車の117クーペと1960年代後半から1980年代初頭にかけて長らく販売されていたいすゞのセダンで、晩年は三菱デボネアと共にシーラカンスと称されていました。 1977年にはいすゞ自動車得意のDieselエンジンを搭載することで、沈没状態から息を吹き返して最後に一花咲かせていました。文金高島田の日本髪のままでも乗車可能とされていた後席の居住性は正に正統派セダンの面目躍如といった所です。 1967M Isuzu 117 Coupe いすゞフローリアンのクーペ版で、初期モデルはハンドメイドの超高級車でした。中後期の量産型でもジウジアロウの手による流麗なデザインに色褪せる気配は無く、1.6リッターエンジンは1.8リッター、2リッターへと強化されると同時に年を追って厳しくなる排ガス規制にも関わらずツインカムエンジンを維持し続けました。 今日ではトラック専門メーカーとして経営資源を集中するいすゞ自動車ですが、かつては優れた技術を散りばめた渾身の芸術作と呼べる乗用車を世に送り出していました。 1982M Mitsubishi Cordia Turbo 1980年代初頭の三菱自動車は、軽自動車から高級車までのフルラインターボを売り物にする等、非常に勢いが感じられました。その中核を担う新型モデルが、「スペースクーペ」と呼ばれたコルデイアと「ブレザー感覚で乗れる!?」セダンのトレデイアで、エアスクープの付いたボンネットの下には1600ccのターボエンジンが搭載されていました。 コルデイア、トレデイアともに位置付が不明確ということもあってセールス的には不成功でしたが、コルデイアのデザインはいすゞのピアッツアに通じるものがあったと思います。 1982M Mitsubishi Mirage II Turbo 中学から高校にかけての趣味は新車の発表展示会に足を運ぶことで、免許取得前の頃ということで助手席で試乗させてもらいました。信号でミラージュターボの横にRX7が並び、青信号と同時の両車横一線の加速には興奮させて頂きました。スーパーシフトという副変速機による8速ギアチェンジを駆使したシフトワークは非常に格好良く見えました。その2年後に免許取得後に自らハンドルを握っての次期モデルの速さを身をもって体験出来た時には大きな喜びを感じました。 1986M Skyline Coupe GTS 7th スカイラインの4ドア発売から1年遅れで発売された2ドアクーペGTSは、当初の4ドアモデルでの熟成不足によるネガを完全に潰し込むことに成功していたことから、全く別の車種とも言われてました。 当時の巨大勢力であったマークII3兄弟には無かった2ドアクーペはそれまでの不振を払拭させて、歴代モデルの中では最多の販売台数へ引き上げることに成功しました。 2003M Volkswagen Phaeton 旧東ドイツのDoresdenにあるガラス張りの非常に綺麗な工場で生産されていたVolkswagenの最高級車です。 主戦場と想定されていた米国市場でシンプル過ぎるデザインのVolkswagenの人気が盛り上がらないこと、欧州に於いてはグループ内にAUDIという高級ブランドを抱えていることもあって、中途半端な存在で終わってしまいました。 現在ではArteonとSUVのAtlasにその後継を担わせて、一応の成功を見ている様です。 1978M Honda Accord Saloon シビックの上級車として非常に格好良く見えた3ドアハッチバックで船出したアコードの4ドアサルーンを最初に見た時は、後方トランクを取って付けた様なデザインに思わず脱力感を感じました。 セダンはオマケの存在なのかなと思いきや、2代目ではダックテールが強調された直線基調の優れたデザインを持つセダンの方に人気の軸足が移り、3代目では低いボンネットにリトラクタブルライトとツインカムエンジンを備えたスポーツセダンへ発展、また米国市場でのベストセラーとしてホンダの屋台骨を支える存在となりました。
久本 拓司
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ちょっと気になり買いました
2006M Nissan Skyline V36 V6エンジン搭載としては2世代目となる10年間に渡り販売されたロングセラーモデル。先代のV 35は別のブランドでの発売予定だったものを当時の社長のゴーン容疑者が無理やり歴史あるブランドのスカイラインとして発売して、イメージをぶち壊してくれました。丸型のテールランプを採用しながら多少は元のイメージへ軌道修正しつつも大きくて高価になり過ぎたせいか販売数は落ち込んでしまい、償却費用を回収するのに10年もかかったということと思います。日本人の賃金が上がらないことから市場全体の縮小により販売力のあるトヨタかステータスの高い欧州車以外では高級車市場での競争力が保てなくなってしまったことは非常に残念なことです。 1969M Toyota 2000GT Hannoverのオートショウで見つけた伝説の名車トヨタ2000GTの極小ミニカー、良く覚えてませんが安くはなかったです。生産台数はたったの238台ですが、その内の3台は何らかの機会で本物を目にしています。 インパネ全体が本木目というのが凄い豪勢で、復刻版のカタログも買いました。 1958M Subaru 360 物心ついたときの最初の家の車でした。幼稚園前後のころに、この車で頻繁に昨夏他界した父の勤務地の秋田と早い時期に建てた家のある仙台の間を鬼首峠越えで往復した記憶が今でも残っています。ウィンドウウオッシャーがなかったので、泥で前が見えなくなる度に車を停めて、雑巾で窓を拭いていたことを覚えています。 最初に買ったセルボと同じく2サイクルのリアエンジンでポンポンポンという音が良く似ていました。 1972M Lamborghini Jota 1976〜7年頃にスーパーカーブームというものが到来し、フェラーリ、ポルシェ、マセラティ、ロータス、デトマソ、ランボルギーニといったメーカーの名前を知ることとなり、クルマに興味を持ち始めました。 その中でもカウンタックと512BBは双璧を成していて最高速度300キロとか302キロという無駄な知識がただでさえ少ない脳みそのメモリを侵食しまくると同時に、ランボルギーニが試作車を1台だけ作ったものの炎上させてしまったという伝説の存在がこのイオタでした。 1973M Toyota Celica Liftback スーパーカーブームが終焉を迎えて、笑点の座布団運び係の山田タカオ氏が司会をやっていた「対決スーパーカークイズ」が打ち切られた頃から身近な国産車に興味を持ち始めて、新車の発表展示会に足を運びかなりの数のカタログを収集していた時期がありました。 そのきっかけになったのがこの初代セリカリフトバックで、推定最高速度205キロという文字に大変痺れたものです。この車の復刻版カタログも買いました。 発表展示会に行く様になった頃のセリカは2代目に移行し排気ガス規制対策でパワーダウンしてましたが、「名ばかりのGT達は道を開ける」とか「ツインカムを語らずに真のGTは語れない」というキャッチコピーにはワクワクしていたものです。 1989M Lancia Delta HF Integrale 1987年〜1992年のWRCラリーで、6連覇達成したランチアデルタのこの埃に塗れていたミニカーはBraunschweig のイケアの前のフリマで3ユーロで購入して、ピカピカに磨き上げました。ラリー仕様の実物はイギリスのチチェスターで毎年夏に開催されるGoodwood Festival of Speedという動くモーターショウで豪快な走りを拝むことが出来ました。 2016M Toyota Premio 昨年実車が絶版となりましたが、最近になってからY 31セドリックのタクシーと同様に見る度に目で追っかけてしまう存在になりました2016年モデルのトヨタのプレミオ・アリオンシリーズ。 プチクラウンとも呼べるオジン臭さと地味さ加減を醸し出す一方で、最上級2Lのスペックを見ると⒈27tの軽量ボディに152馬力と20ニュートンのトルクを絞り出すエンジンの組み合わせは正に羊の皮を被った狼である一方で、木目調デザインを交えた内装も若干バブリーで良い感じです。 中型5ナンバー車廃止というのは即突対策という時代の流れですが残念ですね。 オジン臭い車に惹かれる様になったのは歳のせいかも。それでも演歌に興味は全く湧きませんので、大丈夫かな。 20??M Isuzu Giga Truck 10年位前に小さい子供が遊びに来るので買ったTRexを載せたトラックですが、何故かまだ持っていました。 大友康平さんの「いーつーうまでも、いーつうまでも、はーしれはしれー、いすーうずうのトラックウー」のCMを見る度に、このトラックのミニカーに目が行ってしまいます。
久本 拓司
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ちょっと気になり、買いました⑥
1975M Mazda Roadpacer マツダの企業体力が不足していた1970年代中盤に、オーストラリアのGM系メーカーであったホールデン社より車体を仕入れて自前の13B型ロータリーエンジンを搭載しながら仕立てた高級車で、トヨタセンチュリーや日産プレジデントといったVIPカー市場へ殴り込みをかけてました。 ハリボテ感しか感じられない仕上がりということもあってか、累計生産台数が800台未満という路上でその姿を拝める機会はありませんでしたが、マツダ本社へカタログをリクエストしたら丁寧に送付されて来ました。引越し時に処分してしまったのはつくづく残念でした。 古き良き時代のアメ車を彷彿させる伸びやかなデザインは現代においても通用しそうな感じがします。 1964M Mitsubishi Debonair 1964年から22年間もフルモデルチェンジすることなく製造されていたデボネアは三菱グループ関連のVIPカーとしてシーラカンスの様に君臨し続けていました。 モデル末期時における2600cc4気筒エンジンやリーフスプリングサスペンション等のメカニズムは「旧態依然」の一言に尽きる一方で押し出しの強いデザインには荘厳な風格が感じられます。 1984M Honda Civic 3 Door Si 厳しい排気ガス対策で低燃費ではあるものの牙を抜かれた非力なCVCCエンジンしか生産していなかったホンダが、十数年振りにツインカム(DOHC)エンジンを復活させて、復活の狼煙を上げたのが1984年秋のことでした。 シビックとCRXとクイントインテグラに搭載された電子制御燃料噴射装置と16バルブを備えたロングストロークの1600ccのZC型エンジンは、図太いトルクと7200回転まで吹け上がりと実燃費でリッター11キロを成立させた名機で、後にSOHC化やVTEC化による幅広い展開も見られました。 レンタカーで乗ったことのあるワンダーシビックは視界が良くて非常に運転し易いクルマでした。 1981M Toyota Celica XX 2800GT 当時最強の170馬力でソアラを未体験ゾーンへ突き進ませた2800ccの直6ツインカムエンジンは半年後にはよりスポーツカー的な性格を濃くしながらFMCを迎えたセリカダブルエックスへ移植され、ロータスチューンの足回りとの組み合わせによる迫力のある走りを当時のロータス総帥のコーリン・チャップマン氏によりCM上で披露されてました。 その後のMMC時には、その当時では3ナンバー車に対して自動車税が大幅に安かった5ナンバー2000cc車用としてM-TEU型6気筒ターボチャージャーエンジンと1G -GEU型24バルブ6気筒ツインカムエンジンが立て続けに追加発売され、様々なお好みに応じたニーズに応えていました。
久本 拓司
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ちょっと気になり、買いました⑤
1981M Toyota Soarer 2800GT スカイラインにターボが設定されてトヨタの旧型4気筒ツインカムに対する優位性を見せつけてられたのも、ほんの一瞬の出来事。トヨタはベンツやBMWにも肩を並べる様にと6気筒の大排気量エンジンをツインカム化させることで、一気に未体験ゾーンへ旅立って行きました。 スーパーホワイトのカラーリングは、より使い勝手の良い4ドアボディのマークII3兄弟ヘと継承され、バブル時代の六本木へと増殖して行きました。 1983M Nissan Fairlady Z 300ZX(Z31) 1983年に登場したVG30ETターボエンジンはグロス230馬力を誇り、スペック上ではトヨタの自然吸気6気筒ツインカムエンジンを凌駕するものでした。 大学の先輩が2000ccエンジンモデルに乗っていらして、同乗させて頂きました際には、充分に強烈な加速Gで背中がシートバックに押し付けられたことを良く覚えています。 エッジの効いたボディデザインは歴代のZシリーズではベストの様に思えます。 1987M Honda Legend 2 Door Hardtop 入社当時の当社内で当時存命だった実質的創業者に気に入られていたことから、誰しもが面会していた筈の銀行に会うからという理由で何故か一人だけ白い作業ズボンを穿かずに紺色ズボン着用が許可されていた等、会社の金を握り取締役を凌ぐ権勢を奮っていたパンチパーマの経理部長の愛車でした。 入社時での工場実習の際には、レジェンドシリーズを6000台/月も生産しており、3ヶ月間ほど朝から晩まで重労働に従事して居ました。 創業者逝去直後から数ヶ月が経過し経理部長は閑職へと左遷させられ、病気療養名目の休職を経て1年を待たずにそのまま退職。存命なれば今頃は後期高齢者に相当する75歳位と思うが、果たして未だに生きているのやら。 1978M Nissan Fairlady Z 280Z-T 当時世界一厳しいとされた昭和53年排出ガス規制に各車が苦戦する最中にImagine 1980 というキャッチコピーで発売されたZの第二世代モデル。当時の国産車では希少なオーバー2000ccのL28E型エンジンは鈍重と見做されていたものの、20万キロ超の耐久性を誇っていました。 1979M Nissan Gazelle ZSE-XE 3代目シルビアの別販売店用姉妹車として設定されたのがガゼールでした。2代目シルビアが中途半端なコンセプトで長期間棚晒しであったものの、トータルイルミネーションシステムによる煌びやかな内装と目新しいクルーズコンピューターといった走行性能とは全く無関係の先進装備が当時の若者の心を捉えて、息を吹き返すことに成功しました。MMCのタイミングでは、1800ccターボチャージャーと2000ccの16バルブDOHC仕様も追加され、走行性能重視のユーザーの期待にも応えていました。
久本 拓司
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ちょっと気になり、買いました②
1989M Honda Integra Rxi 平成上皇陛下が自ら30年近くに渡ってハンドルを握られていらっしゃいました。シングルカムながら16バルブヘッドで電子制御燃料噴射装置を備えたZC型エンジンは強力120馬力と低速からの太いトルクで、Vtec仕様とはまた一味の違う美点を備えていました。5速MTとパワステ無のRxiを選択されていたことは、間違いなく昭和の走り屋の「象徴」でもあり続けたいとの気概が強く感じられます。 1978M Honda Prelude 「スペシャルプライベートカー、音楽ゴダイゴ」のCMで登場した「川越ベンツ」。 発売時ではCVCCの⒈8リッターエンジンが90馬力しか無いということで単純にショボいエンジンを載せていたシビックを大きくした様な魅力の無いクルマにしか見えませんでしたが、時間の経過とともに低重心の優れたデザインが目に留まる様になりました。 その後の次世代モデルは爆発的な売行きを維持し、1994Mの4代目Si Vtecは私の愛車となりました。 1987M Chrysler Lebaron Coupe (J -Body) 初めて海外駐在したMissouri州Columbiaの工場で当社がこの車の内装部品を手掛けていました。 私が駐在した直前の1995年7月に生産終了となりましたが、長期間販売されていたことから頻繁に路上で見かけました。コンバーチブルの方が数多く売れたらしく日本へも輸入されていたそうです。 当時のクライスラーは三菱自動車を傘下に置いていたことからエンジン等を供用しており、デザイン的にも生粋の米国車とは違う雰囲気が感じられます。 2015M Toyota Alphard 北川景子とモッくんの「ちょっとはしゃぎ過ぎじゃ無いですか」のCMを観てサウンドオブミュージックの音楽が耳にこびり付いた挙句に無性にザルツブルクへ行きたくなり、足を運んでしまいました。 気が付けば政治家や有名芸能人や大企業の重役の移動手段として重宝される様になり、「いつかはクラウン」を始めとする日本のセダン市場を完全に駆逐させる存在へ変貌を遂げてました。 2005M Honda Legend 長らく続いた国産乗用車の280馬力規制に風穴を開けた記念すべきクルマ。300馬力の3.5リッターV6エンジンにSH AWDの組み合わせは欧州の高級セダンに肩を並べ、カーオブザイヤー受賞という栄冠にも輝きました。 今にして思えば525万円という新車価格はバナナの叩き売りの様なレベルに感じられます。 2015M Nissan NV200 Taxi トヨタのジャパンタクシーの対抗馬として日産が社運を賭けてリリースしたNV200ですが、日本人の眼からはタクシーに見え難いことから、2021年に生産中止となりました。 欧州等では空港を拠点とするタクシー会社には全高の高いワゴンはシャトル的な需要が高いことから、生産中止は勿体無い話しの様に思われます。 トヨタのジャパンタクシーは見かけ程のスペースが無いことからシエンタの方を好んで選択する業者も多く、タクシーの使い勝手としてはNV200の方に優位性が感じられます。
久本 拓司
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おうちのクルマ
1970M Toyota Publica Subaru 360の次がこのパブリカで、同じ車体の800ccと1000cc搭載モデルを乗り継ぎました。 360には無かったWindow Washer 機能が付いていたことから、時々クルマを停めて雑巾で前の窓を拭く手間が無くなりました。 1974M Toyota Corolla (KE30) 史上最多の販売数を誇った30カローラは、例に漏れず我が家の愛車の遍歴にも、その名を連ねてました。 複数代に渡ってジェリー藤尾氏がCMキャラクターを務めており、国民的な大衆車としての位置付けを不動のものとしてました。 1981M Toyota Carina 「足のいい奴」「やったね、千葉ちゃん」「鬼に金棒、ツインカムターボ」のフレーズが懐かしいカリーナ1500STも我が家の愛車でした。基本的にはセリカと共通で、1500ccの3AUエンジンはカリーナの車体に対しては非力ながらハンドリングの非常に良いクルマでした。 ジェリー藤尾氏同様にトヨタは千葉真一氏を複数代のカリーナのイメージキャラクターに起用しており、しかも「足のいい奴」のキャッチフレーズは3代に渡って共有され、イメージの定着に貢献していました。 現在では伝統的な車種のブランドを簡単に消してしまい、ユーザーにブランドイメージが根付く前に車名を取っ替え引っ替えと、全く訳が判らない状態になってるのが残念です。 1989M Toyota Starlet 思わず担ぎたくなる青春のスターレット。 うちで乗っていたのはターボではありませんがEFIの100馬力のハイメカツインカムエンジンは軽量ボディには充分なパフォーマンスを発揮していました。 2011M Daihatsu Mira e:S 父が定年退職後に仙台から藤枝へ引越してからは、ダイハツの軽自動車ミラジーノ、ミラクォーレ、そして最後にこのミライースを乗り継ぎました。 発売時の2011年頃はエコカー減税が導入されてハイブリッド車の百花繚乱時代へ突入してましたが、そうした中で高額なハイブリッド技術を使用せずに、徹底的な軽量化と空力特性の追求等で超低燃費及び低価格を実現したのがミライースで、後席ヘッドレストの省略や後部座席バックレストを車体へ固定する為の1本ピン形状のストライカーには大変驚かされました。 低価格なので非常にノイジーではなくて、爽快なツインカムサウンドだと前向きに思い込んでしまえば非常に走りの楽しいクルマへと変貌します。
久本 拓司
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VW Golf7
2014年8月から2022年現在に至るまでの家族用貸与車または所有車です。 これ1台あれば、何も要らない世界のベンチマークです。 駐在時代は1600のDieselターボエンジン、現在では1400のガソリンダウンサイズターボエンジン、何れも低速域から高速域まで質感と剛性感の高さと低燃費を実現させています。自動運転感覚のオートクルーズ機構は高速道路での長距離ドライブでは重宝します。 8が発売されましたが、高品質な内装と物理スイッチでの扱い易さには初期型7の方に優位性が感じられます。
久本 拓司
